第八話 ハンバス

第八話の1

 神獣の周囲を巨大な球体が三つ公転しているところへ、白い巨人は走り込んでいった。イャノバはすでにこの体の扱いを完全にものにして、高い速力を発揮できるまでになっている。

 球の一つが公転軌道を外れ、迫るアキノバを迎え撃つようにせり出てきた。この短時間の戦闘で、この球は射出などはできず、軌道の外ではごく短い範囲でしか動かせないことは分かっていた。本体よりも機敏に動く分は厄介だが、イャノバの敵ではない。白い巨人は右へ左へ重心を移し牽制をかけながら、球の動きが迷ったところを見逃さず走り抜く。大森林の樹上を駆け抜けてそのまま神獣へトドメを刺すかと思われたとき、怪獣の残り二つの球が行く手を阻んだ。

 イャノバは神獣の手を読んでいた。これまでイャノバはこの怪球を避けるのには左右へ避けるか跳躍で避けるかしかしてこなかった。今二つの球は眼前で横に並んでいて、これを回避する最善手は上へ跳ぶことだった。

『右足!』

 イャノバの声が意識に響く。レッドカイザーはイャノバの意を汲んで、右足にエーテルを集中させた。無防備なアキノバの体が球に接触する直前、急に背を引っ張られたように後方へ体を倒した。摩擦の影響を無効にした白い巨体は無数の樹木の上を滑る。アキノバが跳躍すると思い込んでいた神獣は、球体を上へ振り上げた。

 白い巨人は二本の樹を掴み体が行き過ぎるのを止め、倒れた姿勢のまま右足を神獣の胸へと突き出した。

 自分の足が神獣の胸を貫いたことを確認すると、素早く引き抜き、アキノバは腕をバネにして素早くその場を離れる。怪獣が土砂へと還り、三つの怪球も地に落ちて同じようなものへと崩壊した。

 一泊置いてレッドカイザーはエーテルを再配分する。

『見事だった』

『アキノバもな、滑りやすかった』

 地には椀を伏せたような小ぶりの山なり丘なりがぽつぽつと樹海から飛び出ていて、巨人の目で見るそれらは深緑の草むらに苔むした巨岩が転がっているのと変わらなかった。白い巨人が森を振り返ると、遠くに水平線が見えた。青い海原の彼方に見える大きな雲が、一すじ境界を作っている。ここからでは見えないが、海と陸の境目にはイャノバの住む里があった。

『戻ろう』

 しばらく景色を眺めたあと、イャノバは満足気に言った。




 レッドカイザーは下位世界に意識を降ろしてから、エーテル界と物質界を行き来するようになっていた。ヴルゥ配下は下位世界の戦士にエーテル生命が負けたとの報にざわめき、レッドカイザーのもとにもハンバス将軍が来て話したが、素知らぬ顔で辺境を過ごした。

「こうなると愉快ですな」

 ダーパルは現状を悪く思っていなかった。レッドカイザーは下位世界での出来事をダーパルに話し、イャノバという現地の生命体と友好関係を結んだと伝えた。自分よりも思慮の深いダーパルがそれについての問題を特に指摘することがなかったことに、レッドカイザーは安心した。

「主導権を握られているというのは不可解ですが、所詮は物質界の生命です。特に強大なレッドカイザーさまに害を及ぼすなどということはありえないでしょう」

 レッドカイザーはヴルゥの様子を直接見に行くことはなかった。敗戦した現王の様子を先王が視察に来ようものなら、たちまち宇宙は荒れてしまう。それも政治的分裂という、エーテル生命らしからぬ法でだ。ヴルゥの様子を知るにはたまに宮殿へダーパルが赴き、そのあらましを聞いて想像するのに限られた。その曰くところによれば、ヴルゥは一層やる気を見せているらしい。レッドカイザーはげんなりしながら、悪いことではないなと思えた。ヴルゥ派とも言うべき物質界の侵略に傾倒する一派から団結力が生まれ、新しい王を見くびっていた幾つかの生命たちもいずれその波に乗るだろう。

