第十話の6

 イャノバはレッドカイザーの伝えることに、一瞬目を輝かせた。天上と言えば英霊の住む地である。数多の英傑に名を連ねたいイャノバからすれば、そこを見に行けると言うのはこれ以上ない喜びだろう。しかし、レッドカイザーの伝えた意味はイャノバでも正確に理解できるように届く。天上と言っても、指すものがまるで異なることにイャノバはすぐに眉をひそめることとなった。

 イャノバの表皮が鳥肌立って、体毛が立ち上がった。短槍を持っていない右手を何度も握り直して、目が泳ぎはじめた。

「いや……ダメだ。行けない」

『なっ、なぜ』

「行くわけにはいかないからだ。おれには……」イャノバはウタカをちらと見た。「ウタカは今は一人にできない。里にはおれとウタカしかいないし、哨戒できるのはどの道おれしかいない。ココを離れるわけにはいかない」

『それは……分かる。私のエーテルがあれば宇宙の果てまで行くのにそう時間はかからないが、それでも長ければ往復で三日はかかるだろう』

 イャノバは獲物を見つけた狩人のような眼光で人形を射た。

「そうだ、それほどの時間がかかるなら行くわけには行かない! 今は寒季だということもある。弱っているウタカを一人にはできない」

「イャノバ……」

「ウタカは静かにしていろ」

 言われて、ウタカは悲哀の眼差しをイャノバに送った。唇をきゅっと結んで下を向き、それ以上は何も言わなくなった。

 レッドカイザーは食い下がる他なかった。

『イャノバ、これは重要な問題なのだ。君と私と、そしてウタカにも関係がある。いいか、聞いてくれ。私から君に伝えられた始まりの炎、それが君を今蝕んで怪物へ仕立てようとしている。そのような運命にあるのだ。このままでは君は自らの生まれた宇宙を滅ぼしてしまう! その因果から逃れるためには、宇宙の果てを一度見に行く必要があると、私は考えているのだ!』

 レッドカイザーの訴えを聞いて、イャノバは自分の掌に視線を落とした。わずかに震える体を、しかしイャノバは見なかったように視界から外した。

「アキノバから力を貰ってるということは知っている。だが、この力がおれに害をなすとは思えない。おれを温め、おれに寄り添ってくれる力だ。この力があるからおれの守りたいものを守ることができる」

『違う、イャノバ! そうやって力へ依存し渇望するようになってしまうのは……!』

「違うのはアキノバだ! いいか、おれは行かない! 神獣を倒すこと以外で里から出るつもりはない。そもそも大巫女でもないアキノバがこれから先のことなんて、どうやって知るというんだ!」

『イャノバ、君は……』レッドカイザーはウタカの言ったことを思い出し、イャノバの抱えるものを垣間見た。『何を恐れているんだ?』

 イャノバはのけぞり、言葉に詰まった。そして人形に背を向けて歩き去ってしまった。屋敷の中にはウタカと人形が取り残され、沈黙が重く垂れ込めた。




 イャノバはひとりで浜を歩いていた。波の寄せる音が規則的に聞こえて、その度に彼の足が濡れた。寒季の海は凍えるように冷たいはずだったが、イャノバは平気だった。心の奥から湧き出る力に全身を支えられて、自意識をもはっきりとさせている。イャノバは自分が芯に無双の存在であり、神の力を得ているのだと自覚できていた。それを正しく使えている自信もまた。

 家の方を振り返った。アキノバの気配が消えたのだ。

 アキノバ、か。

 それはイャノバの、あまり考えたくないことだった。かつて一度だけ知ったことのある、“レッドカイザー”という意味。神獣がアキノバに向かって放った意味だった。イャノバはそれを訪ねようとはしなかった。ただ漠然と恐れていた。

 力を得てから、イャノバは失う一方だった。里を、エンサバを、里の民を。イャノバはこれ以上何かを失うのが怖かった。海の向こうからいずれやってくる、異人の船。それにいよいよ里を滅ぼされ、ウタカを奪われる予感がずっと消えない。来るとは限らない、とはどうしても思えなかった。

 力を邪まなことに使えば、いずれ破滅が訪れるだろうと大巫女は言った。ならばなぜ、自分ばかりがこのような目に合うのか。アキノバからじきじきに滅びの未来を宣告されなければならないのか。何を間違えたというのか。

 憎い神獣を倒すため、イャノバは何度も海を越えた。そうして見知らぬ知の面妖な集落や構造物を見た。もう、これ以上の広い世界を見ることが嫌だった。自分の世界がいかに狭く、簡単に壊すことができて、その広大さに比べれば浜の里が失われたことなど一つの痛手でもないということを知らされるようで。

 浜の突き当りの崖まで来て、イャノバはもと来た道を戻りはじめた。

 体が奇妙に温かかった。イャノバは炎が何かを祝福しているように思えて、それに自分の選択が間違いではないなはずだと勇気づけられた気がした。

 ウタカも浜の里も、もう失わない。それを奪おうとする困難に立ち向かう勇気が今は必要なのだ。イャノバは灰色の水平線を睨みつけてから、屋敷の中に戻った。

 屋敷の中は暗く、火が絶えてしまったらしい。まだ熱が残っているので、そう時間が経っていないはずだが、ウタカを思うとすぐにでも火をつけ直さなくてはと、イャノバは気持ち急ぎながら中を覗き込んだ。

 ウタカが倒れていた。脚が濡れていて、気持ちの悪い汗が額に浮いていた。

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