第15話  始動 後編

第十五章  始動 後編






「よ~し、今日はここまでにしましょうか。怪我防止のためにちゃんとクールダウンしなさいよ」


昨日の宣言通り陽が落ちるギリギリまでの練習を終え、沙希がパン!と手を叩くと、奈月を先頭に軽いジョギングをした後、念入りなストレッチを全員で行う。


クールダウンとは、早い話がその日の疲労を翌日へと持ち越さないために行うものである。


ジョギングにより血管の収縮を促し、筋肉内に溜まった疲労物質を分解して体外に排出するサイクルを早め、さらにストレッチによって筋肉が緊張した状態のままになるのを防ぎ、柔軟性を回復させるのが目的だ。


チームによっては特に怪我をしやすい投手だけクールダウンをさせるところもあるが、沙希はこれを全員に徹底してやらせていた。


九人というギリギリの人数では怪我人が出た時点でアウトという点もあるが、何より沙希自身が怪我による恐ろしさを誰よりも理解しているからであろう。


「じゃあストレッチしながら聞いてね。前に言ってた朝練についてだけど、目途が立ったから明日からやるわよ」

「げぇ……マジでやるのかニャ……」

「そんなに喜んでくれるなんて手はずを整えた私も嬉しいわ、ののあ」

「これが喜んでるように見えるなら眼科に行ったほうがいいニャ……」


愚痴りながらもしっかりとストレッチをこなすののあを無視して、沙希は話を続ける。


「で、集合時間だけど……。この中で家が鶴川駅から一番遠くになるのは誰かしら?」


沙希の質問に雅が挙手する。


「多分、わたくしですわね。ですが自家用車で送迎してもらいますから別に何時でも結構ですわよ」

「ふむふむ。次に遠いのは……穂澄とビビが隣駅の寺子安からだっけ?」

「はい。ですが自転車でも来られる距離ですので、私も何時からでも大丈夫です」

「私もランニングついでに走ってくるからノープロブレムネー」

「三人とも無理しなくていいニャ。始発より早い時間から朝練とか、ののあが死ぬニャ」

「まぁ、ののあの言う事も一理あるかしらね。しっかり寝てしっかり休むのも重要な練習よ。という訳で、朝の五時半に鶴川駅の改札口前で集合しましょう」

「始発と大差ないニャ……」

「海帆、ののあを頼んだわよ」

「了解であります!」


海帆はビシッ!と敬礼してみせると、ののあはマリアナ海溝よりも深いため息をついた。


「でも、五時半じゃまだ辺りが暗いんじゃないネー?」

「それは大丈夫よ。ちゃんと灯りのあるところだから……っと、あんま喋ると明日の楽しみが無くなっちゃうわね」


本郷スポーツ店に行く前と同じ、何かを企んでいる笑みを浮かべる沙希。


「とにかく明日は遅刻厳禁だからね。それじゃストレッチが終わった人から順次解散!」

『ありがとうございました!』


奈月達は締めの挨拶を揃えると、明日への期待と不安に胸を膨らませながらストレッチを続けた。






翌朝。


奈月の家で待ち合わせをした喜美は、眠い目を擦りながら幼馴染と一緒に鶴川駅へ到着した。


「ふぁあ……おはよう」


時間は五分前であったが、家から一番遠い雅を含め、沙希、穂澄、梓、ビビのすでに半数が揃っていた。


「おはようございます。随分と眠そうですわね」

「しっかり寝たんだけどね……。まだ頭も体も起きてないわ……」

「アタシも朝練なんて中学の時以来だからまだ眠ぃわ……」


同時に欠伸をする喜美と梓に、雅は嘆息してみせると、いつも通りな様子の穂澄とビビを見ながら、


「少しはあの二人を見習いなさいな。ねぇ、立花先生?」

「ふあああぁぁぁ……。えっ?なんか言ったぁ?」

「……なんでもありませんわ」


一番眠そうにしている引率者の顔を見て、雅は先程よりも深いため息をついた。


「まだ来てないのは海帆ちゃんとののあちゃん、後は陽菜ちゃんもまだなんですね」

「海帆ののコンビはまぁ予想できてたけど、陽菜がまだなのは意外だな」

「念のために電話かけてみるネー?」

「うむ。その方がいいかもしれぬな」


ビビがスマホを取り出し、まずは海帆にかけたまさにその瞬間であった。


