第61話 慟哭

 ぼんやりと意識が戻ってくるのを感じた。

 重いまぶたをゆっくりと持ち上げると、見覚えのある部屋の天井がアデルの視界に入ってくる。アーシャの私室だ。どうやらアデルはアーシャの私室で、しかも彼女のベッドで眠らされていたらしい。

 右手から誰かに手を握られている様な温もりを感じて、そちらに首を傾ける。そこには、瞳を閉じてうつらうつらと舟を漕いでいる白銀髪の少女がいた。ヴェイユ王国王女にして〝ヴェイユの聖女〟の異名を持つアーシャ王女だ。

 彼女の頬には、涙の跡が残っていた。


「アーシャ……?」


 声を掛けると、彼女はパチッと目を開けて、ハッと顔を上げた。


「……え? あっ──」


 アデルと目が合い彼が目覚めているのを確認するや否や、アーシャは顔を慌てて目を擦って、顔を赤く染めた。


「……見ましたか?」

「ああ、ばっちりと。初めて寝顔を見たよ」


 アデルがそう言うと、少女は少しだけ怒った様な表情を作った。


「もう。乙女の寝顔は見てはいけないんですよ?」

「ごめん、今度は起こさない様に盗み見るよ」

「そういう話をしているのではありませんっ」


 そんなどうでもいいやり取りをしてから、アデルは思わず安堵の息を吐いた。

 どうやら自分が王宮にいる事も、アーシャが目の前にいる事も夢ではないらしい。だが、今がどういった状況なのかが把握できなかった。

 それに、彼自身どうしてここにいるのかもわからなかった。彼の記憶では、先程までサイユの森で死闘を繰り広げていたはずなのだ。

 事情を聞こうと体を起こそうとするが、突如として頭痛がして、思わず眉間を押さえた。それに、どうしてか首のあたりも痛い。


「あ、無理して起き上がらないで下さい。エトムートったら、力を入れ過ぎたみたいで……」

「エトムートって、あの亡命騎士か? 一体全体どういう──」


 その瞬間に、アデルは意識を失う前の事が脳裏に蘇った。

 アデルはフィーナの死を前にして、半狂乱で叫んでいた。悲しみに支配され、自我を失い、暴れ回らん勢いだった。

 見るに見兼ねたベルカイム領の〝聖騎士〟ロスペールがアデルを抑えつけ、ルベルーズ領の〝亡命騎士〟エトムートが彼の首筋に手刀を一閃して、気絶させたのだと言う。おそらく、アデルにも自害されては堪ったものではないと思ったのだろう。

 自害まではしなかったと思うが、あの時のアデルは完全に自分を見失っていた。何をしていたかは自分自身でもわからなかったので、エトムートとロスペールの判断には感謝する他なかった。

 その後すぐにアーシャ達後衛の援軍もサイユの森に辿り着き、事情を知ったアーシャがアデルだけ先に王宮に送り届けさせる様に指示をしたそうだ。


「そういう事だったのか……迷惑掛けたな」

「いえ、私は何も……」


 アーシャは気まずそうにアデルから手を離して、視線を窓の外に移した。


「えっと、フィーナ……いや、あの女の回復術師は、その……どうなった?」

「すみません。私が着いた頃には、もう……」


 息を引き取っていました、とアーシャは付け足し、申し訳なさそうに項垂うなだれた。


「そうか……」


 もしまだ辛うじて生きてさえいれば、アーシャならば命を繋ぎ止めてくれるのではないかと期待していた。

 しかし、死んでいれば〝ヴェイユの聖女〟と言えども蘇らせる事は不可能だ。それは聖女ではなく死体術師ネクロマンサーの領分になってしまう。


(気を遣わせたんだろうな……)


 アデルは小さく息を吐いた。

 アデルだけ先に王宮に送り届けさせたのも、おそらくアーシャなりの気遣いだ。あのままサイユの森で目覚めてあの惨状をもう一度目の当たりにしたら、それこそまた同じ様に半狂乱になって苦しむと彼女は考えたのだろう。

 そして、それは間違いなかった。こうして彼女の部屋で目覚めたからこそ、あの光景が悪い夢か何かだったのではないかと心のどこかで考えられていた。

 無論、それが悪い夢ではない事くらいわかっている。それでも、そうした彼女や仲間達の思い遣りを感じるだけで、冷静でいられた。少なくとも、意識を失う前の様に取り乱す事はなかった。


「いや、アーシャは何も悪くない。それよりも、王都制圧で大変だったろうに、その後すぐに俺のところに向かってくれてたんだってな。ありがとう」


 アデルは敢えて明るい声を作って、アーシャに微笑み掛けた。彼女の前でフィーナの事について触れるのは、何だか申し訳ない気がしたのだ。

 それに、彼女とて不本意だった内戦を蜂起せざるを得ない状況になって、多大な心労を負っていたはずである。それにも関わらず、王都を解放してからすぐにアデルの元に向かってくれた。これ以上、彼女に気を遣わせてたくなかったのだ。しかし──


「どうして……」


 アデルの耳に、アーシャの震えた声が入ってくる。

 驚いて顔を上げると、彼の予想に反して、アーシャはとても悲しそうに眉を顰めていたのだ。その浅葱色の瞳に涙を浮かばせている。


「──どうして笑ってるんですか!」


 アーシャが涙ながらに怒声を発した。

 彼女に怒られる等とは欠片程も思っていなかったアデルは驚き困惑する。その叱責の意図がわからなかったのだ。


「シャイナからある程度の事情は聞きました。敵の援軍の中にアデルを裏切った人がいた事も、フィーナという女性の事も……そして、その方が何故自決を選んだのかも、知っています」


