媚び恋愛

鞘村ちえ

媚び恋愛

 他人に評価されるために媚びて生きる人生なんて無理という人がいるけれど、逆に他人に褒められずに生きていくほうが何十倍も無理だし、毎日好きな人に「可愛いね」「好きだよ」って言われるために計画的でもあざとく生きるのが女の子だと思ってる。これが正しくなかったら私の人生は花びらが散ったみたいになる。水の泡って言うよりも、花びらが散るほうが可愛くない?


 桃乃もものゆりという名前は母親が考えてくれたらしい。生まれてからずっと自分は桃乃ゆりだし、特にゆりという名前について「好き」だの「可愛い」だのと考えたことはなかった。

 ところが中学生のとき、好きだった男の子に「ゆりって名前、可愛いよな」と言われてから私は自分の名前のことがとても好きになった。こういう話をすると決まって「他人にちょっと良く評価されただけで自己評価が変わりすぎじゃない?」という人が現れるけれど、好きな人に褒められても自己評価が変わらないほうが不思議だと思う。だって好きな人だよ? 嫌いな人に言われたらそれは「ありがとうございます」で終わるけれど、そうじゃない。大好きな人に「可愛いね」って褒められたらそんなの嬉しいに決まっている。自分の好きな人の肯定的な言葉ほど嬉しいものはないと思う。


 学校行事の集合写真、可愛い女の子友達との自撮り、気になる男の子とのツーショット。インスタグラムのストーリーやツイッターのアカウントに載せられた写真や動画は色んな人の目に留まる。私は顔があまり可愛くないから、写真や動画が好きじゃない。自撮りも、自然光の決まった角度でしか可愛く写れない。顔が可愛ければSNSなんて写真を上げていくだけで「いいね」やフォロワーが増えていく世界だ。可愛くなければ「可愛くないのに写真あげんなよ、調子のんな」などと愚弄されてしまう世の中なのだ。なんて難しい世の中、滑稽。

 私の通う学校は、とにかく可愛い子が多い。集合写真なんてそれこそ嫌になってしまう。例えば、学校で行事終わりに全体集合写真が配られると「もっと可愛い顔に生まれたかったな」と少し落ち込んでしまうほどに。

 私には四つ離れた妹が一人いるけれど、彼女も才色兼備である。容姿端麗でその上、知的なんて敵がいなさすぎる。私は周りの顔が可愛いからか否か、気付けば自分の顔や性格に対するコンプレックスが増えていった。そしてコンプレックスと共に、他人からの評価が自分の評価になっていくことにも気付いた。

 それから皮肉なことに、私はたいして顔が可愛くもないのに無類の恋愛体質だった。常に気になっている男の子か、付き合っている男の子がいる。男女の友情は成り立たない派。周りの友達が「好きな人いないんだよね」と盛り上がっているときも、「また別れちゃった」と寂しがっているときも、私は常に好きな人がいた。恋愛なしで生きていく人生なんて損だと思うほどに、恋愛に依存しているらしかった。どんなことを言われても結局男の子と過ごす時間が一番長いし、心地よかった。

 ところが、男運が驚くほどに悪かった。前回付き合っていた人は二回目のデートで「ネットカフェに行こう」と言い出して体目当てなのが嫌で断ったし、その前にデートした気になる男の子は一回目のデートのあとに「今日はありがとう!」という連絡をしたきり未読無視になってしまった。

 私にも悪いところはあるし、完璧に相手が悪い訳じゃないのも分かっているけれどそれでも男運が悪いのは確かだった。

 というか、私の人を見る目が無いのかもしれないけど。「悪い人が寄ってくるのは、自分もあまりレベルが高くない人だから。他人は自分の鏡だから」ということを聞いたことがある。その理論が間違っていないのなら、私はかなり悪い女だ。




 そんな私には今、ある一人の気になる男の人から放課後デートの誘いが舞い込んでいた。その人は高校三年生で私より一つ上、つまり先輩ということになる。その先輩の名前は翔野かりやそら。空を翔けてるみたいな、素敵な名前だ。

