第6話 氷の花



 庭園の小さな水辺には、円型屋根の石造りの東屋ガゼポが景色に溶け込むように造られていた。柱に巻き付く蔦は太く、かなり長くこの場所にあることを意味する。


 ジョエルに先導され、二人は東屋に入り対面するように腰を下ろす。アンドレアの真横にはジョエルが手を前で組み、腰を下ろす事なく立つ。


「あら、ジョエル。今日は席を外してはくれないの?」


 とアンドレアが言うと、ジョエルは瞼をゆるりと閉じ、「はい」と一言だけ言った。


「それならば腰を掛けて構わないわ。ね、ニコ」


 同意を求められたニコはすかさず「うん」と頷く。


「それではお言葉に甘えて」


 ジョエルはそう断りを入れた後、ニコとアンドレアの間を割るように、真ん中へと腰を下ろした。


「何から話したらいいのかな」


 ニコは東屋の小さな天井を見上げ、記憶のページをパラパラとめくる。バラけたそれらは様々で、楽しかった事や辛かった事、強烈な印象に残るもの、現実離れしたものなど多岐にわたる。


 挟まれた栞の一ページ。


 今でも冬の冷たい香りを感じると、思い出す事がある。ニコは話し始めとして、ある農村の近くで出会った不思議な少女の話を選んだ。


「八番通りの終わり、小ベンベル門を出て北西に。確か丸一日歩いた先に、名前もない農村があるんだ。その近くでね……」



 浅い雪に包まれた土地は、何処までも見渡せる平原。開拓者の功績で森の姿は遥か遠く、山の麓まで押しやられている。つまり雪の下は一面の耕作用地になっている。秋に蒔いた麦は、この雪が溶けた頃に芽吹き、雄大で綺麗な緑の絨毯を何処までも広げるだろう。


 大地を割るように流れていたであろう、凍結した河に渡しの姿は無く、対岸と対になった丸太小屋があるのみだ。


 ニコは冬場に、川縁のこの場所でしか採れない植物の採集に来ていた。


『氷の花』と呼ばれるその植物は、見た目は刺々しい六枚の大きな花弁で、濃い水色に染まる美しい花。


 何の用途もないために、栽培する人はおらず、市場に出回ることはない。ニコがこうして自生するものを採りに来るしか入手方法はなかった。だが、誰も見向きもしないこの花は、ニコにとっては貴重な存在だ。


 ニコは父から受け継いだ、自然界からの顔料の生成方法を熟知している。そして、この氷の花からはとても発色の良い、良質の顔料がとれるのだ。


 一人でこの地に訪れるのは三度目。ニコは川縁の大きく突き出した岩の上に立つと、辺りを見回す。良く目の利くニコは、群生する氷の花の場所を素早く見つけ、その場へすぐさま移動した。


 例年ならば、百や二百は咲いていた花は、その年、数を大きく減らしていた。ニコは不安に思う。昨年は確か、欲をかいてたくさん摘んでしまった。


「植物も動物も、限度を越す量を急激に減らせば、その種は姿を消してしまう」


 ニコは父のその言葉を思い出すと、自分が招いてしまったかもしれないその出来事を悔やみ、心を痛めた。そして心の中で謝った。(ごめんなさい。今年は摘まずに帰るから、また来年よろしくね)


 小さく肩を落として振り返り、自分のつけた足跡を辿りながら帰路につこうとしたその時だった。


「ありがとう」


 とても小さなか弱い声。聞き間違いか。再び氷の花に目を向ける。人の姿などあるはずが無かった。だが違っていた。


 雪を割り群生する水色の花畑の中、ぽつんと一人立つ少女。雪の様に白い肌、薄く青い長い髪、そして、冬に不釣り合いな透き通って見える白い布地の服装。目を凝らし、良くみれば素足だ。


 突然姿を現した少女に、ニコは驚き後退りする。少女はそんなニコの仕草を見て、微笑んでいるように見えた。


「君は誰? そんなところに素足で、さ、寒くはないかい?」


 その微笑みを見て、ニコは声を掛けていた。しかし、少女は時折まばたきをしては、ニコを見つめるばかり。


 敵意があるような感じではない。それはこちらも同じ。そう感じたニコは一歩、また一歩と距離を詰め寄った。


「駄目、そこはもう踏んだら駄目」


 少女は急に悲しげな表情でそう訴えた。声は明らかに大きくはなっていたが、それでも声はまだか弱い。その場所には、先程つけたニコの足跡があった。滲んだ雪の下に氷の花の茎が潰されている。はっとした表情でニコは少女を見ると、彼女はゆっくりと頷いた。