 アーシャは視線を落とした。下を向いた拍子に、ベッドのシーツに涙がぽとりと落ちる。


「今、一番辛いのはアデルじゃないですか! それなのに……どうして、そうやって私に気を遣って、笑ってるんですか⁉」

「アーシャ……」

「辛いって、言って下さい。私に頼って下さい。じゃないと、どうして私がいるのか……」


 それは、悲痛なまでの訴えだった。アデルを見るアーシャの瞳からは涙がぽろぽろと零れ落ち、その白い頬を濡らしていく。


「ごめん、ごめんな、アーシャ」


 そこでアーシャの真意を知ったアデルは、震える彼女の肩を抱き寄せた。心配を掛けまいとした振舞いは、逆に彼女を傷つけてしまったのだ。

 それに応える様に、アーシャもアデルの腰に腕を回して、身体を彼に預けた。


「私に、悪いと思ってるんですか?」


 アーシャは小さく呟く様にして訊いた。

 予想もしていなかった王女の言葉に、アデルは「え?」と驚いて首を傾げる。


「前に恋人がいて、その人の為に涙を流すのは私に悪いとか、後ろめたいとか……そんな事を考えてるんですか?」

「……それも、あるのかもしれない」


 そう言われてみて、初めて自分の感情に気付いた。

 全く気まずい思いがないかというと、嘘になる。元恋人ではあるが、フィーナとは正式に別れという別れがあったわけではない。謂わば、オルテガによって引き裂かれただけの恋だ。

 そんな彼女と不本意に再会して、当時の気持ち含めて色んな感情が湧き上がってしまったのも確かだった。


「もう終わった事のはずなんだけど、フィーナとは実際にしっかりとした終わりがあったわけじゃなくて……それで、苦しまれて、後悔されて、目の前でああなられたら、やっぱり冷静でいれなくてさ」

「冷静じゃなくなって、当たり前です」


 アーシャはアデルの言葉をぴしゃりと撥ね除けた。


「大切だった人が後悔していて、苦しんでいて、それで目の前で自決されて……平気なわけ、ないじゃないですか」


 アーシャの瞳から、再び涙が零れる。

 アデルには、それが何の涙なのかはわからなかった。彼の気持ちを慮っての涙なのか、はたまたフィーナを思い遣っての涙なのか。心優しい彼女なので、そのどちらの可能性も考えられた。


「アデルが優しいのは、私がよく知っています。誰よりも苦しむのもわかってます。だから……その苦しみを、私にだけは隠さないで下さい。ちゃんと伝えて下さい。まだお子様で、世間知らずかもしれませんが……アデルの事は、私が支えますから」


 アーシャはアデルの頭を抱きかかえる様にして、そっと自分の方に抱き寄せる。

 彼女の柔らかい感触と、優しい香りがふわりとアデルを包んだ。


「こう見えて私、口が硬いんですよ? 誰にも言いません。私の胸でよければ、いくらでもお貸しします。だから……好きなだけ泣いて下さい」


 その言葉と共に、アデルの胸の中で色々なものが込み上げてきて、瞼がじわりと熱くなった。


「悪い……ちょっとだけ、借りる」

「……はい」


 そこから感情の嘔吐が止まらなくなり、アデルは王女の胸の中で静かに泣き続けた。

 何に泣いているのか、もうアデル本人にもわからなかった。

 元恋人の死に対してなのか、彼女との明確な別れに対してなのか、彼女も被害者であったという事実に対してなのか、そしてそんな彼女を救えなかった事に対する罪悪感なのか、或いはその全てなのか……アデル自身、自分の感情を吐き出す事しかできなかった。

 彼の中で、確かな後悔はあった。

 もし、ランカールの町に帰った時──あの、オルテガとフィーナの行為を見た時──何が何でも彼女を救っていれば、フィーナは死ななかったのではないか。傷付いたかもしれないが、自分が助けてやれたのではないか。そんな後悔は確かにある。

 だが、それは全てがわかった今だからこそ言えるだけで、当時のアデルにその余裕はなかった。彼も傷付き絶望し、生きる希望を失って海に身を投げようとしていた。

 きっとあの時、アーシャとの約束を思い出していなければ、アデルの生はあそこで途絶えていただろう。彼女の言葉と指輪があったからこそ、彼は再びヴェイユ島を訪れて、王女との再会を果たしたのである。

 アーシャと再会した時も、アデルは今と同じく王女にただ慰められていた。あの時と同じく、アーシャはその華奢な身体で彼を抱き締め、愛する人の背中と頭を優しく撫でていた。そして彼の慟哭にそっと耳を傾ける。あの時と違うのは、王女自身も涙を流しているという事だった。

 目の前の少女の暖かみだけが、今のアデルの救いだった。彼女が共に泣いてくれているからこそアデルも素直に泣けたし、共に悲しんでくれるからこそ、自身の悲しみが和らいでいくように感じた。

 アーシャはきっと、彼の悲しみを共に背負ってくれようとしているのだ。先程言葉にしていた通り、アデルを支える為に。

 いつの間にか、支えるのも守るのも立場が逆転してしまっていた。だが、今だけはそんな彼女の厚意に甘えたかった。

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