口裂け女

@setu7anekdot

1話目:少年、怪異と遭遇する

 鬼は外。

 鬼は外。


 福は内。

 福は内。


 福の神でぶっとめろ。

 福の神でぶっとめろ。




 その女は、十字路に立っている。

 すらりとした長身に、さらりと流れる長い黒い髪が夜に溶けて、その輪郭をどこか曖昧にしている。大きなマスクで顔の半分を覆い隠して、街灯の白い光の輪の中に、立っている。

 そして、出会った人に問うのだ。

「私って、綺麗?」

 夜のような黒髪に、窮屈さなどみじんも感じさせない肢体。加えて妙齢に見える女性への気遣いもあって、大抵の者はこう答える。

「綺麗です」

 と。

 目を三日月にたわめて笑う女の表情は、どこかほの暗い闇を感じさせ、単純な、賞賛に対する喜色には受け取れない。

「これでも?」

 顔の半分を覆い隠す大きなマスクを外せば、そこには耳まで切れ上がった大きな口。出来たばかりの傷口のように赤々と、開かれる。

見た者は大抵、恐怖に慄くだろう。

雰囲気、特異性、奇妙さは、怖れを抱くに余りある。

その恐怖の表情を見下ろしながら、女は笑うという。人でも食ったような真っ赤な唇を笑みの形に歪ませて。裁ちばさみを片手に、笑うのだ。

 逢ったが、最期。

 何と答えようが、殺される。

 それが、口裂け女の都市伝説である。




 里中哉太は、深く深くため息を吐いた。

 理由は単純。すぐ隣を歩く幼馴染に呆れかえっているのだ。

 隠す気のない本音半分、本人への察してくれアピール半分の深い吐息にも、飛び上がらんばかりに怯える彼女の名前は、村岡香澄と言う。

 学年は同じ高校二年。帰り道はいつも一緒だが、付き合っているわけではない。

 幼稚園から始まり、小中高と同じ学び舎へ通い、家の立地は道路を挟んではす向かい。加えて、最近では刃物を携えた変質者の目撃情報も事欠かない世情だ。

度々目撃されている変質者は、長身の女だという。実際の被害はないものの、注意しておくにこしたことは無い。それが大抵の大人たちの意見だ。

不穏な空気がこの鳥羽地区を覆っている。

 とくれば、一緒に帰って来いと母親の厳命を受けるのは必然とご納得いただけるだろう。「また一緒なの」「相変わらずお熱いっこって」などという冷やかしは慣れっこなものの、正直御免被りたいが、近年は治安大国と謡われた日本でも犯罪は多発しているし、暗がりでの女の一人歩きが危険だというのも理解している。

だから思春期の異性に対する登下校

 それに学年は同じでも、哉太は香澄に対して妹のような感覚を持っていた。

 要は庇護対象。

 誇張でなく、おしめの頃から知っている間柄だ。今更一緒にいるのが気恥ずかしいなんてこともない。もしけんかをしても、気まずいなんて言おうものなら鼻で笑い飛ばすだろうし、文句があるならまずは言う。今更遠慮会釈のいる間柄ではないのだ。

 きっと、香澄もそう思っているはずだ。

 なので、暮れなずむ町を背景に、香澄の制服の前で握りしめられたこぶしがわなわなと震えているのも、陸上部で年がら年中太陽光の下にいるにしては白い顔が今は青いほどなのも、理由は知っている。

 なにせ、すでに散々バカにした。

「もうすぐ、もうすぐ。く、口裂け女の十字路だよ」

 香澄は、今日聞いた「怖い話」にビビっているのだ。

 きしむ音が聞こえそうなほどにぎこちない動きで、冷えた指先が哉太の手をつかんだ。額には十月の夕暮れにそぐわない玉の汗が浮いている。

 高校生だぞ、俺たち。

 何度目かも忘れたため息を吐いて、これまた何度目ともわからないことをビビりにビビった幼馴染に言って聞かせる。

「お化けなんて、皆嘘っぱちだよ」

「嘘じゃないよ、都市伝説だもん、見たって人もいるんだよ! ハサミ持ったマスクの女の人このあたりでを見たって皆言ってい居るんだよ・・・・・・」

「まず、皆って誰だよ。そもそもそれは刃物を持った変質者の目撃情報だ。通報案件だ」

 だから一緒に帰っているのだ。

 哉太はこめかみを押さえた。

 最近、ここ鳥羽地区周辺では、奇妙なマスクの女が目撃されているらしい。らしい、というのはそのまま、聞こえてくる話が誰が見たらしい、聞いたらしいの伝聞の伝聞ばかりだからだ。要は、単なる噂だ。

 問題は、その単なる噂話を怖がりな香澄に面白おかしく語った先輩がいたということ。怯える様子が面白かったのか、塞いだ耳元でも構わず話続けたというわけだ。

(ばからしい)