 先輩だけれど、初対面のときに「敬語じゃなくていいよ」と言われてからずっと「しょうくん」呼びだし、敬語も使っていない。翔くんと私はお昼休みや放課後になると保健室にいる生徒の一人で、たまたま帰り道が同じ方向だったことで仲良くなった。なんで保健室に通うようになったかはお互いに知らない。

 深く関係を築くことも大切だけど、知らないことがあることはもっと大切だ。翔くんはお洒落な人だけど、それが努力の賜物だということを絶対に言わない謙虚な性格をしている。人知れず努力する姿はとてもかっこいい。

 そんな翔くんとは保健室や帰り道で一緒になることが多くても、学校以外の場所で会ったことはなかった。



 ということで私は待ち合わせ場所になっている駅前のカフェで翔くんが来るのを待っている。デートでもデートじゃなくても、いつも相手より早く着いてしまう。男の子とのデートだと気合いが入るからか、なおさら遅刻なんてしなくなる。遅刻するときの理由をあげるなら「なんか服が気に入らないから着替える」か「髪の毛が気に入らないからちょっと結び直す」くらいだ。女の子は可愛いが大切だからね。

「ごめん!」

 翔くんが息を切らしながら走ってきた。ちなみに翔くんは時間に少しだけルーズだ。今までに学校に遅刻してくる瞬間を何度も見かけている。ドタキャンはしないけど、数分遅れるタイプだ。

「あ、翔くん! 大丈夫だよ〜、私が早かっただけ」

「そう? ありがとう、待たせちゃって本当ごめんね」

 人間、完璧な人はいない。許す心も大事だし、許さない優しさも大事だと思う。私は怒るのが苦手で、つい許してしまう。相手のことを想って叱るべきなのかもしれないけど、深く関係を築いてしまったらいつか壊れてしまうのが怖くて浅い関係しか築かないようになってしまった。本当の優しさは強さも兼ねているのだと思う。

「学校以外で会うのって無いから新鮮だよね」

 翔くんはテーブルを挟んで私の向かい側にある椅子にコートをかけて

「そうだね〜、いつも保健室か帰り道だもんね」

と言いながら席についた。翔くんと初めてのデート、私は少し緊張しているけれど翔くんはそんなことないみたいだった。

「何か買ってこよっか、カフェオレでいい?」

「うん、ありがとう! 席とっておくね」

 椅子から立ち上がり財布を持ってレジカウンターへ向かう翔くんの後ろ姿を見送る。しばらく外を見ながら過ごしていると

「はい、アイスカフェオレとホットコーヒー」

翔くんがトレイに飲み物をのせて戻ってきた。

「ありがとう、三二〇円で合ってる? はい、受け取って」

「いいよお金なんて、先輩だし奢らせて」

翔くんは優しく微笑みながらテーブルにカフェオレとストローを置いて、席についた。

「そう? いいのに」

「いいのいいの! はい、お金はしまってください〜」

 私はお金をそっと財布に戻すと、ストローの袋を開けた。

「ありがとう、翔くんはコーヒーブラックなんだね」

それから私は一口カフェオレを飲んで、鞄から教科書とノート、ペンケースを取り出した。翔くんは少し得意気な顔をしながら

「うん、甘いものも好きだけど最近ブラックも飲めるようになったんだ〜」

と言ってホットコーヒーを一口飲み、一旦椅子の背もたれに寄りかかって一息ついてから私と同じように勉強道具を出した。

「大人だ」

「そう、大人。ゆりちゃんは飲めない?」

「うん、まだ飲めない……苦く感じちゃうんだよね。子供なのかも」

翔くんはまた一口コーヒーを飲むと、身体が暖まってきたのか安心したような表情を浮かべながら私に向かって微笑み

「子供っぽい女の子ってかわいいよね」

そう言った。翔くんはとても優しい顔をしたまま鞄から数学のプリントを取り出し、勉強を始めた。


 それから二時間ほど、私と翔くんは黙々と勉強を続けた。同じテーブルで向かいあって勉強をしているのに言葉はほとんど交わさなかった。本当は分からない問題を教えてもらおうかと思っていたけど、少し知的に見られたくてやっぱり教えてもらうのはやめた。

