第六話の3

 高級なベッドの柔らかさに包まれながら目を覚ましたアキは、洗面台で顔を洗い歯を磨く。

 寒気を覚えたので、備え付けの小さなキッチンでお湯を沸かし即席のココアを淹れた。リビングのソファに座ると、ジローのおいていったグラスはなくなっている。アキはそんなことに一々気をかけたりしなかった。

 アキは明かりもつけず、しばらく湯気の立つココアをついばむように飲んでいた。規則的に動いていたカップを止めて、少し考えるような間があった後、アキは口を開いた。

「テレビ、オン」

 壁に埋め込まれたモニターが点灯し、電波放送されている番組が映った。かつて十以上あったチャンネルは、今は四つしか番組が流れていない。

 番組はいずれも暗い内容のものだった。怪獣災害で家を失った人や、これからの被害を恐れる人たちが口々に国家や現状に不満を言う。赤い巨人をただの個人が所有しているという噂にも触れ、アキの名が出る。番組のキャスターも、インタビューを受ける人間も、誰もアキの姿を見たことがない。しかし怪獣教の流布した言説は真実であると民衆に受け入れられ、中にはジローまで辿り着いた者もいる。

 アキのいる施設の映像が映った。一見ただのオフィスビルだが、大勢の人間が二つある出入り口を囲って何か声を上げている。

 警察署を除いた国の建造物は、この街には片手で数えられるほどしかない。その全てに人だかりができて、時に関係者以外立ち入り厳禁である内部へ侵入しようと試みるわけだ。怪獣対策本部としての基地機能はアキのいるビルにしかないが、包囲されている全ての建物に武装した警備要員が詰めている。

 基地の前で声を上げているのは海外の人間だけではない。アキの国の人間も大勢いる。わざわざ街の外からやってきて、治安が底に沈んだ人波に競って加わっている。その多くは国に赤い巨人の正体について分かっていることを明らかにしろと訴えているわけだが、直接アキとの面会を望む者も多い。

 自称、親戚たちである。中には肉親であると言う者までいる。顔も知らないのにどうやって身内だと判別したのかと、ジローはいつも鼻で笑っている。

 アキはぼうっとテレビに映る人ごみを見ながら、ユイのこと考えていた。ユイは今頃、どこで何をしているんだろうかと。

 ユイがあの人ごみの中にいたらと思う。ユイが、アキの友人だと言って保護を願い出れば、アキはどれほど救われた気分になるだろうか。いずれ怪獣にもたらされる終末の恐怖に耐えきれなくなって自分を頼りに来るはずだという願望は、実際はほんのわずかで、そんなことは決してないだろうと分かっていた。

 アキはユイと初めて会った日のことを思い出した。確か春で、アキは校庭でユイとぶつかった。人の心を深くまで見通すような大きな目を、今でも思い出せた。

 その日に最初の怪獣災害があって、一週間後学校で再会する。縄跳びを持って伸びをするユイの健やかさにアキは惚れ惚れとした。初めて女性を意識した瞬間だった。

 三度目の怪獣襲撃の折り、ユイはアキの両親共々死んだものと思った。

 それから五年後再会し、怪獣教に攫われた。

 そして今七年が経った。

 カップにひびが入る。

 怪獣がアキとユイを離れ離れにし、怪獣を崇拝するものたちによってそれは決定的となった。

 怪獣だ、すべて。怪獣さえいなければ、アキとユイは平和に、あの学校で少しずつ仲良くなれたかもしれなかった。一つ上のユイの中学に自分も追いかけるように入って、高校も同じところを目指し、大学に入るまでに恋人となることだって願えたはずだった。

 アキはユイの肌の柔らかさを知らない、唇の瑞々しさも知らない。それらに触れて愛おしむはずだったこの手は、今怪獣を殺すためだけにある。

 膨れ上がった感情が抑えきれなくなり、アキは液体の漏れるカップをフロアに叩きつけた。

 すべて自分が選んだもののはずだった。正義感から選択した道は、アキの望んだものを何か一つでも与えてくれたことはなかった。

 血走った目で壁のテレビモニターを見た。命をかけて戦って、人を救って、その報酬がそれだった。感謝ではなく、多くの憎しみの矛先が自分に向けられている。

 ジロー! 親代わりをやっているつもりのようだが、甚だ不愉快だった。かつて感謝した彼のことだが、ユイをみすみす手放したことは未だ許せていない。そんな男が、最大の理解者だという面で歩み寄って来る。アキにはいい加減耐え難かった。自分の本名だって明かせないくせに。

