第十話の5

 しばらくして炎が落ち着くと、レッドカイザーは自らの忘却の彼方に消えた過去を想った。下位世界での暮らしなどで参考にできるのは、イャノバの生活以外にはない。自分は戦士で、誰かを、そして自分の住む場所を守ろうとしたのだろうか。父がいて母がいたのか。導いてくれる人がいたのか。イャノバにとってのウタカのように、愛する人がいたのだろうか。

 レッドカイザーの思考はうつろい、次第に自らの現状を思うようになった。

 モノクはこの壁の外側を無限の宇宙だと言い、炎が継承される時には下位世界も一新されるだろうと言った。炎の力を失ったモノクに下位世界の観測などできないのだから、それは推論だろう。しかし、それにしても確信じみた物言いだった。

(モノクは、二つの宇宙は互いに影響して然るべきだと考えているのか)

 だとしたら、やはり腑に落ちない。無限の宇宙と有限の宇宙が裏と表の関係でいられるはずはない。その矛盾が、レッドカイザーに次手を定めさせた。

 秘密は下位世界にある。下位世界の宇宙の果てを見に行かねばならない。その無限性の在り方を。

 これにはイャノバを連れて行くべきだとレッドカイザーは思った。問題はイャノバにも強く関係している。あるいは炎の力を現界させる必要が出てくるかも知れない。

 そうと決まれば、レッドカイザーは一刻とも待たずに下位世界へ、イャノバの人形へと意識を降ろした。

 時間がない。運命はすぐそこまで迫っている。




 レッドカイザーが下位世界の形質を認識できるようになると、ウタカがそばにいるのに気付いた。イャノバの姿は見当たらない。

 ウタカは何かをしている風ではなかった。囲炉裏の火をぼうっと眺めて、すっかり癖になったように自分の腹を撫でていた。ウタカの深い瞳が、はっとして人形に落とされた。

「戦士さま」

 ウタカは少し迷ってからレッドカイザーをそう呼んだ。イャノバの前以外では、アキノバとはまず呼ばない。ウタカはレッドカイザーがエーテル界という異次元の存在で、この世の天上より遣わされた英霊ではないと最初から知っている。

 今になって、レッドカイザーはウタカには始めからすべてを打ち明けておくべきだったと思う。賢く、嘘を付けない実直さを持つゆえに下位世界ではイャノバ以上の理解者だった。何より、ウタカを介せばイャノバも御しやすい。

「神獣が出たのですか?」

『む、いいや。神獣以上に重要なことができてな』

 この頃は神獣が出ない限りは下位世界へ降りることはなかった。レッドカイザーが降りているとなれば、神獣を疑うのは当然のことだった。

(思えば、かつて暇を見つけては下位世界へ降りていたのは、私の芯の部分が下位世界に安楽を見出していたからなのかも知れないな……)

 自分がもとはこの世界の存在だったと知って見る景色は、それまで以上に身近で特別なものに見えた。火に赤く照るウタカもまた美しい。その体はより女性的なふくよかさを得て、新たな命を宿す母体は彼女の持つ神秘を一層引き立てるように見えた。

 火が揺れて、ウタカの影が壁一面を埋めた。ウタカは我が子を慈しむその手以外を動かすことを億劫として、いやに生々しい質感を持つ彫刻とも感じさせた。

「イャノバに、用があるのですか」

『そうだ。どこにいる』

「さあ」

 ウタカの言葉は一つ一つが間延びしていて、声も低かった。独特の深い瞳は、今深淵を湛えている。

 レッドカイザーは悪寒を感じた。

 嫌な感じだ。始まりの炎か? イャノバを通してウタカにも影響を……? それともこれは、私とイャノバとウタカを合わせての運命なのか。

 荒く狂う炎がどのような感情を薪にするのか、想像に難くなかった。イャノバを次の継承者とするため、ウタカもまた贄にされようとしているのでは……。レッドカイザーは思い、イャノバの持つ炎のエーテルを感知しようとしながら、ウタカの言葉への疑問を投げた。

『君がイャノバの行方を知らないというのは、奇妙なこともあったものだな』

「あの人は近頃、ずっと迷子なのです。あら」

 ウタカがなにかに気づくのと同時に、レッドカイザーも知覚した。屋敷に向かって気配が歩み寄り、進入する。イャノバだ。体は大きくなり、まだ若いが筋骨が発達していて、より戦士として卓越した存在になっている。

「おかえり、イャノバ」

「ああ。アキノバ、神獣の気配はないがどうしたんだ」

 イャノバは人形を半身として、レッドカイザーの意識が降りてきたのを察知することができる。ウタカの言い様からその辺りをうろついていたとは思えないが、実に迅速な帰還だった。

(私がすぐに感知できない距離から、イャノバは私を感知したか。確実に力が強くなっている)

 真実を知り、レッドカイザーのイャノバが力を得ることに対する焦燥は具体的な形を伴うようになっていた。

『うむ。神獣ではない。この度降りてきたのはイャノバ、君にある願いがあってきたのだ。私とともに、宇宙の果てへ行って欲しい。天より高く、星の満ちる場所、闇と光の世界へ』

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