学校を「わがまま」できる空間に。富永京子『みんなの「わがまま」入門』

この本は社会学者の富永京子さんが書いた若者向けの「社会運動」入門書。だけど、学校の教員が読んでもとても面白い。なぜなら、ここに提唱していることの「反対」を学校がやり続けていることに気づかされるからだ。僕は苦笑しながら読んだし、同じように読む教員も多いと思う。オススメの一冊。


なぜ社会運動にはマイナスのイメージがつくの?

誰もが生きやすい社会を作る上で、社会運動の果たす役割は大きい。もっとも基本的な参政権だって、社会運動なくしては獲得できなかった。でも「社会運動」は何か特別で、自分からは遠い….。「普通」ではない気がする…。そんな印象を持っている人は少なくない。それどころか、「迷惑」「自己満足」「偽善」「批判ばかりで代案がない」…などのネガティブなイメージさえつきまとう。この本は、そんな社会運動への批判を具体的に取り上げながら、社会運動のネガティブなイメージをほぐして、その意義を捉え直し、プチ社会運動としての「わがまま」の実践を提案していく本である。


「わがまま」という気軽な参加をしよう

社会運動入門書としての本書の白眉は、多くの活動家に取材した知見も踏まえながら、「わがまま」という軽い語感の言葉で社会運動への気軽なコミットを提案していることだろう。こっそりやる、続けなくていい、自分に関係なくても言っていい…。社会運動実践へのハードルを下げる筆者の提案は、社会運動を「言ってることは正しいんだろうけど、なんかね」と引いて見ている読者に届くように、とても具体的で戦略的。想定される反論への再反論がいちいち用意されていることもあって、読んでいて納得感が高い。


「わがまま」が言えない場所、学校

ただ、それ以上に僕たち教員にとって面白いのが、いかに学校がこの「わがまま」が言いにくい空間なのか、ということ。学校は年齢で輪切りにした生徒に同じ服を着せて、誰もが普通という幻想を作り出す。この結果、個別のニーズ(「わがまま」)に応えることを「特別扱い」にする。生徒にはまずはルールに従うことを求め、その振る舞いを評価する。ルールを変えたい生徒には、委員会や生徒会など所定の手続きを経ることを求める。語気強く批判をする生徒には言い方が悪いとたしなめたり、「批判だけじゃだめだ」と代案を求めたり…。これだけ政治参加のハードルを上げて、一方で中途半端な諦めにも「そんなことじゃダメだ」と指導する人もいる。


書いてみると、これほど「気軽なわがまま」が言いにくい環境も珍しいんじゃないかと思わされる。これでは、国語の授業で学ぶスピーチや議論の仕方も、公民の授業で教わる政治の仕組みも、学校生活に実在する「政治」とはほとんど関係がなくなってしまう。こうして、生徒は「公的な政治は自分の生活と関係がない」「多少の不満なら「わがまま」を言わずに黙っていた方がいい」ことを学んで卒業するのだ。


学校を「わがまま」を言える空間に

学校を「わがまま」を言える空間にしよう。本書を読んで思うのは、まずそのことだ。個人が声を上げることは、政治参加の第一歩。そこに大きな責任を負わせずに、気軽に「わがまま」が言えるようにしよう。小さくていい。続けなくていい。自分に関係なくていい。この本で示されたプチ社会運動を実践するための処方箋は、そのまま、学校を民主的な空間に作り変える処方箋でもある。もちろん、学校というコミュニティは完全にフラットな空間ではないので、限界はある。それでも、より民主的な社会を形成する準備段階としての、より民主的な学校づくりはできるはず。この本は、その具体的な方法を示してくれる一冊だ。ぜひどうぞ。


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