彼女で恋愛練習中

木根間鉄男

第1話プロローグ&第一話 ―エンコー少女―

―プロローグ マンガみたいな恋に憧れて―


 私は子供の頃からマンガをよく読んでいた。

 共働きの両親。学校が終われば、母親が働く喫茶店で仕事が終わるまでマンガを読んで時間を潰していた。

 その喫茶店には色々なマンガがあったが、私が特に好きだったのは恋愛モノの少女マンガだ。

 普通の女の子が運命の男の子に出会い、キラキラした恋の世界に魅了されていく、そんな物語。

 いつか私もそんな恋がしてみたい。ずっと思っていた。

 だがマンガを読みすぎた私には、現実の男の子が魅力的に見えない。

 どこかマンガのキャラクターと比べてしまう。スポーツができなかったり、幼稚だったり、その他諸々。

 キラキラした王子様みたいな男の子がいつか目の前に現れてくれないか、そう思い続けて成長していく。いや、拗らせていく

 そうして高校生になった今も彼氏はいない。

 高校に入ればいい人が現れる、そう思いながら日々を消化していたというのに。

 けれどそんな私にも恋は舞い降りた。だがそれは、マンガよりも奇妙で波乱万丈になるとは今の私はまだ知らない。


―第一話 エンコー少女―


 私のお父さんが死んだ。秋も暮れ始める10月1日のことだ。

「お父さん……」

 私、河野菜々こうのななは葬式場のトイレでポツリ、呟いた。

 溢れ出してきそうな涙を、顔を洗って無理やり押し込める。

 ハンカチで顔を拭き、鏡の自分を睨む。自分のメガネの輝きが反射して、表情が読めない。

 私はハンカチをポケットにねじ込み、式場に戻る。

「まだ若かったのにね」

「事故だったらしいな」

「スピード違反の車を追いかけの事故だって。正義さんらしいよ」

 私の父、河野こうの正義まさよしは警察官で、自慢の父親だった。

「お子さん、まだ学生なのにね」

「娘が高2で、息子が中3だったかな」

「あぁ。それに奥さんは病弱だって話を聞いたことがある」

 葬式にはお父さんの人望の厚さを表しているかのように、人が大勢集まった。

 友達や同僚の人たち、けれど一番来てほしい人は来てくれていない。

「お母さん。おじいちゃん、やっぱり来てないよ」

「そう……ありがとうね、菜々ちゃん」

 式場の入口でイスに座る母、河野こうの晴美はるみが、私の手をぎゅっと握る。

 肉付きがあまりよくない痩せた、それでいて冷たい手を私は握り返した。

 大丈夫、そうお母さんに言い聞かせるみたいに。

「菜々ちゃん。直樹なおきと一緒に席に座ってなさい。お母さんはおじさんとお話があるから」

 わかった、と返事をして弟の直樹の手を取り、席に着く。

 席でぼぉっとしていると、遺影のお父さんと目が合い、とっさに視線を逸らす。

 正義感が強く、優しかったお父さん。その瞳を、たとえ写真越しでも見ていると楽しかった日を思い出してしまいそうで、目を逸らしたのだ。

「えっ!? 借金、ですか……?」

「あぁ、困ってるのはわかってるんだけどさ、ほら、兄さんはさ、駆け落ちした手前もあるし。俺もあんまり爺さんには顔が上がらなくて……少しだけ、貸してくれないかな?」

 お母さんとおじさんが会話しているのが聞こえてきた。

「姉ちゃん、あれ、絶対父さんの保険金持ってこうとしてるぜ」

 直樹がさぞくだらなさそうにそう呟く。

 彼は刈り上げた頭部をポリポリと掻くと、眠たそうにあくびを漏らした。

「直樹、お父さんのお葬式よ。しゃんとしなさい」

「わかってるけどさ、でもなんか実感ないし。ここにいる人たちほんとに父さんのこと思ってきてるのかもわかんないし」

 私は辺りを見渡す。誰も彼もお父さんの話をしているが、その表情は楽しそうだ。

 まるで何かのパーティーに来ているかのような感じだ。

 取り残された不幸な妻子を、まるで檻に入った珍獣を見るかのような目で見ているように思える。

「そうですか……でも、お金を渡せば、もう一度お義父さんと掛け合ってくれるんですよね?」

「任せてください。晴美さんに頼れるのはもう爺さんしかいないんですよね? 大丈夫、爺さんへの借金返したら、そのことも取り合ってあげますから」

「えぇ。私の両親も亡くなっていて、私自身も体があまり強くなくて働くのも……ですから本当にお義父さんだけが頼りで」

「あ~あ、姉ちゃん。やっぱ保険金、持ってかれたな。俺たち、この後どうなんだろうな?」

 直樹の言葉が終わると同時、式が始まるアナウンスが響いた。

 そこからはあっという間で、気付けばお父さんは骨ともわからない灰になっていた。

 それを親族順番で骨壺に収め、家へと持って帰った。

 あの大きかった父がこんな小さな箱に込められているなんて、私は少しだけ、寂しくなった。


「ねぇ、これからどうしたらいいのかな?」

「ん? まぁ、そりゃ働くしかないんじゃないかな?」

「だよね……」

 朝、私立百合ヶ咲高校の2年4組。開け放った窓からは冷たく乾いた風が吹き込み、髪を撫ぜた。

 風は私の髪だけでなく、親友の高瀬たかせ佳織かおりの髪も撫で上げ、彼女は鬱陶し気に髪を押さえる。

「ま、菜々の性格だと働くのってかなり難しいよね。人に媚びたりするの苦手でしょ?」

「そうなんだよねぇ……」

 私は昔から人の顔色を窺って行動したり、自分が好かれるように行動したり、そういうことが苦手だ。

 自分の考えを曲げようとすると吐き気がして気持ち悪くなる。かといって自分の考えを通したり、正直に話したりすると周りから孤立したりする。

 そもそもこんな性格にしたのは死んだお父さんだ。

『どんなことがあっても自分の信念を曲げるな。それがたとえ間違ったことでも、自分が正しいと思うなら最後まで貫き通せ。そして結果を受け入れろ』

 これがお父さんの言葉だ。昔の自分に耳が腐るのではないかと思えるほど言われた言葉。

 そのせいで私の性格は今に至る。

 こんな偏屈な自分を変えたいと思ってはいるが、きっかけがない。

「自分の性格変えるいいきっかけじゃない?」

 見透かしたみたいに佳織が言う。幼稚園から私の親友でいてくれる彼女には隠し事が通用しないようだ。

「う~ん……でもなぁ……佳織みたいにコンビニで働くってのも難しそう。タバコ買うときに偉そうに銘柄だけ言う奴とか毎日コンビニ弁当買って帰る悲しいリーマンとか、私嫌いなんだよね」

