ワンナイト・オブ・ザック&ノーラン
純丘騎津平
+スクリュードライバー
+スクリュードライバー 1
一
彼はラブホテル街が好きだ。
と言ってしまうと語弊があるが、より具体的には、彼はその手の街路が備える昼夜間のギャップが気に入っていた。昼のひなかからそういう街路を行き来するのは常人には稀なことであろうが、彼はどちらかと言えば、比較的その機会に恵まれている種類の人間であった。
「意外なことに」と言うべきか、ホテル街というのは大抵、全体にどこかくたびれた雰囲気を漂わせているものだ。
染みや黒ずみに覆われた商業ビルの外壁。すっかり発色の衰えた看板とその上で踊る文字。それらの看板と商業ビルとを繋ぐ、錆びの浮いた金属部品。あとは、カラカラに乾いたカラーコーンだとかピサの斜塔よろしく傾いた電柱だとか、そこらじゅうでむやみやたらに見かける怪しげな電話番号の記された張り紙だとかの雑多な物体の数々。それが、この一帯で目に付く物の大半だ。
しかしそうした物体に増して印象深いのは、この独特の湿気というものだ。
晴れていようが雨だろうがまったくもっておかまいなし。どういうわけかそうした街路は四六時中、何か湿った外気を漂わせている。アルコールとアンモニアと排気ガス。辺りのコンクリートにすっかり染み付いてしまったそれらの匂いが、うらぶれたふうの風景を一層にみすぼらしく演出する。ある意味では、これほど似合いのアクセントもそうそうあるものではない。
ただし、そうした特徴を正しく認識できるのも夜の帳が下りるまでの話だ。
昼間には太陽光によって浮かび上がらされていた種々のくたびれと廃れが、そこに宵闇が訪れたとたん一斉にその姿をくらませる。
と同時に、今度は陽光にも負けず劣らずの眩い光線の集合体が、それこそ壁という壁、また空という空を少しの隙間もなく埋め尽くす。赤青黄色にピンクとパープル。緑もあれば白も見える。
うねるネオンサインが投げかけるそれらの光は、この世に存在するあらゆる種の光の波長を網羅するかのような多彩さをもって視神経を刺激する。
そうした荒ぶる光線の束が、周囲に立つ建造物の窓ガラス、行き交う車両のボンネット、はたまた道行く人々の毛髪上で乱反射を繰り返しつつ、縦横無尽な角度で三次元の世界を跳ね回る。テーマパークのアトラクションさながらの迫力がそこにはあった。
それゆえ、日中は通りの一面に染み付いていたはずの気だるい退廃が、夜間には打って変わってその鳴りを潜めることになる。まるでそれまでの経年や、それにともなった種々の劣化など少しも存在しないかのように。
夜ごと日が暮れるたび、この通りは大きく様相を様変わりさせる。そこには一抹の憂いもない。青白い月光の下に臨むのは、底抜けの陽気さにも似た数多のひらめきのみである。
そうした昼夜間の変貌をこそ彼は――ザカリー・マクブライド氏は好んだ。激しくうねる生命力の波、無限に繰り返される浮き沈みを思わせる、そのたくましい変貌を。
×
この日ザックがその両目に捉えていたのは、それら明暗の隔たりのうちより明るい側に当たる情景であった。すなわち夜のホテル街である。
この日、この時、この空間。すなわち西暦二〇七一年四月一七日金曜日、二三時一五分、大都市ロサンゼルスの南西部に位置するとあるラブホテル街の一角。その入り組んだ街路を走る一台のタクシーの中に彼の姿はあった。それも後部座席や助手席ではなく運転席のシート上に。
ザックは彼自身の手足をせわしなく働かせている最中だった。繁華街から抜けてくる片側一車線の狭苦しい車道を徐行運転でのろのろと進むために。
しゃれた雰囲気の赤いベストに、やや時代遅れなふうの黒縁眼鏡。こざっぱりと整えられた短い髪。
そういう格好をしていると、ザックは実際の年齢よりも十歳は若く見えた。備え持った童顔のせいだろう。ちょうど「大学を中退した若者が当面の生活費のためにドライバーをやっている」という風体だ。
ところが実際のところ彼は二十歳前後の若者ではないし、また正式なタクシードライバーでもなかった。彼はただ業務上そうする必要があってそういう格好をしているのだ。
つまらない言い方をすればザカリー・マクブライドは探偵だ。そして探偵が何かしらの扮装をしている場合、そこには大抵れっきとした目的がある。ことこの夜にかんしては、彼はある人物に対する尾行を完遂するために借り物の衣装を着て、また同じく借り物のタクシー車両を走らせていた。
