リブラ東京
神田朔
第1話
囁くような春の日差しが耳元を暖めた今日。それは夕暮れごろにほどけて、いずれ今のような、じんわり指先を覆う寒気を伴った夜がやってくるのだ。
守谷は普段着ている黒いスーツを着ていない。量販店製のジャンパーと、左官屋のようなカーゴパンツ。
夜の空気に負けないようにネオンサインが頑張って瞬いている。しきりに空に吸い込まれていく客引きの怒声が聞こえる。
守谷は、彼らを馬鹿にはできないと思った。今日のような快晴にも、都会の残業が生み出す光たちが、星空を一切見えなくさせているのだから。
普段なら彼もさりげなく手帳をチラつかせて、この男——女子高生と二人だけのカラオケボックスに誘い込もうとする——を追い返すところだが、今はそれどころではない。
「諦めな。俺は今あまり目立ちたかない。木曳田組の勅命だ」
守谷は適当にうそぶいた。
「おーっと、これはこれは……」
そそくさと退陣する男を見送りながら、守谷は下唇を噛み締めた。
結局のところ、俺は、ああいうやつと同じ人間だと自分で認めたくないだけだ。
道を塞ぐゲロ塗れになったビールケースを蹴り飛ばす。
灰色の雑居ビルの地下一階。肝が冷えるくらい階段の奥は真っ暗だった。
今日一日散々走った後だったので、守谷の服はじとっと背中に貼り付いて離れない。
他の捜査員の数人かを呼びつけるつもりだったけれど、いかんせんこれ以上の人数は目立つ。まるで黒い団子が徘徊しているようなものだ。
「ええ、守谷です。今から雑居ビルに入ってみます。新宿歌舞伎町1―38……」
気の抜けた返事がもごもごとトランシーバーを伝わってきた。上司のうちの誰かだった。
「ったく」
状況は楽勝な詰将棋のようなものだったが、しかし侮れない。気丈な刑事たちの中にも、いい加減脳と筋肉の疲労に耐えられなくなった者たちが出始めている。若い割には守谷はうまくやっている方だと評されたが、今の守谷はそんな次元では生きていなかった。その涼やかな眼は、もはや肉食獣のようにらんらんとしている。
人の喧騒がバックグラウンドミュージックになって、いつしかこの歓楽街が静寂に包まれたように勘違いしてしまう。
守谷は鼻で冷たい息を吸った。大都会の明けない夜の中、永遠に辿りつくことのない標的を探し続ける重圧は、誰よりも深く分かっているつもりだ。
あの不自然な冷静さ。時間が不整脈のように遅く流れたり早く流れたり。誰とも交わらない他人の集合体。いずれやってくる夜明け。
街というものには、ある種の意思がある。特に都会は。
都会はすべての歯車のずらし方を知っている。上京して別れた彼女に二度と出会わせないこともできるし、哀れな老人の民事再生手続きを必ず失敗させることもできる。どんなに手を尽くしても都会の決めた未来には勝てない。
都会で生まれ、都会に抱かれた人間は、都会の持つ魔法然としたエネルギーに気づかない。むしろ東京に憧憬の念を抱いてやって来た少年少女だけが、そのちぐはぐさを敏感に感じとるのだろう。
俺は違う。
守谷は静かに地下へと続くコンクリの階段へと足を踏み下ろした。地面の下へと潜り込んでいこうとする冷気がその背中を押す。
俺は、俺だ。誰のものでもなく。
守谷は、東京に背を向けてアンダーグラウンドに沈んでいった。もはや「東京」は「都会」という普通名詞そのものになった。
守谷はこの瞬間、すべての人々の息づく世界に背中を向けたのだった。そしてその勇姿を、東京の雑踏のうちの誰一人として注視していなかった。
紫色の扉が間接照明で不気味なピンクに輝いていた。剥げ落ちた削り字で「まっさーじ」と記されている。
残弾数を確認してから、守谷は拳銃をベルトのすぐ上に差し込んだ。個人的な趣味で、ホルスターは使っていなかった。ある程度の年齢になれば何かしらのこだわりは生まれるものだが、守谷はまだ25にもなっていない。
押し開いたドアから、レロンレロンと艶かしいベルの音が鳴った。その音があまりに倍音的に耳を覆ったものだから、守谷はぞくりとして飛び上がってしまった。
「はいはい。」
女のかすれた声がカウンターの裏手から響く。濃い酒を毎夜煽っているような声だと思った。
内装も目を当てられないほどあられもなかった。カラーインキに浸したような壁に、ユニットバスみたいなタイル床。蛍光の混じった暖色で取り揃えられた調度品の数々。申し訳程度に置かれたパキラの鉢が、余計に不審さを水増ししていた。
カウンターの奥には各国の酒のボトルが所狭しと並んだ台があった。不思議とワインは無く、しかもほとんどの瓶は空っぽに近かった。
その脇に成人コーナーの間仕切りのようなカーテンがかかっており、その奥がスタッフルームのようだ。しかし間取りから考えても、たぶんあの奥に大した空間はないだろう。
守谷は刑事の習性であっという間にこの店の空間を把握した。わざと猫背気味になり、ポケットに両手を突っ込んで、一般人を装うことも忘れない。
「お待たせしました」
五十程度の女が輝きをもった眼で、例のカーテンから飛び出してきた。おそらく久方ぶりの客なのだろう。それならそれでもう少し早く出てきてもいいはずなのに。
「ああ、ええ」
守谷は間の抜けた声で応えた。
その女の風態には、守谷個人は好感を持てた。無駄に若作りしていないし、多少シワがあるが化粧で誤魔化してもいない。根が美人なのだろう。シックなドレス風の洋服は、マッサージ屋らしく見た目に反して動きやすいものになっている。
「あらあ、美人さんねえ。」
守谷は女の下卑たお世辞に苦笑した。とはいえ曽祖父がロシア出自かつ、長髪で158センチの守屋が、今日まで数え切れないほど女性に間違われてきたのは本当のことである。
「さあさ、ベッドに……」
「いえ、そこのチェアで」
カウンターから駆け足でぱたぱたと出てくる女を、守谷は不自然でない程度に、しかしはっきり有無を言わさぬ調子で押し留めた。
店の大きく開いた場所には、高校の保健室のようにカーテンで区切られたベッドが二台鎮座していた。そしてその横には古ぼけてスポンジが見え隠れしている皮張りの椅子が置いてある。ものを置ける台座も肘掛の横に取り付けられているので、あそこでも問題はないだろう。