「そうだと思った。工事現場とかは?」

「無理。土方のおっさんとか絶対私合わない」

「事務仕事は?」

「電話対応あるところ多いよね。あぁいうのもダメ」

「無理とかダメとか言ってると何にもできないよ。ほら、タウンワーク。コンビニでもらってきてあげた」

 私はそれをぺらぺらとめくってみる。が、どこも働いてみたい、と思えるような場所ではない。

 アットホームな職場です、とか、情熱は他社より負けてません、とかの字面を見ただけでムカついてきた。

「家族のためって思ったら我慢できない? だって働きたいって思ったのって、家族のためなんでしょ?」

「そ、そうだけど……」

 お母さんは体が弱い。月に2~3回は風邪で寝込んでしまうし、長時間の立ち仕事も難しい。

 そんなお母さんが私たちのために働こうとしている。私はそんなお母さんの助けになりたいのだ。

 保険金はおじさんが持って行ってしまった。貯金もいつまでも続かない。だから働かなければ。

「そもそもこんな時に私たちを助けてくれないおじいちゃんって何なの」

「おじいちゃん?」

「そう。お父さんのほうのおじいちゃん。なんか田舎のお金持ちらしいの。でもお父さんが許婚の人じゃなくてお母さんを選んで駆け落ちしたから絶縁だって言って縁切っちゃったって」

