第9話 アンドレアの手紙
街灯からは火を灯したばかりなのか、辺りには少しばかりオイルの匂いが漂っていた。
ジョエルはふと足を止め街灯の揺れる火を見上げながら話を続けた。
「さて、ニコ様。美しいものをより際立たせる、いや、美しいものがより美しく見えてしまうのは何故なのでしょう。ご存知ですかな?」
首を傾げ即答出来ないでいたニコを見て、ジョエルは少し間を置いてから再び話始めた。
「美しいものの横に劣悪なものを置く? 確かに美しさは際立つでしょう。しかしそれは表面的なものでしか御座いません。私が思うに、ものの内面に対照的なものを潜ませる、または抱え込ませる……。少しばかり抽象的な話になってしまいましたがそういったところだと思うのです。今は無理に理解せずともいずれこの意味がわかる日が来ることでしょう。老人の戯れ言として心に留め置いて下さい」
「ジョエルさん、あなたは……」
そこまで言い掛けてニコは口をつぐんだ。
「ニコ様、あなたはとても心優しきお方だ。私にサンケーブの話を戸惑いながらも話て下さった。そう、わたくしもニコ様と同じ、負けず嫌いな性格でしてな、同じ書物にたどり着いた一人なのです」
「え? トマの見聞録に?」
「ええ。ですからニコ様が少年の頃のわたくしと同じように見えてしまいました。書物の知識として真実を知り得たのですが、実際にその後、あの大穴へ行ったわけではございません、あそこに竜など居なかったのでしょう?」
ニコは足元に視線を落としながら呟くように話した。
「大穴には沢山の横穴があります。その幾つかはとても長く、外海にまで繋がっていました。普段は海水に浸かっていますが潮の引く干潮の時だけぽっかりと穴が姿を現します。そこに吹き込む風、それが……」
うんうんと頷きながら満足気な表情のジョエルの顔を見て、ニコは安堵の溜め息をついた。
「本当にありがとう。あなた様が素直な青年だという事がよく分かりました。安心してこれを渡すことが出来ます」
そう言ってジョエルは胸のポケットから一つ封筒を差し出した。上等の白い封筒にはしっかりとした封がしてあり、宛名も差出人も記載されてはいなかった。
「お嬢様からです。本来の職務上、一度は目を通さねばならないものかもしれません。ですが今は関係のない身の上、わたくしは今回見なかったことに致します」
ニコが手渡された手紙をバッグに丁寧に仕舞おうとしたときジョエルが一言添えた。
「目を通さぬとは申しました。が、失礼ですがニコ様、代読は宜しいですかな?」
「ん?あ、ああ。読み書きは父から教わりました。大丈夫です、気を使ってくれてありがとう」
「左様ですか。いらぬお節介となりましたな。失礼しました」
「いいんです。確かに僕ら庶民が読み書きできる方が珍しいかもしれません」
「おお、そう言えばニコ様は図書館にも通われる程でしたな。いやはや歳はとりたくないものです」
この時ニコは、ジョエルの矛盾を孕んだ言動に引っ掛かりの様なものを感じたが、ジョエルの人柄を疑う事なく信用し、気に留めずに流した。
「では僕はこれで失礼します。今日は色々とありがとうございました、また会いましょう」
「はい、それではさようなら。またお会いしましょう」
街路灯の下、ジョエルは直立の姿勢で手を前に組みニコを見送った。
そしてしなる弓の様な細い月を見上げながらポツリと呟いた。
「知らない方が良かっただなんて、知った後ででしか言えませんなあ、ニコ様……」
ニコは家に着くなり駆け足で階段を上がり、二階の自室のドアを勢いよく開けた。
沈みきった太陽が今日は一段と部屋を暗くしているような気がした。
ニコは机の上にある月をモチーフにした小さな燭台に獣油を注ぐと火をつけた。いつもならその火が生み出す"揺らめく月の影"を暫く眺めるのだが、その時のニコはアンドレアのことで頭がいっぱいだった。
袖口に忍ばせてある銀の折り畳みナイフと、バッグの中の封筒を取り出すと、手早く中の手紙を出した。
そして、手紙の内容を一読するかと思うと、それを丁寧に引き出しに仕舞い、火を吹き消し、また駆け足で家を後にした。
アンドレアの手紙
ーーーーーーーーーーーーーーー
ニコ 今あなたはどこでこの手紙を開いたでしょうか
突然の手紙に困惑されたでしょうか
私は今 いつになく気分の高揚を感じる反面 今後への不安が日増しに強くなっていくのを感じています
ニコ あなたに初めて会った日に感じた風は蝶の羽ばたいたそれと同じようなものでした
ですが日が経つにつれその時に感じた風が次第に私の心を揺さぶる程に大きく 強いものとなっていきました
気が付けばガストロフ先生やジョエルにあなたの事をいろいろと伺っている自分がいました
今 私の中に芽生えたこの気持ちが何物なのか はっきりとした答えとして出せるものではありません
ですが 未知のものを私に触れさせてくれた いえ 運んできてくれたのは疑いようもない事実です
そんなあなたに無理を承知でお願いがあります
どうか どうかこの私を一度でも 果てしなく広がる外の世界に触れさせて下さい
大きな屋敷の小さな世界の外側が 一体どれ程の広さなのか私は知りたい
手で触れ 耳で聞き 目で見て 鼻で匂いを感じたい
貴族の我が儘と 鼻で笑ってくれて構いません 無知で身勝手な小娘と思われてもしかたありません
ですが どうかお願いします
鳥籠の中の鳥にその羽根の意味を教えてください
四日後の九時の終果の鐘の頃 屋敷裏庭にてあなたが現れることを静かに祈りながら待っています
アンドレア・ロイ・リンクス
追伸
手を引いてくれるのがあなただったなら 私は例え何も見えない暗闇の中でも歩くことが出来るのよ
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