第5章 深紅の狂信者
第1話 悪夢と喜び
薄暗い部屋の中、誰かのすすり泣く声が聞こえる。声に誘われるように目を開けた太陽はゆっくりとベッドから起き上がった。
一瞬いつもの部屋かと思ったが、家具や部屋の形状が少し違っていることに気づいた。
(またあの夢を見てるんだ……)
声の主はキッチンにいた。太陽はゆっくりとベッドから降りる。
この夢が始まると思考も体も意思に反して勝手に動いてしまう。まるで顛末の決まった映画の中のように、同じことを繰り返さなければならない。
「大丈夫?」
「大丈夫なように見える? 私のこと、何もわかろうとしないくせに」
「君のしようとしていることは、正しくないから」
彼女が振り返る。暗がりで潤んだ瞳が揺れる。
年齢は十八歳くらいだろうか。少なくとも二十歳を超えていないことを太陽は何故だか知っていた。
「やっぱり、わかってくれない」
「どんなに深く傷つけられたって、仕返しをしていい理由にはならない」
「泣き寝入りしろっていうの?」
「違うよ。悪い奴らには必ず裁きが下る。憎しみに身を任せて道を間違えてしまえば、君まで裁かれることになる。そんなのは駄目だ」
「……お人好し」
彼女は太陽の手を振り払い、窓の外を見た。
少し開いたカーテンの隙間から、照明の落とされたスカイツリーが見える。絶えず電波を飛ばしているからか、展望台周辺には青白い光が灯されている。
その光が窓から差し込み、部屋を淡く照らしていた。
「綺麗ごとばっかり」
「何と言っても俺は譲らない」
「そういうの、なんていうか知ってる? 弱者。捕食される側の無能」
「それでいい。弱いことは悪いことじゃない」
「私は……私はもう、奪われ続けるなんてごめんだから!」
少女が振り向くと、いつの間にかその手には大鎌が握られていた。
突然現れた凶器を前にして太陽は後ずさる。その大鎌から一本のくさびが放たれ、太陽の足に命中した。
くさびの刺さった辺りからみるみるうちに体が石になっていく。
「なんだ、これは……? 普通の大鎌じゃないのか?」
少女が近づいてくる。全身鏡に反射した光で、髪の隙間から見えるピアスが青くきらめいた。
太陽は逃れようと奮闘する。しかし両足が石化し、にっちもさっちもいかなくなっていた。
「勘違いしているようだけど、私、あなたみたいに弱くないの。だから殺す。この場で」
「……そのために終導師になったのか。悪い予感ほど当たるな」
「予感はあったくせにやられるなんて、情けない」
「ならルールは? 俺は有罪判決を受けたわけじゃない!」
「ルールが守ってくれるなんて、いかにも弱者らしい考え方ね」
少女が近づき、手のひらで太陽の頬を撫でる。石化した背筋が凍るように熱が引いた。
「この世に本当の意味でのルールなんて存在しない。あるのは、奪ったか奪われたかの結果だけよ」
逃げなければ。そう思うのに体は頭だけを残して石化してしまっていた。
石化の範囲はまだ広がり、まもなく口が動かなくなり、目にまで達した時、視界が暗闇に閉ざされた。
(知ってる。このまま体が砕かれて死ぬんだ。何も出来ずに……)
暗闇の中、体がぐらりと傾いたのがわかる。少女が仰向けに転がしたのだろう。
石になったというのに何故だか皮膚の感覚はあり、細い体が覆いかぶさったのがわかった。
ポタリと胸元にしずくが垂れる。泣いているのだろう。
(泣くなら最初からこんなことしなければいいのに……)
訳がわからないと思いながら、早く夢が終わることを願う。
「……にいちゃ……おき……」
どこかからくぐもった声が聞こえる。おかしい。石化した耳は何も聞こえないはずなのに。
「ねぇねぇ……きて。もう……だよ」
幼くて可愛らしい声。よくよく耳を澄ませてみて気づいた。
「え? うさぎちゃん!?」
出ないはずの声が出た瞬間、視界が白くぼやけ、いつもの部屋が見えてきた。
体の上にうさぎが乗っており、シャワーを浴びたばかりの髪から水滴がポタポタとしたたっていた。
「もうあさだよ。たいようおにいちゃん、おねぼうだよ」
「あ、うん……そうだね」
太陽が起き上がると、うさぎはパタパタと居間の方へ駆けていった。