「そんなこと、今の日本でほんとにあるとは……」

「私もびっくりだよ。こんなのマンガじゃんって話聞いた時思ったけどね。でも残念ながら現実」

 私は小さく自嘲気味に笑った。だが佳織は笑えず、私から逃れるみたいにちらりと時計を窺った。

「そっか……っとそろそろ授業始まるよ?」

 佳織が時刻を見て言う。自分の席に戻らねば、そう思った時だった。

「やばっ! 遅刻ギリセーフ!」

 と、教室に飛び込んできた者が。

 金髪のセミロングに、ピアスを開けた耳、化粧の施された顔、着崩した制服、まさしくギャルというべき彼女は七海雪乃ななみゆきの

 彼女は急いで自分の席にカバンを置いたが、勢いが強すぎて中身を床へぶちまけてしまう。

 カバンの中にはおしゃれに疎い私でもわかる高級メーカーの化粧品や、ブランド物の財布やアクセサリーが詰められていた。

 彼女はせかせかとそれをカバンに戻していく。誰もそれを助けずに、ただ見ているだけ。

 それはそうだ、あんな浮いたギャルには関わりたくない。

「はぁ……エンコーってやっぱ稼げるんだ……」

 ぽつり、佳織はそう言ったが、ハッと口をつぐんだ。私に聞かれたくなかったのだろうが、ばっちり聞いてしまった。

「エンコーか……」

 男に股を開いてお金を貰うだけ。金で女の子を買うような男は嫌いだけれど、貰える額が大きい分我慢もできるかもしれない。

「菜々? 悪いことは言わないから、それだけはやめておいたほうがいいよ」

「まぁ、最終手段ってことにしといてあげる」

 私は自分の席へ向かう。カバンの中身を戻している七海さんの隣を通り過ぎて。

 その瞬間フワッと香ったのは、百合の花の匂いだった。


「うぅむ……エンコーか……」

 結局私は放課後まで悩んでしまった。一人悩みながら廊下を歩く。

 これなら大金を稼げる。しかし私は男の子と付き合ったこともない。

 そんな私ができるだろうか。

 それに危険と隣り合わせでもある。何かの事件に巻き込まれたり、変な病気をもらったりでもしたらお母さんが悲しむだろう。

「でもお金も欲しいし……どうしたものか……」

 と、目の前に七海さんが現れた。彼女はぼけぇっとスマホを見ながら歩き、私のことなど気にも留めていない。

 彼女を見ると、私の中にある考えがよぎった。

 経験者にどういうものか聞けばいいではないか、と。

「あの、七海さん」

 考える前に言葉が出ていた。彼女がスマホから顔を上げ、私の顔を覗き込む。

 メイクのせいだろうか、ぱっちりとした瞳と目が合い、吸い込まれてしまいそう。

「七海さん……えっと……その……」

 いきなりエンコーの仕方を教えてくれ、というのもおかしな話だ。私は珍しく口篭もってしまう。

「あたしに用でもあるの? えっと……ごめん、誰だっけ? 同じクラスってのは覚えてるんだけど」

「あ、私は河野菜々」

「河野さん? あたしに用? あたし、今から彼氏と遊びに行くから忙しいんだけど」

 次第に七海さんが不機嫌になっていく。

 今が彼女と二人きりの時、もしかしたらこの先訪れないかもしれない。

「私、七海さんに聞きたいことがあるの」

「だから何よ? 早く言ってよね」

 それにうだうだ考えるより先に口が出るのが私の悪いところでもあり、良いところでもある。

 言うぞ、と決めたら自然と口が動いていた。

「エンコーの仕方、教えてよ」

 とたん、空気が冷えついた。それは秋の寒気ではなく、七海さんが発した空気によってだ。

「あのさ、あたしにそんなこと聞いてどうするのよ? バカにしてるの? それとも何? あたしを見下してる?」

「違うよ! そんなんじゃなくて、本気で!」

 私は手をぶんぶんと横に振ったが、彼女は訝しげに表情を歪めた。

「本気で聞いてどうするのよ?」

「頼む立場だし、隠さずに言うよ。私はエンコーしてみたい」

「……」

 とたん訪れる沈黙。何を言っているんだ、と言いたげに七海さんの表情が固まる。

 が、彼女の表情が次第に崩れていき、そして決壊したダムのごとく笑いが溢れ出した。

「うっそ! あんたが! エンコー!? クラスでいたなぁってくらい存在感もないあんたが、エンコー!? あー、おなか痛い!」

 そんなに笑うことだろうか。今度は私が表情をむっとさせる番だ。

「あはは! あー、おかしい!」

「そんなに笑わなくてもいいよね」

 わざと不機嫌にそう言うと、七海さんは目じりの涙を指で掬い、何とか笑いをこらえる。

「ごめんごめん。おかしくって。で、エンコーだっけ? やめたほうがいいよ、向いてないと思うし」

 あっけらかんとそう言った彼女に、さらに腹が立った。

「なんで向いてないって思うの?」

「だってあんた、処女でしょ?」

 彼女はまた堪え切れない、とばかりに笑いを溢した。

 男経験がないことをバカにされ、私は怒りの他に少量の羞恥で顔が熱くなるのを感じる。

「わ、わからないよ! 私だって男の子と付き合ったり」

 言葉を全て言う前に七海さんは、嘘、と言って遮った。

「あんたみたいな子が男の子と付き合ったことあるわけないじゃん。そもそも人を好きになったことすらないって感じ。そんな子がエンコーって、後悔するよ。これはマジ。あたしは善意で言ってるの」

 彼女は私に諦めさせるべくわざとそんな嫌な事を言ったのか、いや、あの笑みはわざとではないだろうな。

 とにかく彼女は私が後悔すると思っているようだ。しかし違う。

「私は、覚悟がある」

 私はじっと七海さんの瞳を見つめた。覚悟を伝えるために。

 長いまつ毛の彼女の瞳が私を見返す。試すように。

 そうしてお互い見つめあったのは一体どれくらいの時間だろうか。

 5秒くらいか、1分くらいか、はたまた1時間か。

 体感時間が狂うくらい瞳が交わり、彼女はふぅ、と溜め息を吐いた。

「わかった、その覚悟、あたしに見せてよ」

 七海さんは口元に怪しい三日月を作り、私を図書室へ連れて行った。


 放課後の図書室は閑散とし、ひっそりとしていた。

 普段ならテスト勉強をする生徒もいるが、テストはつい先週終わった。

 カビと埃が混じった独特の匂いが鼻孔をくすぐる。

「う~ん、誰もいないかなぁ?」

「図書委員の子がいると思うけど」

「あ、でも本読んでてこっちに気付いてないや」

 図書室には窓口で本を読んでいる図書委員しかいない。

 七海さんは私の手を引き、図書室の奥へ連れていく。そこは窓口からも死角になっているところ。

 窓の光も当たらずひっそりと影になっており、どこか冷たい印象がある。

「七海さん、覚悟を見せてって言ったけど、ここで何をするの?」

「ん? 練習」

「練習? なんの?」

「エンコー」

 そう言って彼女は私の身体を本棚へ押し付けた。

 私より目線一つ小さい七海さんは少し背伸びして、私に視線を合わせてきた。

 マンガでさんざん見た壁ドンを、今、私は体験している。

「え!? ちょっと七海さん!?」

「静かに。バレちゃうよ」

「いや、でも!」

「あの~、誰かいるんですか?」

 案の定図書委員の子に気付かれてしまう。

 こんな光景を見られると変な噂が立ちかねない。

 どうするの、と七海さんに視線を送ると、彼女は口の前で人差し指を立てた。

「ここは死角だから向こうからは見えないよ」

 かつかつ、と足音が近づいてくる。

 それと同時に私の心音も跳ね上がる。彼女は一体どうするのか。

「ごめんなさい、本を取ろうとしたら落としちゃって」

 と、七海さんが言う。

 すると足音が止まった。

「次から気をつけるから」

「わかりました。あと、司書室に脚立があるので、取りにくい本があったら言ってくださいね」

「わかった、ありがとね」

 足音が次第に遠ざかる。

 私はほっと胸を撫で下ろした。が、気付く。

 まだ壁ドンされているままだった、と。

「ちょろかったね、あの子」

 こっそりと七海さんは言う。私もそれに倣って小声で話す。

「そんなことより、なんでこんなことするの?」

「え? そりゃ練習だからに決まってるでしょ」

 七海さんがグイっと顔を近付けてきた。

 その瞬間漂ってくる彼女の香り。

 百合の花と石鹸の爽やかな良い匂いだ。

「覚悟、あるんでしょ?」

 彼女の真っ黒の瞳に、困惑顔を浮かべた私が映っている。

 七海さんは女の子だ。けれどこんなシチュエーションでドキリとしている私がいる。

「ほら、だから……」

 彼女の顔が次第に近付いてきて、距離はやがて0になる。

「!?」

 唇に柔らかな感触がある。

 キスをされた、そう理解した瞬間だった、彼女の舌が私の口内に入り込んできた。

 七海さんの舌が無理やり私の舌に絡みつく。

 初めてのことに私は息をすることも、唾液を飲むこともできない。

 口の端から垂れた唾液がつつぅと喉元を垂れていくが、不快という感情は彼女のキスによって掻き消されている。

「むぐっ……んちゅ……れろぉ……ちゅ……」

 頭が破裂しそうな感覚。七海さんの舌で脳の奥までいじられているような、そんな感覚だ。

 抵抗する力も湧き起らない。気が付けば私は彼女に身の全てを預けていた。

(あ、甘い……七海さんのキスって、甘いんだ……)