 幽霊だろうがお化けだろうが、そんなものはいない。哉太はオカルト否定論者だ。

 オカルト好きの兄に付き合って、心霊写真特集や心霊特番なんて下らない番組を観ることもあるが、恐怖の前に呆れが先に立つ。

 建物が軋めば、幽霊の鳴らすラップ音。カメラに埃の丸い影が映りこんだら人魂。なんてばからしい。

 事故の頻発する道は、客観的に見ればなだらかな下り坂や見通しの悪いだけの場所でしかない。何もいないはずの場所で聞こえた声は、思い込みからのただの空耳だ。

 人は死んだらそれまでだし、妖怪の仕業と言われる諸々は、ただの自然現象だ。

 起こったことを幽霊や妖怪なんて目に見えない何かにすべて結び付け、わけのわからない儀式やら祈祷やらで祓ったなどとうそぶく。ばからしい。

 なにが恨みを飲んだ魂だ。何が悪意の塊だ。

 一番怖いのは、実態を持つ人間に決まっている。

 そもそも、自称霊能力者。チャンチャラおかしい。言い出す方も、信じる方も。自称だけを信じて「ここに見えないものがいる」とその誰かが言っただけで、見えもしないものが「いる」信じてしまう。その心理が分からない。娯楽としてならまだしも、真剣に信じて怯えているなんて。

 自分の目で見たもの以外を信じる気は、哉太にはないのだ。

 夕闇に灯り始めた街灯がチカチカと瞬いた。引き寄せられるように小さな羽虫が飛んでいく。濃紺に変わりかけた空は、きらめく星を抱いている。

 いつもと同じ夜の入り口だ。

 道沿いの家々からは、夕食の香りが流れてくる。スパイスの香りにこれはカレーだなと判断すると、正直者の腹の虫が鳴いた。今日は部活の後のパンを食べていないのだ。どうにもこうにも、このところ腹が減ってたまらない。

「香澄、いい加減キリキリ歩いてくれよ。腹へっているんだからさ。なんかいたら走って逃げろよ女子陸上部長距離エース」

「口裂け女は100メートル3秒で走るんだから、無理だよ!」

「分かった、分かった」

 噛みつくような剣幕の幼馴染におざなりに返事を返して、哉太は山茶花の生け垣を曲がった。

 自宅まではあと半分。通学のお手軽さで選んだ学校から自宅までは約3キロ。ここからなら、1キロほどを残すのみだ。走って帰っても問題のある距離ではないが、すきっ腹でその運動は辛い。

 カロリー不足に黄昏時の風が染みる。

 季節はもうすぐ冬になる。サッカー部の大舞台、冬の大会はもう目の前だ。何もなければ、レギュラー入り。顧問からの確約は取っている。教科書もろもろが詰まったスポーツバッグをぶら下げて走りどこかの筋を痛めたくもない。高校最後の大会だ。万全の状態で挑みたい。

「ほら、行くぞ」

 急かすより引きずった方が早いと香澄の冷たい手に触れたとき、不意に背筋がぞわりと震えた。

 キンモクセイの香りがする。冬も間近な晩秋だ。コートも羽織らないジャージだけでは、寒さを感じて当たり前だ。当たり前のはずだ。

 なのに、違和感を感じた。

 なんだろう。

 違和感の正体を捕まえる前に、哉太が歩みを止めたのは、斜め後ろに腕が引かれたからだ。

 引いたのはもちろん、すぐ後ろを歩いていた香澄で、哉太は不快感を隠しもせずに振り返った。いい加減にしろと怒鳴り付けようとして言葉に詰まる。

 はくはくと鯉のように口を開閉して、香澄が震えていた。

 息が荒い。向かう先を見つめて、固まっている。見開かれた目に浮かんでいるのは、恐怖の色一色だった。

「どうしたんだよ」

 なぜなのか。

 訳が分からない。何も居ないはずの夜を見つめて、先ほどよりもずっと怯えている。

 何かいるかも。そんな不安の怖さではない。

「何か、いたのか」

 問えば、ゆっくりと視線が哉太へ流れる。

「あれ・・・・・・」

 上がった指先が示したのは、四辻だった。

 口裂け女が出たと噂される、十字路だった。

 暗闇に落ちたその場所は、切れた街灯のせいで見通しが利かない。

「誰もいないじゃないか」

「・・・・・・あそこ、電柱のところ」

 声は、恐怖に途切れがちだった。

 鼓膜が生き物に変わったように跳ねている。どくどくと。喉が渇いて上下した。何も呑み込めない。

 怖いわけではない。

 お化けも、幽霊も、そんなものはいない。この目で見たものしか信じない。オカルトなんて、ただの眉唾。そんなものは存在していない。UFOだってUMAだってみんな作り物だ。

 存在しない。ありえない。

 無意識に唱えながら、哉太は香澄の指し示す先へ視線を動かした。

 道の横合いの民家の庭から電柱の下半分を隠すように生える笹が揺れている。風が吹いているのだ。暗い四辻に引き込まれるように。どこかに連れて行こうかと言うように。

 緊張感に口の中が粘つく。

 振り返った小さな交差点では昔ながらの蛍光灯の白い光ががチカチカと瞬いていた。さっきまで、切れていたはずの街灯が息を吹き返している。

 点滅する間隔はだんだんと短くなる。暗闇と光の比率が変わっていく。

 光が灯る。闇が呑み込む。光る。暗む。光だ。闇だ。光、闇、光、闇、光。光が煌々と灯る。

 その中に、人が立っていた。

 恐怖が膨れ上がる。

 髪の長い女だった。トレンチコートを着た背の高い女で、俯いた顔は見えない。だらりとたれた黒髪と目に痛いほどに白いマスクに覆われていて、こちらからはちらりとも表情がうかがえない。