「ま、間に合ったであります~!」


女子プロ野球選手、河合雅美の応援歌を着メロにした携帯を鳴り響かせながら、ののあをおんぶした海帆が走ってきた。


「ほ、ほらののあちゃん!着いたでありますよ!」

「ふにゃあ……あと五分だけ寝かせるニャ……」

「そう言って家でもギリギリまで寝てたじゃないでありますか!いい加減に自分の足で歩くであります!」


地面にののあを降ろすと、そのまま横になりそうだったので梓が首根っこを掴んで無理やり立たせる。


「ご苦労様、海帆」

「はっ!任務完了であります!」


荒い息を整えながらビシッ!と敬礼する海帆の頭を沙希が撫でると、こそばゆそうに照れてみせた。


「あとは秋月殿か」

「まさか陽菜が遅刻とはねぇ」

「いえ、陽菜ちゃんなら大丈夫だと思いますよ」


何か確信があるのか、とりあえず奈月の言葉を信じて残り一分の状態で待つ事にする。


そして駅の時計が五時半ちょうどを示した時。


「おはよう」


奈月の予想通り、陽菜が姿を現した。


「まさに五時半ジャストでしたわね」

「そういえばこの子、穂澄の家に行く時も待ち合わせ時間ぴったりに来てたわね……」


一秒の狂いもない正確無比な体内時計だと感心しつつも、どこか呆れたように言う喜美。そんな彼女を、陽菜は不思議そうな顔で眺めていた。


「先生、全員揃いました」

「よっし。じゃあ行きますか」


奈月の報告を受けて沙希は大きく体を伸ばすと、目的地に向けて先頭を歩き出す。


「それで、これからどこに行くんですの?」

「それは着いてからのお楽しみってね♪」






そして鶴川駅から歩くこと五分少々。


駅からさほど離れていない場所に見えてきたのは、鶴川バッティングセンターとでかでかと看板が掲げられた大きな建物であった。


「もしかして目的地ってここネー?」

「でも、こんな時間じゃまだ営業してないんじゃ……」


入口の前で立ち止まり、後ろから聞こえてくる不安そうな声に沙希は頭をポリポリとかく。


「おっかしいわね……。確かにこの時間に来るって伝えておいたのに」


まだ寝てるのかしらと沙希がスマホを取り出した、その瞬間だった。


「あ~!本当に沙希ちゃんだぁ~!」


入口のドアが勢いよく開いたかと思うと、子供のような元気一杯な声と共に、ツインテールの少女が飛び出してきた。


ゴスロリ衣装を身に纏った奈月達と同い年くらいに見えるその少女は、全力ダッシュでこちらへ駆け寄ってきたかと思うと、脇目も振らず沙希に向かって飛びつく。


「久しぶり~、沙希ちゃ~ん♡百合香、寂しかったよ~♡」

「寂しかったって……毎晩のように電話をかけてきてるでしょうが……」

「声だけじゃ足りないの!ナマ沙希ちゃん成分を補給しないと百合香、死んじゃうんだからね!」

「はいはい……。とりあえず教え子が見てるから離れてくんない……?」


くんかくんかスーハースーハーと抱きしめた沙希の匂いを嗅いでいる彼女を引き剥がすと、不満そうに頬を膨らませてみせた。


「紹介するわね。この子はここ、鶴川バッティングセンターの経営者の娘で一文字百合香。前に会った久美と同じく、初代鶴川女子野球部の一員よ。

今日からここで朝練をして、百合香にも打撃コーチをお願いしてるから失礼の無いように……」

「……くぅぅぅ……みぃぃぃぃぃぃ……?」


奈月達に紹介している途中で、それまでとは全く別物な地獄の底から聞こえてくるような声に気づき、沙希がしまったという顔をしたがもう遅い。


背後にいたゴスロリ衣装の少女はゾンビのように猫背になりながら両腕を前に垂らし、ゆらゆらと体を揺らしつつ沙希の肩に手を乗せてきた。


「……沙希ちゃん、あの女に会ってたの?百合香がいくら会いたいって言っても会ってくれないのに、あの女とは会ってたんだ……?」

「ち、違うのよ百合香!あの時は野球部の道具を提供してほしくて、たまたま久美の店に行っただけだから……!」


文字通り目の色を変え、紅く光らせる百合香に、沙希は蛇に睨まれた蛙のように身動きできぬままダラダラと汗を流す。