 そうすることで体の不快は消え、あとは純粋に彼女のみが残る。

 バニラのような甘くて蕩けるキスが、やけに心地よい。

 七海さんは女の子なのに、という理解はとうに頭から消えていた。

「ちゅる……ちゅぷ……ぷはぁ……どうだった?」

 いったいどれだけキスされていたのだろうか。彼女の顔が私から離れていく。

 けれど、べろぉと犬のように垂れた七海さんの舌に、離れたくないとでもいうように私の唾液が絡みついていた。

 が、それも切れ、地面に小さな染みを作る。

「はぁ……はぁ……」

 私は久しぶりに空気を吸った。頭がパンクしてうまく呼吸できず、脳に酸素が行き渡るまでに時間がかかった。

「こんなの初めてって顔してる。やっぱり男経験なかったんだ」

 意地悪げに笑う七海さんの顔が、やけに可愛らしく見えた。

 頭に次第に酸素が行き渡り、理性がだんだんと戻ってくる。それと同時に恥ずかしさも戻ってきた。

「わ、私……私……」

「ん? どうしたの?」

「私、帰る!」

「あ、ちょっと!」

 七海さんに大変なことをされてしまった。

 私は逃げるように図書室から出る。

 一刻も早く彼女から離れたい、その一心で駆け、気が付けば私は自分の家の前にいた。

「あ、カバン忘れた」

 図書室にカバンを置いてきたと気付いたのは、その時だった。


「ただいま」

「あら、お帰りなさい。どうしたの、そんなに汗かいて」

 お母さんに言われて自分の額に汗が滲んでいることに気付いた。汗でシャツも張り付いて不快だ。

「えっと……寒かったから走って帰ってきた」

「そう。風邪ひかないように早く着替えちゃいなさい」

「わかった」

「あ、菜々ちゃん。帰ってきてすぐで悪いんだけど、洗濯物取り込んでおいてくれる?」

 私はわかった、と返事をし、いったん自室へ。

 湿った服を着替えベランダへ行き、洗濯物を片付ける。

 服を畳んでいると、お母さんが隣に座った。

「ありがとね、お母さんも手伝うわ」

「いいよ、私一人で。お母さん、今日も夜お仕事でしょ? 休んでなよ」

「その気持ちだけで十分よ。それに……動いてないといろいろ思い出しちゃうのよ」

 お母さんは遠い目でお父さんの遺影を見る。

 その瞳には涙が浮かび始めていたので、私は話を変えることに。

「それにしても、直樹の奴、ユニフォームいつもドロドロにして帰ってくるよね。洗濯してる私の身にもなってほしいな」

 直樹は野球部に所属している。そのユニフォームは補欠だと言うのにいつもドロドロだ。

「甲子園に出るって今から頑張ってるのよ。応援してあげなさい」

「応援って言われても……」

 私は純粋に直樹を応援することができない、お父さんが死んでからは。

 野球を続けるにもお金がいる。ユニフォームやグローブのような備品を買うにはお金がかかるし、消耗品も多い。

 それにいい設備のある学校に行こうと思ったら学費もかかるわけで、今の生活では苦しいところがある。

「菜々ちゃん、お金のこと考えてるでしょ?」

 お母さんに見透かされて、視線を少し落とした。

「大丈夫よ、お金は何とかするわ。おじさんもおじいちゃんに掛け合ってくれるって言ってたし」

 そんなこと本当に信じてるの? 私は言いかけた言葉を飲み込んだ。

 お母さんの心はお父さんが死んで弱っている、なのにそんなことを言えるほど私は悪い娘ではない。

 今はまだ言うべきではない。私はギュッと拳を握り、耐える。

「菜々ちゃんは何も心配いらないの。自分の好きなことを精一杯やりなさい」

「お母さん……」

(ごめんね、お母さん。私のやりたいことは、お金を稼いでお母さんを楽にさせてあげること。お母さんのために私は頑張りたいの)

 お母さんは困った時にいつもそばにいた。

 悲しい時にはおいしいご飯を作ってくれたりした。

 家族として当然のことだと言われるかもしれない。

 けれど私もお母さんを助けるために、家族として当然のことをしたいと思っている。

 たとえやり方が間違っていたとしても、結果が伴えばいいのだ。

「そうだね、私、精一杯やるよ」

 そう、まだ始まったばかりではないか。

 七海さんにキスされただけで揺らぐ覚悟ではない。

 私は家族のために行動しているのだから。

(けどなんで……なんで胸がもやっとするの?)

