第2話

 寒さを感じ、aは目を覚ました。二重窓の内側が開けっぱなしで、夜の間に冷気が入り込んでいた。

 窓は結露しており外が全く見えなかった。aがタオルを取って窓を拭くと外の風景が見えた。

 寮の横は空き地で、それを取り囲むように住宅が連なっている。遠くに目線をやると鉄塔と山が見えた。山は不自然に整った円錐形をしている。aはやっと自分がいる場所を認識した。

 aはこの山に見覚えがあった。モエレ沼公園の山だろう。

 アシスタントを起動し、aはモエレ沼公園周辺の地図を表示させた。その公園は札幌市東区に位置しているようだ。琴似からかなり離れている。なぜこの場所に生管の寮があるのだろうか。

 地図を詳しく見るとその理由がわかった。モエレ沼の南東に、再生産管理局の巨大な施設があった。地図上での広さは、近くの大学のグラウンドに匹敵する。この寮は主に近くの施設の職員向けのようだ。

 


 家の周辺を探索する余裕もないままaは出勤した。市内とはいえ、電車ではかなりの時間がかかった。車がありさえすれば、とaは思った。

 生菅につくと、cとdがすでに来ていた。bはまだ来ていない。

「dさん、これ外さないと怒られますよ。部長は今日戻ってくるんですよ」cはこう言いながら画鋲を抜き始めていた。

「だめ! つけとくんだ」dは椅子から立ち上がった。

「なんでですか」

 aはこのやり取りを遠目で眺めていた。どこの生菅にも変わった人がいるものだ、と思った。かくいうcも、机の上に所狭しと観葉植物を並べていた。

「人間の神秘を謳って何が悪い」dは張り紙を押さえ、cから画鋲を奪い取ろうとしていた。

 aはデスクについた。cの近くなので話しかけられそうだ。

「わざわざここに貼っておくようなものですか」cも譲らず反論した。「実際ただの飲み歩きグループじゃないですか。すすきのでぷらぷらしてるだけでしょ」

 ソドミー部なるものは実際には組織されていないようだ。これは一種の政治団体だとaは思っていたのだが。立川でも掲示物で注意された人物がいたが、その人物が主張していたのは、「in vivoセックス反対」だった。その人物が退職させられることはなかったが、張り紙や立て看板の一切を禁じられ、デスクの上にあるものを頻繁にチェックされるようになった。いずれ石狩支部でも規制が厳しくなるかもしれない。


 aは平然を装い、昨日の資料を見返すことにした。それにしても、部長クラスが研修に行くとなると、かなり大きな変更の予兆のように思えた。

 bがやってきて、aの隣の机についた。

「eもうちでドナー登録しているんですよ」bは自慢げな口調でaに話しかけてたが、eという人物をaは知らなかった。「eって誰です?」

「aさんは知らないでしょう。北海道のタレントだよ」cがいつの間にか、こちらの輪に入ってきた。

「まあ、その有名人が、うちに面倒な相談を持ちかけてきたっていう噂があるんだよ」と、bは続けた。「相手ドナーにすごい細かい条件つけてきてさ、差別禁止規定に触れるんじゃないかっていう話」

「有名人が直々に来ることはないでしょう」aは疑念を抱いていた。

「直接じゃなくて、民間相談施設経由で来たかも。要人向けのところとかさ」cが付け足した。aは納得し頷いた。

「今、審査会で揉めてるとこだね。うちらも巻き込まれるかも」bは暗い表情で言った。

 aは急に思いついた。「そういえば、昔港区支部で、インキュベータスタッフが買収された事件があったな。自分の子供だけ手厚く看護するようにって」

 bとcは揃って「あった、あった」とつぶやいた。「あれって政治家の子供だっけ」bは記憶を辿った。

「違う。EAUメーカーの上役」cが訂正した。「ひどい話だよ。せっかくin vitro生殖が平等になったのに、金の力を使うとは」

「金持ちにとっちゃ、子供は投資商品だよ」aは目を伏せ、肩を落とした。

 dは張り紙を直し、さらに新しいものを追加していた。

 