「そうですの……わかりました」
女はちょっぴり悔恨を滲ませたが、守谷は気がつかないふりをして、上着を脱いで脇にあったハンガーにかけた。
「それでは、じゃ、そこに」
女のよく通る声に押されるようにして、守谷はなされるがまま座り込んだ。思ったよりも座り心地が良い。海外製だろうか。
「お飲み物は?」
「ソフトなら、なんでも」
酒を飲むわけにはいかない。そもそも守谷はここでどんな飲料でも食品でも口に入れる気はさらさらないのだが。
しかし女は微動だにせず、守谷の整った顔立ちを値踏みするように見つめているだけだった。守谷はため息をついて、片手をあげた。
「それじゃ、生ビール」
「かしこまりました」
女がカウンターの方へ消えていった。ジョッキが2つビールを注がれてきらめいている。女は一旦カーテンの奥に消えて、それからカウンターに現れてジョッキに氷を入れた。守谷は予断なく周りを見渡しながら、女に背中越しに話しかけた。
「ここは、お一人で?」
「ええ、昔はバイトでもう一人居たんだけど、なにせこんな不況じゃね。ほら、ベッドも二つあるでしょ。名残なのよ。ほんとはあなたもそっちで……」
「いえいえ、そこまでじゃありませんから」
まさか公安部刑事が、半裸で寝転ぶような無防備な真似をできるはずもなかった。
守谷はこれからどうやって状況を詰めていくか考えはじめていた。事実この場所が本拠地という確証も何もない。ここに入った理由は、うら若き守谷刑事の勘に近いものだった。最前線で犯人を追っていた守谷には、あの犯人が今も地上に隠れているのなら、いまだに捕まらない訳がどうにもわからなかったのだ。
深い思考に落ち込んでいく守谷の紅い頬を、ぬめる冷たい皮膚がさっと撫ぜた。守谷はまた飛び上がる。
女の左手だった。
「やっぱり、若いわね」
守谷は引きつった笑いを浮かべて、それからあまりに不注意だった自分を呪った。この女が犯人であるとは到底思えなかったが、あの手に剃刀が握られていたらとっくにお陀仏である。そもそも容疑者にマッサージされたなどとバレれば、上司にどやされるだけでは済まないことは目に見えているのだが、守谷には客としてここに居座る以外に、疑われずに捜査を続ける方策が見つからなかった。
俺は、命をかけている。
その響きが嫌に鮮明に聴こえて、守谷は身震いした。
「お客さん、いくつなの?」
女が背後で手を油のようなものにぴちゃぴちゃ浸しているのをはっきり聞いた。
「この服のままでもいいですか」
質問には答えず、守谷は訊いた。
「ええ、別にいいわ。今手を温めてるから」
守谷はふっと息を吐いた。
「それで?おいくつなの」
「……25です」
嘘を言うメリットはない。大きな嘘を突き通すためには細かい真実が必須となる。
女は大きな声をあげて、それからささやいた。
「そう、息子と同じね」
それがあまりに耳元だったので守谷はたまらず振り返りそうになったが、なんとかとどまった。
その瞬間、守谷はだぼっとした黒いカーゴを着た太ももに、柔らかな感触を受けて「うわっ」と大きな声を出してしまった。
女の体温まで温められた手が、形を確かめるように守谷の太ももをさすったのだ。守谷は、おかしな意味でなく、反応せざるをえなかった。何しろ腰には小型とはいえ拳銃が仕込まれているのである。このまま下手なことを許して正体がバレたらことだった。
「あら、こういうのはダメなのね」
女は少し失望した様子で、両の掌を肩に置き直した。その掌は男くらい広く、そして守谷よりもよほど広かった。
ゆっくりと女が肩の肉を揉みほぐし始める。守谷の知っているような単調なやり方ではない。首筋の肉の合わせ目から、まず筋膜全体のずれを確かめるように人差し指が二の腕までを滑走していく。
守谷はしばらく何も考えられなかった。胸より上しか触られていないのに、女に体全体の仕組みを解明されつつあるようだ。
「ねえ、あなたお仕事は?」
守谷は答えるのにわずかなラグがあった。
「建設業というか」
「ふーん、デスクワーク?」
女は肩と鎖骨の間の落ち窪んだところに親指を差し込んで、まるで守谷の猫背を矯正するように反らせた。
「両方少しずつ。現場も書類作成も」
「へえ、あなたはたぶん手をよく挙げっぱなしにしている仕事かと思ったのよ。そこの筋肉が発達している。ねえ、あなたこんな猫背になったのは最近?」
守谷は素早く息を吸い込んだ。女の手はまるで熱や血流を伝導させるかのように右肩から左肩へと、力いっぱい肉を押し込めた。老廃物や血球がじんわり動き出す。徐々に本来の弾力が生き返りつつある気がした。
「最近忙しくて」
「あ、そう」
女は守谷の答えがあまり答えになっていないことをはっきり見抜いたに違いない、と守谷は思った。自分がもう少しうまく立ち回れる自信はあったのだが、しかしやはりその場に立つと、ここは命のやりとりの場なのだという実感が湧き上がってくる。
「ねえ、」
女は、守谷の頼りない骨格をしゃぶるようになぞる。人差し指と親指で小骨を取るように挟み込み、そのまま周りに凝り固まったものをこそげ落とすようにこしとる。鯨がオキアミを飲み込む時のような。
「お名前は?」
「え?」
守谷は、だんだんぼうっとしてくるのを感じた。いったい俺はどんな質問をするつもりだったのだっけ。あの、同士討ちの犯人を捕まえるために。
このままじゃ、公安の笑いものだ。そうだ、俺は。
「シュンヤ、生島春夜。源氏名も同じです」
守谷は適当な偽名を言ってのけた。リアリティを含ませるためのさりげない嘘も交えながら。
女のきちんと切られた爪のある指が、グイッと首筋に食い込んで、守谷は驚いた。
「嘘ね。そんなわけない」
守谷はこの孤独な地下室で、一人戦慄した。ああ、この女はひょっとしたらこの辺りで働く人間を大概知っていたりするのかもしれない。そうすると俺の存在も知らない。
守谷は必死に取り繕う笑顔を見せた。
「都外でやってて。珍しく今日は東京に来てみたから」