 思い出された柔らかな唇の感触と、百合の香り。

 私はそれを振り払うべく、頭を振って洗濯物を畳むことに集中する。

 何とかあの感触は消え去ったが、胸の奥に、まるで胸焼けでもしているかのように残る重いもやもや。それは消えることはなかった。


 翌日の朝、教室には昨日よりも冷たい風が吹き込んでいた。

「河野さん、これ、昨日忘れてたよ」

 私が席に着くなり、見計らったように七海さんがやってきた。

 彼女は私のカバンを差し出す。

「ありがとう」

 私がそれに手を伸ばすと、七海さんはその手をぎゅっと握り、自分のほうへと引き寄せる。

 また百合の香りだ。

 キスをされる、そう身構えたが彼女は私の耳に顔を近付けてきただけだ。

「河野さんが逃げたから、練習はこれで終わり」

 ゾクゾクと背筋に寒気が走る囁き声だ。

 彼女はフフッと小さく笑い、続ける。

「あんたの覚悟って、その程度だったんだ」

「!?」

 突然耳に何か柔らかなものが触れた。それは七海さんの唇だ。

 耳を彼女の唇が優しく噛んだのだ。

 まるで小動物の赤ちゃんが母親からお乳を飲むかのような口遣いで耳を噛まれる。

 今まで感じたことのない刺激が耳から送られ、私は全身の毛が逆立つような感覚に襲われる。

「や、やめて……七海さ……んっ!」

 思わず声が上ずってしまう。

 吐息が心臓の鼓動と比例して早くなる。クラスの誰かにばれないように口をぎゅっと閉じるが、逃げ場を無くした快感がもどかしく体中を駆け巡った。

「可愛い反応……あ~あ……もっと河野さんに色々教えてあげたかったんだけどなぁ」

 ちゅぷん。耳の中に舌が潜り込んできた。

 スパークが身体を駆け巡ったその瞬間、私は七海さんの身体を突き飛ばしていた。

 彼女は前の座席に捕まり転ぶことはなかったが、クラスの視線は私たちに釘付けになった。

 だがすぐにクラスの視線は散り散りになる。

「はぁはぁ……な、七海さん……」

 七海さんを睨む。が、彼女はそんな私の視線など意にも介さないように笑みを浮かべている。

「痛いなぁ、河野さん。お尻が4つに割れちゃったらどうするの? ってこっわい目。そんなに睨んじゃイヤだなぁ」

 私をバカにして挑発しているのか、それとも単純にからかっているのか。

 そんなことどちらでもいい。私は七海さんに伝えるべきことがあるのだ。

「七海さん、聞いて」

「ん? なにかな?」

「私は」

 彼女のぱっちりとした瞳を睨みつける。そして私は息を大きく吸って、続きを言い放つ。

「私は諦めてないから。ちゃんと覚悟、してるから」

 七海さんは予想外だと言う風に目を丸くしたが、またその顔に笑顔が戻った。

 今度はやけににやけた笑顔だったが。

「諦めてないって何をかな? 昨日あたしがキスしただけで逃げちゃった河野さんにこれ以上練習できるの?」

「私には覚悟があるの。どうしても諦められないね」

「へぇ……じゃあ今日のお昼休み、屋上に来て。取引、してあげるから」

 七海さんはそう言って自分の席へ戻っていった。痛そうにお尻をさすりながら。

「取引って……なんか嫌な予感する……」

 その予感は的中することとなった。


「そうそう、そのままじっとしててね。うん、いいよいいよ! あー、ちょっと腕が下がった! しっかりしてよ!」

「う、うぅ……なんで……」

 なんでだ。

「なんで……私が……」

 私はたまらず叫んだ。

「屋上で下着姿にならなきゃいけないの!」

「あー! だから動かないでって言ってるでしょ! 河野さんは今モデルなの! モデルの自覚、ある!?」

 私はなぜ昼休みの屋上で下着姿になり、七海さんにスケッチされているのだろうか。

 話は数分前に遡る。

「カギ、開いてる……」

 七海さんに呼び出された私は屋上への扉を開く。

 乾いた風が吹き抜けるそこは寒かったが、照る太陽が少し近いせいか我慢できるほどだ。

「やぁやぁ、約束通り来てくれたんだね。ちょっと嬉しいな」

 フェンスに身を任せていた七海さんがこちらに近づいてくる。

「私は約束破る人が嫌いなの。だから私も絶対約束は破らない」

「へぇ。立派なことで」

 七海さんがずいっと顔を近付けて、来て、と言う。

 私は七海さんと共にフェンス際へ。

「よっと。あんたも登ってみなよ。気持ちいいよ」

 七海さんはサルみたいにすらすらとフェンスへ登り、てっぺんに座った。

 私はそんなことできるわけもなく、首を横に振った。

 残念そうな顔を浮かべた彼女だが、すぐに元の表情に戻る。

 まるでダイスの面のように表情がころころと変わるな、なんて思った。

「あたし、この場所が好きなの。すっごい気持ちいいし、街を一望できるし」

 七海さんの見ている光景とは違うが、私にもここから街が見えている。

「どう? あんたはこの街、どう見える?」

「私には、小さく見える。今まで育った街ってこんなにちっぽけだったんだなって」

 よく行くコンビニの看板も、遠くの銭湯の煙突も、並び立つビルも皆等しく小さい。

 私の知る世界はこんなにちっぽけなものだったのだ。

「あたしには大きく見えるな」

「どこが?」

「どこがって難しいな。とにかく全部が! こうやって見てるとさ、あたしが行ったことないところって多いなって。例えば……ほら、あの煙突。あたし、銭湯って行ったことないんだよね、ずっとこの街に住んでるのにさ。他にも街で知らないところがあるし、やっぱり大きいなって」

 私はこの街を俯瞰して見ていた。けれど七海さんはこの街をズームで見ていた。

 それが街の大きさを分ける違いなのだろう。

「で、七海さん。なんで私をここに呼んだの? 取引とか言ってたけど」

「あ、そだったね」

 彼女は慣れた動作でフェンスから降りると、私の肩にがっと手を置いた。

「河野さん。脱いで」

「……今、なんて言ったの? 聞き間違いじゃなければ」

「脱いでって言ったの」

 やっぱりか、私は頭を抱えたくなった。いきなり脱いで、とはどういう了見か。

「脱いでくれなきゃ練習の続きは無し。覚悟、あるんだったよね? なら脱げるよね?」

「ぐぬぬ……」

「あ、大丈夫だよ。別に全裸になれって言ってるわけじゃないから。セーラー服だけだから」

 それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。

 別の条件にしてもらおうかとも思ったが、彼女の目は本気だ。

 譲ってもらえるわけもないだろう。

「河野さん、ほら、脱いで脱いで」

「……わかったわよ! 脱げばいいんでしょ!」

 どのみち、エンコーするからには男の人の前で脱がなければならない。

 その予行練習だと考えれば安いものだ、と思いたい。

 こうして私は下着姿となった。

「ふ~ん……やっぱりあたしの思った通りだ。河野さんってさ、程よくムチっとしてるよね」

「はぁ!?」

 舐めるような七海さんの視線から逃れるように腕で体を隠す。

 だが彼女の手が私の腕を掴み、動かせない。

 予想以上の力だ。

「ほらほら、隠さないで。隠しても続きは無しだから」

「なんなの……」

 隠すこともできず、私は七海さんにじっくりと見られてしまう。

 顔がびっくりするほど熱くなっているのがわかる。頬で目玉焼きができてしまうのではないか、と思えるくらいに。

「身長高いし手足の先は細いのに、太ももと二の腕は肉付きよし、ちょっと運動不足なのかな、ぷにぷに感がある。うんうん、やっぱりあたしの目に狂いはなかった。出るとこはちゃんと出てるし、引っ込むところはちゃんと引っ込んでる。あ、でも思ったよりお尻大きいかも。安産型? それに胸にほくろがあるよ。なんかえっち」

