甘い雨

主道 学

第1話

 喫茶店の窓の外から控えめな雨音が聞こえる。

 うつらうつらとしていたので、コーヒーを頼んでから少し時間が経ったのだろう。

 彼氏との別れはほんの一瞬の事だった。

 すっぱりとしていて、悲しむことはなかった。


 ああそうか。そんな気持ちで喫茶店に入ると、次第に色々な過去の思い出が湧き出ては、考えに考え、どうしてこうなったのかなと、気分が落ち込みだした。

 やっと、コーヒーをウエイトレスが差し出した。


 少しぬるくなっていて、涙が初めて流れた。


 高校を卒業したら、すぐにプーだった。

 大学にも行かず。

 就職活動もしなかった。

 どうしてかはわからない。


 困り顔もしない両親の家で寝転んだ時もあった。

 毎日、お気に入りの公園で読書をしていた時もあった。

 散歩道で人に挨拶をしては自分自身を笑いたい気持ちもあった。

 そんな私には高校時代からの彼が唯一の拠り所であったのだろう。

 彼となら人生に目的というものが見えたのかも知れない。

 普通の人より少しだけ寄り道をしただけだ。

 そう思いたかったのだろうか?


 プーの間は、浮いては消えていた人生の目的に、いつもそう感じていたけど、今ではただの誤魔化しなのではとも思う。

「ご注文は?」

 見当違いのウエイターが注文を取りに来た。

 ぬるくなったコーヒーといつまでも座っていたのが気になったのだろう。

 見ると、ウエイターは中肉中背の普通の男だった。

 今の私のように、一歩進んで人生の目的に悩むと、すぐにプーになりたがりそうだ。整った素直な顔の持ち主だったから、バイトでもと何かしたかったのだろうか?


 年は同じくらいだから私と同じく。人生って何? というものを知って、ただがむしゃらにバイトを掛け持ちしているとか?

 そんなことを考えてしまう。

「そうね。この店は良いですね。毎日来たいな。サンドイッチとコーヒーをこれからも頼もうかと……」

「……サンドイッチですね」

 男は以外とニッコリと笑ってくれて、サンドイッチの注文を快く受け入れてくれた。

 

 ぬるいコーヒーは味も濁って、まるでコーヒーの旨みがチョコレートのように溶けているかのようだ。

 男に興味があった。

 きっと、私と同じ。

 人生って何?

 そう思っているはずだ。

 ちょっと、強引な誘いをしてもいいはず。

 ちょっと、気楽に話してもいいはず。

 ストーカーという者を知っていたが、やはりそういう行動全部が悪いわけじゃないのかも知れない。


 確かに相手の気持ちを無視するのは、ひどく。そして、悪いことだ。

 だから、私は少しずつあの男の気持ちを知りながら。

 できれば合わせていってあげたい。

 こんな19歳の私をどう思うか?


 周囲の人や。

 友達は?


 でも、私は自分の気持ちも大切にしたい。

 出会いは自分で作ることも必要なのでは?

 そう人生には必要だ。


 人生って何?


 目的って何?

 

 サンドイッチがテーブルに置かれた。

 この店には数席の空いている席があるが、女が多かった。

 窓際の席はこれから私のお気に入りの場所だ。

 両親に少しのお金をもらって。この落ち着いた雰囲気の店であの男に少しだけ近づこう。


 その日も雨。

 喫茶店の隅に飾られた場違いな大きなラジカセがある以外は、すごく気に入っている。

 シックで黒と茶色の色以外は緑しかない店。

 カウンターの席には何やら常連らしい男がいる。それはそれはくたびれたサラリーマンで、グラタンとコーヒーの匂いがいつもする。

 

 いつも数席しか客がいない。

 いつも女性客が多い。

 