 極めつけは、ジローはユイを見殺しにする気だ。地下都市計画が完遂し、地上を見捨てるときが来たとき、ジローはユイを地下都市に入れないだろう。アキとの再会を恐れるゆえにだ。アキを制御可能なコマとして見ている間のジローは常に上機嫌だった。ユイと言う不確定因子を、ジローはもう歓迎しない。

 そう思い込んで、アキは体が徐々に熱を帯びていくのを実感した。この感覚はかつて二度経験したことがある。アキの内にある、レッドカイザーのエーテルが成長する感覚だ。こうなると感情の制御は難しいが、もうどうだっていい。

 つい数分前まで暗く沈んでいたアキの目には今、超新星の光が灯っていた。

 自分の命のすべてを使ってでもユイを救って見せるという、破滅の意思だ。

 心を薪に育った炎の力があれば、願うことは何でも叶うように思えた。

 これまで何も上手くいかなかったぶんの清算が今ようやく行われる確信が、凶暴な熱塊へと変わり、それが強力な動力源を生み出してアキの体を操り出した。テーブルの上に置いてあるままのレッドカイザーをひったくるように掴み上げると、部屋を飛び出す。セキュリティのかかっている防護扉を圧倒的な膂力でこじ開けると、非常階段を駆け上った。警備システムが異常を検知してアラームを鳴らす。熱源が階段に検知され、スプリンクラーが作動する。身にかかった水分を瞬く間に蒸発させながら、真っ赤なランプが明滅する階段を地下二十階から地上階まで一息で駆け抜けた。途中に二か所あったセキュリティドアは勢いのままに破壊した。

 地上階にある最後のセキュリティドアを蹴破って、アキはフロントへと進んだ。

 通路の入り口部分に四人の警備要員が重装備に盾と火器を持っている。彼らはアラームが鳴っていたために屋内側を向いていたのだが、アキが出てくると表情が凍り付いた。陽炎を纏い早足に歩み寄って来るアキに道を開けながら、無線を飛ばす。相手はジローだろうが、アキにはもうどうでもいいことだった。

 アキは外に出た。

 冬の曇天が陽光に淡い影を作っていた。

 建物の外には階段部分に十二人の警備要員がいて、二段構えで外の喧騒を押さえつけるような圧を放っていたが、連絡があったのか早々に後列の五人がアキに気付いて道を開けた。

 階段を降りて、警備隊の前列があけた空間を素通りする。フェイスカバーとシールドで身を守った警備隊に群衆の最前列でがなり立てていた異国の男は、アキの異様な姿を見て後ずさった。アキは少しの躊躇も遠慮もなく群衆に歩み入った。

 人ごみが避けてぽっかり空いた穴の中を、ぽつんとアキが歩いていく。上から見ると、巨大な生物の体を小さな目が横切っていくようにも見えた。

 喧騒は徐々に鎮まっていった。

 アキが立ち止まると、周囲の人々は彼から逃れるようにさらに身を引いていった。厚着をした人々の中央に佇むアキは薄いシャツを着ているだけだが、少しの寒々しさもない。人々が白い息を吐きながら、アキは全身から蒸気を淡く発していた。

 右手に持ったレッドカイザーを高々と掲げて、アキは目を目開いた。

「来い」

 今ならできる、今ならすべてが思うようにできる。

「来い、レッドカイザー」

 魂に浸みた力を右腕に集め、器を依り代にレッドカイザーを呼び出すことなど、造作もない。

「来い! レッドカイザー!」

 その力は目に見えないはずだった。ただ、巨大な熱量の変化が大気に流れを生み出し、アキを中心に風が逆巻いていた。髪が立ち上がり、一心不乱に念じる姿は、神話に語られる神々しさと恐ろしさがあった。

「来いッ!!!」

 胸の奥で炎が鼓動した。

 今、玩具に上位世界の戦士の魂が宿り、手のひらの中で熱を持っていた。輝く金色の双眸を修羅もかくやの眼光で照らしながら、アキは叫んだ。

「レッドカイザーッ! 現界ッ!!」

 玩具が漆黒に染まりアキの体を侵食する。

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