少なくとも嘘は言っていない。それ以外にも二人でちょくちょく飲みには行っていたが、そこまで正直に話すと本気で命が危ないので黙っていることにした。


「……本当ぉぉぉ?」

「本当よ!ねっ、皆⁉」


顧問の危機に、空気を読んだ全員が全力で首を何度も縦に振る。


百合香はどこぞの暗黒卿のようにコホーコホーと謎の息遣いを繰り返しながら、本当に嘘偽りがないか一人一人の顔を順に見回すと、、


「じゃあ信じる☆疑ってごめんね、沙希ちゃん♡」


暴走モードを終えて元に戻り、てへぺろ☆と片目を瞑りながら舌を出して見せた。


その変わり身の激しさに沙希を除く一同は、(あ、この人ガチでやべー人だ)と認識を一致させていた。


「ってか元鶴川女子野球部って事は、その人も先生と同い年なんだよな……。アタシはてっきり自分より年下かと思ったぜ」

「自分もであります。ちなみに先生と同い年だと確か二十……」

「こらそこ。女の子同士でもそういう詮索はよくないんだぞ☆」

「イ、イエスマム!」


ちょっとした小動物くらいなら余裕で殺せそうな殺気を笑顔の奥底から放たれ、これ以上ないほど見事な敬礼をしてみせる海帆。


そんな中、とりあえず命拾いした事に沙希は安堵の息をつくと、


「まぁ、こんな子だけど当時のチームじゃ打率はトップだったし、打撃のみなら指導力も確かだからそこだけは安心していいわよ」

「ぶぅ~!こんな子とか、そこだけは、とか沙希ちゃん酷~い!」

「はいはい、これ以上は時間が勿体ないから早く中に案内してちょうだい」

「は~い。それじゃ皆、ついてきてね~☆」






百合香に案内されて建物の中に入ると、すでに照明を含む全ての電気がついており、ピッチングマシーンの準備も完了していた。


「ワオ!とっても広くてマシーンも一杯あるネー!」


全十打席。しかも左右の両打席に対応した個別のゲージを見て、ビビが驚きと感動を同時に声にする。


「沙希ちゃんに言われた通り、一台一台ちゃんと愛を込めて調整しておいたからね。左から順に、難易度が高くなっていくようになってるから」

「ちなみに最高難易度はどんなもんなの?」

「全球百六十キロで縦横斜めの変化球もランダムで投げてくる百合香スペシャル仕様☆」

「プロでも打てんわ、そんなもん……」


かつて自分を含む女子野球部全員に打撃の真髄を叩き込んだスパルタ教育を思い出しながら、沙希はげんなりとした呆れも混ざったため息をついた。


「とりあえずそれは無視して左からビビ、海帆、ののあ、陽菜、喜美、雅、梓、穂澄、奈月の順で入ってちょうだい。あっ、その前にストレッチもね。

いつもならまだ体が起きてない時間でしょうから、念入りにやっておくのよ」


一同が返事をし、荷物を置いてストレッチを始めるのを沙希は確認すると百合香に向き直り、


「じゃあ今のうちに私はおじさんに挨拶してこようかしら。ここを使わせてくれるお礼も言わなくちゃいけないしね。百合香、会わせてくれる?」

「そんなの気にしなくてもいいよ。パパは朝弱いから開店一時間前にならないと起きないし、今は百合香の傀儡でここの経営者は実質、百合香みたいなもんだし」

「十年の間に一体何があった鶴川バッティングセンター……」


いつの間にか自分の腕に抱き着き、体を寄せてご満悦な笑みを浮かべている百合香を見て、沙希は十年という年月の無慈悲さを痛感していた。


「でもまぁ、それなら無理に起こすのも悪いか……」

「そうそう。沙希ちゃんはずっと百合香の傍にいればいいの♡放課後の練習も見に行くからね♡」

「え……?い、いや……打撃コーチをしてくれるのは朝練だけで十分だから……」

「ダ~メ。請け負った以上はこれを口実に沙希ちゃんと一秒でも長く一緒に……じゃなかった。ちゃんと面倒みたいもん」


マズい。非常にマズい。


すでに久美にはバッテリーコーチを頼んで、放課後の練習に来てもらう事になっているのだ。もしそこで二人がかち合おうものなら、間違いなく自分は暴走した百合香に川へ浮かべられて明日の朝刊に載ってしまう。