「若い芽は二三度なら踏まれても、それに負けじと芽吹いてくれるの。でも年を重ねたそれは……」


「ああ…… そんなつもりじゃなかったんだ本当だよ。君の花だったんだね、ごめんよ」


 少女は首を何度も振り、責めているわけではないことを素振りで伝える。それに続けて一言を添えた。


「私達をいつも愛でてくれてありがとう。貴方の手で私達は姿を変え、いつまでも淡く輝いていられる。また、来年逢いましょうニコ」




「ーーーそう言って、その女の子は冷たい風と共に消えたんだ。僕はまだ色々聞きたい事があったのに」


 アンドレアの目は輝きを増していた。まるで劇場の歌劇に入り浸ったような目になっている。

 ジョエルはどこと無くいぶかしげにしていたが、話の結末を聞くと、目を見開いた。


「妖精の類いでしょうか」


 ジョエルは紅茶を注ぎながらニコと顔を見合わせる。アンドレアはニコの返答を嬉々とした表情で待つ。


「正直なところ、それは僕にもわかりません。ただ、彼女の最後の言葉の意味が、未だにわからないままで」


 ニコの返答をジョエルは一旦頭の中で巡らせ、少女の最後の言葉の意味を考察する。


「ニコ様はパステルの職人でしたね。ガストロフ先生のお眼鏡に敵うと云うことは、その若さで大したものだとわたくしは感心しております」


「い、いやあ。ありがとうございます」


「ところで、ニコ様。今日はパステルをお持ちで?」


 遠巻きに話を進めるジョエルに、ニコは何かを察し、ガビーの為に持ってきた予備のパステルセットをバッグから取り出す。石机の上に差し出すと、アンドレアとジョエルは興味深く覗き込んだ。


 八色からなるセットは木箱に丁寧に納められている。真綿が敷き詰められ、一本づつ紙で巻かれていた。その一つ、深い水色のパステルにジョエルは手を伸ばし、眼鏡越しにじっくりと観察する。


「このパステルの原料が、例の氷の花でよろしいですかな」


 ニコは驚きの表情をもって「はい、そうです」とだけ答えた。ジョエルの観察眼と考察力は流石名家に仕えるだけのことはあるとニコは思う。


「氷の花に精が宿ったとして、人と同じように口が聞けたとして、ニコ様に伝えたかった事。それはこれではないでしょうか」


 ジョエルはパステルを手のひらに乗せ、ニコへ戻す。


「なるほど。僕の手で姿を変え、いつまでも輝き続ける。加工されて顔料になり、それを画家が使い、絵が残る。いつまでも氷の花が咲き誇るって事なのかなあ」


「ですな」


 ニコとジョエルは顔を見合わせると、両者共に笑みを溢す。一人蚊帳の外にいたアンドレアは僅かに頬を膨らませ、口をつんと尖らせる。


「なんだか二人だけが楽しんでいる感じだわ。ねえ、ニコ。私にもパステル見せて」


 すっかり年相応の少女へ戻ってしまったアンドレアに、ジョエルは優しく暖かな視線を送る。そんな小さな変化に気付く筈もないニコは、パステルのセットをアンドレアの前に差し出した。先程の氷の花のパステルを眺めたアンドレアはあることに気が付いた。


「ねえ、ニコ。パステルに巻いてある紙に詩が書かれている。『雪解けを知らせるか弱き笑顔』 素敵ね。色のイメージにピッタリだわ」


「ほう、見落としていましたな。どれ、これは…… 『四ツ葉、君が』 ですな。何やらこのあとに続く言葉がありそうですな。しかし、パステルその物の色とは、イメージがかけ離れておりますなあ」


 ニコは急に赤面しうつむくと、帽子を深く被りもじもじと体を縮める。何かに耐えられないといった表情は、とても恥ずかしい秘密が白日の元に晒されてしまったかのようであった。

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