 私のお気に入りの窓際の席に、コーヒーが置かれた。

「ねえ、前にいた男のウエイターは?」

 ウエイトレスは、次にサンドイッチを置いて首を傾げた。若くて綺麗な顔だが、どこか陰りがあるその顔を見ると、この人も私と同じに思えた。

「さあ、あの人はバイトの掛け持ちで忙しいって言って、最近はちょくちょく休んでいます」

 やはり、そうだろう。

 私と同じだ。

 きっと、あの男は恋人もいないはずだ。

 たまに働き過ぎて、体調を崩しがちか。ただのサボりだ。

 あの男に少しだけ近づいたと確信したかった。

 聞きやすい囁き声が後ろの席から聞こえて来た。

「あの人って、ちょっといい男よね。ほら、昨日のウエイター」

「そうそう、彼女とかいるのかしら?」

 後ろを見向きもせず。

 ああそうか。やっぱりなあ。と思った。


 次の日も雨。

 また、いつもの窓際の席だ。

 あの男がいた。

 カウンターのいつもいるサラリーマンにグラタンを置いている。

 私は思い切って、気楽に手を振った。

 あの男はこちらに気が付いて、ニッコリと笑った。

「サンドイッチですね」

「ええ、それともう一つ。ぬるいコーヒーを」

 互いの気持ちも距離も少しずつ近づいている。

 

 もう少しだけ。

 近づきたい。

 

 後ろの席からまた囁き声が聞こえる。

「どうやったら、仲良くなれるんだろうねえ」

「ねえ、一緒に考えない?」

 どうやら、昨日の二人組だ。

 私も同じ心境でもある。

 でも、違うかも知れない。

 私は少しだけ近づいて、ちょっと話して、人生の目的って何って言ってみたい。

 それで、人生の目的がわかったとしたら、きっと私はこれまでの私じゃない気がする。

 あの男はオレンジシャーベットとオレンジジュースを後ろの二人組に運んだ。

「ねえ、ちょっと立ち入り過ぎてしまうけど、働き過ぎみたいよ。顔にでているわよ。……疲れが」

「ええ、それはもう。弟が病気で……。看病とバイトの毎日です」

 その男と二人組の言葉で、私は気が付いた。

 私も働かないといけないんだ。

 そんな気持ちになった。

 ううん。それは人生の目的なのだろう。

 仕事に就いたら、あの男に少しだけ話そう。

 目的があるって、いいことなんだね。って……。




 一年も通い続けた店。

 私は気に入っていた。

 この日も雨。

 あの男もその店でウエイターだった。

 後ろの席には誰もいなかったが、お気に入りの窓際の席は無事だった。

 少し。人生の目的で疲れていた。

 あの男も疲れた顔を毎日しているようになって、半年はする。

 人生の目的って何?

「ぬるいコーヒーとサンドイッチですね。いつもありがとうございます」

「ねえ、私も働き過ぎて疲れているけど。あなたも疲れているでしょ。顔が少しやつれているわ」

 この一年間で、私がたまにその男に言う言葉だ。

「ええ、でも平気ですよ。弟がだいぶ良くなってきて」

 その男からいつか聞いた。

 弟は心臓が悪いらしい。

 いつもニトロペンなどの硝酸薬を使うほどの。

 お医者さんからもらっている大事なお薬のようだ。

「たまには甘いものを食べたりしたら? 立ち入って悪いとは思うけど。体が壊れてしまったら、きっと後悔するわよ」


 その男は少しだけ笑った。

 いつも言われています。

 この店のチーズタルトは隠れた人気ものなのですよ。

 私ははぐらかされた感がしたが、その男なりの強がりなのだろう。

 弟がいない。一人っ子の私には、到底わからないのかも知れない。

 でも、ひとつだけ。


「体を壊したら、弟さんが悲しむんじゃない? ねえ、私が奢るから一緒に食べようよ。私まだ働いているけど、それは人生の目的って何って? いつも考えていたの」

 男は急に苦笑いして、

「それはそうですね。……そうだろうと思うんだ。おれもだいぶ前に思ったけど、今は考えていないんだ。きっと、疲れで考える気力がないんだね」


 やっと、人生の目的って何? についてその男に聞いた。

 これで、もういい。

 その男をこれからも影で応援して。

 それから、気が向いてくれたらでいいから……。


 私と甘いチーズタルトを一緒に食べようよ……。


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