それだけはなんとしても避けなくてはならない。沙希は頭をフル回転させて生存策を捻り出す。


「で、でもほら!百合香はここの仕事があるじゃない⁉だから無理しなくても……」

「沙希ちゃんのためならどんな無理だってするもん。それにお店は百合香の分までパパに働いてもらえばいいだけだし」

「それはダメよ百合香!」


沙希は組まれていた腕を振り払って彼女へと向き直ると、その小さな両肩に手を置き、目一杯の力を込めて言う。


「私のために百合香がそこまでしようとしてくれるのは嬉しい。けど、それはダメ。あなたが自分の生活を犠牲にするなんて、嬉しい以上に悲しいもの。

だから今まで通りちゃんとこのお店で働いて、私を悲しませないで?ね?」

「沙希ちゃん……そこまで百合香の事を考えて……」


ぐすっ……と目に涙を溜めて感激する百合香に、沙希は罪悪感を感じつつも命には代えられないと割り切る。


「ごめんね沙希ちゃん!百合香がバカだった!沙希ちゃんを悲しませないためにも、ここのお仕事も頑張るね!」


そんな二人のやり取りを、純粋に感動している奈月以外は(ちょろい……)と思いながらストレッチを続けていた。






そんなこんなでピッチングマシーンを相手にした特別打撃練習が始まった。


沙希と百合香はゲージの外から全体が見渡せる位置へと移動し、各自の様子を観察する。あと、いつの間にかまた腕を組まれていた。


「で、どう?あんたから見て今のあの子たちは」


「上手い子と下手な子の差が激しいね。私達の時もそうだったけど」


だからこそ個人の能力と素質に合わせた指導のノウハウを百合香は持っている。当然、その指導を受け、一緒に野球をやってきた沙希も。


そんな十年前の経験が有るからか、百合香は未経験者組の打撃を見ても特に悲観する事はなかった。


「とりあえず百合香が一番気になったのはあの子かな」

「陽菜?確かに投手としては打撃もいい方だとは思うけど……」


自分には分からない、何か特別な物でも感じ取ったのだろうか。そう沙希が首を捻っていると。


「うん。あの子からは百合香に似た何かを感じるんだよね。でもなんでだろう……?別にフォームが似てる訳でもないし……」

「ああ……なるほどねぇ……」


十年前から今も変わらず自分の傍にいたがる百合香と、いつも奈月の隣にいる陽菜を見比べ、沙希は半目になりながら納得した。


「それは気にしなくていいから。ってか、あの子以外でお願い」

「じゃあ右から順に評価していくね。まずあの小さいけど、おっぱいの大きい子」


奈月を指さす。


「同じフォームだった沙希ちゃんなら分かってるだろうけど、あの子だけはもうほとんど自分の打撃の型が完成してるね。まぁ小学生の頃から毎日バットを振り続けてるみたいだから当然って言えば当然だけど」

「……ん?奈月のこと知ってるの?」

「うちのお客さんだからね。あっちの眼鏡の子と一緒に、週に一回くらいは打ちに来てるよ」

「へぇ……あの子達、ここでも練習してたんだ」


まぁ地元の店だし十分に有り得た話かと沙希は納得すると、同時に浮かんだ問いを尋ねてみる。


「じゃあもしかして、あの子が十年前に私がバットをあげた子だっていうのも……」

「うん、知ってるよ。ここで打ってた時にあのバットを使ってたのに気づいたからね。だから一度だけ百合香から声をかけたんだ」


その時に奈月の夢が鶴川高校の女子野球部に入り、全国制覇を成し遂げる事なのだと聞いた。そして、沙希のような選手になりたいと語った事も。


「だからね、ついでに打撃のアドバイスもしてあげたの。そしたら百合香もびっくりするくらい、みるみる自分の物にしていってね。今じゃコースと球種がランダムじゃなければ、百五十キロの球でもホームランを連発できるはずだよ」

「なるほどねぇ……。自己流にしては完成度が高いとは思ってたけど、百合香が教えていたのならそれも納得だわ」


天賦の才と努力を惜しまぬ性格、そこに的確な指導者が加わった結果が今の奈月なのだ。ならば彼女の打撃に関しては、最早自分が教えられる事はほとんどないのかもしれない。


「そういえば今日はあのバット使ってないんだね。そのせいか、ほんの少しだけフォームが崩れちゃってるかな」

「流石にもうあのバットは寿命だったから、新しいのに変えさせてるのよ。一応、あのバットと同じのがないか探してはいるんだけど……」


藪蛇になりかねないので、探させている久美の名前は伏せておく事にした。


「ふ~ん。でもバットが変わったくらいで影響が出るようじゃ困るし、その辺の対策はしといた方がいいかもね。まぁメンタル的な部分が原因の大半っぽいし、そこは沙希ちゃんのお仕事かな」

