澱みに沈む

河野章

澱みに沈む

「王様だーれだ!」

「えーい、俺ー!」

「よっしゃー。では、王様。誰に何をしてもらいましょーか?」

「そうだなぁ……」


 今更王様ゲームなんて誰が言い出したんだと、華井圭はぐっとこぶしを握り締めて夜の寮裏を澤口竜彦の後ろを歩きながら思い出していた。

 大学の学生寮での一幕だった。お盆も近く帰省組はもう寮を出て、残留組が数人で集まって夜に酒盛りをしていた。比較的広い寮長の部屋に七、八人は集まっていたと思う。性格は自他ともに認めるほどに大人しい圭だが、酒盛りの騒がしく楽しい雰囲気は嫌いじゃないので、同部屋の竜彦と一緒に参加していた。

 竜彦は小柄な圭の斜め後ろにどっかと座って、その巨躯とは裏腹に静かに酒を飲んでいたと思う。

 雲行きが怪しくなってきたのは、夜も更け、王様ゲームをやろうと誰かが言い出したころだ。体育会系のそのノリにはちょっと付いていけない。そっと部屋を抜け出そうとしたのを止めたのはやはり竜彦だった。ちょっとトイレと立ち上がろうとしたところを大きな手で、手首を軽く握られた。


「逃げんの?」

「……逃げねぇーよ」


 こちらを見上げて笑う級友の整った笑い顔にむっとして座りなおしてしまったのが運の尽きだ。

 男だらけの王様ゲームでそれこそ下品な方向へ進みかけたところで、寮長に王様が巡ってきた。明るく友人も多い寮長の口から飛び出したのは、思いもかけない命令だった。


「じゃあ、指名は華井圭クンでー。寮裏の心霊スポット、帰らずの池に行ってお参りしてこーい」

「へ?」


 全員が思いもしない展開に首をかしげる中、当の圭だけはぶんぶんと首を振っていた。圭は極度の怖がりなのだ。暗がりが怖い。幽霊が怖い。お伽話のような妖怪や都市伝説の類もみんな怖い。お化け屋敷や肝試しなんてもってのほかだ。あまりの怖がりで、夜寝るときにも部屋の電気を消さないで寝るくらいで、同部屋の竜彦にも笑われていた。

 

「む。無理無理無理。寮長、俺の怖がりを知って……」

「知ってまーす。圭くんは夜間のトイレも──」

「俺が付き添ってる」


 にやっと竜彦が付け加える。そこで一同納得がいったのか、おおーと盛り上がりを見せ、「そういうことかよ。行けよ、圭」「華井ー、トイレ一人で行けないのはマズいって」などと圭の背中をバンバンたたいて部屋から追い出そうとする。


「いや、だってあそこ首吊りあったとか、女子生徒が飛び込んだとか、色々噂……」


 蒼白になった圭が寮長にしがみつくと、竜彦が後ろからTシャツの襟をつかんでべりっと引きはがした。勢い、竜彦に抱かれる形になるとふわりと良い香りがして、こんな時なのに「あ、こいつ香水なんて洒落たものつけてんな」と圭はちらりと後ろを振り返った。なんだ?というように首を傾げた竜彦が、ふいにまた笑う。


「まぁ。そういう噂がある前から、古い祠もあったり? だから観念してお参りして来いよ、な?」

 

 と、頭をぐしゃぐしゃと撫でられて今度はみんなの輪の中心に放り出される。


「む、無理」

「無理じゃありませーン。王様命令でーす」

「怖い系はマジ勘弁してくださいって、ほら、他なら何でもしますから──」

「なんでもー?」

「なんでもします!」

「じゃあ」

「じゃあ、俺が一緒行きますよ」

「え……?」


 涙目で寮長へにじり寄ったところで、再度襟首を持って引きずり戻される。小柄な圭をぼすっと広い胸板で受け止めたのはまたもや竜彦だった。


「俺が、一緒に行きます。そうすりゃ、圭が逃げ出さないかの監視にもなるでしょ?」

「いいな、それ。そうしてもらえよ圭」


 やんややんやと囃し立てられて、そうして、話はまとまってしまったのだ。


 学校からほんの数分の場所にある男子寮の裏は小さな祠をかかえる鎮守の森だ。

 鬱蒼と茂る木々に囲まれた小山のようになった丘の上に、いつのものとも何が祀られているとも知れぬ祠があって、森のふもとには池がある。

 寮の裏口から出て、駐輪場を出ればそこはすぐに池への細道となる。

 昼間は池の周囲をぐるりと囲む歩道は、犬の散歩やランニングをする人などでそこそこ人でもあるが、真夏のしかも深夜とあっては舗装されていないそこを通るのは圭と竜彦二人きりだった。

