第7話  松本 梓

第七章  松本 梓






尊敬する人がいた。


その人は中学の一つ学年が上の先輩で、同じ女子野球部の先輩でもあった。


普段は影が薄くて、気が弱くいつもおどおどしていて、後輩である自分と話すときも最初は大きな犬を前にした子供のようにビビっていた。


けれど――グラウンドの上に立つと誰よりも凛々しくなり、誰よりも輝きを放った。


誰よりも早く練習を始め、誰よりも遅くまで練習を続ける。下級生にやらせておけばいいグラウンド整備やボール磨きなども率先してやる人だった。


ああ、この人は本当に野球を愛してるんだ。


野球の実力だけでなく、人柄にも惹かれた梓がその先輩――上諏訪 桃子に酔心していくのにはさして時間はかからなかった。


先輩って野球をしている時は人が変わるっすよね。


練習後にそう茶化すと、桃子は顔を真っ赤にしてうつむいた。それを見て笑う梓を、彼女は顔をうつむかせたまま両手をぐるぐる回転させながら子供のように叩いてきた。






小学生の頃から野球を始め、ポジションはライトを専門にしてきた梓であったが、中学に入ってからは背の高さを買われファーストへのコンバートを言い渡された。


初めはそれを拒否するつもりであったが、コンバートではなく、あくまでライトとの両立という形で監督と折り合いをつけ、ファーストの練習にも加わるようになる。


守備位置をいくつもこなせるというのはなんか格好いいと思ったし、何よりセカンドは憧れの先輩である桃子が守るポジション。一二塁間を彼女と守ってみたいという想いもあった。


けれど慣れない内野の守備に戸惑い、つまらない凡ミスをする事も少なくはなかった。それは他の練習にも悪影響を及ぼし、中学になって周囲のレベルが著しく変わった環境の変化もあり、自分には野球の才能はないのではないかと梓は初めてスランプという壁にぶち当たってしまう。


そんな梓を、桃子は親身になり支えてくれた。


内野手としての技術だけでなく、打撃、走塁、メンタル面のケアに至るまで。まるで二人三脚の相棒のように常に梓の隣に寄り添いながらアドバイスをくれ、共にトンネルを抜ける方法を考え、悩んでくれた。


その甲斐もあり梓はスランプからの脱出に成功し、一皮剥けた事により急成長を見せた彼女は一年生ながらにして大会メンバーのベンチ入りを果たすまでになる。


同じくその大会でレギュラーの座を勝ち取った桃子は、梓のベンチ入りを自分の事よりも喜び、祝福してくれた。


梓も彼女と同じチームの一員として野球が出来る事が何よりも嬉しかった。野球を始めてから、間違いなく今が一番野球を楽しいと感じられていた瞬間であった。






――けれど、その時間は長くは続かなかった。






異変に気づいたのは大会メンバーが発表された直後のある日。


桃子の腕に小さな痣が出来ているのに気づいた梓は、なんとなしにそれを訊ねてみた。


すると彼女は、ぼーっとして歩いていたらぶつけてしまったと苦笑いを浮かべながら答えた。確かに普段の彼女はどこか抜けているし、そうなのだろうと梓も笑い飛ばして納得した。


けれどそれが嘘であったと気づかされたのはさらに数日後――大会の初戦を目前に控えた日。


その日、いつも通りに桃子と居残り練習を終えた梓は、着替える前に一人でトイレに向かった。そして用を済ませ部室に戻ると、ドアに鍵がかかっている事に気づいた。


「あれ……なんで鍵がかかってんだ?」


もう一度ドアノブを回すがやはり開かない。けれど中からは人の気配がする。


桃子の悪戯だろかと思ったが、彼女はそういう事をするタイプではない。首を捻ってドアをノックしようとした瞬間、中から何かがロッカーにぶつかった大きな音と怒声が聞こえてきた。


「先輩⁉どうしたんスか先輩⁉」


二つの異音から尋常ではないと即座に感じ取った梓は慌てて何度もドアを叩くが返事はない。ドアノブも必死に回すがそれで鍵が開くはずもない。


こうなったらドアを蹴り飛ばして壊してしまうか――本気でそう考えた時だった。


鍵が解除される音。それとほぼ同時にドアが開いてくる。


そして中から現れたのは桃子ではなく、彼女よりさらに一つ上の女子野球部の先輩。三年の最上級生であった。


「どうしたんだい松本。そんなに血相変えて」

「ど、どうしたって……なんか凄い音がしてたっスたから……」

「音ぉ?あたしは別に何も聞こえなかったけど?」


何事もなかったように話しかけてきたその三年生の態度に梓は戸惑う。もしかして聞き違いだったのだろうかと自分の耳を疑い始めていると、彼女が梓の視界を遮るように立っているその隙間から、部室内にいる桃子の姿が不意に目に飛び込んでいた。


「先……輩……?」


その信じられない姿に梓は声を絞り出すのがやっとだった。


自分のロッカーの前で崩れ落ちるようにへたり込んでいた桃子は、練習用のユニフォーム姿のまま肩を小さく震わせながら泣いていた。いつもサラサラで綺麗だと思っていた髪は酷く乱れ、着崩れたユニフォームの袖を掴んで必死に泣き声が梓まで届かないように堪えていた。