「了解。ちゃんとケアはしておくわ」


沙希が頷いたのを確認すると、百合香は続いて穂澄を指さす。


「で、あの神主打法の子はまだまだ持って生まれたセンスだけで打ってる感じかな。どんな球にも柔軟に対応できてはいるんだけど全部平均点。

相手の投手が格下ならそれでもいいけど、格上相手だと苦労しちゃうよ。だからどんな相手だろうと、最後まで自分の打撃を信じられる『形』を作るのが急務だね」

「要するに奈月と違ってバットを振ってきた回数が少ないから、それがいざという時に自信に繋がらないって事でいいのかしら?」

「うん。後はもう少しパワーも欲しいね」


確かに穂澄は経験者だが、野球を始めたのは中学からだし、剣道と両立していたので練習量が足りていないのは間違いなかった。


それを持ち前のセンスで補っていると沙希は考えていたが、百合香は誤魔化していると見抜いたのだ。


事実、中学時代に陽菜と対戦した穂澄は、ツーストライクに追い込まれてもファールで凌ぐ粘り強さは見せたものの、結局は全打席凡退している。それこそが毎日野球漬けの中で練習を重ねてきた陽菜の自信に満ちた投球と、助っ人として中途半端な練習しか出来なかった穂澄との差であった。

これから陽菜クラスの投手が揃う高校野球ならば、なるほどいつまでも誤魔化しが効くはずもないだろう。


(まだ一年生の穂澄にそこまで求めるのは酷な気もするけど、百合香なりにそれだけ穂澄を認めてる期待の裏返しでもあるのよね……)


沙希の知る彼女はどんな厳しい事でも遠慮なくズバズバと言うが、決してその人が出来ない事は口にはしなかった。


それは物心ついた頃からこのバッティングセンターの手伝いをし、数え切れないほどの打者のスイングを見てきた一文字百合香だからこそ成せる業なのである。


「次はあの姉御っぽい子。典型的なパワータイプのプルヒッターだね。まぁあれで合ってると思うし、このまま短所を補うよりも長所を伸ばしていく方がいいかな。ただ内角の球の捌き方は下手くそだから、そこだけはなんとかしないと相手から狙われまくっちゃうよ」

「そこは私も気になってたのよねぇ……。けど下手に直させて、打撃がコンパクトになったらあの子の持ち味がなくなっちゃうしさ」

「沙希ちゃん、逆に考えればいいんだよ。別にコンパクトに打たそうとしなくてもいいやってね」

「どういう事?」

「フォームとスイングは今のまま、内角の打ち方のコツだけ教えてあげればいいの。そうすれば完璧には打てなくても、あの子のパワーなら少しくらい詰まったって内野の頭は越えるよ」