 隠れた口元は、きっと。

 思って頭を振る。ありえない。見えてはいない口元を想像逞しくしてしまうが、裂けてなどはいない。想像を飛び越えてただの妄想だ。

 けれど、こんな時間にこんな場所でなにをしているのだろうか。それも女性が一人で。化け物が出たと噂される四辻で、だ。

 もしかして、あれは、本当に。

「口裂け女だ」

 香澄の震える声が、哉太の「妄想」を引き取った。

 口裂け女は、黒くて長い髪をだらりと垂らして、立っている。アイボリーのロングコートを着て、俯いて。

 口裂け女の話は、なぜだか今、鳥羽高校のそこここで囁かれているのだ。休み時間に、SNSの上で、部活の休憩時間に。

(違う、考えすぎだ)

 信じてなどいないのに、恐怖が止められない。現実を軋ませながら、恐れが加速していく。

 背後の香澄も動く様子はなく、ただただ荒い息が吐きだされる音がするだけだった。

「ねぇ」

 立ち尽くす二人に、女の声がかかる。マスクの内から漏れた声は、女性の声ではあるものの地を這うように低い。

 一瞬にして、体中の毛が総毛立った。

 同時に、どこか近くの家の庭に生えているのだろうキンモクセイの香りが鼻先をかすめる。微か、ではなく包み込むように香り立つ。

 神経が過敏になっているのだ。

 一呼吸ごとに甘い匂いが強くなる。

 浅い呼吸も手足の震えも、とても大きく感じる。

 女が動いた。

 ひどく緩慢な動作だ。首の動きに合わせて長い髪が黒い滝のように流れる。上げられた顔が、哉太の方をみる。

「ねぇ、君」

 血の気を失った青白い顔の中で、血走った赤い目がらんらんと輝いて見えた。

 大きなマスクに手がかかる。

 ふと、夕方の教室を思い出した。続いて、口裂け女の怖い話に怖がる後輩をさらに怖がらせようとして、その女はこう言うんだ、とからかう友人の笑いを含んだ声も。

「「私って、綺麗?」」

 地を這うような低い声と、楽しそうにはずむ声が、哉太の頭の中で重なった。

「っ、わああああ!」

 肺から飛び出した悲鳴は、町中に響くように思えた。けれど、悲鳴は夜に凝ってどろりと周囲を取り巻いているようにも感じた。

 声と同時に、怯えが体を飛びだしていく。

「逃げるぞ、走れ!」

 哉太は冷えた香澄の手を握ったまま、口裂け女に背を向けて走り出す。曲がったばかりの山茶花の生け垣をまっすぐに抜けた。

 逃げる、とはいったもののどこへ向かうかなど考えていない。逃げ場なんて、考えもつかない。ただ、あの女から離れたかった。

 足がおもりを埋め込まれたように重い。恐怖に引きつれる喉では呼吸が浅く、酸素が上手く回らない。部活柄走りなれているはずなのに、自分の身体とは思えない。上手く扱うことができない。酸素が足りない。