 業務開始時刻になった。衛生服に着替えたa、b、cの3人はインキュベータ室に向かった。dは整備用通路に入っていった。

 まず、胎児の発育測定が始まった。aとbがペアになり、胎児の体重の増分を記録して回った。

「アレイ12の232号、低体重の疑いありって書いてあるけど、計測ミスじゃないか」aは日誌と胎児を交互に見た。「身長は普通で、そんなに痩せている感じもない」

「うそ、じゃ、精密計測しないと」そう言うとbは、カートからポンプを取り出して、インキュベータの水槽部分にホースを入れた。ポンプを作動させると、モニターに人工羊水の質量がカウントされていった。

 aは電卓を取り出した。「羊水が8.432kgで、全重量が10.213kg。やっぱり正常だ。胎児と付属器で1.781kgある。内蔵の循環量計が壊れてる」

「集中整備だ。整備部を呼ばないと」bは無線をつなげた。「こちらアレイ12。232号EAUの循環量計が故障しました。至急整備にきてください」

 連絡を終えたbは呆れ顔で、新型機械の文句をつぶやいた。

 aとbの担当部署で、この機械以外の故障は確認されなかった。しかし、aには新型機械の弱点がはっきりと認識された。この手の故障が起きると、発育測定、ひいては胎児の発育そのものにも影響が生じるのだ。

 2人は次に、ベース栄養の注入と、成長が遅れている胎児への特別栄養の補給に取り掛かった。これは新型と旧型で作業手順が異なるものだった。

「42号がビタミンE製剤か。酸素濃度は…今は正常値だ」aは薬剤容器をbに手渡し、bは容器を投入口に挿した。

 旧型機械の半分ほどを見終えると、aも表示の見方にだいぶ慣れて来た。順調に作業をこなし、全機械を問題なく回り切れた。

 午前の作業はこれで終了だった。単純作業だが数が多いので、aは軽い疲れを感じた。インキュベータ室から出ると、aの緊張が一気にほぐれた。aとbは喋りながら事務所に戻った。

「よく循環計の誤差に気づきましたね」bは感心したようだった。口調がなぜか敬語に戻っている。「内蔵ポンプの故障が最近一番多いんですよ。でもなかなか気づくきっかけがないんですよね」

「発育測定が目測の時に訓練したから、どうしても体重ベースが信用できなくて。重量計があっても目測はやるようにしてる」aは淡々と常体で話した。大方の他のスタッフも同様だが、aには作業中敬語を使わない癖があった。作業が終わってもまだその癖が現れていた。

「なるほど、でも、僕も同じ訓練をしたんですけどね…もしかして同年代ですか」bはやっとこのことに気づいたらしい。

「6年目ですけど」

「ああ、じゃあ同じだ」bはさらに感心したようだった。「一番面倒な変更にぶつかった世代だ」

「付属器の件と、投薬管理者の件?」

「そうそう、僕、薬剤師免許がないから投薬管理から外されたんだよ」

「投薬管理がなくなるとすごく暇になったのを覚えてる」



 2人が事務所にたどり着くと、真っ先にdの掲示物が目に入った。

「なんか張り紙増えた?」aは目を細め、bと顔を見合わせた。

「増えたね」bがつぶやいた。

 近いづいてみると、『すべての人にセックスの力を』とか『札幌は北のソドム』といった文言を確認できた。dは満足げにそれを見つめていた。

「aさん、どうですか? この出来栄え」dはにやにやしながらaに視線を向けた。

「『札幌は北のソドム』には同意しますけど、もう一つのは同意できませんね」aは動じることなく返答した。「私アセクなんで」

 dを試す意図を、aは心の奥に隠していた。dへの不信の種火が未だ燻っていた。

「ああ、それは失礼」dは立ち上がり、「すべての人にセックスの力を」を外した。「うーん。確かに誤解を招く表現だな」などとしかめっ面でぶつぶつ言った。

「誤解も何も、貼っていい内容じゃないでしょう」先に席に戻っていたcが釘を刺した。「部長が見たらなんと言うのやら」

 dは配慮を欠いた人間ではないようだ。それでもcは非難を続けた。次にaの心に引っ掛かったのは、cの姿勢だった。

「cさん個人としてどう思います?」aはcに質問した。「in vivo生殖支持者だったら嫌がりそうな内容ですけどね」in vivo主義者の、『産めよ増やせよ』と『禁欲主義』が成立できるという、矛盾した思想を念頭に置いていた。

「そりゃ、私も再生産とセックスは切り離して考えてるけど、あの人が言うと単なる快楽主義に聞こえるんだよね。あと、部長が娯楽セックス反対者だから、それをからかっているんじゃないの」