「いいえ、都会で育った人は、そうだってわかるものよ。まあ、あなたの場合は初めから分かっているけどね」
女がコロコロと笑った。いかにも敵意を感じさせない笑いであることに、守谷はむしろ身構えた。
「ねえ、うそつかなくてもいいのよ。私、三枝子よ。まさか、母親の顔を忘れたの?」
守谷は、一瞬何が起こったのか分からなかった。三枝子。三枝子?まさか、だからあの現場は……
「ねえ、帝次、私に会いに来たんでしょ。あなたはそんな水商売なんかやってないもの。だってあなたは……」
守谷は悟ったような瞳で次の言葉を待った。
今や三枝子と名乗った女は、いや、母親は、本人も知らず知らずの内に一筋の涙を流していた。それはきっと、五年前に飛び出した息子に出会えた感涙なのだ。
「公安局に入ったんだもの」
守谷は静かにため息をついた。顔を下におろして、じっくりと時間をかけて肚を決める。
ここにいるのは、自分の母親だ。
「うん、ただいま」
守谷は静かに尋問モードに移行する。すべての時間と事件を解決しなければならない。この俺が。
彼女がゆっくりと首筋を揉みしだく。マッサージ自体はやめるつもりがないようだったし、彼女の好きなようにさせるのが孝行だった。それにこちらにとっても都合がいい。
「帝次、どうして顔を見せに来てくれたの」
守谷は小声で話し始めた。変わったことに、店の間接照明は夜が耽るとともにだんだん弱くなりはじめるようだった。
「犯人を追っていたんだよ、このあたりで」
「その人は捕まったの?」
彼女の心配そうな声が首筋に吐息となって伝わる。親指は休みなくぼんのくぼあたりを執拗に押していた。少し痛むが、気分が良い。
「ううん、まだだ。でもせっかく来たから」
それ以上は彼女も追求しようとはしなかったので、僕はひとりで勝手に話すことにした。場の不自然に凝り固まった空気をほぐすつもりだった。命の重みは感じられなくなったが、その分別の蒼いものが渦巻きはじめているのを確かに感じていた。この地下で迎える夜は静寂そのもので、家庭的なマッサージでだんだん暖かくなってくる上半身相まって、一生ここに居たいような気分に襲われた。しかしそれはやはり間違っている。
守谷はゆっくり話し始めた。
公安警察っていうのは、あんまり普通の捜査に出向くわけじゃない。民間の傷害事件とか殺人事件とかはいわゆる普通の刑事の領分で、特に公安部の刑事は基本的に国家とか対外の中で起こる事件なんかを扱うんだ。警察内のいざこざとかも公安の事項になることが多い。
そんな時に、とてもでかい事件が起きた。半年前に警視庁の公安部署の側が爆破された。これは別にオフレコにもなっていないから有名な話だと思う。しかも日本で初めて、犯行にドローンが使われた。種を明かせば簡単な話だよ。ドローンに衝撃誘発性の——例えばレバー式の——爆弾を積み込んで公安の資料庫に体当たりしたんだ。もちろんあんなちゃちなドローンに乗せられるくらいだから大した量の火薬じゃない。大きすぎても早々に発見されてしまうし、流通ルートからも足がつきやすいし。
だけど本当に運が悪かった。ちょうどあの階の部屋で会議が終わったばかりで、何人かはあの資料保管庫にたむろっていた。残りの大部分も階の廊下にいたし、職員もいた。そこに体当たりされて、二人が即死。保管庫内にいた残り全員も爆風と飛び散ったガラスのせいで大怪我した。その内ひとりは確か病院で亡くなって、ひとりは半身不随になって結局退職していった。残りはみんな吹き飛ばされて軽傷。そして最終人的被害が、四人死亡、五人重体、十八人軽傷。
警視庁付きの公安部でこれほどオープンな、そしてどでかい被害が出たことは、今のいままで一度もなかった。ここからは本当にてんてこ舞いだったよ。俺みたいな下っ端でも動員されたくらいだ。大方の職員が血眼になっていた。当然、公安部狙いとなったら、話は複雑化することになる。この仕事は本当に恨みを買う仕事だ。しかも金も権力もコネもあるような連中ばかり敵にまわしてきたとなると、犯人が誰かの手引きと考える方がしっくりくる。そうなるともう手のつけようがないわけだ。少なくとも実行犯を見つけられたとしても、そこから黒幕が引き出せる可能性となると、ほとんどない。
でも、事件は思わぬ形で決着がつきそうだってことが、つい最近わかり始めた。ドローンの残骸はほとんど残っていなかったけれど、たったひとつ保管庫の端に転がっていたカバーの残骸から多少の証拠が見つかったんだ。でもはじめは正直その証拠によって事件は難解さを増すだけだったんだ。俺も本当に消耗した。その証拠に5キロも体重が落ちた。俺だけじゃない。俺の知ってる限り、公安警察そのものを辞めちまったやつもいた。
話が逸れた。一番の決め手は、現場から3キロも離れたところの公園、しかも公園の前にある教会に個人所有で取り付けられていた監視カメラの中にだけあった。そんなところまで調べ尽くすにはゆうに半年近くかかった。なにせ目撃証言はかけらもなかった。あの頃はドローンの流行も最盛期だったから珍しいものでもなかった。むしろまったく関係ないドローンの目撃情報がいっぱいあった。それが捜査を大幅に遅らせた。
その防犯カメラには、公園の裏口の車止めに寄りかかってリモコンをいじっている中年の男が映ってた。今までのドローン関連の証拠はどれも事件で墜落した機体とは一致しなかったんだけど、その男が使っているリモコンを映像解析したら、事件機体とぴったり対応しているものだってことが分かった。専門家もカメラを取り付ければ3キロの距離を飛行可能だと言ったし、確かにそのリモコンには液晶が付いているように見える。事件当時の公園のことを覚えている人はほんのわずかしかいなかったが、どの人も、もしドローンが公園を飛んでいたら覚えているはずだと証言した。
もし事件発生時刻と同時に男のリモコンの液晶がブラックアウトしてたりしたら間違いなかったんだけど、教会の監視カメラはバッテリー節約のために十分間隔でしか映らないから、決定的瞬間は残ってなかった。まあ、六ヶ月近く前の映像を残していただけで奇跡に近い。世間の信用失墜も甚だしい今の公安部の命運は、その映像一本に託されてたからね。