 闇が濃度を増していく。

 耳元では風を切る音がしているのに、景色が変わっていかない。変だ。

 キンモクセイの香りが一段と濃くなる。

 はたと気づくと、香澄の冷えた手を握っていたはずの手の中には、何の感触も残ってはいない。

「香澄!」

 名前を呼んだ瞬間、膝から力が抜け落ちた。

 急な失速に上体がついていかない。アスファルトに倒れ込むと強かに打ち付けた肘が痛んだ。

 痛みにうめく間に、闇が重く圧し掛かってくる。夜の静寂が恐れに形を変えて胸の奥まで染みてくる。息が上がる。喉が引きつった。

 心臓。呼吸。血の巡る音。

 自分の身体が発する音以外が、聞こえない。

「ねぇ」

 耳元で声がした。

 ひっ、と喉が鳴る。

 耳殻に生暖かい空気の揺れが届く。

 呼気だ。誰の、なんて考えたくもない。

「私って」

 振り返れば、居る。

 赤く、開かれた口。大きな口。耳まで裂けた傷口が、露わで。

 ああ、これは現実だ。事実だ。

「私って、綺麗?」

 低く、地を這うような声が記憶を呼び覚ます。

「ま、質問されたが最後、なんて答えても殺されてしまうってのがこの怪談の怖いところなんだけどな」

 記憶の中で、香澄の年上のチームメイトが人の悪い顔で笑った。

 余所事を考えるのは現実逃避だ。それでも、怖い怖いと恐怖を叫ぶ心臓を無視することはできなかった。

 振り向けない。

 視界がどんどん黒くなっていく。

 いやだ。

 気を失ったら最期だ。終わる。そんな気がする。

「怖がらないでください」

 どこかから声が起こった。

「貴方が、世界だ。ここは貴方の、世界だ」

 歌うような、語り掛けるような、不思議な懐かしさを覚える旋律で柔らかな声が流れてくる。決して大きいわけではないそれが、哉太の意識を端から撫で上げていく。

 続いて、夕日のようなオレンジ色が、暖かに体を包んだ。

 キンモクセイの香りが薄れていく。代わりに流れるのはさらりと軽い甘い香りだ。嗅いだことがある気もするし、ない気もする。不思議と既視感を誘う香りだった。

 聴覚、嗅覚のデジャヴは、郷愁にも近いのではないのだろうか。この土地から出たことがないのに、おかしな話だ。

 逃げなくては。

 立ち上がろうと膝に込めた力は、今度はスムーズに伝達される。

 先ほどの圧し掛かり、絡めとる重さが嘘のようだ。

 身体が自由になると思考もそれに倣うのか。暴走しかけていた哉太の頭が今、冷静さを取り戻した。

 こんなものは嘘だ。非現実的。嘘っぱちだ。認めない。

 けれどにらんだ四辻には、闇と白い歯、ひどく目につく紅い口紅。

 高度経済成長期から恐れられた都市伝説。バカに速い女。ハサミを持ったその女は自分の容姿に対して評価を求めた。

(思い出せ、あいつの話を)

 聞き流した噂は、なんと続いた? なんと言えば口裂け女は消える?

 あれが口裂け女なら、撃退法があったはずだ。逢ったが最期などといいつつも、そうではない。なかったはずだ。

 何とか逃げ道を見つけるものなのだ。救われたいから。そういうものだ、人なんて。

 兄と見たオカルト番組では、何を言っていたか。何と言っていたか。

 思い出せ。

 口裂け女の苦手なもの。それは。

「ポマード!」

 哉太は女に向かって叫んだ。

 びくりと女の肩が大きく揺れる。

 ゆっくりと淡い光から哉太に戻された女の視線には、恐怖の色がちらついていた。

 いける。

 確か口裂け女は歯の治療中、歯科医師の整髪料のにおいに顔をそむけた結果、口の端から切り裂かれた。

 怪我がもとで、あの顔になったといわれていたはずだ。だから、退魔の呪文は整髪料の名前なのだ。

 確信した哉太は大きく息を吸い込む。

「止めろ!」

 どこかから制止の声が飛んだ。

 先はどの柔らかい声とは別の、よく通る男の声だ。

「ポマード、ポマード、ポマード!」

 声の制止は無視して、三回鋭く叫んだ。

 無我夢中というわけではなく、これならばと冷静に判断して叫んだのだ。

 嘘だ。信じている訳ではない。けれど、目の前の事実は信じなくてはいけないのだ。事実から目を逸らしてはいけないのだ。

 叫んだ後には、口裂け女は霞となって消えていく。ゆっくりと消えて、闇の中に溶け込むように。

 信じられなかった。

「助けてやろうとすれば、余計なことをしやがって」

 舌打ちまじりの悪態のあと、淡いオレンジの光と底の知れない闇が薄れていった。黒が透けて、水底はそう遠くはないと分かりだす感じ。ゆっくりと現実感が戻ってくる。嘘みたいな現実から、手触りのある現実を拾い上げて握りしめる。

 じわじわと滲み出すように、夕闇と街灯の白い明りが戻ってくる。

 緊張の糸が切れた。がくがくと笑った哉太の膝は、持ち主の踏ん張りも空しく崩折れた。

「怪我、ありませんか」

 慌てたような歩調が駆け寄って、丸い声が降ってくる。闇の中で聞いた、歌うような、懐かしさを覚えた柔らかな声だった。

 不思議と恐怖は沸いてこない。

 どこの誰だか、いや、何の声であるかすら定かではないのに。

 視線を上げると、そこで夜を見た気がした。目を瞬かせる。ピントが合って、目の前にいるのは人と知る。

 その人は学ラン姿の少年の形をしていた。

「助けてくれて、ありがとうな」

「どういたしまして」

 目が合うと、少年は微笑んだ。目の中まで笑んでいる。信じていい部類の人間に見えた。

 まずなによりも先に、これは、人だ。

 安堵から、空気の重さが霧散する。喉のひきつれるような違和感が消え、肺が自由に動き出した。

「ここはもうウツツですから、安心してくださいね」

 訳は分からないままだったが、「安心してください」の言葉が素直に腑に落ちた。危機は去ったのだ。周りを見る余裕も出てくる。

 年の頃は、哉太たちよりもいくつか下の中学生だろう。丸い頬はまだ幼さが抜けきらず、学生服は着ているというよりも着られているといった様相だ。長くも短くもない黒髪に、大きくも小さくもない目をした、特に目を引く特徴のない顔で、部活の後輩に入ったら、グラウンド以外で見かけても数か月は気付けないと思う。唯一印象的なのは、昔風の大きなレンズをした眼鏡だった。

 ぴっと、少年が右手を払う動作をした。

 よく見れば、刀の柄を握っている。刀身は短いが、おもちゃの剣にしてはひどく精巧にできていて、街灯のわずかな光に白く滑って光っている。プラスチック製品には見えなかった。

