第七話の7
死なないとは、イャノバは物質的な状態のみのことを言っているのではなかった。肉体は滅びても魂は天の星となって輝くのだと考えていた。自分はこの戦いを通して英霊となるからだ。
イャノバは立ち上がり、レッドカイザーを空へと掲げた。
「アキノバ」
心の準備はもとより済んでいる。力はいつでも降ろしてよいうという意思表示だった。レッドカイザーは、それに答えた。
『いいだろう、私はアキノバだ』そう自分で名乗って、胸のどこかに棘が刺さったが、正体を探るまもなく違和感は消えた。
いくらイャノバの体に入る分だけだとは言え、上位世界のエーテルには違いない。レッドカイザーは自分の意識の大きさにイャノバの人格が完全に死んでしまうことが分かりきっていた。それでいてなお、この手を使うことになってしまった己の非力さを嘆きながら。
『現界』
力が流れ込んでくる。人形を通してイャノバの体まで暗黒色に染まり、一体化して巨大に拡張されていく。
巨人は今、人が白い鎧をまとった姿で大森林に立っていた。どこまでも続く樹海の中から突き出して、神獣と対峙する。
『……なんだと』
そしてレッドカイザーは、困惑していた。
『うわあ! すごい! おれたちの森が、こんなに! それに、力だ、どんどん漲ってきて、これなら負けない!』
イャノバがいる。一つの体に二つの意識が同居している。そのうえ、体を動かす権利はイャノバに委ねられていた。何がどうしてこうなったのかは分からないが、これもまた認知境界のせいなのだろうとアタリはつけた。
起きたことは起きたこととして、レッドカイザーは自分のできることを確認した。エーテルの操作はできる。周囲の状況の把握もできる。試してみて、イャノバとの意思疎通も可能だと分かった。
『イャノバ、神獣を倒すには胸を貫くしかないが、そのためには力を一箇所に集める必要がある。しかし、その瞬間この体は無防備になる。そこに一撃でも食らってみろ』
『ああ、任された!』
神獣はとっくに白い巨人のアキノバに気づいていて、ゆっくりと歩み寄って来ているところだった。イャノバは駆け寄ろうとして、両足を一度に地面から離してしまった。空気抵抗を無効にした状態のアキノバはすとんと地に落ち、動きの呼吸を乱され、大きく姿勢を崩して跪いた。
『な、何だいまの感じ』
『動く時は片足でも地につけろ、跳躍する時は離す時は重力などを切るから合図をくれ』
『む、むずかしいな』
イャノバは今度に慎重に動いた。呆れるほどゆっくりと動いて神獣に肉薄し、そのまま先手を許した。衝撃が来る、とレッドカイザーはこころで身構えた。が、イャノバは寸胸を反らして横薙ぎをかわした。突くような打撃は半身になって、牽制を交えた攻撃すらもほとんどその場を動かずにやり過ごす。
だんだんと勝手が掴めてきたのか、イャノバは怪獣の周囲を回るようになった。試しに反撃をしてみて、見えない鎧が依然障害として存在することを知る。
先程レッドカイザー単騎で挑んた時は、だんだんと動きの癖を読まれ、鈍重な相手ながらも紙一重でようやくかわすような場面もあったが、イャノバはまるで呼吸を読ませない。デタラメにくねくねと体を動かしているようで、目線は決して相手から離さない。
(凄まじい、天性の運動勘だ。この体は生身とはだいぶ勝手が違うはずなのに、もうモノにしつつある)
加えて胆力だ。神獣を欠片も恐れない、攻撃すること、傷つけることも恐れない。
(私には、これが守るべきエーテルの生命のひとつだという情があったのかも知れない)
イャノバの操るアキノバの動きはどんどん素早くなっていき、神獣はすでに振り向くことすら間に合わない。
頃合いだった。
『イャノバ、右手に力を溜める』
『動きは!』
『そのまま動き続けて問題ない!』
今この体にはそれができる余裕があった。イャノバは綽々としているが、レッドカイザーは肝を冷やす思いでエーテルを右手に集中させる。
イャノバは直前、器用にも上体だけで右へ行くような動きをした。それから素早く膝から身を屈め、立ち上がりながら左脇を抜けた。神獣の視点からでは、巨人が突然消えたように見えたはずだった。
イャノバは怪獣の背中を完全に捉え、拳を突き入れた。空気の鎧はもとより無いかの如く、硬質に見える肌は水よりも容易く、白い拳を受け入れた。
『とった!』
『よし、離れろっ』
レッドカイザーの支持に従ってイャノバが手を引き抜く。見えない鎧を作っていた大気が、穴から一度に抜け出すようにアキノバへ吹き付けた。目には見えないそれが、レッドカイザーにはエーテルが噴き出したように見えた。
『イャノバ!』
危機を感じて両手で顔面を覆うイャノバだが、エーテルの噴射は瞬く間に劣化して至近距離のアキノバにすら届かない。
イャノバは防御をわずかに下げて様子を見た。
怪獣が振り返り際に大きく腕を振って襲いかかってきていた。レッドカイザーは声も出せなかった。なんというやつ! なんという生存能力! 急所を穿たれているのに、まだ動くか! エーテルの出力再調整まで、あとわずかに間に合わない。
イャノバは怪獣の置き土産を完璧にはかわしきれなかった。左頬に傷が一筋入る。そして体を捻った勢いを使って、白い巨人は再び拳を振りかぶった。直後、神獣の体は崩れ、土と樹木とに還り、アキノバの最後の一撃は空を切るのみに終わった。
イャノバは神獣の朽ちた土砂に手を添えながら、何事かつぶやいた。
「大いなるものよ、我が試練の遂げたる証人として、天に斯く安らかにのぼり給え」
それから木を背に座って、自分の成したげたものを見上げた。
『すまないな、傷が残った』
人形とイャノバには頬の同じ部分に同じ形の傷ができていた。現界中に負った傷は、現界を解いても戻らない。
「いや、戦いで得た傷は誇りだ。それも、こんな神獣を倒したんだからな」
空はすっきりと青かった。風も優しくそよいだ。神獣のこんもりとした亡骸に、どこからか飛んできた鳥が止まった。
「なあ、アキノバはもう帰るのか」
『帰るが、また神獣が出ればまたここへ来る。君には、この器を守ってもらわないとな』
イャノバは素早く身を起こした。
「試練は終わりじゃないのか! 神獣はまた来るのか」
『ああ。そしておそらく君には、そのたびに戦ってもらうことになる。いいかな』
イャノバは少し考えてから言った。
「神獣は全部でどれくらいいる?」
『分からん。だが、この森の木よりも多いだろう』
「そ、そんなに……でも、それを全部倒せば、おれはきっと今までにないほど強い英霊として認められるよな。天界で、あんたより強く光る星にしてもらえる。それなら悪い話じゃないな」
『そうか、それなら助かる』
イャノバには悪いが、レッドカイザーはそのほうがやる気が出るならそれでいいと思った。自分の真の名を明かす必要はないと思ったし、なぜ神獣が襲ってくるのか、その理由も曖昧なままにしておいていいだろうと考えた。本当のことを洗いざらい吐いてしまって、ことが息子の面子のために茶番を演じているなどとバレようものなら笑い事で済まない。
『よろしく、イャノバ』
「よろしく、アキノバ」
レッドカイザーは自分はこれから、"アキノバ"として戦うのだと決めた。その名で戦うことについては、偽りはないはずだった。
それなのになぜか、アキノバと呼ばれるたび、はるかな昔に消えたはずの古い記憶が、ちくりと痛むような覚えがあった。
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