「部長はそんなに強硬なの?」aは質問を重ねた。

「昔の人だからね。ここの長老だから」cは声をひそめて答えた。

「君たち、いい議論をしているね」dはにやにや笑いを取り戻した。「これが私の狙いだ。部長はこういう話をする機会を奪ってるんだよ」

「あんたが言うことじゃないでしょ。どんちゃん騒ぎで注意された人間が」cは鋭い口調で言い返した。「『札幌は北のソドム』なんて、あんたたちがそうしたんでしょう」

 bは呆れ顔で3人のやり取りを傍観していた。昼食より先に部長の非難とセックスに対する姿勢の話題で盛り上がる人々がそこにいた。巻き込まれても平然としているaの姿にbは驚きを覚えた。bは自前の弁当を取り出し、隠れるように食べ始めた。

 aも腹が減ったからと、話を打ち切ってdとcから離れた。aは外で昼食をとるつもりだった。


 生菅から出ると、すぐ向かいに飲食店があるのをaは知っていた。その店を見てみると外まで行列ができていた。aはすぐに諦め、コンビニか弁当屋で弁当を買ってくることにした。調べてみると、生菅の裏手に弁当屋があるようだ。

 aが弁当屋を覗くと、商品がかなり減っている様子だった。生姜焼き弁当と幕の内弁当だけが残っていた。売り切れの弁当の中に、ザンギ弁当なるものがあった。aはこの食べ物の存在を思い出した。そして、北海道らしいものをこれまで何一つ口にしていないことを悔やみながらも、生姜焼き弁当を買っていった。

 aが事務所に戻ると、bは食べ終わって昼寝をしており、cとdはおとなしく昼食を食べていた。aも静かに昼食をとった。弁当は手が込んでいて非常に美味しかった。



 午後の業務はブリーフィングで始まった。これから投薬や治療など複雑な業務が始まるので、医師、薬剤師、EAU運転士の間で情報共有を行うのだ。

 事務所の簡易会議スペースに職員たちが集まっていた。aは昨日紹介されたEAU運転士たちと再び顔を合わせた。医師や薬剤師もいるようだが、誰がそうなのかはaは知らなかった。作業着や白衣ではなく、スーツ姿の職員たちもいた。彼らは管理職か相談員だろう。

 スーツ姿の職員の1人が口を開いた。「新任の皆さん、初めまして。インキュベータ部部長のfと申します」aら新任職員たちはぺこりとお辞儀をした。「まず、私の方から、促成栄養ユニット、ブースターの導入についての報告をさせていただきます。えー、ブースターについては、先日認可がおりまして、今回の全道研修ではその導入時期と規模についての説明、およびスタッフの訓練の手順についての確認いたしました。えー、導入時期は来年11月ごろを目処としているとのことです」fは手元のタブレット端末にかじりつき、早口で原稿を棒読みした。「インキュベータが空き次第、ブースターユニットの設置と調整を行います。え、規模については、石狩支部では全機を改修する予定です。えー、EAU運転士と薬剤師の研修は来年5月から開始します。ちなみに、EAU免許の科目にブースターユニットの調整が追加されます。…あとは、アレイ1から12の旧式機械をこのサイクル限りで廃止し、全機の機種を統一します。以上です」

 aはfの説明をメモに取り切ることができなかった。「えー」と「え」のせいで内容がさっぱり入ってこなかった。他のスタッフたちに確認を取る間も無く、次の説明が始まっていた。fとは別のスーツ姿の職員が話していた。

「…旧型機の生育不良率は、今月までの集計で4.2%と、新型に比べ2ポイント高くなっております。差が厚労省基準値を上回ったため、旧型機の廃止を決定し、全機をブースター対応型に統一することとなりました」

 次は、アレイごとの代表の医師と運転士、整備士の報告だった。書面による細かな報告と、やや重大な事象の口頭での追加説明があった。

「アレイ1です。今朝4時42分ごろ透析用ポンプの故障により170号が高カリウム、高ナトリウム状態、外部ユニットにて対処した。対処は現在も継続中。筋肉と心臓の異常は確認できなかったが、要経過観察と判断。投薬は行わなかった」この医師は淀みなくはっきりと原稿を読み上げた。

 運転士がこれに続いた。「170号については、午前4時42分に異音の自動感知、人工血液の流量低下を確認。胎児の血圧が上昇し血糖は正常範囲内であったため、透析装置の故障と判断し医師と整備士に報告、対処した」

 さらに整備士が続いた。「人工血液循環ユニットを取り出したところ、第1ポンプに異常はなく、第2ポンプに逆流の痕跡を認めた。さらに浸透膜が変形し、正常にろ過できない状態だった。現在原因の調査中」