「……言わないで」

 穴が開きそうな七海さんの視線。私はこの時間が早く終われ、と空を仰ぐ。

 空にはのんきに雲が流れているだけ。それを眺めていると余計時間感覚が狂いそうなので、結局七海さんを見ることに。

「ふむふむ。シンプルなピンクの下着も可愛くてポイント高いよ」

 そもそも見せるための下着ではない。それも相まってかなり恥ずかしい。

「七海さん……」

 私は恥ずかしさに耐え、絞り出すように言う。

「なんで私が下着にならなくちゃいけないの……?」

 気が付けば目頭が熱くなっていた。

 そんな私を見て、七海さんはまた意地悪く笑う。

「それはね、スケッチしたいから」

「……もう殺して」

 こうして七海さんのスケッチが始まった、というわけだ。


 ずっとスケッチされていると次第に恥ずかしさが薄まってくる。かといって無くなるわけではないが。

「ふむふむ……ここはこうなってて……あ、ちょっと違うか」

 私をスケッチする七海さんの瞳は真剣そのもの。

 からかったり辱めたりするために私を裸にしたわけではない、とその瞳でわかった。

 だが何のためにスケッチをしているのか。彼女は画家かマンガ家にでもなりたいのか。

「七海さん」

 私の声も届かないほど集中しているのか、彼女は返事がない。

 仕方なく私もポージングに集中することに。

 いったいどれだけの時間がたったのか、気が付けば昼休み終了のチャイムが鳴っていた。

「な、七海さん!」

「ちょっと! もうすぐで完成だから動かないで!」

「でも授業があるから!」

 急いで戻らなければ授業に間に合わない。走って屋上の扉へ。

「河野さん!」

「なに!?」

「服! 忘れてる!」

 私はまた顔が熱くなるのを感じた。

 集中していたせいだろう、今自分の姿がどんなものなのか忘れていた。

「もぅ……河野さんってホント忘れん坊だよね」

「誰のせいよ……」

 セーラー服を着ながら七海さんを睨む。が、彼女はけらけらと笑うのみ。

 私の視線が気にならないのか、それとも私をからかっているのか。

「で、授業行くの?」

「もちろん!」

「そんな顔で? 真っ赤だよ? 温泉に入ってる猿くらい、いや、スパイダーマンくらい真っ赤」

「そんなに赤くない!」

 と、否定するも自分の顔は見えない。顔の熱さは普段以上。彼女の表現は誇張しすぎているにしても、赤いのには変わりないだろう。

「それにさ、お腹、空いたよね。一緒にお昼食べようよ」

 彼女は持ってきていたカバンからお弁当を取り出した。

 お父さんが仕事に持って行っていたような大きな二段弁当だった。

「教室にお弁当置きっぱなしでしょ? 一緒に食べようよ。ほら、おいしそうじゃない? あたしの手作りなんだ」

 パカッと蓋が開けられ、おいしそうな匂いが漂ってくる。

 豚の生姜焼き、卵焼き、ミートボール、ポテトサラダ他にも盛りだくさんだ。

「ひ、一人で食べなよ」

 私はそう言ったが腹の虫が、食べたい、と大きな呻き声をあげる。

 その大きさに、また私は顔が熱くなった。

「いいじゃん。ちょっとくらいさぼっても。ね、お弁当食べよう?」

「……いただきます」

 さぼった授業のノートは佳織に見せてもらおう。

 私はこの日生まれて初めて、授業をさぼることに。

「あ、なかなかおいしい!」

「でしょ? あたし料理には自信あるんだ」

「ま、私ほどじゃないけどね。私はもっとおいしくできる自信あるよ」

「じゃあまた今度食べさせてよね!」

 この時食べたお弁当がおいしかったのは空の下で食べたからか、それとも七海さんと食べたからか。

 もしくは、罪の味なのか。授業をさぼった罪悪感の。


「それでさ、七海さん」

 一緒にお弁当を食べながら彼女に質問した。

「どうして私の裸をスケッチしたの? それって取引と関係ある?」

 彼女はミートボールをひょいと口に入れ、咀嚼しながら考える。

 そしてさぞおいしそうにそれを飲み込むと、口を開いた。

「そう。取引。あたしのやりたいことを河野さんに手伝ってほしいの」

「やりたいこと?」

 七海さんは頷くと、スケッチしていたノートを見せてきた。

「うわぁ、七海さんって絵、うまいんだ」

 そこに描かれていた私は贔屓目を抜きにしても上手だ。

 鏡で見た私の姿そっくりだ。

 私はぺらぺらとノートを遡る。そこにはモデルが着るようなキレイな服が描かれていた。

「うわぁ、服の絵もこんなキレイに描けるんだ。服のしわとかもしっかり描き込んでてすごいと思う」

「あたしね、将来デザイナーになるんだ」

 七海さんは恥ずかしそうに、けれど自信に満ちた瞳で言ってのけた。

 自分の夢をこんな風に自信を持った目で言える人を、私は知らない。

「でね、やっぱり生身のモデルがいたほうがデザインしやすいなって思ってさ」

「でもなんで私なの?」

「河野さんって結構手足すらっとしてるし体型も女の子らしくって。それにさ」

 七海さんの顔に少し悲しげな影が落ちた。

「あたし、女の子の友達いないし」

 私はその言葉を受け入れるしかなかった。

 否定できるわけがない。彼女は本当に独りぼっちなのだから。

 七海さんはエンコーしている、教師をたぶらかしテスト問題を教えてもらっている、その他にもよくない噂が色々ある。

 そんな問題だらけの彼女に近づく人間は誰もいない。

 その証拠に昨日彼女がカバンの中身をぶちまけても誰も助けなかった。皆が他人のふりをして、見ないようにしていた。

 そう、私だって。

 七海さんはハッとして、すぐにいつもの笑顔を浮かべる。

「ま、もしクラスメイトと友達になれてもあたしの夢を話せる人なんていないし。あいつら、夢をバカにする奴らばっかりだし」

「じゃあ……」

 どうして。

「私に話してくれたの?」

 彼女は私の顔を見つめる。

 なにを当然なことを聞いているのか、とでも言いたげな顔で。

 そしてそれは彼女の口から言葉で漏れ出た。

「契約だから。他に何があるの?」

 そう、当然だ。私もわかっている。

 なのに、なのにどうしてだ。

 どうして私は、胸が痛むのだろう。まるでナイフを突き刺されたみたいに、痛い。

「そう、だよね……契約、だから」

 その言葉は、自分に言い聞かせたものだ。

 私と七海さんは契約上の関係。そもそも私が言い出したことではないか。

 なにをこんなに落ち込む必要がある。

「それとも」

 と、七海さんの顔がまた私の前に現れた。

 彼女の暖かな吐息が、秋の風で冷えた鼻先にあたる。

「何か期待してたのかな?」

 七海さんがまた私にキスをした。

 拒む唇を押しのけて、舌が侵入してくる。

 その舌の上に何かある。甘酸っぱい何か。

 サクランボだ。

(私だって……やられっぱなしじゃイヤ!)

