第12話
油がはねるじゅうじゅうという音と、ソーセージが焼けるような匂いで目を覚ます。
寝ぼけ眼で台所の方を見ると、そこにはツインテールの人影があった。
俺は一瞬それが誰なのか分からず、とても恐ろしくなったが──そうだ。
昨日、家を締め出された隣人・那須野さんを泊めたんだった。
それにしても、随分早く目が覚めてしまった。
なりゆきとはいえ、よく知らない人間と寝ることになった緊張もあるのだろうか。
あまり眠れなかったような気がする。
俺が体を起こし、台所にいる那須野さんに声をかけようとすると、ちょうど、彼女がフライパンを持って、くるりと振り返る。
俺と目が合った。
「あら、もう起きたのね。おはよう」
「おはようございます、那須野さ…」
言いかけて、俺は気づいてしまった。
昨日会った那須野さんは髪を下ろして、化粧もしてなかったと思う。
しかし、今の那須野さんは、既に身支度を整えているのだ。
だからこそ気づいた。
このツインテールの女性を、俺は見たことがある。それもつい最近。
いや、というか。
ということは……この人。
「男……?!」
「どういう反応よ、それ!」
○
「やっぱり。那須野さんってVine☆girlのなこさん、だったんですね」
「そうだけど。よく知ってるわね、あんた」
テーブルに対面で座り、那須野さん、改め「なこさん」が「一宿一飯の恩義よ」と言って作ってくれた朝食を食べる。
マーガリンを塗った上にハムエッグがのったトースト、焼いたソーセージ、コーヒー。
誰かに用意してもらった朝食を食べるなんて、実家にいた時以来だ。おいしい。
「あ、冷蔵庫の中身、勝手に見たけど。あんたってちょっと料理とかするの?思ったより中身が入ってたわ」
「いや、ほんとに……ちょっとだけです」
「へえ」
さして興味もなさそうに、なこさんがフォークをソーセージに突き刺して、口に運ぶ。
俺も、彼に倣ってそうすると、パキッという気持ちのいい音がして、切り口から肉汁が滲み出た。
俺が料理をちょっとするのは……くだらない理由だ。
昔、和臣が「料理出来る奴っていいよな」と話していたからだ。
それ以来、なんとなくやってみてはいるが、まあ和臣に披露する機会などはない。
しかし、もしかしたら、と少し期待しながら続けている。
日曜日に家の前でゴルフの素振りをする父親のようなものだ。
「ってか、あんた別にアイドル好きなわけじゃないんでしょ?何で私のこと分かったの?」
なこさんがコーヒーを少し飲んでから、そう聞いてくる。
俺は和臣のことを話していいものか、一瞬迷ったが……数十人も会場にいたんだから別に特定もされないだろうと思い、正直に話すことにした。
「……友人がVine☆girlのファンなんです。この前、なこさんと握手してて」
「え?私推しなの?」
「違います」
「もうちょっとオブラートに包みなさいよ!」
どん、となこさんがマグカップをテーブルに置く。しまった。少し正直すぎたかもしれない。
「……ていうか、その友達ってもしかして、『かずおみ』って奴じゃない?」
「え、な、何で分かるんですか?!」
俺はびっくりして、全身に鳥肌が立つのを感じる。絶対分からないだろうと思っていたのに。アイドル恐るべし。
なこさんは「あたりまえじゃない」と言ってこう続けた。
「私のレーンにいたファンで、あんたと歳が近そうなのは、かずおみしかいなかったもの。あの規模の握手会でファンの顔と名前覚えるなんて簡単よ」
「そ、そうなんですか?」
「あと、小牧目当てで仕方なく握手会来てるのバレバレだし、ムカついたからよく覚えてる」
「それはすみませんでした……」
俺は和臣の代わりに頭を下げた。なこさんは「もういいわよ」と言いつつも、拗ねた顔でトーストをひと齧りする。
そして、それを飲み込んでから、「はあ」と息を吐きつつ、訊いてきた。
「じゃあさ、あんた、今日もかずおみとイベント来るわけ?」
「は?」
「だから、今日のイベント。また付き添いで来るんじゃないの?」
「いや、へ、イベントあるんですか……?」
俺は思わず声が裏返ってしまった。
今日、Vine☆girlのイベントがある?和臣からそんなこと全く聞いてない。
いや、別に和臣が俺に言う必要なんてないし、俺を誘って行かなきゃいけないなんてこと、ないけど。
和臣がイベントに俺を誘わないなんて、今までそんなことなかった。
「……な、何よ。どうしたの?」
俺が知らないだけで、今までも誘われてないことがあったのかもしれないとか、今日だって、和臣はイベントに行けないから俺を誘わなかったのかもしれないとか。
自分を納得させるための憶測が、咄嗟にいくつも浮かんだ。
だけど、どうしてそんなに自分を納得させたがるのか。それは……。
「ちょっと!あしはらさんってば」
突然、なこさんに両頬をむにゅりと挟まれて我に返る。
「あ……」
「どうしたのよ、急に黙っちゃって」
「い、いや。何でもないです……」
「何でもないってことないでしょ?あんなに怖い顔して。可愛い顔が台無しよ」
そう言って、なこさんは俺の両頬をもう一度むにゅっと挟むとようやく手を離してくれた。
俺は頬を手で擦りつつ、なこさんに尋ねる。
「その、昨日から気になってたんですけど、可愛い顔ってなんですか」
すると、俺に常識を説くような顔でなこさんは、こう答えた。
「あんたの顔のことよ。私と私の知り合いの次くらいには、可愛いと思うわね」
「……は、はあ」
俺はなんと返していいか分からず、適当に返事をした……ところで、なこさんは壁に掛かっている時計を見て「やば」と呟いた。
いつの間にか空になっていた自分の皿とマグカップを流しに持っていき片付け、部屋の隅に置いていた大きなバッグを拾い上げる。呆気に取られていると、なこさんは、ぱたぱたと玄関に向かい、靴を履きながら俺に話しかけてきた。
「私、もうここを出ないといけないから。泊めてくれてありがとう。あんたの皿まで片付けできなくて悪いわね」
「い、いえ。すみません、朝食用意してもらって」
「いいのよ。そうだ」
なこさんがくるりと俺の方を向いて言った。
「何ですか?」
「あんたの下の名前、聞いてなかったわね」
下の名前と聞いて一瞬どきりとした。
いつか、初めて和臣に下の名前を呼ばれたことを思い出す。
俺は少しもごもごしながら答える。
「え、えっと……みずき、です」
「みずき」
なこさんは噛み締めるように繰り返す。それから、俺に言った。
「みずき、あんたに何があったかは分かんないけど。とりあえず今度和臣に会ったらよく言っておいて。『小牧目当てでもいいけど、私のとこに来るならもうちょっと顔に出さないようにしろ』ってね」
じゃあね、とドアを開けて、なこさんは行ってしまった。
思い返せば、たまに見る不条理な夢のような、嵐のような一晩だった。
おかげで、随分久しぶりに一人になった気がする。
すっかり元の静寂を取り戻したいつもの部屋で、俺は冷めたトーストにさくっと噛りついた。
急に一人になったからか。
それとも、今になってまた和臣に誘われなかったことを思い出したからか。
少しだけ寂しかった。
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