 次々と報告が行われていった。aの印象では、人口体液の流量低下やポンプの異音が多いようだった。現在5ヶ月より前の胎児を扱うアレイでそのようなインシデントが起きると、胎児の成長に悪影響を及ぼす恐れがある。旧型機の交換という判断は賢明と言えそうだ。bは旧型機の整備性を好意的に見ていたが、実際には、運転士だけでは対処できないほどの事案が度々起きているようだった。

 アレイ12の番が回ってきた。医師からは正常との報告がなされ、dが運転士の代表として報告した。「今朝9時11分、232号の定期測定中に、人口羊水流量計の故障を発見。胎児の体重測定に329gの誤差が生じていたことが判明した。前々日からの体重グラフの伸びが鈍く低体重が疑われていることから、この時から異常があったものと推定。本日の測定値では正常範囲内だった」幸いにして、アレイ12での問題は、aが発見した事例のみだった。整備士から、流量計は復旧し、計器の故障は深刻ではなかったとの報告がなされ、aとbは内心でホッとした。


 新型機のみのアレイの報告は、「正常」との言葉の連続だった。やはり動作の安定性では旧型をしのいでいるようだ。しかし、着床したばかりの胚を扱うアレイ27で気がかりな事象が起きていた。医師の報告はこの通りだった。「3号の人工胎盤の生育に大幅な遅れあり。人工妊娠を継続できない可能性あり」、つまり、その胚は死ぬだろうということだ。

 職員に緊張が走った。もしその胚が死んだら、その両親のみならず、北海道再生産管理局本部や厚生労働省に報告をしなければならない。重大事故と認定されれば、行政指導が入ることになる。

さらに、訴訟や職員の逮捕の恐れもあった。基本的に、事故による胎児の死亡は犯罪ではなく、両親に対しても生菅側が賠償責任を負わないことになっているが、調査の結果によってはそれが覆る場合があるのだ。

 全アレイの担当者の報告が終わると、窓口相談員が前に出た。「アレイ27、3号胚の件ですが、卵子ドナー・精子ドナーの双方に連絡を行いました。お2人とも大変心配されているご様子でした。万が一死亡の場合に備えて、説明を行いました。卵子ドナーの方に追加の採卵をしていただけるかは、まだご回答をいただいていません」


 ブリーフィングが終了すると、aらは持ち場に戻っていった。aたちEAU運転士は、治療ユニットを用いて医師の補佐に回る。これからアレイ27の3号機には、医師たちが総出で治療に出向くだろう。

 その後のaの作業は、胎児の診察や胎児保護組織の移植などで、特に困ることもなく淡々と進んだ。bに移植作業の方法を教えられ、従来とはだいぶやり方が変わったことがわかったが、それも飲み込むことができた。

 しかし、すべての作業が終わり、衛生管理区域から事務所に戻る道のりで、aは集中の糸が切れたのを感じた。途中でcに出会って話しかけられたが、ほとんど内容を把握できなかった。幸い、重要な情報は含まれていないようだった。

 デスクに戻ったaは、日報を書くためpcを立ち上げた。ほとんど一瞬でパスワードを入力する画面になったが、1分ほどしてやっと気づいた。日報の画面は滲んで見え、aは嫌という程自分の疲れを思い知った。意識がどこか遠くへ流されていくようで、現実に係留しておくには相当な努力と時間を要した。初めての作業が含まれていたので、今日の日報は少し長くなるが、この状態では日報の文章がまるでまとまらなかった。結局たった六百字の文章を仕上げるのに、十五分も要してしまった。

 aが苦戦している間に、終業のチャイムが鳴った。職員たちは次々と事務所を後にし、残っているものも飲み会の予定を話し合ったり、噂話で盛り上がったりしていた。aが書き終えた頃には、事務所に四、五人が残るばかりとなった。その中にbとcがいた。

「aも誘ったらどう?それだったらあそこのジンギスカン屋とかいいんじゃないの」cはaの方にちらりと目をやった。aはcと目を合わせた。

「ねえ、僕たち夕飯食べに行こうかと話してたんだけど、aさんも行きます?」bが呼びかけた。

 aはその意味を解すのに時間がかかり、すぐに返答ができなかった。するとaの元にbが近づいてきた。

「駅前の店で食べようと思ってて、せっかくだからジンギスカンとかはどうかな?」

 aにはbの声が遠くから響く山彦のように聞こえたが、やっとその意味を理解した。「いや…誘ってくれたのはありがたいけど、かなり疲れたから、今日はだめだ。また今度」

「そっか。じゃあね。また月曜日」cは手を振りながら、自分のデスクから離れていった。

 帰宅したaは、もうろうとした意識の中で、夕食の誘いを断ったことを後悔した。

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