第3話

 五時間目は英語だった。エルのおかげで余裕を持って授業に臨むことができた私は教科書を開き、ノートを開いて授業を受けているところだった。

 ノートを開いたからと言っていつも真面目に書くというわけではないので、ノートはいつも開くが内容は割と飛んでいる時もある。

 

 今日の気分は書く方だ。なんとなく、新しい環境にやってきたから気分も新しくなった。教室の中は五時間目というのに洗練された空気でひたすら先生の説明する声とみんながノートにペンを走らせるカリカリという音だけが響いている。これが特進クラスなのだと感動さえ覚えるほどにこのクラスは真面目なようだ。


 自分も一応ペンケースからシャーペンを一本、消しゴムを一つ取り出してシャーペンの芯を出す。開いたノートのページに今までぼーっとしていた分の板書を書き写した。先生がいろいろと説明をしながら書いた板書は、ただ写すだけならば十分程度で済むけど本当はその板書を書く過程にいろいろな知識などが詰まっている。その過程を知らずに結果だけを書くことに何か意味はあるのだろうかと思いつつも、写すだけ写した。

 

 式波さんは私よりも前の席に座っているから後ろ姿だけならよく見える。今もピンと背筋を伸ばし、ペンを動かしている。開いた窓から春の暖かい風が吹き、彼女の髪を揺らした。それによって少し髪が乱れた彼女は邪魔な髪を耳にかけた。一つ一つのしぐさが式波さんだとどうしてこうも絵になるものか、そんな雑念を抱きながらまた思い出す。




 昼の話を、あの時の彼女を。



 昼の話は私から見れば本当に唐突で、嬉しいけどほぼ話したこともないのにと不思議に思う。どこかで面識があったりしたものだろうかと思いつつも、あの時の彼女イコール式波さんらしいということ以外には接点も思いつかない。だからやっぱり、彼女は優しい変人だ。


 




 授業が終わった放課後、私はさっさと教室を出て下駄箱に向かった。少々気分が悪くて正直言って部活どころではない。六時間目になるころからは雨が降りそうな空模様で気温も下がった。寒さに弱く雨にも弱い私には大ダメージで、雨が降る前に帰りたいし、気温が下がったから風邪をひく前に早く寮に帰りたい。春は暖かくなってきた中にほんの少しの冬を残していて、私に油断するなと言っているようだった。

 寮へ本校舎の昇降口から向かおうとすると、本校舎北棟から出るよりも多少時間がかかる。

 さっさと寮に着いてしまいたくて、だけど調子が悪くて足が思うように動いてくれない。思い通りにならない自分の体への苛立ちと焦燥感、あの時も似たようなことを考えていたことを思い出す。





「だいじょーぶ?」


あの時と同じ、少し間の抜けた声。振り向くと式波さんがかけよってくるところだった。


「ど…して…?」


寮生以外の生徒は基本的にはこっちには来ないはずだ。なぜ彼女がここにいるのだろう。私が問うと式波さんは困ったように笑って、


「矢神が六時間目の終わりくらいからなんだか苦しそうだなと思って見ててさぁ。ホームルーム終わって教室出たときも苦しそうだったから声かけたかったんだけど。女の子にどうしてもって止められて動けなかったんだよね。」


と言って、頬をかき


「遅くなってごめん。」


と言った。この一日の間にさん付けは彼女の中で取り去られ私は呼び捨てで呼ばれることになったようだ。どうやら素のようだと思われるのんびりとした話し方や、さん付けを一日にして外したり、彼女は私との心の距離をぐいぐい詰めてくる気がしてならない。


「体調悪いんだよね?荷物持とーか?」


嬉しい。けど私はそういう優しさを向けられていいような人間じゃない。


「良い、大丈夫だ。」


「おんぶしよーか?」


「良い。一人で、帰れる。」


「…。具合が悪いことはさぁ、別に矢神が自分を責めるようなことじゃぁないんだよ。辛いときは助けを求めて欲しーし、私だけじゃなくてみんなそう思ってると思うなぁ。」


あの時と同じ話し方で、同じ優しさで。私を諭すかのように。


「……なんで、そんなことが、わかる。」


自分を見て、優しく話しかけてくれて嬉しいのに素直に受けとれない、受け入れられない。そんな私に尚も、彼女は笑いかける。


「だってさぁ、矢神さんは気づいてなさそうだけど、みんな心配そーな顔で矢神さんの方見てんだもん。」


「…え?」


 分からない。心配している顔で見られているということがにわかに信じがたい。どちらかというと私はいつも怖がられていて、みんなこっちを怯えたような目で見てきていると思っていた。


「ま、でも矢神若干近づきがたいとこあるからな~。」


「…あぁ。」


それは何となく自覚している。私の顔が暗くなったように見えたのか式波さんは慌てた。


「なんか勘違いしてない?矢神。矢神が近づきがたいと思われがちだっていうのはー、矢神があまりにきれーだからだよ。」


「………は?」


何を言っているんだろう彼女は。そんなわけないだろう。あまりにありえないことを彼女が言ってくるので彼女は本当にやさしい人だな、と思った。嘘でもそう言ってもらえて嬉しいよ。


「そりゃ…ありがたい話で。」


私の反応が不満だったのか彼女は形の良い唇を少しとがらせた。


「信じてないでしょ~。その反応。ま、いいけどねぇ。いつか分かる日が来るし。」


と呟いて、改めて私の顔を覗き込んだ。まったくもって意味が分からないので私は少し混乱していたのだが、彼女は「ま、いっか。」と言って私に背中を差し出した。


「乗って。」


それは結局おぶってもらうということで、彼女の優しさが自分に向けられることが申し訳なく思えたが、式波さんは本気らしいと分かって運んでもらうことにした。


「お邪魔…します。」


「ハハ。そんなに緊張しなくてもいーのに。」


運動ができる式波さんは軽々と私のことを背負ってスタスタと歩き出した。


「あ、そーだ。体調悪いところに申し訳ないんだけど、家まで道案内頼める?」


「それは…もちろん…。」


基本的には道なりに歩くだけなので大して案内が必要なわけでもなく、また私に気を使ってくれているのか話しかけずに休ませてくれた。そのおかげであまり悪化することもなく寮に着くことができた。


「ここで合ってる~?」


「…ん。」


「おっけぃ。」



式波さんは私を背負ったまま寮の玄関わきのインターホンを押した。


ピンポーン。


軽やかな音が鳴り、程なくして


「はい。どなたですか?」


と、声が聞こえた。寮母のマコトさんかな、と勝手に予想する。


「私、矢神さんのクラスメイトの式波柊と申します。矢神さんが具合悪そうにしているのを見かけたので運んできました。中に入れてもらうことはできますか?」


「恋ちゃんが具合悪そう?…それは一大事だね。ありがとう。」


少し間があってガチャリとドアが開き、マコトさんが出てきた。


「きみが式波さんだね。恋ちゃんのこと、ありがとう。そのまま彼女の部屋に運ぼうと思うからひとまず入って。」


私は式波さんに背負われたままマコトさんに靴を脱がせてもらい、自分で歩けるからと彼女に言うも今更でしょと言われて何も言い返せず、二階の自分の部屋の前まで運んでもらった。


 マコトさんに着替えて寝ておくように言われたので部屋に入った私は制服やパーカーを脱いで、Tシャツに半ズボンで布団の中に入った。正直それだけでもう限界だと思うくらい体が熱い。式波さんには申し訳ないことをしたと思うけど有難かった。

 顔が赤いのが熱のせいか、恥ずかしさからかわからないまま私の意識はスーッと深く沈んでいった。

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