 昨日から七海さんにからかわれてばかりだ。仕返ししてやる。

 七海さんの舌からサクランボを奪い、私の舌で彼女の口内へ返す。

 彼女は一瞬肩を震わせた。が、次の瞬間にはまた私の口へサクランボを送り込んできた。

 私はそれを七海さんへ返す。

 その繰り返しだ。お互いの口内をサクランボが行き来する。

 そして互いの呼吸が尽きたころ、それは私の口内へ押し込められていた。

「はぁはぁ……ゴクッ……げほっ! げほっ!」

 呼吸とともにサクランボが喉奥へ転がり込み、思わずむせ返る。

 喉が脈動し、異物を喉から吐き出そうとする。

 だが引っかかって出てこない。

「河野さん、お茶飲んで! お茶!」

 七海さんが差し出してきたペットボトルのお茶を飲み、何とか一息つくことができた。

 額に浮かんだ冷や汗を手の甲で拭う。

「ごめんね! あたし、そんなつもりじゃなくて……」

「わかってるよ。もう大丈夫だから。ありがとうね」

 七海さんにお茶を返す。彼女はほっと一息ついて、それをゴクリ、と一口飲んだ。

(これって間接キスってやつでは!?)

 これもマンガで見た展開だ。先ほどまで間接キス以上に過激なことをしていたと言うのに、ただの間接キスで頬が煮えるよう。

「あはは、やっぱり河野さんってかわいい反応するね。なんかハマっちゃいそう」

 いったい誰のせいだ。そんな文句は口に出す前に霧散する。

 授業終了のチャイムによって。

「こ、今度こそ私授業に行くから!」

 私は立ち上がって屋上の扉へ。今度は何も忘れていない、それを確認して扉へ手をかけた。

「契約成立だよね!?」

 背後で七海さんが言う。私はなんと言うか迷ったが、結局言葉を発さず、うん、と頷いた。

「それじゃまた放課後もよろしくね、河野さん! ううん! 菜々ちゃん!」

 私は勢いよく扉を開き、逃げるように教室へ駆け込んだ。

 彼女が私の名前を呼んでくれた。

 それだけで先ほどまでの胸の痛みが消えるほどの幸せが訪れる。

 ハマっているのは私のほうじゃないか。

「あれ? 菜々、さっきまでどこ行ってたの? 先生心配してたよ」

「……トイレ!」

「えぇ!? 授業の間ずっと!?」

「……女の子の日なの!」

 佳織をこんな嘘で騙せたとは思っていない。だが、彼女はそれ以上何も言ってこなかった。

 次の授業の内容は、全く頭に入ってこなかった。


 放課後、私は七海さんに無理やり手を引かれ図書室へ。

 図書室の扉には休館日、と書かれた紙が貼ってあったが、彼女の持っていたカギで扉が開く。

「それって合い鍵?」

「そ。屋上と保健室もあるよ。さぼったり、したくなっちゃった時用にね」

 なんと非常識なのだろうか、私は言葉が出なかった。

「今日は二人っきりだし、いろいろできるね」

 七海さんは扉を閉めたうえに、カギもかけた。もうこの部屋には誰も入ってこれない。

 完全に私と彼女の二人きりだ。

「いろいろって……」

 いったい何をされるのか。私の心臓はドキドキと高鳴った。

 それははたして緊張か、それとも期待か、今の私にはわからない。

 きっと緊張のせいだ、と思いたい。

「いろいろっていうのはもう、いろいろとね」

 七海さんはそう言って舌舐めずりをした。

 真っ赤な舌が彼女の唇を濡らす。

「それじゃさっそく」

 と、七海さんは私の肩を掴み、自分のほうへ抱き寄せた。

 前から思っていたが、彼女の細腕のどこにそんな力があるのだろうか。まったく逆らえない。

「いただきます」

「ひゃうっ!?」

 七海さんの舌が私の首筋をなぞった。

 ぞわりとした刺激が全身に広がり、思わず変な声が漏れてしまう。

 ただ首を舐められているだけだと言うのに、どうしてこうも全身がくすぐったいのだろうか。

「すごいよね、首舐められるのって。あたしも初めてやられたときはおかしくなりそうだったよ」

「んっ……!」

 漏れそうになる声を抑える。恥ずかしい声を聞かれたくないから。

 いや、恥ずかしい声を出す自分が恥ずかしいからだ。

「そんなに声我慢されたら、あたしちょっと燃えてきちゃうな」

 だがそれは彼女にとっては逆効果だったようだ。

 彼女の舌が首筋からだんだんと上っていき、耳まで到達した。

「菜々ちゃんって耳弱いでしょ? 朝の反応でバレちゃってるよ」

「そ、そんなこと……ひぅっ!」

 あぁ、どうしてこんなに私の耳は弱いのだろうか。

 耳を舐められただけで背筋がゾクゾクとし、脳に電流が走る。

 必死に声を我慢するが、耐えられない。

「ほら、声、出しちゃいなよ。菜々ちゃんの可愛い声、あたし聞きたいなぁ」

 そう囁いた七海さんの声はまるで神話でイブを欺いた蛇のよう。私を罪へと誘う声。

 鼓膜を揺らし、頭にじんわりと浸透していく。

 私はその声に抗えず、我慢していた声を漏らした。

「あぅっ……はぁ……はふんっ!」

 するとどうだろうか。今までのゾクゾクや電流が消え、その代わりにふわふわとした心地よい気分にさせる何かが頭の奥から溢れ出した。

 その正体不明のなにかは全身を駆け抜け、私の身体を浮遊させる。

「菜々ちゃんってば、こんなに身体振るわせて。そんなに気持ちいいのかな?」

「気持ち……いい……?」

「菜々ちゃんは今ふわふわってしてるでしょ? これが自分じゃ感じられない、気持ちいいってこと。じゃあもっと気持ちよくしてあげる」