瞬時に頭に血が昇っていくのが自分でも分かった。気がつけば梓は、女子としては背が高い自分と同じ背丈の三年生を睨みつけ、


「あんた……先輩に何をしやがった⁉」

「おいおい。あたしだって先輩だぞ?もう少し敬意を払ったらどうだい?」

「質問に答えろ!」


語気を最大限まで強め、今にも飛びかからんばかりの梓を、三年生は鼻をフンと鳴らしていなすと肩越しに桃子を振り返る。


「別に何もなかった。そうだよなぁ、上諏訪?」


その問いに桃子は少し遅れてから、表情がこちらに見えないままの顔を小さく縦に振った。


「ほれみろ。あいつだってそう言ってる」

「てめぇ……!」


誰が見ても無理やり言わせているのは明白だった。血管がブチ切れそうになるまでさらに怒りがこみ上げ、梓は両手の拳を爪が喰い込むほど強く握り締める。


「なんだぁ?その反抗的な目は?」


そんな梓の態度が気に食わなかった三年生は、ユニフォーム姿の彼女の胸元を掴み上げると、そのまま自分の方へと引き寄せる。


「金魚の糞みたく上諏訪に引っ付いてるだけのガキが。少しぐらい野球が出来るからって調子に乗ってんじゃねぇぞ?」

「や、止めて下さい先輩!松本さんは何も関係ありませんから!」


桃子が大声をあげ、叫ぶのを梓は初めてみた。へたり込んだまま肩を震わせ、再び顔を下にうつむかせてから彼女は言葉を続ける。


「……先生にはレギュラーを辞退すると言います……。だからお願いします……松本さんには手を出さないで下さい……」

「……先輩……?」


その言葉で梓は全てを理解した。桃子と同じセカンドのポジションであるこの三年生がどうしてこんな時間まで部室に残っていたのか。どうして桃子が暴行を受けていたのかを。


全てを理解し、再び三年生を睨みつける。


「てめぇ……まさかそんなくだらねぇ理由で先輩を……!」

「くだらないだと……⁉」


梓の言葉に反応した三年生が、胸ぐらを掴んでいるその手にさらなる力を込める。


「あたし達三年にとっては次が最後の大会なんだよ!なのに空気を読まずにレギュラーを奪いやがって!お前らにはまだ来年があるだろうが!」

「……だからそれがくだらねぇって言ってんだよ」


怒鳴り散らす目の前の女を梓は変わらず睨み続けながらも、冷たく、醒めた声でもう一度否定した。


「さっきアタシに言ったよな。先輩には敬意を払えって。で……てめぇのどこに払わなくちゃならない敬意があるんだよ。後輩に野球で勝てないからって汚ねぇ手を使うしか出来ねぇクズのてめぇなんかによ」

「なんだと……⁉」

「上諏訪先輩はな!てめぇなんかより何倍も何十倍も練習してんだよ!それもアタシなんかに大事な練習時間を割いてくれた上でだ!

てめぇはそれだけの努力をしてきたのかよ!してねぇだろうが!敬ってほしいなら!同情してほしいなら野球で示しやがれ!それすらしねぇくせに、たかだか一年や二年先に生まれただけでなんでも手に入るほど偉いと勘違いしてんじゃねぇぞ‼」

「い、言わせておけば……一年坊が偉そうな口きいてんじゃないよ!」


反論できぬ代わりに三年生が右拳を振り上げる。しかし梓は怯える事なく首を後ろへと引くと、殴られるよりも先に反動を利用して頭突きを繰り出した。


「がっ――⁉」


思わぬ反撃に梓のユニフォームを掴んでいた手を放し、その手で痛む鼻を押さえながら後ずさる三年生。生じた隙を見逃さず、自由になった梓が今度は自ら間合いを詰める。


そして力の限り握りしめた右拳を三年生の顔めがけ、手加減なしで振り抜いた。


左頬を深くまでえぐった拳は三年生を吹き飛ばし、背中から床に倒れさす。それでも梓の怒りは収まらず、仰向けに倒れたままの彼女に馬乗りになると再び拳を振り上げた。


「上諏訪先輩に謝れ!それと自分が言った事を取り消せ!」

「ひっ⁉」

「言わねぇならもう一発ぶん殴るぞ!」


脅しではなく、本気でそうしようと拳を振り下ろそうとした――まさにその時だった。


「もうやめてぇぇぇぇぇぇッッ!」


緊迫した空気を切り裂く悲鳴が室内に響き渡り、梓は反射的に右手を急停止させる。気づけば二の腕を桃子に強くしがみつかれていた。


「私は平気だから!だからもうやめて!じゃないと……松本さんが女子野球部にいられなくなっちゃう!」

「けど先輩!悪いのは全部こいつだろ!」

「だからって暴力に暴力で返ししたらあなたまでこの人と同じになっちゃうよ!それに松本さんのこの手はこんな事をするための物じゃない!野球をするための手だよ!」


こんなにも大声を出す桃子を。泣き叫ぶまでに感情を露わにし、取り乱す桃子を見たのは初めてだった。


そうさせたのは自分。


桃子の為にと振るった拳が、彼女こそが一番望んではいなかったのだと梓はそこで悟る。


「お願いだからもうやめて……お願い……だから……」

「先輩……」


あれだけ熱く昂っていた心と体が一気に冷めたく醒めていくのを感じ、梓は顔を青くしながらゆっくりと振り上げていた右腕を下ろしていく。


いつまでも止まない泣き声。自分の右腕にしがみついたまま小さく震え続ける体。


それは決して忘れられない後悔の記憶として、今も梓の目と耳と心にまで、深く焼きついている……






(……久しぶりにあん時の夢を見たな……)


