雨に包まれて

鞘村ちえ

1.乾いた柔軟剤の香り

 雨だ。窓を開けると、もわんとした雨の匂いが入ってくる。ちょっとやだな。雨の日は洗濯物が乾かないし、なんだか気持ちが憂鬱だ。

 目覚ましをかけない休日の時計は、既に2の文字を指していた。お昼ごはん、食べ損ねたな。キッチンに行き、冷蔵庫を適当に漁る。

 お酒のツマミに買った魚肉ソーセージを取り出して、フィルムを剥がして食べる。魚肉ソーセージを口に咥えたまま、洗濯機の前に行き、洗濯物をランドリーバッグに詰め込んだ。

 最後の一欠片を飲み込むと、顔を洗ってから、髪を軽くとかす。化粧をするのは面倒だから伊達メガネをかけた。


 どうせ人には会わないし、と着回しすぎて首元のよれているTシャツのまま外へ出る。どんよりとした重たそうな雲で、空一面が埋め尽くされている。

 ビニール傘に当たる雨の音は、ばら、ぱら、ばらばら、とまばらに鳴り響く。時折吹き付ける風で雨がなびく。横降りというのだろうか。傘を差していても容赦なく私を濡らしてくる雨は、やっぱりあまり好きにはなれない。



 柔軟剤の香りに包まれたコインランドリーには、先客がいた。大学生くらいの男の子が一人、洗濯機の前に置いてある椅子に座って文庫本を読んでいる。一瞬こちらを見た気がしたけれど、すぐにお互いが違うところへ意識を向ける。

 私は空いている洗濯機の前に立ち、雨で濡れたランドリーバッグに入っている洗濯物をごそっと洗濯機に入れる。

 ここの洗濯機は、洗濯から乾燥まで全部やってくれるから楽なのだ。いくつかボタンを押して、コインを入れると、ごわんごわんという音と一緒に洗濯機が回りだした。

「あの、」

 少し低い、男の人の声で話しかけられる。驚いて後ろを振り向くと、先客のお兄さんが

「靴下、落ちてますよ」

と私の足元に落ちている靴下を指差していた。

「あっ、ありがとうございます!」

 私は慌ててそれを拾う。すでに洗剤が投入されて白い泡が浮かんでいる洗濯機をみて、ちょっぴり残念な気持ちになる。もうちょっと早く気付いてればな。

「……もうちょっと早く気付いとけば良かったスね。すいません」

 申し訳なさそうに頭をかきながら言うお兄さんを改めて見ると、思っていたよりもずっと顔が整っていてドキッとしてしまう。こげ茶色のストレートヘアに、柔らかそうな肌、瑞々しい瞳。

「いやいや、教えてくださってありがとうございます……」

 なんだか急に恥ずかしくなってきてしまった。少し汚れた窓ガラスに、よれよれのTシャツを着たすっぴんの私が映る。思わず現実から目をそむけたくなってしまい、視線をそらす。こんなことなら、リップだけでも塗ってくればよかった。

 お兄さんの隣にある椅子を少し自分のほうに引っ張ってきて、静かに座る。なんだかドキドキしてしまう。


 しばらくするとピーピーピー、という音が鳴り、お兄さんが立ち上がる。お兄さんの洗濯は終わったらしい。乾いた柔軟剤のあたたかい香りがコインランドリーいっぱいに広がる。いいな。私、この匂いは結構好きだ。

 てきぱきと出来上がった洗濯物をバッグに詰める姿を眺めていると、目が合ってしまった。お兄さんは何事もなかったように目をそらして作業を続ける。

 かっこいいな、なんて思いながら窓の外をみるとさっきより雨が強くなっていた。今帰るなんて、ちょっと不運なお兄さんだ。

「雨、強くなってきちゃいましたね」

 思わず話しかけてしまう。ばか、私のばか。きっとお兄さんもびっくりしているだろう。自分から話しかけたくせに、妙に恥ずかしくなって、顔は窓に向けたままでいると

「ですね、また濡れちゃうかも」

と優しい声が返ってきた。なんだ、嫌じゃなかったのかな。そう思ってを声のほうへ目を向けると、お兄さんが傘を持ってコインランドリーを出ようとしていた。

「それじゃあ」

 お兄さんは私にそう言ってから、囁くように微笑むと雨のなかに消えていった。

 ごうんごうんという洗濯機の回る音と、強く降りしきる雨の音だけが聞こえてくる。乾いた柔軟剤の香りは、いつしか雨の匂いにかき消されていなくなっていた。

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