 七海さんの腕が、私のセーラー服の下へと侵入してきた。

「う、うそ! やだやだ! それ以上はダメ……んっ!」

 彼女の細い指が、私のおへそ辺りをなぞった。こそばゆいが、じんとスパークする。

「ほんとにダメ? でもこれは練習だよ? 本番はもっとすごいことするんだから」

 彼女の手が私の身体を這いまわる。まるで蛇が身体を這い回っているみたい。手が人間のモノとは思えないのだ。

「い、今はダメ……! まだ心の準備が」

「そんなこと知らないよ。あたしはスパルタだから」

 彼女の手はついに胸に到達した。

 ブラ越しに胸を揉まれてしまう。

「うわぁ……菜々ちゃんのおっぱい、すごいね。柔らかくてもちもち。それにあたしよりも大きいし……羨ましいなぁ」

「だめ! ほんと、これ以上は……!」

 そのあとのことは詳しく覚えていない。

 気が付けば私はイスに座り、ぐでっと机に顔をくっつけていた。

 服が汗で張り付き気持ち悪い。それになんだかお漏らしでもしたみたいにパンツが濡れて気持ち悪い。

「あ、気が付いた。ヤッホー、菜々ちゃん」

 顔を上げると、私の顔を覗いていた七海さんと目があった。

「七海、さん……え!? 私、どうして!?」

「いつの間にか気絶しちゃってた。菜々ちゃんってホント気持ちいいのに弱いよね」

 いったいどれくらい気を失っていたのか、そんなことはどうでもよかった。

 体をいじられて、しかも女の子に気絶させられてしまい、どうしようもない恥ずかしさが沸き上がってきた。

「もしこれが本番だったらやばかったよ。あたしがおじさんだったら菜々ちゃんと生パコしてたと思うし」

「!?」

 七海さんに犯される自分を想像して、さらに恥ずかしくなった。

「ま、練習でいろいろ知れてよかったじゃん? 何か飲む? あたし奢ってあげるよ」

「じゃ、じゃあオレンジジュース」

「オッケー」

 と、七海さんが立ち上がった時だ。突如彼女のスマホが鳴る。

「あ、ごめん、彼氏からだわ。もしもし! え? 今から? う~ん……え? 浮気とかないから。うん、わかった。じゃ、待っててね」

 彼女は電話を切ると、ごめん、と手を合わせた。

「彼氏が今から遊ぼうって! だから、ごめん!」

「彼氏って……えっと、風野君、だっけ」

「そ。風野かざのりょう。涼太ってばすっごいかっこいいんだよ? あたしのことも大好きだし、エッチも上手くて気持ちいいの!」

「へ、へぇ……」

 風野は七海さんと同じくらいこの学校で有名だ、もちろん悪い意味で。

 金髪で耳にはいくつもピアスを開けている。他校の不良とつるんでケンカやおやじ狩りやらに明け暮れているという噂だ。

 そんな彼とギャルの七海さんがくっつくのはもはや必然だろう。

 だが、そんな二人を想像して胸が痛むのはなぜだろうか。

 どうして七海さんの横にいるのがあんな男なのか、理解に苦しむ。

「ほんとごめん! これ、ジュース代!」

 彼女は千円札を机に置くと、さっそうと図書室から出て行ってしまった。

「お釣りはいらないから! 何かお菓子でも買いなよ!」

 と、一度戻ってきて言い、今度こそ去って行ってしまった。

 私は目の前の千円札を見つめる。

 これは彼女が自分の身体を売って手に入れたお金なのだろうか。

「そんなの、使えるわけないよ……」

 私は財布の中に彼女の千円を入れる。わかりやすいように普段使わないポケットのほうにだ。

「私も、帰ろうか」

 早く帰って着替えたい。私は図書室を出て、扉を閉めて気が付いた。

「あ、七海さんがカギ持ってたんだっけ。職員室に寄らないと……」

 私が職員室に行くと、ちょうど担任の安田先生と鉢合わせた。

 安田先生は数学の教師だ。30代前半でイケメン、妻子持ち。

「河野か。どうした?」

「勉強しようと思って図書室に行ったんですけど休館中だったんです。でもそれに気付かずドアを開けてしまって。ちゃんと閉めとかないと不用心だなって」

「ドアが開いたってことはカギがかかってなかったんだな? わかった、また閉めておく」

 私はここでも嘘を吐いた。

 安田先生はそんな嘘をやすやすと信じた。教師にはもしそれが嘘でも問い詰めるメリットなどないからだ。

「そうだ、河野。お前最近七海と一緒にいるが、あいつとはつるむなよ。あいつは成績はいいが素行がな……もし無理に絡まれて困ってるなら先生に頼れよ」

 と、去り際言われた。

「……はい」

 安田先生は彼女のことを何もわかっていない。

 だが先生とケンカをするのは得策ではない。私は小さく舌打ちし、教師と別れた。

「あれ、私も七海さんのこと、あまり知らないんじゃ……」

 帰り道、私はふとそう思った。

 先生は七海さんをわかっていない。けれど私もわかっていなかったのだ。

 彼女はデザイナーになりたい、ということくらいしかわからない。

 もっと彼女が知りたい。彼女について一つでも多く知りたい、風野とかいう彼氏よりも。

「あ~……やっぱり私、七海さんにハマってるのかも」

 私は空を見上げ、溜め息を吐いた。

 空の真っ青なカンバスには、銭湯の煙突から出た真白の煙がもくもくと広がっていた。


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