顔の割れた男の身元は簡単に調べられた。身元を調査メンバー全員で確認してようやくすべて納得したよ。この事件の不可解な点すべて。
俺も先陣切って男のところに突入した。でも勘の良いやつで、男は逃げ出した後だった。
俺たち公安部の捜査部隊は必死に丸一日追いかけっこを演じ続けて、そしてようやく、今夜この歌舞伎町あたりに逃げ込んだことまでは分かった。周りには過去最大級の検問を張ってるから、この中にいることは間違いない。今、俺はその大捕物のクライマックスにいるんだ。
彼女は守谷の首の付け根を親指と人差し指で押さえて、天井に向けてぐいぐい引っ張る。まるで首ごとひっこ抜こうとしているようなマッサージだ。でもこれが痛くもなく、首筋に適度に効く。
「長々と話したたけど、これは誰にも言わないで。捜査上の秘密だ」
「分かってるわ」
彼女の相変わらずかすれた声は心なしか震えていた。生ビールのジョッキからまるで冷や汗のように水滴が伝っていく。比重を増して溜まりきったところでグラスの壁面を流れ落ちていく水は、守谷には流れ星のようにも見えた。
「飲まないの?」
すっかりぬるくなっているだろうそれを、守谷はまじまじと見つめた。そして少し首を傾げると、揉み解されていない左手でジョッキを掴んで一口飲んだ。
その様子を見て彼女が呟いた。
「あなたがお酒を飲めるようになったのね……」
守谷はその口ぶりにちょっとした違和感を覚えた。
「前も飲んで……なかった?」
彼女は夢見るような虚な瞳で、守谷の方を見た。
「あなたはお酒を飲まなかったと思ってたけど、それとも母さんに黙って外で飲んでたの? まあ別にいいわ」
守谷は左手が痺れてきたのを感じて、机の上にジョッキをゆっくり置いた。
「うん、最近は飲むようになった」
彼女は寂しげに、しかし右手の掌を握りしめるようにして揉み込んだ。
「そう。あなたがきちんとした大人になってよかった」
守谷は目を閉じて、申し訳程度に頷いた。
「ねえ、覚えてる?あなたが機関車のおもちゃを欲しがったけど買ってあげられなくて、あなたが自分でつくろうとしたこと。段ボールとかを近所の八百屋さんからわざわざ引きずって貰ってきて。でも坂を登ってくるときに引きずりすぎて汚れたから、ちゃんと使えるのは少ししかなくて、結局小さな機関車しか作れなかった。炭水車も貨車もないって言ってあなたは泣き喚いた」
甘ったるい芳香が部屋中に浸透して、守谷の周りを取り囲み始める。
「いや、もう覚えてない」
彼女はぼんやりと輪郭のない笑い声を上げた。右腕にした施術を、今度は左腕に一からするようだった。
「私のことはあなたに話したことはあまりないわね。でもいいわ、せっかく時間があるし」
彼女は慈愛に満ちた顔をして、夜空を仰いだ。もちろん暗く低い天井があるだけだったが、守谷の眼には、確かに彼女が地面を透かして遥かに広がる東京の夜空を見通したように見えた。
ちょうどこれくらいの時期。もう春なのかまだ冬なのかはっきりしないまま、ぬるい夜に突入していく時期。
若い頃の私は大学をやめた訳じゃなかったけれど、半ば諦めてた。よっぽどアルバイトの方に身が入ってた気がするの。でも、なんか、自分の子供にそういう話ってしづらいのよ。別に疲れてたり困ってる姿は見せてもいいと思ってるけど、無気力な親って嫌でしょう?
私がこう思うのは、たぶん私の父親が気力に満ち溢れてたからだと思う。うちの家系は、日本でも最後の方まで残ってた財閥の分家だった。
隔世遺伝っていうでしょう。ああいう家系じゃ、才能ある人はひと世代あけて生まれてくるものって決まってるものなのよ。父親がずっとケインズ経済理論の研究をしてる頭脳派だから、私はそうじゃなく生まれてきた。もうとっくに死んだけど、もしも生きてたらあなたのことを誇りに思ったと思う。
自分は母さんに似たんだと思うんだけど、父さんは絶対に認めなかった。出来の悪い長女と私の選んだ女性を比べるなっていうことね。まったく、死んだ時本当にせいせいしたくらいの堅物だった。
でも母さん自身が私に言ったの。「あなたは私そっくり」って。
今私がこんな街に巣食ってる姿を見たら母さんがなんて言うかはわからないけど。ともかく母さんもなかなかの放蕩娘だったみたい。
トランジスタラジオと魚肉ソーセージをポケットに突っ込んで一晩中帰ってこないことがザラだったらしいし、野犬の子犬に襲われたときは闘って殺しちゃっただとか、そんな話を幾つも聴いた。子守唄にしては少し過激ね。それも小学生にして、だから。
私はそこまで吹っ切れた子供じゃなかった。母さんは田舎の出だったし、末っ子だからそういう育ち方をしたのかもしれない。でも都会であの父親の下で育った以上は、母さんのようになるのは不可能だったと思う。
結局私は、父さんの生真面目さと母さんの学のなさを受け継いだのね。何の味わいもない子供だわ。多分父さんは、父さんの学力と母さんの大胆さを受け継いだ遺伝子が欲しかったはず。でもおかしなことにあれだけのバイタリティに富んでた母さんは、二人目を望む前にぽっくり逝っちゃった。
父さんは、三日三晩泣き腫らしていた。
あんなに不真面目でやりたい放題のあの母さんを、父さんのような旧態依然とした男が最高の女性だったと思い込んでいるのは、少しだけおかしかった。
私のおてんばさ——かわいく言えばだけど——はどんどん増してった。
私にとって、母さんは一種のブレーキだった。家に母さんのような社会も世間も知らず、お金の使い方も知らない女性がいるということは、私までが母さんみたいになってはいけないってことだった。
でも今や、母さんはいない。私は存分に母さんになり代わっていいはずだった。
あの頃は気づかなかったけど、父さんは、母さんのようなどこの馬の骨とも知れない女性を、由緒ある家系に引き込むことに散々苦労したに違いないと思う。親戚の白い目に耐えながら、資産や将来のことを一切気にしない母さんのことを抱きとめながら、自分一人でなんとかしようとしてた。