「なるほど……。あくまで短所を長所でどうにかしちゃおう、と」

「うん。それに相手投手にしたって内角に投げれば安全なのと、内角に投げても一発が有るかもしれないと思ってくれるのじゃ全然違うでしょ?」


確かに、と元投手の沙希は頷く。


「あの子に関してはそんなもんかな。次は銀髪縦ロールの子か」


言って、二人は同時に雅へと視線を移す。


「伸びしろだけならあの子が一番だと思うな。育て方一つで先頭打者でもクリーンナップでも任せられる子になると思うの。

でも、あれもこれもって欲張ると器用貧乏になっちゃうから、今のうちから明確にどう育てるか決めといたほうがいいね」

「私としては穂澄、奈月、梓でクリーンナップを組みたいと考えてるわ。雅は未経験者だし、楽に打たせてあげられる六番辺りがいいかもね」

「なら中距離砲だね。ボールを飛ばすパワーもテクニックもあるし、ストレートにも強い。ただ変化球に関しては今のところダメダメだから、そこが当面の課題かな。

後はそうだねぇ……。器用そうだからスイッチヒッターも出来るだろうけど、まずは片方の得意な打席を完璧にマスターさせるのが先決だね」

「流石ね、あの子がスイッチヒッターだって一目で分かるなんて。了解、しばらく左打席は封印するように言っておくわ」

「じゃあ次はあの眼鏡の……めが……ね……」


急に沙希から組んでいた腕を放し、両手で頭を抱える百合香。


「ちょ、ちょっと!どうしたの百合香⁉大丈夫⁉」

「眼鏡……久美……うっ、頭が……!」


何かの病気かと心配した沙希だったが、そうではないと分かると深いため息をついた。


「なんであんたはそこまで久美を敵視するのよ……」

「だってあの女……いっつも沙希ちゃんの一番傍にいたんだもん……。今だって百合香以外の女子野球部員だとあの女としか会ってないんでしょ……?」

「それは久美とはバッテリーを組んでたし、他の子達とはまぁ……私があんな辞め方しちゃったから顔を合わせづらいっていうか……」

「気にしてるのは沙希ちゃんだけだよ?だって卒業式の日、沙希ちゃんは全員に謝りに行って許してもらえたんでしょ?」

「……それはそうなんだけどね……。でも、やっぱりダメなのよ……。それでも私はまだ皆に対して負い目がある……。だからせめてそのケジメをつけるまでは……ね」

「もう……沙希ちゃんって大雑把な性格のくせに、そういうところは真面目で細かいよね。でもそんな沙希ちゃんが百合香は好・き♡」


調子が戻ってきたのか、百合香は再び沙希の腕に抱きつく。


久美と同じで、気を遣ってくれながらも決して深入りはしてこない百合香の優しさが今の沙希にはありがたいが、このままではいけない事も十分に分かっていた。


野球同様、初代女子野球部も含める全ての過去と向き合っていく。顧問になる時に、そう決めたのだから。


そのためにも、新たに生まれ変わったこの鶴川女子野球部で結果を出す。それが裏切ってしまった、かつての仲間達への本当のケジメになると信じて……


「あっ、それであの眼鏡の子だけど、一言でいうなら普通。というか普通以外の表現がないくらい普通。特長がないのが特徴みたいな?まるで久美の打撃みたい眼鏡だし」

「あんた……眼鏡になんか恨みでもあるの……」


まぁ百合香の場合、眼鏡がどうこうじゃなくて、久美が眼鏡をかけているから眼鏡も嫌いという坊主憎けりゃの理論なのだろうが。


「とにかく喜美は良くも悪くもバランス型……と」

「次の子も似たような感じかなぁ。でもあの子はピッチャーなんだよね?だったら今のままでも十分打撃の基礎は出来上がってるし、バントの練習をさせたほうがいいんじゃないかな」

「陽菜と喜美については始めからそのつもりよ。投球に影響が出ない程度に打たせて、後は百合香の言う通りバント練習をさせるつもり。けど打席に立つ以上は投手だろうが打者としても頑張ってもらわなくちゃいけないしね。

まぁ、あの子達なら言わなくても自覚を持ってるでしょうから大丈夫でしょう」


それより問題なのはここからだと沙希は残された三人を見る。


「う~ニャ!う~ニャ!」

「で、あります!で、あります!」

「ファイヤー!ファイヤー!」


初めて打席で見る変化球を全て空振りするののあ。


少しはバットに当てられるようにはなったが、八割はまだ空振りする海帆。


そして、相変わらず楽し気にバットを振るが全く当たる気配がないビビ。


「……うん。あれは……中々に鍛え甲斐あるよね……」

「最後まで見捨てずにそう言ってくれると助かるわ……」

「とりあえずあの三人には、しばらく百合香が付きっきりで教えるね。まずは何から叩き込もうかな~」

「きょ、今日は初日だし、ほ、程々でお願いね……」


ビビはともかく、メンタルの弱い海帆と中学の陸上部で顧問と衝突したののあは心配だったが、百合香は理不尽に怒ったりはしないのでまぁ大丈夫だろうと沙希は自分に言い聞かせる。


(その代わり指導中は滅茶苦茶怖くなるんだけどね……)


恐怖で場を支配してくるにも関わらず、常に笑顔は絶やさないまま優しい口調の理詰めで相手の精神が壊れるギリギリまで追い込み、打撃の真髄を叩き込んでくる百合香には当時の女子野球部員から付けられたあだ名がある。


『笑顔のヒットマン』


そのベールが、十年振りに脱がされようとしていた。



【続く】

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