 一応、防犯上か電灯はついているが電灯から電灯までの距離が嫌に長く、その間の闇が濃い。茂みからは虫の音が聞こえて早秋を伝えているが、今日はじっとりと汗ばむような暑さのそんな夜だった。


「た、竜彦……」

「んー?」

 先を歩く竜彦はなんだか機嫌が良い。その背を見失わないようにと速足で追いかける圭がいくら歩を速めても追いつけない。


「ちょっと待ってくれよ。俺、申し出には感謝……してるけどさ。もうそろそろこの辺で帰ったって……っ!」

 

 バレやしないんじゃ、という声は池で何者かが──ただの魚だろうが、が飛び跳ねたことで掻き消える。思わず立ち止まってしまった圭の横に、ぬっと竜彦が現れた。数歩先を行っていたはずなのに……。


「ひっ」

「なんだよ、俺だって。圭。──……手ぇ、握っててやろうか?」

「え……」

「怖ぇんだろ?」

「いや、そりゃ、今世紀最大に、こわ怖いけども」 

「なら、ほら手」


 ちょうど陰になって、竜彦の表情は見えない。

 からかっている風の声でもあれば、真剣に誘っている風でもあった。さすがに手は……だって男同士で? と狼狽えを隠し切れない圭の前に白く大きな手が暗闇から差し出される。実際、池を半周も回っていないのにもう足が震えるくらいに怖い。……誰も見ていない。圭が震える指先でそっと竜彦の指に触れると、あとは強引に手を重ねられた。ぐいっと引っ張られて竜彦の横に並ばされる。


「……こんなチャンス、見逃せるかよ……」

「え?」

「なんでもねぇ」


 ぼそりと呟いた竜彦の声は闇に消え、圭には届かない。

 しばらくはざっざっと砂地の歩道を草履の二人の足音が響く。暗いせいだろうか。先ほどの花のような……この大男には似合わない柔らかな良いにおいが隣から漂ってきて、圭は改めて竜彦を見上げた。

 竜彦……同じ学部学科、同部屋で、そこそこ仲の良い……少し嫌味なところもあるが良い奴だ。夜間のトイレ事情もそうだが、何くれとなく同い年の圭を気にかけて面倒を見てくれる。──同じ学科?いや、人文学部国際社会学科だ、そうだ、何忘れてんだよ。 

 と、ふいに体がぐにゃりと揺れた。同じ教室で、隣で一緒に授業を受けている竜彦。それを思い出そうとしても……思い出せない。いや、次の瞬間には口端だけを引き上げる独特の笑みを見せる竜彦の姿が思い出せる。学食で向かいに座る……大柄な男。竜彦……のはずだ。いや、そもそも澤口竜彦って、誰だ……?

 ぞっとした。

 竜彦の記憶が、ない。

 あるにはあるが、すぐに消えて、白いキャンバスに上書きされるように竜彦の姿が描かれてゆく。笑う竜彦、夜にあくびを噛み殺しながらトイレ前で待ってくれる竜彦、一緒に課題をこなして、徹夜明けでラーメンを食べた……そんな記憶と、そんな記憶を追うように空白が迫ってくる。

 サワグチタツヒコなんて、いない?


「な、なぁ。竜彦?」

「なんだよ」

「……竜彦、だよな?」

「そうだけど?」


 振り返らないから、顔が見えない。顔が見えないから思い出せない。記憶がどんどん消えていって……竜彦なんて、最初から──。


「あーあ。もう思い出しちゃったのか」

 

 振り返る気配だけがする。顔は見えない。道は知らないうちに、池を過ぎて鎮守の森、緩やかな登坂になっていた。手を引かれるままに圭は竜彦と一緒に祠を目指して上っていく。手を振りほどくことはできない。周囲は真っ暗だ。霧も出てきたようで、こんな中一人で取り残される恐怖のほうがまだ圭には勝っていた。


「祠の前で種明かしをしようと思ってたんだけどなぁ」

「な、何を……言って?」

「だから、竜彦の話だよ。圭のお友達の」

「そ、そうだよ。友達、友達のはずだろ……?」 

「なんだ、まだ全部は思い出してないんだ?」

「全部?」

「そう全部……ほら、もう祠だ」


 祠は、小さな半畳程度の古い小屋で、しめ縄をかけられた扉はぴったりと閉じられていた。祠の高さは圭の胸当たり。雨風に晒されて屋根の一部が壊れているのが、うっすらと月明かりで分かった。何の音もしない。自分の荒い呼吸音だけを聞いていた圭は、はっと我に返った。