そんな身に余ることを志した父さんは、あまりに正義漢すぎた。何もかも救済する手立てを思いつかなければならないって思い込んでた。自分も、親戚も、今は亡き愛する妻も、みんな幸せになれるような結果をひたすら探してた。
でも、今なら分かる。私はこの仕事をしながら生きてきて、成功者とも落伍者ともお話して、ようやく分かったの。全ての人が上手くいく方法なんてどこにもない。
父さんは頭でっかちだったからそれが分からなかった。
父さんは目に見えてげっそり痩せたわ。
みんなが幸せになるためにどうすればいいのか。父さんがたどり着いた結論は、「私が一人前になること」だった。
確かにそうかもしれない。私が研究者やら政治家やら、何かしら価値のありそうな公的機関に勤められれば、みんなの溜飲が下がるだろう。それどころか「やっぱり、君結婚して良かったな」と見ず知らずの親戚が父さんの肩を叩くことになるかもしれない。
父さんはひたすら、遅すぎる英才教育を私に注ぎ込もうとしたわ。
もちろん私は頭ごなしにつっぱねた。そういう時には、父さんは、「母さんは、お前が立派になることを望んでいるよ」と私を諭すがお決まりだったわ。
でも私はその意味がさっぱり分からなかった。
だってあの母さんが、そんなことを言うわけがないもの。
「生きていさえすりゃなんとかなるでしょう」とか言うに決まってるわ。
父さんは母さんに対しては、本当に盲目だった。
でもおそらく結婚生活というのはそれが一番大切なんでしょうね。相手を盲目的に信用できたら、どんなに辛くとも、まあなんとかなる。
あの二人は、私の知る限り最高の夫婦だったんだと、信じてる。
結局、父さんは無理がたたって死んでしまった。その多くは私のせいだったんだろうと思うと、少しだけ、スポイトで垂らしたくらいの涙が出た。そんな覚えがあるわ。母さんの時には泣かなかったのにね。
多分私の涙は同情の涙なのよ。母さんはちゃらんぽらんで、悩みなんて一切なく死んでいった。あの人は心から幸せだったことが分かっている。父さんは散々苦しんで死んでいったのが分かっていたから、多少は悲しい気持ちになれた。
でも、どちらにせよ、私は二人が死んだことに関して、ほとんど悲しくなかった。親戚にお情けで用意されたマンションの一室で、高校生の私はただの一度も、二人の遺影に手を合わせたことがなかった。
彼女は一息入れるように、伸びをした。守谷は、よほど彼女の方が凝り固まっているのではないかとぼんやり思った。彼女は話しながらもずっと上半身を揉みほぐし続けていた。
「退屈かしら、私の話なんか。」
「いや。そんなことない。」
守谷の反応を見て、彼女は自然に微笑んだ。そして、守谷の小さな頭骨の形を確かめるように頭の頂点からその手を蜘蛛のように這わせた。そうだ、まだ頭が残っていた。
彼女は椅子の背もたれを倒し、守谷は床屋のシャンプーのような体制になる。すると文字通り顔面に熱せられたタオルが前触れなく置かれた。タオルを置かれる寸前、守谷は久しぶりに彼女の顔を見た気がした。
彼女は、好奇と寂しさ入り混じった複雑な表情で、瞳を濡らしかけていた。
父さんも死んでしまってからは、私はますますドラ娘になったわ。親もいないから、本当にただの野良のドラ猫ね。
父さんから受け継いだ真面目さのおかげで、犯罪はやらなかったけど、そのギリギリは色々やった気がする。好きでもない彼氏を連れ込んだりなんだり。
ともかく受験期になって、近くの私立に一浪して……今考えると恐ろしいわね。よくもあの一族が浪人を許したもんだわ。たぶん学費の大半は父さんの遺産から捻出したんでしょうけど。
ともかくなんとか行かせてもらった大学も、面白いもんじゃなかった。そりゃそうよ。あなたは違ったでしょうけど、あそこは私にとって、母さんの泥梨で尚且つ父さんのホームグラウンドなんだもの。とてもじゃないけど、あの頃の私が好きになれる場所じゃなかった。
これだけ親戚に金を使わせておいて何を今更と思うんだけど、あの時は「他人の金を使うのは嫌だ」って思ってバイトばかりしてた。まあ、だからといってマンションを安アパートに変えてくれなんて言えるほどの勇気もなかったし、たぶん大学から逃げ出すための自分への言い訳だったのね。
いくつか掛け持ちしてたけど、そのうちの一つがマッサージ店の受付だった。
こんないかがわしいところじゃないわ。きちんとした整体師が何人もいた。今はもうないし、あの時の先生が今も御存命かどうかもはっきりしないんだけど。
ああ、あれは面白かったわね。確かに一生の仕事を見つけたと思ったもの。はじめは受付だったけど、徐々にマッサージの基本とか人体の構造を教えてもらうようになってからは、眼から鱗の毎日だった。
今まで自堕落に生きてきた自分とか、今まで私を叱り飛ばしてきた大人とか、自分を愛してくれた親とかが、全部が全部同じ構造の肉の塊でしかなくて、限りなく奇跡的なバランスでたまたま生きていたに過ぎないんだってことがいっぺんに分かった。
私の親は死んでしまったけど、それも宿命でどうしようもないことだったんだって初めて思えたの。私のマッサージの先生は、その店の店長だった人だけど、その人が人間の真実を教えてくれた時——本人はただ人間の筋肉のつくりを教えているだけのつもりだったでしょうけど——私は知らず知らずのうちに泣いていた。
ああ、やっぱり私は二人の親を亡くして、誰にもまともに愛してもらえない人生に疲れてたんだ。私は、やっぱり母さんも父さんも好きだったんだって気づいた。
私は、マッサージ師になろうって決めた。誰かの心と体を癒したいからなんてそんな高尚な理由じゃないの。ただ自分がマッサージに救われたから、もうこの船に乗っていくしかない!みたいな気持ち。なるようになれってね。
結論から言うと、私はマッサージ師に向いてたと思う。
マッサージ中に一番大切なことってね、お客さんを眠らせてしまうことなのよ。リフレッシュするなら結局眠るのが一番だもの。でも大概の人は家で眠ると自堕落な気分になっちゃう。だからマッサージに来て眠る。それなら罪悪感が薄いでしょう?