 せっかくデートに漕ぎ着けたのに、頭が悪いことを悟られてここで微妙なレッテルを貼られてしまうのは悲しい。好きな相手に媚びることは恋愛において重要なのだ。

 私は翔くんに好かれたい、という一心でその日の放課後デートという名の勉強会を全うすることにした。

「結構勉強したね〜」

 先に口を開いたのは翔くんのほうだった。もしかして退屈だったかな。かなり緊張していた私と比べて翔くんはいつもと変わらずまったりとリラックスした雰囲気をまとっていた。

「ほんとだ、もう二時間も経ってる」

 ふとスマホを見ると、少し割れた液晶画面に17:36の文字が映し出されていた。外もほとんど暗くなってきていた。冬の夜は早い。まだ十七時台にも関わらず、カフェの外は夜の街を醸し出し始めていた。

「どう? 結構捗った?」

「うん? 家でやるより全然捗ったかも」

 好きな人と過ごす二時間はいつもの何倍も早く感じる。眠くて退屈な授業の二時間と、翔くんと過ごす勉強の二時間はまるで誰かが時計の針をくるくると進めているかのように違う。時間を操れる魔術師がいれば、その人は恋愛も勉強も有意義に過ごせるかもしれない。

「すごい頑張ってたもんね」

 翔くんはもうほとんどカップに残っていないぬるくなったコーヒーを見つめてからそう言った。夜は誰でもちょっとだけ魅力的に見せてくれる。コーヒーを見つめる伏し目の翔くんはいつもより少し大人びて、格好良く見えた。

「うん、翔くんも集中力すごかった気がする」

「今日だけかも! 頑張っちゃった」

「でも受験で毎日勉強頑張ってるしすごいよね。私はそんなに頑張れないかも」

少し笑いながらそう言うと、翔くんも優しく微笑みながら

「そんなことないよ、きっとゆりちゃんは僕よりしっかり頑張ってるよ」

と言った。翔くんの声はいつものんびりしている。優しくて、自分のペースを崩さない。穏やかな心地いい声をしている。

「お互い無理しすぎないように、頑張らなきゃね」

「そうだね、ゆりちゃん無理しやすそうだから心配」

 私はまだ四分の一ほど残っている氷が溶けて薄まったカフェオレをストローで吸い

「う〜ん、まぁ何とかなるから大丈夫」

と言うと、翔くんはさっきよりも神妙な顔をして

「ほんとに? 辛かったら頼るんだよ?」

と言った。薄まったカフェオレを味わっていると、カフェの外で手を繋いでいる二十代前半くらいのカップルが目に止まった。

「うん、大丈夫。ありがとうね」

 私の悪い癖だ。重要な時に限って、他のことを考えてしまう。そして、相手の目を見て会話をするのが苦手だ。相手の目を見ていたらいつの間にか相手のペースに持っていかれそうで怖くなる。相手のことを信じ込みすぎてしまいそうでいつも不安になる。裏切られたくないし、傷付きたくない。

「なんかいつも優しくて元気そうだからさ、逆に心配になるんだよね」

 翔くんこそいつも優しすぎて心配になる。翔くんは少し私に似ている。人との距離感をあまり狭くしないところ、人に怒らないところ。というか怒れないところ。優しすぎるというのは時に残酷だったりする。