「ほら、もう変な話はやめてさ。ここに……印にそこらの石でも置いて帰れば良いんじゃね?」


 空いたほうの腕を地面に伸ばそうとする。けれどそれとは逆に、ぐいと腕を引かれて、気づけば竜彦の腕の中にいた。両腕をとられ、屈みこんだ竜彦が顔を寄せてくる。そこで初めて……圭は竜彦の顔を「見た」。

 やや濃い顔立ちにきりっと結ばれた薄い唇。高い鼻梁がすぐそこに、圭の鼻筋にすりりとすり寄せられている。目は、瞳は……瞳孔が縦に開き、今は金色に輝いて圭を見つめていた。


「お前、誰だよ……」

「誰って、竜彦」

「お前なんて、俺は知らな……んんっ」


 ぐっと両腕を引き寄せられて、顔をそむけると追って唇を塞がれた。驚く間に先が二つに分かれた舌が……チロチロと唇をくすぐり強引に割り入ってくる。


「──ん、っぁ……止め……!」

「……どうして? 毎晩してるじゃないか」

「!?」


 その言葉とともに、舌先から記憶が流れ込んできた。

 「良い子だな、圭」。そう言われて、深夜の寮のベッドの上で、座っている圭は伸し掛かってくる竜彦に合わせて首を傾ける。頬を撫でられて顎先を上げられ、開いた唇から漂う良い香りに包まれて、その唇を受け入れる。唇が重なった瞬間、真っ白なキャンバスに竜彦が笑う顔、仲間内でふざける様子、仲の良い圭だけに見せるややひねくれた本音の表情などが、一気に描かれる。竜彦のいない世界の現実に、竜彦が上書きされる。

 そう、だって、そもそも寮は一人部屋だ。同部屋の奴なんていない。


「思い、出したか?」


 満足そうに舌で圭の唇を舐めてから、竜彦が笑う。


「毎晩、俺に……お前の記憶を……?」


 腰から力が抜け、ずるりと地に座り込んでしまった圭を追って、楽しそうに竜彦も膝を折る。


「そうだ。寮に帰ったら、俺のことを聞いてみたら良い。誰も覚えちゃいないから」

「な、なんっで、俺にだけ。……こんな、キ、キスまでして……お前は、なんなんだよ」


 圭は混乱していた。友人と……親友に近いとさえ思っていた相手が本当は「いない」?じゃあ、今ここにいるのは誰なんだと、ぞわぞわと背中が冷えていく。


「俺はここの祠の住人。何かなんて聞くなよ、俺も覚えちゃいない。……それだけ長い間生きてきた」

「祠の……?」

「お前のことはこの丘からずっと見ていたぜ圭。小さいころから時折両親に連れられて、この下の池で魚釣りをしたり近くの公園に遊びに来てたりしていた。……覚えてないか?」

「それは覚えてる。だってここは俺の地元だ。小中高と過ごして大学くらいは、本当は実家から通えるのを親元から離れたくて、……入寮して……?」


 そこまで一気に話して圭は違和感に気づく。夜に一人でトイレにも行けない俺が親元を離れたいだって? 人付き合いだってあまり得意じゃないのに?


「それも、お前か竜彦」

「当たり。圭が進路をこの大学に決めてくれた時には喜んだんだぜ。あの子が俺の近くに来るってな。だからついでに、もっと一緒にいたくなって……少し、気持ちを前向きにしてやった。おかげでこうして、毎日一緒にいられる」

「さっきから、何を言っているんだ」

「鈍いな、こういうことだろ?」


 ぐっと腕を引かれて、圭は前のめりに祠の前へと手をついた。目の前には人一人がやっと潜り込めるような小さな祠。その扉が今は開いていた。


「え……」

「来いよ」


 その祠の中に、当然のように竜彦が立っていた。

 意味が分からない。そこにはそんなスペースなどないのに。けれど、腕を強引に引かれて転びこむように圭もその中へと入った。広い。十畳はあろうかという部屋が、四方に開かれた襖の奥に何部屋も連なっている。後ろを振り返ると入ってきた扉はなく、そこにも部屋が連なっていた。部屋は明るく、畳敷きで、竜彦と同じ甘い匂いに満ちていた。

 竜彦はその部屋の中央にいた。和装ともなんとも言えぬ袖の長い衣服に緩く袖を通し、気崩している。柄は、鱗だろうか。銀の刺繍がきれいに施されたそれを身にまとい、こちらへやってくる。