自分の部屋の天井を意味もなく見つめながら、梓は起きたばかりの頭で今のが夢であったと即座に理解していた。


最近はめっきり見る事がなくなっていた夢。――否。梓にとってそれは決して夢などではなく、自身が引き起こした過ちの現実であった。


あの一件があった翌日、梓は女子野球部顧問をしている教師に個別で呼び出された。


すでに桃子と三年生から事情聴取を終えており、事態のおおよそを把握していた顧問は梓に対して同情的ではあったが、結果として先に手を出してしまった点は見逃さず訳にはいかず、二週間に及ぶ部活動内での謹慎処分が言い渡された。


当然、大会メンバーからも外された。さらに顧問は、その場で起きた事を口外しないよう梓に緘口令を強要してきた。


もしも部内で暴力行為があったなどと知られれば、大会を出場辞退に追い込まれるのは明らかであったからだ。加えて、顧問が自身の責任問題に及ぶのを恐れたというのもあったのだろう。


どちらにせよ梓には拒否権など最初から無かった。


桃子が初めてレギュラーを勝ち取った努力を無駄にさせるのだけは絶対に避けたかった。故に梓は顧問の命令を受け入れた上で、女子野球部を退部すると自らその場で申し出た。


そうする事で万が一今回の件が外部に漏れた時、女子野球部員同士のいざこざではなく、部外者から一方的な暴力を受けたという言い訳が成り立つようになる。要するに女子野球部を被害者にしてしまえばいいというのが梓の考えであった。


だが、それ以上に。


どんな顔をして女子野球部に……桃子のもとに戻ればいいか分からず、怖かった。


そんな梓の心境を察していたかは分からないが、顧問は「そうか……」とだけ呟くと、梓の退部を認めた。






梓の退部はすぐに桃子にも伝わり、彼女はその日の部活を抜け出し血相を変えた顔で梓の家まで訪れた。


しかし梓は桃子と会うのを拒否する。


学校でも朝はわざと遅刻するように登校し、休み時間になると教室を出て屋上など人気がないところを一人転々として、とにかく桃子と顔を合わせないようにした。


教室に戻るたびにクラスメイトから桃子が自分を探しに来ていたと聞かされ心が痛んだが、揺らぐ事はなかった。


これ以上、自分などに関わっていては桃子のためにならない。そう信じて疑わず、ひたすら距離を取り続ける。


そうしたすれ違いの日々が幾重にも続き、やがて桃子は諦めたのか、はたまた愛想を尽かされたのか。梓の前に現れようとしなくなった。


同じ学校で過ごしているとはいえ、学年が違えば意図的に会おうとしない限りそうそう出会うものではない。ましてや梓が引き続き桃子を避けようとしたのなら猶更である。


結局――梓が望む通り、桃子が卒業するまで一度すらも顔を会わす事はなかった。






「……はぁ~……」


全てを思い出した梓は深いため息をつくと、ゆっくりと体を起こし、苛立つ心を静めるために頭をボリボリとかきむしった。


体が風邪をひいた時のように重く怠い。すっかり忘れかけていたが、あの夢を見ると決まってそうだったと思い出し、舌打ちをする。


なぜ今頃になってあの夢を見たのか……その理由はおおよそ見当がついていた。


昨日、自分の前に現れた女子野球部を名乗る者達のせいに違いない。


「ちっ……」


三人いた中の、特に目立っていた銀髪の少女が脳裏に浮かび、梓はもう一度舌打ちをした。


「……あたしはもう二度と野球はしねぇって決めたんだ……」


誰かにではなく、自分自身に言い聞かせるように梓は呟く。その瞬間、雅の代わりに今度は桃子の顔が浮かびそうになり、それを消し去るべく強く頭を左右に振った。


なんとかそれに成功すると、ふと今の時刻が気になり、時計へと視線を移す。


時計の針は午前十一時を少し過ぎたところを示していた。休日とはいえ少し寝すぎたと反省しながら布団から抜け出し、カーテンを開ける。


雲はあるが、春らしい優しい日差しが照りつける小春日和。自分の部屋にも射し込む光に目を細めていると、曇っていた心が晴れていくようだった。


「昼飯作る前にひとっ走りしてくるか」


そのまま大きく伸びをして気持ちを切り替えると、パジャマを脱ぎ捨てトレーニングウエアに着替え始めた。




【続く】

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