 哉太の視線に気づいたのか、視界から隠されて、刀が鞘に納められる。鳴った音は確かに金属音だった。

 夕闇に刃物。訳しかなさそうな組合わせだ。だが仮にも恩人だ。理由くらいは知ってから距離を取りたい。

 しかし、哉太が口を開くよりも早く、朗々と空の果てまで響きそうな張りのある声が遮った。

「外面いいのは結構だが、仕事をしろよぼんくら野郎」

 どこから聞こえているのか。出どころさえ分からないその声は、先ほど哉太の「呪文」を止めようとしたものだ。声自体は耳に心地よい低音だが、内容は不機嫌といら立ちの棘に覆われて耳に刺さる。

「様子見なんて腑抜けのすることだ。お前にゃ似合いだが、おれは好かない。あの場で仕留められたものを、みすみす取り逃がすたぁどういう了見だい」

 何も聞こえていないのだろうか。非難と罵詈にも、少年は眉一つ動かさず笑みの形で表情を止めている。

 反応を示さない少年に、それとな、と声が続ける。

「そいつにゃ、聞こえているみたいだぜ」

 なぁ? と周囲を回る声に同意をもとめられ、虚空を見回して、答える先が見つからないまま哉太は少年に言う。

「・・・・・・声なら、ずっと聞こえているけど」

 瞬時に、学ラン少年の笑顔と何も聞こえていないというポーズはガラガラと音を発てて崩れた。

「気付いていたなら、先に言ってよ! 大体文句ばっかり言うけれど、相手の出方も輪郭も、何にも分からなかったんだ。闇雲に手を出したって、逃げられて終わりだったよ!」

「慎重派気取って善策を取ったなんて言ってたってな、ただの怯懦だ、お前のは」

「考えなしに突っ込んでいく無鉄砲より随分マシだよ」

「口だけは減らねぇな」

「そっくりそのままお返しする」

「残念だったな、返品不可だ。クーリングオフしようなんて甘い甘い」

「受け取り了承の判をついた覚えはないね!」

 左斜め上を仰ぎ見て、噛みつかんばかりの勢いで語気を荒らげる様に、見た目相応の子どもっぽさが覗く。言いたい放題言われて、フラストレーションが溜まっていたのだろう。加えて双方、なかなかの負けず嫌いとみた。

 ぽんぽんと続く掛け合いを聞きながら視線をさ迷わせても、少年以外の人影を見つけることはできなかったが。

 家々の閉じた窓からは温かな光が漏れている。空には星も光っていた。夕飯時の匂いもいつの間にか戻り、笹のざわめく音や街灯の明かり、遠くを走る汽車の警笛に、微かな団らんの笑い声。猫の子が一匹、素早い動きで細い道を横切っていく。黒く影に濡れて、何色をしていたのかしっかりとは分からなかった。

 いつもの夕べだ。

 先ほどまでのおぞけ立つ異様さはない。

 すわサイコさんかとも思ったが、しかし、声と少年の掛け合いは哉太が聞いても意味が通っているのだ。きちんと会話になっている。

 確かに、居るのだ。

 ふと、少年の黒い目が哉太に向いた。哉太の視線の先をたどって、首を傾げ、合点がいったのか表情を変える。

「貴方は聞こえるだけの方なんですね」

 照れて笑うと、立てた人差し指を目の前に突き付けてきた。

「なに」

 不躾な所作だ。不快感を隠さず聞けばそのまま、と返される。

「僕の指先を見ていてください。そのまま、じっと。輪郭がぼやけて崩れて、あいまいになるまで」

 意味が分からない。思ったまま口にすれば、じきに分かるのでと苦笑の乗った声でなだめられた。訳が分からない。

 言われたまま指先を見つめ続けると、白い指の輪郭が夜に溶けてぐねぐねと歪む。だんだんとそこにあるのかすら分からなくなってくる。

 さぁと冷たい風が吹いた。細かな雨まじりの秋風だ。

 雨の予報なんて出ていただろうか。

「見てください、龍がいる」

 指が動いて、視界が境界を取り戻す。あっち向いてホイの要領だ。逆らわず釣られて顔を向ければ、そこには言葉通り、龍がいた。

 街灯の光に反射する無機物めいた鱗に覆われ、虎に似た顔に長いひげを揺らした、鋭いカギ爪の龍だ。願いを叶える球を集める漫画や昔話のアニメでさんざん見てきたあのままの生き物が、目の前で浮いている。人の腕ほどの大きさだったが。