 竜彦がまだ周囲を見渡している圭の前に跪いた。

 

「長い間、好いておった」

「なにを言って……」

「人間の理はよくわからぬが、成人までは待ったぞ。さあ、俺に抱かれろ」


 言いながらも圭の頬を撫でて慈しむように唇にも触れた。口調は元がそうなのだろう。瞳孔を細めて圭を見つめる目には自愛と情欲が入り混じっていた。

 圭は混乱していた。気づくと甘い香りに誘われ、目の前の甘い誘惑に体が自然と傾こうとする。それを意志の力で押さえつけると、今度は存在しないはずの友人としての親しい竜彦の記憶が流れ込んでくる。自分でもおかしいと思いつつ、腰を抱かれ、今にも口づけされそうなこの状況に強く否と突っぱねることができない。


「待て、待ってくれ。いきなり……無理だ。お前をそんな目で見てないし……許してくれ」

「本当に? 嫌なら俺を突き飛ばし、逃げ帰れば良い。好かれてもおらぬのに体を許されても、俺だって空しいだけだ」

「……っ、そう、だけど」


 嫌いだと、突き放すことがどうしても出来なかった。

 ……正直に言えば、惹かれていたのだ。竜彦に。普段見せる仲間内での大らかさや豪快さとは裏腹に、自分にだけは見せてくれる少し世をひねた目線のシニカルな言動。怖がりを心配してくれる配慮や、少し過多なスキンシップにドキドキしていたのは圭の方だった。

 だが、彼はどうも人間ではないという。記憶もすべて、捏造だと。

 男同士という点を差し引いても、人間ではないモノと自分がどうこうできるとは思えなかった。今も、触れられている部分が怖くてたまらない。そして、告白を嬉しがっている自分もいる。混乱の極みだった。


「俺が嫌か、圭」

「そうじゃ、ない……だけど」

「嫌じゃないなら、良かろう」

「無理だ、怖いんだ」

「俺がか?」

「お前も、何もかもが」


 はぁ……とため息をついてふいに竜彦が圭の体を離した。


「ならば、仕方ない。待つとするか」

「待つ……?」

「お前の気持ちは俺に傾いておろ?」

「──っ」

「それが完全に俺のものになるのを待とう」

「待ってくれるのか、俺は……応えられるか分からないのに?」

「長い年月生きた。もう少し待つのに何の不満もない」


 口端を上げる竜彦に、圭は漸く肩の力を抜いた。「けれど」とふいに声が近くでした。肩を引き寄せられ、耳朶に息を吹きかけられる。


「今宵のことは、忘れてもらわねばな」


 抵抗する間もなく、畳の上へと押し倒されて顎先を捉えられる。呆気に捉えられているうちに四肢が封じられて伸し掛かられ、開いた唇に大きく竜彦の唇が被さってきた。


「んう」

「……せめてものな、意趣返しじゃ」


 奥深くまで先割れの舌が圭の口中を蹂躙し、舌を巻きつけて吸い上げられる。衣服の上から乳首をカリッと指先で擦られて、手はそのまま下まで降りて股間を軟かく掴みゆるゆると揺する。


「いつか全部、俺のものにするからな」

「っ、ぁ……っん」


 唾液とともに流し込まれる言葉を最後に、圭の記憶は途絶えた。



 気づけば一人。祠の前に立っていた。下肢はズクズクと熱を持っていて、帰り道がまた怖くなければどうなっていたか分からない。……記憶はしっかり残っていた。


(竜彦の大馬鹿野郎!)


 どうにか丘を下り、池周りを走って駆け抜けて漸く寮の前までくると寮長の大橋や他の寮生たちが佇んでいた。走ってくる圭を見つけると笑顔で手を挙げてくれる。大橋が声をかけてきた。


「よく一人で行って帰ってきたな。流石に遅いんで心配してたわ」

「いや、これでも……必死に。……一人?」

「うん、あの怖がりの圭が良く行ったと思うわ。こりゃ称えて二次会だな」


 そう言って肩を抱いてくる。すると逆側から大橋の手を引きはがし、抱き寄せる腕がある。

 

「ああ、心配してたぜ」


 何食わぬ顔で、竜彦が横に並んでいた。一瞬くらりとしたが、何とか踏みとどまって圭は竜彦の腕から逃れようとする。先ほどの今だ。恥ずかしくて近くに寄れない。


「今夜が楽しみだな」

「うるさい」


 また記憶を改ざんするためにキスをするのだろうか。

 できたらそのキスは忘れずにおきたいと圭は思った。


【end】

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澱みに沈む 河野章 @konoakira

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