 私も翔くんも、人と深い関係を結ぶのが下手らしかった。きっと自分が傷付くのが怖いのだ。

「なんでよ〜! 元気なんだからそのまま純粋に受け取ってよ」

「どうしたの、さっきから。外に誰かいる?」

と聞いてきた。

「うん? 仲良さげなカップルがいたから目で追ってただけ」

 私は嘘をつけない。嘘が下手だと、時に人を傷付けそうになる。嘘をついて傷付けるよりも、嘘をつかないで傷付けるほうがまだ裏切りがなくていいのかもしれないけど。

「どれどれ」

「あの人、茶色のコートの」

 私が指差したほうには茶色のコートを着て、彼女らしき女の子と手を繋ぐ男の人がいる。

「あ、あの手繋いでる?」

「そうそう」

 翔くんは私の事を恋愛的に考えたりしてくれるのだろうか。友達として、なのだろうか。恋愛は常に不安が付き纏う。

「仲良さそうじゃない?」

歩いている方向からして、どうやらあのカップルはここから数分歩いたところにあるイルミネーションを見に行くらしかった。

「良さそう。彼女欲しいなぁ」

 何食わぬ顔をしながら私はなんだか悲しくなる。私のことは恋愛対象じゃないのかな。悟られないようにカフェオレを飲み干す。

「翔くんモテそうだし、きっとすぐ彼女できるよ」

 カップルの方から目を離して、お互いに目を合わせる。

「そうかな?」

「そうだよ」

 すぐに目をそらしてしまうけれど、翔くんの瞳は少し茶色っぽく光っていて綺麗だった。

「いつかクリスマスに彼女とイルミネーションとか見てみたいよね」

「さっきのカップルみたいに?」

「そうそう。でも遅刻しちゃいがちだからムード台無しにしちゃうかも」

 翔くんは笑いながらそう言った。つられて私も微笑む。

「大好きな彼女とのデート遅刻しちゃだめでしょ〜」

「やっぱり? 今日も遅れちゃったし……ごめんねぇ」

 残念そうな顔をした翔くんを見ていたらなぜか少し笑えてしまった。気がつくと十八時を少し過ぎた頃になっていた。門限は十九時だから、そろそろ帰らなきゃいけない時間だ。

「あ、もしかしてそろそろ帰らなきゃじゃない?」

 私が時計を気にしていることに気付いたらしい。先に翔くんの方からそう言ってくれた。

「そうだね、もう六時過ぎたし」

「門限あるもんね? 帰ろっか」

 翔くんはそう言ってコーヒーとカフェオレがのっていたトレイを返却口に返した。私と翔くんはそれぞれコートを着て、カフェを後にした。


「ひぃ〜! 寒いね!」

 外は真っ暗、街のネオンが煌めいている。十一月後半、クリスマスまで一ヶ月もない季節の夜はやっぱり寒い。寒い日の夜は星や月が綺麗に見える気がする。

「同じ方向だし家まで送ってくよ」

「ありがとう」

 寒い夜も好きな人がいればなんだかずっと耐えられるような気がした。恋は偉大だ。


 家に帰ると妹のさやかと母親が夕飯を食べながら、テレビを見ていた。今日の夕飯は鍋だ。冬になってからの夕飯はほとんど鍋な気がする。マンネリ化してしまうのはご飯も恋も同じだったりして。

「ただいま〜」

 今日は年末にある音楽番組の特番らしい。さやかは好きな男性アイドルが登場すると少し鼻歌を歌いながら鍋をよそっている。そして母親はどうやら二缶目らしいビールを開けていた。

「おかえり〜、先食べてるよ」

 ちょうどCMに入ったところで席につき、鍋をよそう。

「おかえり、どうだった?」

 さやかは自分の話はしないけれど、他人の話はズバズバ聞く。自分に甘く、他人に厳しいタイプだ。

「どうだったって何が、普通じゃない?」

 デートに行ってくる、ということは家族に伝えてある。うちはシングルマザーだから父親にどうこう言われるしがらみも無いし、基本的には仲が良い。私は冷蔵庫から三%の缶チューハイを取り出して開けた。

「お姉ちゃんって男の人に対してすごい媚びるからね〜」

「こわぁ」

 未成年の飲酒は法律的にアウトだけど、飲まないとやってられないくらいにはデートで気を使っていた。疲れた喉に甘いみかん味のお酒が流れ込む。アルコールにはそんなに強くないので一日一缶という事だけは自分の中で決めている。いい子は真似しちゃだめだよ。