「とくと拝めよ、鬼持ち。龍神様なんて滅多に見られねぇぞ」

 見えなかった何かの声でそうのたまって、龍は鼻を鳴らした。

 動いている。精巧な作り物にも見えるが、まさか、本物なのだろうか。生きているというのだろうか。小さいけれど。

 じわりと背中に汗が浮く。

「貴方は素質がありますね。これなら案外すんなりヤライが出来そうです」

 少年が、鉄壁に戻った微笑で現状をそう評価した。






「どうぞ」

「どうも」

 どこか間の抜けたやり取りを交わして、哉太は差し出された缶コーヒーを受け取った。温かさが冷え切った手のひらに染みる。痛いくらいだ。

 生け垣が車のヘッドライトに照らし出されたのを潮に、付いてきてくださいと少年に案内されたのは、通学路から少し外れた住宅地の中にある神主不在の寂れた神社だった。

 風にはたはたと鳥居に取り付けられた幟がはためいている。少しにじんだ墨書きの文字は「金毘羅大明神」と読めた。金毘羅船船追い風に帆掛けて、の金毘羅さんかとどこかポップに聞こえる音色が脳内を流れる。行ったことはないが、四国のどこかにある航海の神様だったと思う。なぜこんな内陸部にあるのかは分からないが、そこそこ古いこの地域の鎮守だったはずだ。

 鳥居から本殿まで約7歩の申し訳程度の参道の前に、不釣り合いに大きい鳥居が鎮座している。水の途切れた手水屋と、なんだかわからない建物が並んでいた。鳥居は古いコンクリートでできているようだが、土台が二つ並んでいることから、修繕はされているらしい。神輿だろうか、屋根のような影が離れた建物の中から覗いている。まったくのほったらかしというわけではないようだった。

 境内の片隅、本殿の基礎に腰掛けて哉太は両手で缶を包み込んだ。冷えた夜気にさらされた指先がぬるむ。

 哉太をこの場所まで連れてきた黒髪の少年は、灯篭の土台へ腰かけて空を見上げていた。

 三日月の昇り始めた肌寒い宵の小さな神社だ。祭りをしている訳でもない。そんな場所に参拝に来る酔狂など居るわけがない。

 ちらりと覗く人影は香澄のものだ。

 怖がりな癖に、変なところで度胸のある幼馴染は、哉太があの四辻からこの神社へ向かう道すがら、こそこそと民家の塀に隠れつつ跡をつけていたのだろう。どこに隠れていたというのか。

 「口裂け女」から逃げ切ったと思ったら、変な奴に幼馴染がついていってしまった。あとをつける気持ちも分かる。

 風が出ていることも幸いしたのか、少年たちは香澄に気づくことはなく、つたない尾行が成功して今に至るというわけだ。

 本殿の裏手に申し訳程度の杜の木々が揺れる。横を通る道に設置された街灯がブーンと低いモーター音を発している。静かだった。

 先ほどのことが、嘘みたいに。

「ーーーで? いつまでそうしているつもりだ、この表六玉」

 鳥居の上から、横柄な声が降ってくる。境内をゆっくりと見まわしているのは、現実逃避だった。知っていた。

 地上3メートルはあろうかという高さで二人の人間を見下ろしている緑の龍が、不機嫌に髭を揺らす。

 表情は分からない。当たり前だ。生物学的に分類するなら、爬虫類だろう生き物なのだ。鱗に覆われた顔から心理状態を推測するのはできない相談だ。うねるひょろりと長い体躯が蛇を連想させる。相手は幻想生物だが。

「今度は何で怒ってるんだよ、短気者」

「学習しろって話だよ、阿呆」

 柔らかい声を一蹴して、龍神はひらりとしめ縄の巻かれたご神木であろう銀杏に飛び移った。

「おれは寝る。お前の不手際はお前でなんとかしろ」

「ちょ、ちょっと待ってよ」

「ここじゃあ、鬼は出ない。鬼が出なけりゃ、起きていても仕方ねえ」

 あとは適当にやっておけとばかりに尾を振って、非難の言葉など聞こえないとばかりに目をつぶってしまった。

 何を言おうが関知しない構えに、これ以上の掛け合いは不可能で不毛だと判断したのだろう。眉間に不似合いなしわを作って、少年は深く深くため息を吐いた。気苦労が絶えなそうだ。

「誰が相手でもあの調子で・・・・・・。気を悪くしないでくださいね」

 少年が動く度、ふわりと甘く涼やかな香りが漂う。元の質に助けられているストレートヘアーに分厚いレンズのやぼったい眼鏡。洒落っ気とは無縁そうな容姿だが、香水でも付けているのだろうか。

「別にいいよ」

 ブレザーの襟を堅苦しく締め付けるネクタイを緩め、哉太は睨みつけるように少年を見る。

「それよりも、あの口裂け女がなんなのか教えてほしいんだけど」

 眼鏡のレンズの向こうに覗く黒は、ゆるりと細められている。

 なにか、ここではない何かを見るような焦点の合わない視線が、哉太を通したどこか遠くに注がれている。

 絶対に見えるはずがない、薄い脂肪の下にある内臓や、感情、思考まで彼の目に映るのではないかとありえない空想が生まれる。

 居心地が悪い。

「どうしたんだよ」

 声に不信感がのる。それもふんだんに。

 目が開く。妙な感覚は不意に途切れた。シャボン玉がはじけるようにぱちんと。

「ごめんなさい、あまりたくさんの人に話していいことではないんです。人の心は不思議なもので、なにが原因で鬼を生むか分からないですから。でも、やっぱり貴方は鬼持ちだ」