マッサージをある程度やってれば、人を眠らせられるようになる。これは経験ね。でもそれまでの場を繋ぐのはやっぱり会話になる。そんな時に私はまったく会話に事欠かないから、マッサージ師に向いてたのよ。
だって自分の生い立ちを話せばいいんだもの。マッサージに来る人間はみんな大抵、体だけじゃなくて、心が疲れてる。そういう人たちは、意識してなくても、自分より不幸な話を聞くと安心するものなの。これは人間の本質がそういうものだから仕方ないわ。
でも、ひとりだけ上手くいかない人がいた。
春への変わり目のあの日、私はある若い男の人の施術担当になった。その人にも、相変わらず似たり寄ったりな話をしたの。自分自身の不幸な話。
そしたら突然ガバッと起き上がって、「そんな辛い話やめてください。あなた自身がかわいそうじゃないですか」って。
私はそんなことないって言ったんだけど、聞き入れなくて。
私、すっかり困っちゃった。だってそうでしょ?今まで自分の話をしてればそれで良かったから、他に話すことなんてなかったの。
しばらく無言で施術していたら、だんだんその男の人がぽつりぽつり話し始めてね。私は何を聞かされるんだろうって身構えたけど、彼が話すことは全部大したことじゃないのよ。昨日食べたカレーの店の話だの、卒論の結論の決め手だの、女受けしなさそうなことばっかり。
でも、毎週同じことを繰り返すうちに、大体お互いのことが分かってきたわ。
彼は奨学金で機械工学の学位を取ろうとしていて、家庭環境ではそれが限界だから早く就職先を決めようとしていること。
私は、不幸自慢でなく、もう単純な話題として自分の生い立ちを話して、卒業も危うい大学や、先行きのない未来に、ぶつくさ言った。彼は嫌な顔一つせずに私の話を受け止めてくれた。
私たちは。職場で逢い、二人で逢い、ごく自然に結婚を約束するようになった。
おかしな話だと思う。かたや奨学金の苦学生、かたや日雇いマッサージ師。しかも家庭環境はお互いがたぴし。
でも結婚することが、私たちにとってはもう決定事項のようなものだったんだから不思議なものね。
私は生まれて初めて勇気を出して、親戚縁者に結婚を申し出た。
当然、非難轟々よ。散々一族の金を食い潰してきて、数ある見合いも断って、就職するならまだしも、結婚だと、って。
それでも彼は一切身を引こうとしなかったし、私もぎゃあぎゃあ騒ぎ立てる親戚の反応をどこか冷ややかに見てた気がする。どうして私たちは結婚するのにそんなに文句を言ってるのかしら、って。
私の結婚話は、ある意味ではとんとん拍子だった。少なくとも家の体裁を保つために、その男がある程度の社会的名誉を持つならば結婚を認める。その代わり、その男に婿入りして二度と我が家の姓を名乗るな。金も出さん。こういう結論が一瞬で決まったわ。
でも私たちは、そのノルマをクリアするにはあまりに若くて、お金がなかった。
二人して最安値のアパートを探し出して同居することにして、ひたすら節約を重ねていくことしか思いつかなかった。私は通い先のマッサージ店に正社員申請を願い出たわ。幸運なことにそれはなんとか通って、出られるシフトは昼夜問わず出られるだけ出たし、休業時間は居酒屋のアルバイトも入れた。もちろん彼もひたすら勉強に勤しんで、合間には比較的身体的疲労の少なそうな、家庭教師のアルバイトを入れていた。
私たちの立てた計画は、彼が機械工学の博士号をとることだった。
彼にとって最も手近で最高峰の資格がそれだった。もっともそのためには何年もの時間がかかるのが難点だったけど、それでも彼が院に進む選択をしていてくれて本当に良かったと思うわ。
本当に、長くて、苦しかった。彼のお義父さんとお義母さんが理解を示してくれなかったらきっと無理だったでしょう。あの二人は本当に実直で、これ以上ないくらい優しかった。
「博士号」とかけまして「足の裏のご飯粒」と説きます。その心は「取っても食えません」
彼が大学で聞いてきた冗談だったけど、私たちはこれをとても気に入った。
そうよ、食えないわ。博士号なんて何でもない。私たちはただ、私たちであるためだけにそのかりそめの名誉を取るだけだった。その後どうなるかなんて知らない。でも唯一分かってるのは、何があっても今みたいに馬車馬働きでガムシャラになりさえすれば、人間は生きていけるってことだけ。
あの謎かけは、私たちのスローガンみたいになった。
そして、ようやくその時が来た。
親戚どもの鼻を明かしてやったようなつもりで結婚の報告をしたけど、みんな白々しい反応だった。きっと金に困ったことがないから、順当に勉強を重ねただけだと思っていたのでしょう。
でも。かけらも悔しくなかった。
彼のお義父さんとお義母さんは涙を流して、私の手を取ってくれた。私のことを、博士号という泥沼に一人息子を引きずり込んだ疫病神だとは、これっぽっちも思っていない二人の腕の中で、私は誰よりも泣いた。
彼、いや、夫よりも泣き喚いていた。
それから何年も経って、私たちは比較的上手くいっていたと思うわ。
あの人——あなたのお父さん——は、それなりの大企業の静岡工場でサブリーダーになった。私はマッサージ師の仕事が軌道に乗り始めて、そろそろ自分の店が持てそうなところまで来ていた。そう、この店ね。あの頃はもっとまともな店だったのよ。もっと大きなマンションに引っ越して、奨学金も全部返せた。
そして、あなたをようやく身篭って、私たちは幸せの絶頂だった。
お腹をほとんど一度も蹴らないのは少し心配したけど。
帝次と名付けたわ。決して深い意味があったわけじゃないけど、私たちはもう深い意味なんてこりごりだった。だってあなたは、私たちと違って、これからあなただけの人生を生きるんだもの。
あなたは私の父さんの血を受け継いだんだと思う。でも学力だけじゃなくて、あなたのその柔軟な頭の良さは、たぶんオリジナルのものだと私は思っている。全部が全部血で決まってるなんて考えたくないし。
ああ、そういえば偶然だけど、あなたと私の父さんは誕生日が同じなのよ。えーっと。いつだったかしら。
あなたが警察に入ってからちっとも会いにも来ないし連絡もよこさないから忘れちゃったわ。まったく。いつだったかしら?
