推しより好きと言ってほしい
とんそく
第一章
第1話
何かが好きという気持ちはその人のアイデンティティそのものだと思う。
人は自らについて説明するとき、「何が好きか」という情報をしばしば開示するし、それによって他人とのコミュニケーションの糸口を掴もうとする。
集団の中で誰が何を「好き」なのかは個人を識別するためのマークでもあるし、自分を主張するための表現にもなりえる。
「好き」とは自分そのものなのだ。
だからこそ人は、好きなものが分からなくなると不安になり、
だからこそ人は、好きなものを離さないように必死になるのだろう。
俺もまたそうだった。
昔、誰かが言ったことを思い出す。
『好きという気持ちは人をどこかへ連れて行ってくれる』
俺の「好き」は俺をどこへ連れて行くのだろう。
先の見えない行列に並びながら、そんなことを考えた。
○
「いやー買った買った、満足満足!」
ずっしりと戦利品が入ったバッグを覗き、
俺は頬杖をついてその様子を眺める。
昼食時にはまだ早い時間のファミレスは、客の数もまばらでそれほど騒がしくはないが、どのテーブルにいる客も和臣のようにバッグを覗いたり、早口で何やら楽しそうにおしゃべりしたりしている。
それは不思議なことではない。
今日はこの店の近くの施設で「イベント」があるのだ。
ここでいう「イベント」というのは、アニメや漫画等の作品にゆかりのある出演者がトークをしたり歌を歌ったり、ゲームをしたり、とにかく何かするのを、作品、あるいは出演者らに関心がある者達が集って見守る催しのことを指す。
俺と和臣はその「イベント」に先立って始まる物販に並び、無事に目的を果たしたので、イベントが始まるまで時間を潰そうとこの店に入ったのだ。
「なあみずき。このTシャツさあ、俺明日大学に着てこうと思うんだけどどう?」
和臣がバッグから包装された真新しいTシャツを引っ張りだして見せてくる。先程、物販で買ったものだ。
黒地におそらくイベントのロゴであると思われるものが描かれたシンプルなデザインで、まあ、言われなければ特に気にもとまらないようなTシャツだ。和臣が大学でそれを着ようと別に問題はない、けど。
「今日それ着るんだろ?明日もそれ着てたら臭いじゃん」
「一日着たくらいなら大丈夫だろ?今日そんな汗かかないし」
「ずぼらな人間の発想だな」
「俺は汚れに優しいんだよ」
「それ汚いだけだろ」
中身のない会話をし、適当な冗談を言って笑い合う。
俺と和臣の時間の大半はこんな何でもないものでずっとできている。
俺は和臣に中学の時に出会い、そこから大学二年生の今に至るまで縁が続いている。
和臣は昔からアニメや漫画、ゲームが好きないわゆる「オタク」で、それらをジャンル問わず、気の向くままに追っている。
特に大学生になってからは、こういったそれらに関連する「イベント」によく行くようになったのだが、その度に和臣は俺を誘ってくる。というか、あたりまえのように行くことになっている。
和臣といるとよく誤解されるのだが、俺は和臣と同じようにアニメや漫画等が好きなわけでもないし、当然、それらへの知識も疎い。
じゃあ何か別のジャンルの「オタク」で、彼らに対する理解や共通認識を持っているのかといえば、それも違うと思う。
さらにいえば、和臣は妙な人望があって、周りにはいつも誰かがいる。
その中には和臣と「同志」の人間だってもちろんいる。
一緒に行くなら他に適任がいるはずだ。
それなのになぜあえて俺をイベントに連れて行くのか、かつて和臣に聞いたことがある。
だが返ってきたのは「なんとなく」という答えだけで、和臣はそもそも俺が何を不思議に思ってるのかさえわからないようだった。
周りの人間はそれなら断ればいいのにと思うだろう。
俺はイベント自体が全く楽しくないというわけではないが、正直、どうしても周りの空気についていけないことが多いし、イベントに行くたびにグッズをしこたま買う和臣ほどではないが、参加するにはそれなりに金もかかる。
貴重な休日だって丸一日使ってしまう。
それでも俺が毎回断らず、和臣に付き合うのには理由がある。
「そんでさあ、この前…」
和臣が楽しそうに俺の知らない世界の話をしている。
俺はそれをあー、とかうん、とか適当に返事をして聞き流す。
和臣はそれに構うことなく延々と話し続ける。
話し続けて、くれる。
俺は時々、和臣やイベントに来ている「オタク」達を眩しく思うことがある。
皆、確固たる自分の「好き」を持っていて、目の前の「好き」に、本気で笑い、泣いて、今この瞬間を全力で楽しんで生きている。
俺にはそんな風に「好き」だと思えるものがなかった。
だからずっと「好きなものは何?」と聞かれるのが嫌だった。
答えられなかった俺を、他人は「つまらない人間だ」と評価し、俺はどうしようもなく自分が「無」だということを思い知らされる。
「好き」で自分を語ることができない俺は、自分のことがいつも分からなくて、どこの輪にも入れなくて、苦しかった。
だが、和臣は違った。
和臣はただ、そのままの俺を受け入れてくれた。
和臣はいつだって自分の話ばかりして、強引に俺を巻き込んでいく。
和臣のそれが嫌だという人間もいた。
だが、少なくとも俺にとってはそれが楽だった。
和臣が俺に話しかけて、俺にそれを聞いてほしいと求めてくるだけで、俺は存在を認められている──自分は「無」ではないと安心できたのだ。
俺は和臣といることで救われている。
和臣にはそんなことをしているつもりはないのだろうけど。
そして、和臣によって、俺はずっと求めていたものを見つけることができたのかもしれない。
「みずき?」
俺が和臣の顔をじっと見ていたので、和臣が不思議そうにしている。
俺も不思議だった。
どうしてこんなところにあるのだろう。
「何でもない。で?何の話してたんだっけ?」
あーだからさあ、と和臣が話に戻る。
俺の知らない世界のことを夢中で話す和臣は、今日も本当に楽しそうで、輝いている。
だから、俺は和臣と一緒にいるんだ。
俺の「好き」はここにある。
俺は和臣のことが好きだったのだ。
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