 少年は残念そうに笑った。

「なんだよ、その鬼持ちって。おれの名前は里中哉太だ」

「失礼しました、里中さん。僕は芦屋満。あっちの龍が龍牙と言います」

 どこから話せばいいかな、と芦屋は少し考えた後、予想の斜め上へ飛んでいくような話を始めた。

「貴方は、幽霊を信じますか?」

 は? と素っ頓狂な声が漏れたのも許してほしい。こっちが質問をしているのに、まさかの質問返し。しかも、意味も脈絡も分からないときた。面食らうのも仕方がないだろう。

 芦屋少年は慌てて付け加える。

「幽霊じゃなくても、神様とか、妖怪とかなんかはどうです?」

 見当違いにも思える付けたしに眉をひそめながらも答える。

「そんなものはいない。ずっとオカルト的なものは作り話だって思ってきた。けど、さっきみたいなことがあると、本当はどうなんだ? って気になるな。自分の体験は信じる主義だけど、やっぱりまだ嘘くさいとも思ってる」

 香澄にも言い聞かせるように、声を張った。傍目から、どんな会話だと冷静な部分が嗤う。

「半信半疑、と言ったところでしょうか」

 うなづいてはみたものの、そうなのだろうかと銀杏を仰ぎ見る。上下する龍の緑の鱗に、神社本殿の常夜灯が反射していた。

 龍は確かにそこにいる。哉太にも見えている。そして、なによりあの口裂け女から感じた恐怖は本物だった。ありもしないものに、枯れ尾花に怯えるほど、自分は無知でも小心でもないはずだ。

 幽霊は居るのか、居ないのか。

 考えれば考えるほど袋小路だ。

「今までの経験からの常識では居ない。でも、さっき見たものは空想とか幻覚とか、簡単には否定できない、ってのが一番近いかな」

「それが里中さんの認識ですね」

 芦屋がうんうんと顎を押さえた。

「では、まず最初に一つ。あの口裂け女は人に害を為す鬼です。あの場で僕らが割り込まなければ、貴方は殺されていました」

 殺されていた。

 随分とパンチの強い言葉を使う。

 けれど、口裂け女は確かに存在したのだ。見たのだ。あの駆け抜けた恐怖は、確かに命の危機を察していたからかもしれない。

「この世は、二つの世界が重なり合ってできています。通常、僕らが見て、触って、感じている世界を現世、此岸と呼びます。対して見えない世界を幽世、彼岸と呼んでいます。二つの世界は重なって、でも微妙なずれを持ちながら、存在しているんです。そして、二つの世界は基本的には干渉しあうことはない」

 ここまではいいですか、と黒い目が理解の度合いを探ってくる。素っ頓狂な話だが、言っている意味は理解できる。

「けれど、言った通り例外もあります。その一つが鬼です」

 鬼、と言われて瞬時に脳裏に浮かぶのは2月の節分でお面や仮装で登場し、大豆を投げられる真っ赤な顔の二本角だ。意を得たりと芦屋がうなづく。

「鬼と言えば、もじゃもじゃ頭に赤い皮膚、虎柄のパンツを思い浮かべますよね。ですが、元々は中国の言葉で隠れるという意味のオンが転じて鬼になったとされています。このオンは、妖怪や幽霊などの胡乱な、言ってしまえばオカルトなものを指す言葉だったんです」

「その鬼が何で俺を襲うんだよ」

 恨まれる覚えもない。素朴かつ正当な疑問だろう。

「里中さんが鬼持ちだからですよ」

 先ほども聞いた言葉だ。

「幽世の存在を分類すると、タマとモノに分けられます。人魂なんて言うじゃないですか。幽世でのタマは人の器を得て現世で人となる。犬になる。猫になる。対して、モノは現世で器を得られなかった存在です。モノに形はありません。真っ黒でもぞもぞと動いて、言うならば、影みたいに見えます。そのモノは、どうにかして現世に器を得ようとします」

「器」

「はい。自分がなんであるかの定義を得ようとするんです。だから、モノは現を食う。医食同源とはこれも中国古来の考え方ですが、食べたものの力を得るとされているんです」

「俺に成り代わろうとした、ってことか」

 言って、待てよと首を傾げる。口裂け女のかたちをとっていた時点で、あれはモノではないのではないか。けれど、人でもない。もっと別のなにかだ。

「概ね正解です、思考の順序は間違っていません」

 冷えてしまった甘いばかりの缶コーヒーで喉を潤して、奇妙な話は続く。

「ここで出てくるのがオニです。オニはモノが現世に得た器です。人に害をなすモノをオニと僕らは呼んでいます。反対に利益をもたらすとカミと呼ばれる」

「人の利害で決まるのか」

「分類しているのは、所詮人ですから」

 ちょっとおかしいですよね、と芦屋が笑う。

「この定義から、あの口裂け女はオニとなります」

「待てよ、じゃああの口裂け女は何を器にしてオニになったんだ」

 ふふ、と芦屋がよくできましたとばかりに柔らかく微笑む。

「里中さん、寂しいと思ったことはありますか」

 また頓狂な質問だ。頓狂な話の途中だ、さもありなんと言ったところか。

「無い人間なんているのか」

「苦しいと思ったこと、悲しいと思ったこと、胸が引きつれるような思いはどうでしょう?」

「十七年も生きているんだ、よっぽどの鈍感野郎じゃなければそのくらいのことはあるだろ」

 何を言っているんだと苦笑が漏れる。

「胸にぽっかりと穴が開く、そんな表現がありますね。この時、本当に胸に穴が開く。これを僕らはウツロと呼びます」

 地面の棒切れを拾う。おもむろに運動会の練習に飽きた小学生よろしくがりがりと土を削って絵を描きだした。水分の多い土が顔を出す。そういえば、昨日は雨だった哉太はと思い出した。

