第10話顔合わせⅣ

 そんな出来事があった翌日からは、俺にとっての屈辱的な日常が始まった。

 最初の二日ほどは、自分の性格が満をそうしたのだろう。なんら抵抗なく明日奈に“様”を付けて呼ぶことができた。それも、意外にも楽しいと思いながら……。自分としては、みっともないとも思っていたのだけれど、それが案外に面白かったのでよかったのだけど、三日目くらいから思い始めたのだ。


「俺……こんなことでいいのかな?」


 昔の自分なら決してこんなことはしなかっただろう。いつまでも明日奈達の一歩先を歩いてきた自分が、今ではもう彼らの後ろ姿を見つめるのが精一杯のこの状況。そして、明日奈には賭けで負け、様を付けることになっている。今頃になって……。とは思うが、結局は自分のプライドがそれを許さなくなったのだろう。

 あの賭けの日に取り戻してしまった一抹のプライド。それが、日に日に大きくなってきてしまっている。

 そして、目の前にいる明日奈は窓から差し込む太陽の日によって、その黒色の髪が煌びやかに光を反射してくる。彼女の眩しさに目を逸らしたくなるが、逸らしてしまえば、


「なに目を逸らしてるのよ」などと言われてしまう。


 だからこそ、彼女の方を見ていなければならない。


「一樹、これから私は戦術の授業だけどあんたは受ける?」


「俺は受けないよ。そんなもん受けたって俺は無意味なんだからさ。明日奈……様も自分が得する授業を受けた方がいいんじゃないか?」


「いいわよ、そんなの。私が得意にしてるのは銃撃戦だけど、戦術を知ってなきゃチームワークの取り様がないわ。なら、この授業は私にとっては必須の授業であって、これを理解できなきゃ、戦場にはいけないようなものよ」


 自分にとって、戦術の授業がどれだけ大切なのかを口にしている彼女に、「意外と考えてるんだなぁ。こんな、がさつな女子なのに……」と心中では思いながら、会話を続ける。


「確かにそうかもな。明日奈……様の銃の腕は俺なんかよりも凄いからな。あとは、戦術を学んで代理戦争の選抜メンバーに入るだけだもんな。俺には到底、できないようなことをするもんな、明日奈様は……」


 明日奈の名前を呼ぼうとすると、必ず語尾に“様”を付けなければならない。

 それは一樹の心中でどれほどのものを植え付けているのだろう。どこまでも続く暗い闇の中、その闇の中で閉じ籠っている彼の影に鎖のようなものが縛り付けているような、そんなものが一樹の中で渦巻いている。

 名前を呼ぼうとするなら、鎖に縛られている彼がより強い力で体を締めつけられる。そのたびに、彼の心の中では悲鳴のようなものが上がる。

どれだけ痛かろうが、彼は諦めていた。


俺は勝負に負けたんだ……負けたなら、潔く明日奈のことを様付けして呼ばなきゃいけない。それがどれだけ嫌だろうが、それは守らなくちゃいけない。それが、彼の最後のプライド。


―――約束をしたなら必ず守る。


それだけが、彼の中に残った最後のプライドであり、昔の自分のプライドでもあったのだ。どれだけ他のプライドがズタズタにされようが、これだけは傷つけられることはないものだ。なら、これだけは必ず貫き通そう。

彼の心はそれだけが、最後の砦のように彼の心自体を守っている。


「一樹、私と一緒に戦術の授業受けなさいよ。あんたの頭は良いんだから、こっち方面で代理戦争の選抜メンバーを目指してみなさいよ。まだ、諦められるような状況でもないわよ? この分野は他の分野よりも狙ってる生徒が少ないんだから、一樹ならすぐに上位に上がれるわよ。だから、私と一緒に授業を受けに行くわよ」


「ちょっ、俺は良いって。俺なんてどうせ、もう……」


「うるさいっ!」


 そう言って、明日奈は俺の左腕を抱き寄せて、戦術の講義が行われる大講堂へと強引に連れて行く。一樹は、引きずられる様な形で教室から廊下へと連れられ、学生たちが普段生活している学舎とは逆方向にある戦術や情報処理といった授業が行われれる大講堂へと、嫌々ながらもしょうがなく明日奈と同じ歩調で歩いて行く。