見回すとそこは確かに自分の寝室だった。元々使っていたベッドはアザミに占領されてしまったため、今は新しく取り寄せてもらったベッドを向かい側の壁に置いて使っている。
部屋の三分の二がベッドで埋まってしまった寝室の中央には、子供用の小さな敷布団とうさぎ柄の毛布が敷かれていた。
(そういえば、うさぎちゃんは昨日からうちに住むことになったんだっけ……)
だんだん頭がすっきりしてきて状況がわかってくる。
辰夫とのシスター・ブラザーの関係をやめると宣言したうさぎは、その日のうちに辰夫の部屋を出た。これはうさぎの意志だったらしい。
誰かを守るためなら悪い人はやっつけなければならない、勧善懲悪と言えば聞こえはいいが、新しく得た信念のためにこれまで世話になった人をあっさり捨ててしまうというのはいかがなものなのか。
勢いに押されるままうさぎを受け入れたものの、太陽は戸惑いを隠せずにいた。
(影咲さんはうさぎちゃんを強者寄りって言ってたけど、こういうことなのかな……)
コンコン。
ぼんやりと考えながら居間に行くと、玄関扉をノックする音が聞こえた。すぐにのんびりとした声が聞こえてくる。
「霧島君、ちょっとお話があるんだけど、今いいかな?」
「と、鳥海さん!? すみません、今起きたばかりで……」
「そうなの? なら私ちょうどコーヒー豆持ってるから一緒に飲もっか~」
「なんでコーヒー豆持ってるんですか!? いや鳥海さんが淹れてくれるコーヒーは控え目に言ってメチャメチャ飲みたいですけど、これからシャワーを浴びるところで……」
「じゃあ上がったらすぐ飲めるように準備しとくよ! マスターキーあるから開けちゃうね~」
「なんでそうなるんですか!?」
ガチャと音を立てて玄関が開く。ドアの隙間からふんわりとした笑顔が覗いた。
(最悪だーーー!!)
寝間着に寝癖まみれという起きたて感満載の姿の太陽は、着替えを取りに行くのも忘れて風呂場に飛び込んだ。
◇
着替えをうさぎに届けてもらい、心身ともにしゃっきりした太陽は、床に座りながら智里の入れてくれたブラックコーヒーをすすった。
「すみません、テーブルなくて……」
「いいのよ。それよりさっきはごめんね。シャワーに入るって朝の準備をするって意味だったのね」
「まぁ、勘違いは誰にでもあるので……。それより、どうして僕の部屋に?」
「柳辰夫さんを担当してる終導師から連絡が入って、うさぎちゃんがこの部屋に住みたがってるって聞いたの。それで様子を見にきたのよ」
カフェオレという名の、僅かにコーヒー色をしたミルクを飲んでいたうさぎはキョトンと首を傾げる。
「あの、何か問題が……?」
「入居する時に説明したと思うんだけど、この部屋って二人までしか住めないことになってるのよ。ベッドも三つは入らないでしょ?」
そういえばそういう契約だったかもしれないと、太陽は三年前の入居日のことを思い出す。
「それじゃあ、うさぎちゃんは住めないってことですか?」
「うーん、そうねぇ……」
智里は甘えたような声を出しながら腕を組む。
太陽とうさぎが背筋を伸ばして答えを待っていると、何か思いついた様子で手を叩いた。
「そういえば、ここってペット不可ってわけじゃないのよね」
「そりゃあ、動物の死神はいないですから、飼うに飼えませんし……」
「うさぎちゃんって言うくらいだし、ペットってことにすれば大丈夫なんじゃないかな~」
「いいんですか、そんなテキトーで」
「いいのいいの。だってここの管理人は私なんだし! その代わり」
鳥海は太陽の手を取り、立てた人差し指を自分の頬に添えてにこっと笑った。
「私とデートしてくれる?」
「で、でででで、デートぉ!?」
「嫌かな?」
「嫌なわけがないです! むしろこっちからお願いしたいくらいで……って図々しすぎますね、僕!?」
「よかった~! じゃあまた誘いにくるね。いっぱいお洒落するから、楽しみにしててね~」
智里はペットなら入居手続きは要らないからと言うと早々に立ち去った。
思いもよらない誘いを受けてしまった。顔を真っ赤にしたまま思考停止した太陽を、うさぎは不思議そうに突っついた。
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