「これなんに見えますか」

 上手いのか下手なのかは分からない絵があった。けれど、芦屋の描いた黒い揺らいだラインは妙に装飾的な持ち手の背の高いグラスに見えた。

「ワイングラス、かな」

 しかし、突然そんな絵を描きだす理由が分からない。

「里中さんには、そう見えましたか」

「そう見えた、って何だよ」

 意味深長に微笑んで、芦屋は地面の絵をつつく。

「実はこれ、グラスであってグラスでない。だまし絵なんです」

「だまし絵?」

「はい、見方によって絵柄が変わります」

 ますます意味が分からない。

 しかしながら、少年の話に乗る以外、哉太が自分の狙われた理由を知るすべはないのだ。理由が分からなければ対策の立てようがない。対策の立てようがなければ、防ぎようもないだろう。傾向と対策は、大事なことだ。

 煙に巻かれた気分のまま身を乗り出し、描かれた絵を凝視する。

 角度を変え、向きを変えてはみたものの、グラスは哉太にとっては手の込んだグラスでしかない。絵柄が変わるなど信じられなかった。

「元の位置に戻っていただけば見えますよ」

 やたらと移動を繰り返すのを見かねたのか、芦屋から声がかかる。

 言いながら、握っていた棒でグラスの上辺と足の土台を外枠にして絵の周りをぐるり、横長の四辺で囲む。そして、グラスの背景部分の土を浅く掘り起こす。背景は黒く見えた。

「黒い背景部分、見ていてください」

 むき出しにされた地面に視線を送る。

 まだ、グラスの絵でしかない。

「これは『向きあった二人の横顔』です」

 言い含めるように語調を緩め、芦屋が言う。

 瞬間、粗雑な絵はグラスから二人の横顔のシルエットに変わった。

「見えた」

 場違いだが、声が弾んだ。

 急に回路が繋がった。そんな表現が一番近い。スッとつかえがとれたような感覚だ。

 芦屋が眼鏡の向こうで目を細める。

「一つの絵に見えて、その実、二つの絵を内包するのがだまし絵です。現世と幽世の関係を表すのに一番近い。最初に見えたグラスが現世とすると、向きあう二人の横顔は幽世です。二つの絵は重なっている故に、片方を見てしまうともう一方の姿は見えにくくなってしまうんです。第六感や霊感と呼ばれる感覚は、実は誰でも持っています。けれど、人は案外単純なもので知らないものは見えないし、無いと思うものの存在を知覚することは難しいのです。幽世は変わらずそこにあるのに」

「でも、あんたにはどっちも見えていたんだろ」

「僕は知っていますからね」

 知っていた。それだけの違いで、世界の見方は変わる。芦屋はそう言っている。

「そして、貴方も知っていた」

 哉太は戸惑った。なんだか足元がぐらぐらと揺れている気がする。

 幽霊なんていない。オカルトなんて眉唾だ。だった。

「そんなもの、知らない」

「いいえ、貴方は知っている」

 芦屋少年は、断定した。今までの柔らかな口調はなりを潜め、強く言い切るその言葉に、前提が崩れていく。

 真実は、事実は。

「だから、貴方が狙われた」

 頭を殴られたような衝撃だった。

 芦屋が地面の絵に線を加える。目だ。髪だ。口だ。

 グラスは完全に二人の横顔でしかなくなる。

「この目は、噂だ。この髪は、怖れだ。それがオニを強くする。けれど、最初からあったこのグラスのラインだけは崩れない。揺るがない。この線をウツロを描いたのは貴方だ」

 ついと芦屋は目を細める。

「だから、最初から口裂け女が見えた」

「俺は、俺はそんなもの知らない!」

 哉太は怒鳴りながら立ちあがった。拍子に蹴り飛ばした飲みかけの缶コーヒーが敷石を転がって、黒い帯を引いていた。

 さわさわと笹の葉がそよいでいる。風だ。龍の顔をかたどった手水から、ぽたりぽたりと滴り落ちていた。

「いいえ、知っているんです。認めたくなくても、知らないと思い込んでいても、貴方は知っているんです」

 声は、穏やかだった。

 穏やかなのに、深く重い。呑み込まれるようだった。

 圧し掛かってくる。

「哉太!」

 声がした。

 境内の敷地の外、低いつつじの垣根に手を掛けて、香澄が叫んでいる。

「逃げよう、そいつら変だ!」

 そうだ、逃げればいい。見たくないものからは、目を背けてさえいればいい。見えないものは、そこにはないのだから。

 哉太は香澄の右手を取って走り出した。

 

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口裂け女 @setu7anekdot

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