「ねぇ、一樹……」


 廊下を歩いている最中、隣を一緒に歩いている明日奈が唐突に話しかけてきた。


「その……私にさ、様ってもうつけなくていいわよ。なんか、様って付けられてると他のクラスの人たちに凄い視線で見られるのよ……」


「でも、付けるって賭けで約束したんだ。それは守らなきゃいけないだろ。もう、それしか俺には残ってないんだからさ……」


「…………………」


「どうかした?」


 俺が口にした言葉がおかしかったのだろうか? でも、結局のところ、これが自分の本音であって、誰にも触れられるようなものでもない。もし、これに触れようものなら、無粋といえる人種になる。


「……でも、お願いだから私に様って付けないで。あの時は、頭に血が昇ってたからあんなこと言っちゃったけど、今からでも、それは無かったことにしようよ、ね?」


 隣にいる明日奈は、その一人だったようだ。その言葉を聞いた俺の頭の中では酷くもその言葉が響いている。


 明日奈は俺に何を言っているんだ……。


 そんなに俺のプライドをズタズタにしたいのだろうか。本当にそういう意図で明日奈が言っているのなら、どれだけ嫌な女なのだろうか。

 少しずつ疑心暗鬼に明日奈のことを見始めると、そこからはもう何も考えられない。隣にいる明日奈は、俺が傷ついていくのを楽しんでいる……そうとしか思えない。どうしてもそう考えてしまう。目の前にいる彼女は、本当に様って言われるのが嫌なのだろうが、それでも、俺の最後のプライドがそれを許さない。


「……頼むから、このままにしてくれ。頼む……」


 俺は下に俯きながら、大講堂へと続いている廊下を歩く。それでも隣では、何かを口にしようとしている明日奈がいて、その言葉が口に出されるなり、俺の感情は爆発五秒前までカウントダウンを始めた。そのカウントダウンは、明日奈が言葉を紡ぐたびに頭の中で響くように秒読みを始め、刻一刻と零へと近づいて行く。


「一樹、あのことはなかったことにしようよ。私は一樹と普通に話がしたいの。お願いだからさ、普通に話をしてよ」


 その言葉を最後に、秒読みは零と頭の中で轟いたのだ。


「…………明日奈」


 俺が明日奈の名前を呼ぶと、さっきまでとは打って変わって喜びに満ちている。が、逆に俺の表情には、その逆が浮かび上がっている。


「…………一樹?」


 俺の表情を窺った明日奈は、どこか心配しているようだ。でも、その心配がより俺の感情を高ぶらせてしまう。


「明日奈、お前さ……」


 そこからの明日奈と言ったら、嬉しそうな表情から悲しみの表情へと変わってしまう。


「そんなに俺のことを苛めて楽しいのか……そんなに俺のプライドをズタズタに踏み潰したいか……どこまでも俺のことを惨めな奴みたいに見て、同情して、そんなに自己満足がしたいのかよ!」


「そんなっ、私はそんなこと!」


 明日奈が何かを言おうとしても、俺の激情した心ではもう、これを止めることはできない。


「何で、お前はそんなに俺のことを傷つけたがるんだ! 俺だってな、本当だったらこんなに惨めな思いだってしたくねぇよ! お前たちの一歩前を歩いて、お前たちが迷わないようにするのが俺の役目だったのに、そんな役目は中学で終わっちまったよ。中学と今では全然、まったくもって俺の立場は落ちていくばかりじゃないかっ! お前たちは俺に同情の視線を送りつけてきては、「私たちは一樹の辛さを理解してる」そんなことを言っていても、結局はそんなのは慰めでしかねぇんだよ! 俺は、そんな慰めな視線が欲しいんじゃない。俺は、ただお前たちと対等に、それか一歩先を歩きたいんだよ。それで今、お前は俺に名前で呼んでほしいって言ったよな? それは賭けで負けた俺が必ず守らなきゃいけない約束事なんだ。それをお前はなんだ? 普通に呼んでほしい? ふざけんじゃねぇ! それはお前が俺を惨めだと思って言っていることであって、それを言われている俺の気持ちを考えてるのか! 俺の最後のプライドをお前は簡単に踏み躙ろうとしてるんだよ。何で、俺の気持ちを分かってくれないんだ!」


 一気に自分の気持ちを吐き出すように明日奈へと高ぶらせた感情のまま怒鳴りつけた。

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