あなたの誕生日はいつだったかしら?
いつのまにかタオルは取り外されて、守谷は仕上げに顔のマッサージをされていた。
守谷は目を閉じたまますべての話を聞いていた。まぶたの裏の毛細血管がじんわり温かい。
守谷の少年のような鼻筋の輪郭をなぞりながら、彼女がもう一度呟いた。
「ねえ、あなたの誕生日は、いつだったかしら?」
守谷は腹式呼吸を繰り返しながら、柔らかな皮膚に触れる手の感触を、長い間記憶に留めるように感じていた。
「ねえ、あなたの誕生日」
今まで自分の体に触れていたその手は、無数の人間の疲れを癒し、記憶を刻みつけてきた、素晴らしい掌だった。
「ねえ、帝次?」
守谷は瞳をゆっくり開き、自分の口の上にあるその右手をどけた。二度と、守谷の体に触れることはないであろう、その右手を。
「私は、帝次の誕生日を知りません」
「え?」
彼女は間の抜けた半開きの口で、上半身を起こしてそしてタイルの上に立ち上がった守谷の顔を見つめた。
「大人にもなると、人の誕生日はなかなか覚えていられません。いくら仲間でも」
「何を言うの、帝次?」
うろたえた彼女の手が、ほとんど減っていないジョッキにぶつかって、タイルの上で弾け飛んだ。まるで銃声のような音が響く。
「志野三枝子さん、私は彼の誕生日を知りませんが、命日は言えます。去年の6月15日。国家権力と相通ずる暴力団との抗争の末、凶弾に倒れました。」
言い終えてから、守谷はトランシーバーを口元に寄せかけたがすぐに止めた。
守谷はあまりに哀れなその枯れた体を掴む気にはなれなかった。
守谷は彼女から少し離れたところで、ゆっくり話し始めた。
私は警視庁公安部刑事の守谷と申します。志野さん。ええ、そうです。私は志野帝次ではありません。
どうか、落ち着いて聞いてください。これには極めて大きな問題が関わっているんです。お願いします、しばらくの間落ち着いて。
ええ、私は確かに志野くんと同い年でした。同期で公安部に入ったのは僕らだけですから、ずっと親しくおつきあいさせていただいておりました。
いや、親友と言っていいかもしれない。僕らの関係は、そんな他人行儀に語るよりも、もっと親密なものだった。生命と死に隣り合う仕事だからこそ、悩むことや心を割くべきことは想像よりも多いんですよ、公安部は。しかも派閥争いやら権力争いが日常茶飯事だし、巨大な公権力を前にしては真実をうやむやにしなければならないこともままある。
彼から、お母さんの話やお父さんの話はよく聞いていました。僕らは家族の話をよくするんです。刑事になってからお母さんのところへ一度も帰っていないことを、彼も悔いていました。
母さんはとても強い人で、若い時に苦労した分、今花開こうとしているんだって彼はいつも言っていました。父さんも母さんに感謝しているし、母さんも父さんに感謝している。自分は深く愛されて育ったんだと、聞いていました。
彼は機械工学の知識や人体の話をお二人から聞いて、それが業務にとても役に立っているとも言っていました。
彼は、本当にお二人に感謝していたんです。
そこで、僕は少しお訊きしたいことがあるんです。
彼が生まれてからの家庭環境についてです。
今のお話ではそこまでは聞けなかった。もちろん話したくないならそれで結構です。僕は大体の概要を彼から聞いていますので。そうですね、間違っていたら教えてください。
彼が中学生になった頃に、深刻な不況のせいでお父さんが職を失うことになったという風に言っていたようですが。
そして、それはあなたが新装開店したマッサージ店でも同じことだったのですね。まさにここ。なるほど、開店のために費やした借金もあった、と。
彼はそれでも、お二人のことを好いていました。
お二人ともどんなに苦しくなっても、帝次に満身の期待を込めて、大学まできちんと行かせてくれた。どんなに実情が厳しくても、彼に期待をかけた。そして決して進路や勉学に圧力をかけることはしなかった。
だからこそ、志野帝次はお二人を裏切らんがために努力を重ねて、この公安部にやってきたんです。彼は酒の席で言っていました——ええ、彼は酒を飲むようになっていたんです。やりきれないことばかりですから——
「俺は、あの二人の自由の象徴みたいなものだ。もちろんあの人たちは俺にそんなこと言わないけど、きっと俺が成功することを誰より願ってる。それが重荷で母さんの家に帰りづらいんだけど」
それが、彼との最期の会話です。
でも、これではっきりしました。志野さん。
私は言いましたよね、六ヶ月前の昨年八月にドローンによって体当たりされるという無人テロによって公安部は大きな被害を受けた、と
そしてドローンのカバーからとある証拠が出てきたとも申し上げたはずです。
それが、今は亡きはずの志野帝次の毛髪だったんです。
我々はその状況をどのようにも捉えられたはずです。例えば資料保管庫に二ヶ月前に殉職した志野帝次の毛髪が残っており、何かの拍子に付着したのだと。しかし保管庫に志野帝次が入室したという記録は一切ない。
私も含めて彼と接点のあった捜査員の一部には体調を崩したり欠勤する者すら現れた。このことがどんなに公安部が想像を絶する部署なのかを示す証拠にすらなる! 少なからず、志野帝次が恨みを持って怨霊となって舞い戻ってきたという想像を否定しきれなかったんです。吹っ切れなかった。その疑惑は暗いねばつく影となって捜査員の心にまとわりついた。
しかし私たちは、それを前向きな証拠として捉えることにしました。
私たちは、犯人が単独犯としても、ドローンの性能強化及び爆弾製造の可能な技術力のある者だということを認識していました。
帝次こそ工学の知識を持っていたじゃないか、という意見もありました。彼の知識は公安部でも広く知れ渡っていましたから。でも、私しか知らない事実がもう一つあった。
その知識は、まだ存命である彼の父親によって与えられたものであること。そして彼の父親ならば十分に動機があること——たったひとりの息子を殺した公安部。そして、自分たちの恋路をひたすら邪魔した一族の心酔していた、国家権力——
しかし私はそのことを誰にも打ち明けませんでした。
証拠もない上に、いくらなんでも帝次に顔向けができない結論だったからです。ひょっとしたら、僕は、帝次が還ってきたのかもしれないという事実を否定したくなかったのかもしれない。
ですが、時間が経って、あの監視カメラが発見されました。
身元の確認が取れた以上、捜査員たちはみんな私と同じ結論に達しました。そしてついに始まった大捕物。本当なら私は参加したくなかった。
しかし、まだ一つだけ、私しか注視していない情報があったんです。それがあなたですよ。志野さん。
あなたが既に離婚しているとは、誰が気づいたでしょうか?現在最重要容疑者であるあなたの夫の戸籍を調べたときに、離婚歴があることがわかりました。しかもたった五ヶ月前じゃありませんか。
捜査員は浮き足立ってあなたの夫の現住所ばかり調べていきましたが、帝次の隣であなたの話を聞かされていた私には見過ごせない記述でした。私は個人で調べることにしました。しかし帝次の母、志野三枝子の戸籍はどこをどう探しても出てこない。
どうやったのかは知りませんが、おそらく抹消したのでしょう。夫に見捨てられれば、後に残った身寄りは折り合いのつかなくなった親族だけですから。ええ、帝次はもういないのだから!