「怖って何が〜、いいじゃん別に。ってか自然にそうならない?」

「いやそれが怖い。普通にしてたらならないでしょ」

 さやかも母親もモテるタイプらしい。私は中学校の頃までモテない女の子を貫き通していた。ファッションも髪型も性格も、いま考えると恐ろしいくらいに興味がなかった。そして恋愛面においては片想いしかしたことがなかった。一途で片想いなのは決して悪いことではないけれど、時には諦めも必要である。私は同じ人に三回告白して、三回振られることでそれを悟った。たぶん空気を読むのが驚くほど苦手なのだ。

「なるなる、逆に男女で対応が変わらないほうが怖いわ」

 鍋から小皿によそった豆腐を食べながら徐々にお酒が回ってきたことを感じる。モテる人は自信があるけれど、私はとにかく自信がなかった。容姿も頭脳も特段良くはなかったし、自信が持てるほど何かを続けた経験や褒められた経験も少なかった。

「え〜? すごい裏表激しいタイプじゃん?」

 さやかがだんだん饒舌になってくる。さやかはまだお酒を飲まないし、飲んでいない。我が家のルールでは飲酒はせめて高校生から、というものがある。それでも夜になってきて寝なければいけない時間になるほど、さやかの喋りは止まらなくなるようだった。どうやらうちの家族は夜型らしい。

「ママもさやかもそういうタイプじゃないよね」

 この空気。別に相手のことを否定するつもりはないけれど、自分とは違うということを主張することで少し否定されている気になる空気。家族で話しているとき、よくこの雰囲気になることがある。空気を読むのは苦手だけど、嫌なことを感知するのは絶妙に鋭いようだった。幸せだけを感じていたいのに。

「まぁ仕方ないよね、自分でも自然すぎてどこでスイッチ入るのか分かんないし」

 鍋のおかわりを小皿に取り分けると、缶チューハイはもう四分の一程度しか残っていなかった。今日はペースが早い。酔うのも早い。悪酔いしないようにコップに入った水を一気に飲み干す。

「使い分けるの疲れないの?」

厚揚げを食べているさやかがそう言う。疲れないで人間関係をこなせる方法があるならむしろ教えてほしい。

「疲れる、疲れたから飲んでるし」

 よく「ゆりって女に嫌われるタイプの女だよね〜」と言われる。確かに友達自体少ないし、男女の友情は成り立たない派だから男友達と呼べる人はいない。同性に嫌われる理由として「異性に媚びる」というのがあるらしいけど、むしろ全人類に「媚びずにどうやって好きになってもらうの?」と言いたい。

 特に容姿も頭脳もぱっとしない女子高生がモテるには媚びるほかにないと思うから媚びる。別に媚びなくても生きていけるなら生きていきたいよね。全人類にモテたいなんて馬鹿馬鹿しいこと、普通は思わないのかもしれないけど私はそう思いながら生きている。

「未成年飲酒」

「人に迷惑かけてないし、別に、大丈夫でしょ」

 だいぶ酔いが回り、顔が火照っているのが分かった。もう一杯コップに水を汲んで、また一気に飲み干した。一気飲みは身体に悪いらしい。

「そういう問題? まぁいいけど、あんまり飲みすぎるとアル中なるかもよ」

「だいじょぶだいじょぶ、その辺の加減はちゃんとしてるから」

 妹との会話が途切れると、テレビから流れていた最近よく見かける芸人の声がさっきよりも大きく聞こえるように感じた。

「ごちそうさまでした」

「ごちそうさまでした〜」


 鍋も缶チューハイも食べ飲み終えると、それぞれ自分のやらなきゃいけない事とやりたい事を始める。母親は皿洗いを始め、さやかは中学校の宿題、私は自分の部屋に行き日記を書く。高校生になってから、日記を書くのを日課にしている。その日の出来事と感情を文章にするだけで、なんだか心が落ち着く気がした。