尾行対象の人物はザックのすぐ前方にいた。探偵氏がのろのろと進ませる黄色い車体の、ほんの十数メートル先の位置だ。その人物もザックと同様、乗用車を運転している最中だった。
深夜前のこの時間帯、繁華街を出る道は交通量が増える。ザックたちの行く道は大通りから外れた狭路であったが、しかしこのルートも抜け道と呼ぶほどには快適ではなかった。車両も通行人もともに多い。メインストリートの雑踏がそのままこの間道に流れ込んできているのだ。
よってザックと尾行対象の人物とは、それぞれに不本意な速度で進むことを余儀なくされていた。どこまで行っても徐行、徐行だ。
ザックにとって幸いだったのは、尾行対象が目立つ見た目の自家用車を運転していたことだ。
角のないデザインが主流のこの時代、車体はおろか窓の一つ一つからテールライト、はたまたサイドミラーに至るまで車体のほぼ全面を角ばった印象で埋め尽くした小型4WD。それもボディカラーは細かいラメの入ったライムグリーンときている。
いかにも懐古趣味的というか、よく言えば奇抜、悪く言えば奇妙な一台だ。これなら周囲の車列に紛れる恐れはない。少なくとも、人を付け回すプロフェッショナルたるザックが相手を見失うような恐れは。
この夜、その独創的な車両が目指すだろう目的地はザックにも目星がついていた。事前調査の賜物だ。
ホテル街への道を行くからには何かしらの宿泊施設に向かうのは間違いない。そうなると問題は、「どの宿で一晩を過ごすのか」ということになる。尾行対象の行きつけはすでに把握済みだ。ようするに、あとは対象の人物が普段どおりその店に入っていくのを見届けるのみというわけだ。
これまでの多くのケースと同様、今回もこの優秀かつ明晰な探偵の目論見は見事、功を奏すかという見通しだった。例の安っぽいミニカーじみた4WD車が、ザックが予想したとおりの施設に近づいていたのだ。このまま行けばたどり着く場所は一つしかない。ホテル街のはずれにある小ぢんまりとした安宿だ。
目的地までの距離は残り数キロメートル。いよいよここからが正念場だ。
ザックは眼前のステアリングハンドルから片手を離すと、その手を自らの耳元にやった。音声通信用の小型インカムを操作するためだ。
プレスボタンを押して通話をはじめる。と同時に彼は訊いた。
「こちらザック、聞こえているか、ノーラン?」
返事は間を置かず返ってきた。「返事」といっても言語の類ではない。ただ一度の短いクリック音。それがノーラン氏の寄越した返答の全容だった。
この男はおしゃべりが好きなタイプではない。そのことは、ノーラン氏と業務上のパートナーを組んでいるザックには言うまでもなく明白なことだった。
ゆえに彼は、彼ら二人のあいだで交わされた取り決めに則してこの〝会話〟を続けることにした。すなわちクリック音が一回なら「イエス」、二回なら「ノー」という意味だ。
「よし、聞こえてるな……いいか、もうすぐ標的がそっちに着く。しっかり頼むぜ。今夜の成否はお前の腕にかかってるんだからな」
ザックが伝えると、ノーランは再び「イエス」の意思表示をした。相槌のつもりなのだろう。
「助けはいるか?」
この質問には、ノーランは直前とは異なる反応を見せた。二回で一セットの電子音。「いいから任せておけよ」とでも言いたげな感触だ。
「分かった分かった。それじゃあ、俺は一足先に合流地点に行ってるからな。お前も終わったらすぐに来いよ。拾ってやるからさ……よし、じゃあまた後で」
そこで通信を切ったのち、ザックは適当な路地を選んで車両を右折させた。そうなると当然、尾行対象の4WDは彼の視界からはずれることになるが、それは言わずもがな織り込み済みだ。
一言で言えば選手交代だ。事前の計画としては、ザックの仕事はひとまずここまでという手筈になっていた。彼の役割はあくまでも「標的の人物が予想どおりに動くか」をその目で見極めることだった。
今回の計画においてこの後に彼が実行すべきなのは、事前に定めておいた合流地点までタクシー車両を運転することと、実行部隊たるノーランの到着を待つこと、くわえて、速やかかつ隠密に現場を離れることのみである。
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