それでも、なぜ離婚したのかだけが分からなかった。でも、今までのことで大体察しがつきました。
あなたの夫の現住所は小さなアパートで、大家さんによると、五年前から一人暮らしをしていたそうです。
あなたたちは帝次が巣立ったすぐ後にどうにも首が回らなくなって、折り合いもつかず、別居するようになった。あなたたちの希望である帝次が独り立ちしていなくなった瞬間に、夫婦の最後のかすがいが無くなったんだ。
決定的になったのが、六ヶ月前に帝次が死んだ時です。あなたは帝次が死んだということをどうしても受け入れられなかった。あなただけは帝次が今も生きていると思い込んでいたんですね。私を帝次だと思ってしまうほどに。
そんな壊れたあなたを、あなたの夫は見ていられなくなった。あなたのそばにいるだけで、今は亡き帝次を思い出してしまう。だから別れたんだ。
それでもあなたの夫も帝次を忘れられなかった。だからこんな大それた事件に踏み切ってしまった。
わかりませんか?
帝次は、あなたには逢いに来なかった。でもあなたの夫のところには定期的に尋ねていたんだ!
厳しい家庭で育ったあなたは特に帝次に入れ込んでいたから、彼もあなたの側にはいづらくなった。しかし——あの大家さんが証言してくれました——父親の元には何度も帝次はやってきていた。だから父親の家で製作されたドローンに帝次の毛髪が付着していたわけです。
そして父親に会った帝次は、いつも仕事の辛さを吐露していた。国家権力のはざまでの息苦しい仕事の数々、命を張らねばならないプレッシャー。
あなたの夫は耐えられなかったんです。自分たちがあれだけ苦労して手塩にかけた息子が憎き国家権力に潰されていった様を!そして長年苦楽を共にしたあなたが全ての重圧を投げ出して、現実から逃げ出していくのを!
そして最後の最後まで追い詰められたあなたの夫は、あの犯行を犯した。
これが、事件の顛末です。
でも、最後に一つだけ。
私は、逃げ出したあなたの夫がこの歌舞伎町のはずれにやってきたのをずっと不思議に思いながら、追いかけてきたんです。どうしてこんなところへって。
私は、一縷の望みをかけて、検問内のマッサージ店を洗いました。そうしたら、どうでしょう。ここ一軒しかなかった。
あなたの戸籍は抹消されていたから、当然どこにいるのかなんて分からなかった。でも、あなたの夫が最後に頼るとしたら、もしかしたら、例えどんな状態だったとしても、あなたなんじゃないかと思いました。
私の勘です。
もしも、帝次の死に振り回されたあなたの夫が最後に行くとしたら、そこは「帝次の死んでない世界」なのかもしれないって。
その世界の住人は、志野三枝子さん。あなただけだ。
あなたのいるここだけが、帝次の生きている世界。
ねえ、どうでしょう。
さっき私がビールを頼んだ時、どうしてジョッキを2つ出したんですか?
そしてその後、カーテンの裏側に消えて、そして私にジョッキを1つ渡した。
あのビールの入ったジョッキは、どうしてカーテンの裏に置いてきたんですか?
ねえ、
あのカーテンの裏に誰がいるんですか!
守谷はトランシーバーを手に取った。
「志野の母親の潜伏先です。ええ、先ほどの住所……いえ、彼はまだ。でも可能性は高い……ええ、僕は大丈夫です。ええ、大丈夫です……本当に……」
白髪の混じり始めた女が、ふらふらと歩いてくる。
「帝次……帝次……ていじ……」
守谷は、焦点の合わない女の瞳を二度と見つめなかった。その手は墓から蘇った屍体のようにだらんとぶらさがっている。
おそらく、彼女は二度とその手で、生者に触れることはないだろう。
守谷はマッサージのおかげですっかり軽くなった腕と肩で拳銃を抜き取った。その腕は本物だった。悲しいくらいに凄腕だった。
拳銃を肩の高さにまで持ち上げると、様式美的に威嚇しながら、徐々に後退した。そして毒々しい紫の扉を後ろ手に開いて、外への通路を開く。
女は一向に怖気付かなかった。何一つにも気がついていなかった。
「守谷!よくやった」
地下室に向かって、上司が何人か拳銃を構えて駆け下りてくる。一緒に夜の外気が吹き降りてきた。
それはまるで、都会の勝利宣言かのように、守谷の耳に届いた。
どやどやと暑苦しい公安刑事たちが小さなマッサージ店に津波のようになだれ込む。あっという間に全員が部屋の中に収まってしまうと、不思議と空気が澄み切って、わずかな静寂が訪れた。怒声が飛び交い、発砲音こそしないが、グラスが一つ弾け飛ぶ破裂音が響き渡った。その薄い扉の向こうで。
ただ一人、守谷だけが悲しみを封じ込めるようにその扉を閉じて、冷ややかな外気を吸った。排気ガスと、生臭い人ごみ。諦めの気色。
守谷は無表情な東京の、汚い夜空に向かって登っていった。
リブラ東京 神田朔 @kandasaku
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