 今日のページを開くと同時にスマホの通知が鳴った。


『今日はありがとう、勉強捗ってよかった! また放課後会ったりしようね』


 翔くんからだ。家族からの微妙な空気から逃げてきた時に好きな人から連絡が来る事は私の心をとても落ち着かせてくれた。優しさで包み込んでもらっているような気持ちになる。


『こちらこそ誘ってくれてとても嬉しかったよ! ありがとう』


 すぐに送信するかを一瞬迷ったけれど、結局すぐに送信した。駆け引きって、とても難しい。返事が来るまでの数分がとても長く感じる。やっぱり時間をあけてから返したくなっちゃうし。そんなことをだらだら考えていたらまた返信がきた。


『また明日学校終わったら一緒に帰らない?』


 既読はつけずに何度も読み返す。今日の私は翔くんから見て特に大きな失敗はなかったみたいだった。安心。前にこのタイミングで既読無視や未読無視をされてからと

いうもの、デートは去り際が怖くなった。もう二度と会えなくなってしまいそうで。違う人なのにね。

 さっきはすぐに返信してしまったから次はゆっくり返すことにした。今日の日記を書き出す。今日はいつもより色んな事がありすぎた。文章も長くなる。


『かえる!』


 数分経ってから返事をした。この数分が驚くことに数十分に感じる。絶対時間って進むスピードを変えてる人がいると思う。嫌な時間ほど長く、楽しい時間ほど短い。時間を操る魔術師は性格が悪すぎる。私だったら楽しい時間ほど長く、嫌な時間ほど短くするのにな。永遠の問題かもしれない。

 翔くんとのやり取りはそれから少し続いた。


『やった! 明日もいつも通り保健室にいると思う!』


『わかった〜、楽しみにしてるね』


『わくわく』


『ほんとに思ってる?』


『思ってるよ! 嘘っぽく聞こえる……?』


『ちょっとだけ? 私が疑い深いだけかもしれない』


『いや、ゆりちゃんが疑うなら僕が怪しいのかも』


『えぇ、なんかごめんね?』


 他愛のない会話を続けていた。日記を書き終えるのと同じ位の時に再び返事がきた。



『なんで謝るの! どんなゆりちゃんでも好きだから安心してね』



 私は既読をつけずに何度もその文章を読み返した。どんなゆりちゃんでも好きだから安心してね。その言葉を何度も何度も。

 夢ではないみたいだった。これは告白ではないかもしれないけれど、それでもいい。私にとって重要なのは告白ではなくて、どんな私でも好きでいてくれるということなのだ。

 今まで色んな人と出会って付き合って別れたりして恋愛に溺れてきたけれど、こんなに優しいことを言ってくれた人は一人もいなかった。もしこれが冗談で、本心から出た言葉ではなかったとしてもその言葉を私に言ってくれるだけで、嘘でもいいから嬉しかった。このまま時間を止めていたい。


『ありがとう』


 じっくり時間をかけて考えたけれど、思いつく言葉はやっぱりこれしかなかった。翔くんのためにもっと可愛くなろうと思いながらスマホを握りしめ、その一言を送信した。

 私の恋愛は重いかもしれないけれど、それでも私を好きでいてくれる人がいるなら私は私のままでいい。私はまだ十七だけど、恋愛に溺れすぎている。いつか抜け出すことができるのだろうか。「人は誰しも何かに依存している」と、ある女優が言っていたのを思い出す。本当に、そうかもしれない。

 人は常に足りない何かを埋めるために生きている。そしてそれを埋めるための材料が依存なのだ。誰かや何かに依存することで足りない何かの代わりを埋めて、自分を落ち着かせる。不安をかき消す。足りない何かが見つかれば、私も恋愛に依存しなくなるのだろうか。そもそも足りない何かって何だ? 一途に想い続けてくれる人? 愛情? 優しさ? 考えてもきりがない。難しすぎる。

 いつかこの答えが出るとも思えないほどに。愛情があるから戦争がなくならないのと同じように、不安があるから依存がなくならないのかもしれない。


 依存しなくても幸せになれる世界があると信じて、今日も私は恋をしている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

媚び恋愛 鞘村ちえ @tappuri_milk

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