 ヴルゥは門を開くたびに力を消耗する。一度開ければ、再び開くのに時間がかかった。それでも回復次第神獣を下位世界へ送り込んでいた。レッドカイザーはその度に意識を降ろし、神獣を返り討ちにする。ヴルゥが送り込んだエーテル生命の数だけレッドカイザーは現界し戦っているが、戦士たちはまさか物質界の戦士が先王だとは思わず、また自分で門を開いて何処かへ旅立っていることもダーパル以外には知られていなかった。

 これまでの戦闘は、最初の現界をのぞいてすべてうまく行っていた。それはイャノバのおかげで、レッドカイザーから見てもその能力は突出していた。戦闘における駆け引き、動作の引き出しの多さ、相手の次手を考える想像力、いずれも群を抜いている。力ばかりで考えることを知らないエーテル生命に爪の垢を煎じて飲ませたいほどだが、エーテル生命が能力に頼るのはそれが最も効率のいい戦い方だからだ。エーテルの形は無数に存在する。次にどのような能力を持ったものが現れるかはまるで分からないのだ。レッドカイザーの弱点は明確なため、天敵も明快だ。

 神獣との戦いに慣れてきて、イャノバは余分な力が抜けてきているが、だからといっていつも簡単にいくとは限らない。エーテルの力は一筋縄ではいかない。

 レッドカイザーは炎の力を使わないと決めているのだから、なおさら油断はできなかった。

 実際に巨人の体を動かし、神獣を倒しているイャノバについても、そもそも何者かを語る必要があるだろう。

 イャノバは元から下位世界の戦士だった。運動能力も抜群に秀でていて、まだ幼いのに次期"家父"となることが決まっていた。家父とは何かを説明するには、まずイャノバの所属する国であるところの共同体"浜の里"について知る必要がある。

 浜の里はその名の通り海に面しているが、九割以上が森林だ。この広い大陸の周辺一帯は海に面する部分はほとんど崖のように切り立っていて、唯一と言ってもいいほどの浜をイャノバの里が専有している。

 里は円形で、その円周上にそれぞれ八人から二十人が住む"家"が二十ほど置かれている。円形になるよう等間隔に置かれた家の内側部分と外縁の非常に広大な森林が浜の里の領土だ。この領土に凶暴な獣か生態系を荒らす外獣、あるいはよその里の人間が入り込まないよう各家のものが常に哨戒を行っている。イャノバの普段の仕事はこの哨戒任務で、森の異変を素早く察知し、情報を家へ持ち帰って里に伝えるために樹海を駆け抜ける訓練や、いざとなれば単身で敵を撃退するための武技も彼は身につけているのだ。

 里全体を管理するのは里長だが、家を管理するのは家父すなわち"父"だ。里長はその血族が継ぐものだが、父は違う。その家の中で最も優れた戦士が父となり、見初めた女をひとり娶ることができる特権が得られる。イャノバは大森林に向いた最も危険の多い家の一つで、若くして最強の戦士なのだ。そう認められるだけの実績もすでに数多く持っている上に、里全体を深く愛してもいた。

 ただ、難点がないわけではない。それは持ち前の気性の荒さだ。得無鉄砲さとくれば里の中で一番と言ってよく、よくこの年まで死なずにいたものだと呆れられることも多い。それがやたら強いとなると、一度暴れだしたイャノバを止められるのは家の中では父か婚約者のウタカくらいのものだった。

 そんなイャノバが後生大事にしている人形だが、ただの子供のお守りではない。

 この里では赤ん坊が生まれると、それが健やかに育つよう、また邪なものから守るために英霊の名と魂を封じた人形を作る風習があった。英霊とは里の歴代の長であり、歌として伝えられる強靭な戦士だ。芯に使う枝は骨であり、それを繋ぎ全身を一つに絡める蔦は肉で、表面に塗り込む泥は肌を表す。

 人形は本来成人する時に燃やし、英霊を天へ還すのだが、それとは別に災いの予兆があった時にも燃やす。子供を守護する英霊を天へ還し、里全体を守ってもらうためだ。

 ただ、アキノバの霊が本当に宿ったものとしてイャノバの人形は焼却が見送られていた。その一方で、イャノバの無鉄砲な性格を直すには人形を焼くべきではと、祭事を預かる巫女へ進言する者たちもあるのだが。

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