道民工場
都途回路
第1話
新千歳空港からJR琴似駅まで、快速列車に乗っても思いの外時間がかかった。aが列車を降りると、12年ぶりの北海道は冷たい風で出迎えた。
北海道生産管理局石狩支部は、琴似駅から西に歩いて8分ほどのところにある。ガラスが多用された横に長い5階建ての建物が、これからのaの仕事場となる。その隣には、生産管理局付属の生殖医療センターがあった。
aはここで、新しい道民たちの世話をすることになる。世話と言ってももっぱら機械の調整や薬剤の配合をする。人工授精で生を受けた胎児たちが、この施設のインキュベータで約10ヶ月間育てられるのだ。そのあと赤ちゃんたちの運命は二つに分かれている。あるものは家庭で育てられ、またあるものは養育施設で成人するまで育てられる。
aは再生産管理局の受付に行き、担当者を呼んでもらった。事務所で待つように言われ、職員通用口に通された。ロビーの明るい雰囲気とは裏腹に、通用路は白塗りの壁にコンクリートが露出した床という寒々しい内装だ。
事務所は広々として大きな窓があり、かなり開放的だった。行政機関の事務所というよりは、むしろIT企業のオフィスを思わせる。この建物は、北海道庁肝いりの建築プランなのだろう。新しい道民が祝福を受ける場所に恥じない美観を要求したようだ。
aは輪の形になった応接ソファにかけて、担当者を待った。3分ほどで、グレーのスーツ姿の担当者がやってきた。aと同じくらいの年齢のように見えた。
「はじめまして。東京都再生産管理局立川支部から転任いたしました、aと申します。よろしくお願いいたします」
「こちらこそはじめまして。インキュベータ部のbと申します。よろしくお願いいたします。しかし、東京から転任とは、遠路はるばるお疲れ様です」
「いえ、私生まれは北海道なので、遠いとは感じておりません。だいぶ長い間帰ってきていませんが」bの丁寧すぎる話ぶりにつられて、aもかしこまった口調になってしまった。
「早速ですが、仕事内容の確認と、ご用意いただいた書類の提出ですね」
aはカバンから角2号の封筒を取り出し、bに手渡した。bはそれを受け取り、持っていたバインダーに挟み込んだ。代わりにaに資料を手渡した。
「aさんはインキュベータ部の配属になります。以前も同じ部署と聞いておりましたが、間違いありませんか」
「ええ、EAUの運転と人工体液の調剤をしておりました。人工胎盤素地の移植はあまり経験がないのですが」
「2種免許をお持ちなのに?」
「立川では人が余っていて仕事が回ってこないんですよ。離職した若手も多いんですよ」
「そうですか。こちらは人手不足で、結構仕事量が多くなりますよ。まあ、移植に関しては、新型の機器があるので幾分楽だと思います」
「機械は全部新型なんですか」
「いや、それが、新旧入り混じってて、使い方が全然違うので覚えてもらうのが大変かもしれません。旧式の方がコツがいるんですけど、整備性は良いんですよね。それはともかく、2機種のマニュアルと調剤プロトコルをあとでお渡しします」
「着床時アセスメントの頻度が12時間に1回ですか。これは初めてですね」
「うちが試験導入した方法なんです。これをお任せするのは、もう何ヶ月か後になりますね」
「胎児は何人くらいいるのですか」
「最大で15000人分のインキュベータがありますけど、現状は14000人くらいで、ここ最近で一番占有率が低いですね。それに対して技術スタッフが80人ですから、大忙しですよ。aさんが来てくださって助かります。では、顔合わせと、設備の紹介ですね」
二人は立ち上がり、事務所の奥に進んだ。
職員のデスクは整然と列をなして配置され、典型的な役所のイメージ通りだった。大抵のデスクの上は整然としていたものの、観葉植物や人形など、この場に似つかわしくないものが置かれているデスクもある。
事務所の一番奥の簡易的な会議スペースに、インキュベータ部の職員が集められていた。彼らは同じ発育段階の胎児を担当だった。
「お、きました。期待の新入職員だ」調子のいい声が飛んできた。
「初めまして、東京都再生産管理局から参りました、aと申します。どうぞよろしくお願いします」
「cです。これからアレイ12を一緒に担当します。よろしく。aさん、あんまりかしこまらなくていいですよ。bも緊張しなくていんだから」さっきの調子のいい声の主だった。「で、これがdさんで…」
「『これが』とは失礼だね。dと言います。僕の顔はすぐ覚えるでしょうね。なにせ石狩支部一番の美男子ですから」
初対面なのに自分のジェンダーを持ち出すなんて変わった人だ、とaは思った。この文脈でわざわざ性自認あるいは性的魅力に言及する必要は全くない。恋愛や性絡みの話題に持ち込もうとしているとも、a自身をからかっているとも受け取れた。警戒とは言えないまでも、dに対するaの心理的距離を生んだのは確かだ。aはジェンダーの概念を嫌っていた。ジェンダーなど、in vivoセックス支持者の術語でしかない。人間は男女ないしそれ以外の性別に分類されれば、性の対象へと単純化されるのだ。
「自分で言うもんじゃないでしょう。あんたの顔は印象に残るもんじゃない。次にこの人が…」cが口を挟んだが、すかさずdは「自分で紹介させてやりなさい」と釘を刺した。
この場にいた他の5人の職員も自己紹介したが、cとdの小声の言い合いが続き、aの頭に入って行かなかった。
「どの方が管理者ですか」aはbに質問した。答えたのはdだった。「僕がアレイ12担当のリーダーで、部長は所長と一緒に今研修で出張中。ここにいるのは全員同じ担当で、他に周産期専門員が2人、他のアレイの作業に駆り出されてる。うちらの胎児は安定期だから今は暇だよ」
「設備の見学に行きましょう」bが切り出した。
aとbは来た道を戻り、cら他の職員はデスクに戻った。観葉植物のデスクはcのものだった。dは壁際の端の方のデスクについた。aが事務所の方を振り返ると、dの後ろの壁の掲示が目に入った。コピー用紙をつなげた細長いその掲示物には「石狩生管 ソドミー部」とあった。
「なんですか、あの掲示」aは思わず興味をそそられた。
「dさんが部長と所長がいないからって貼り出してるんです。あの人が勝手にやってるだけですから、気にしないで」
事務所の横の更衣室で衛生服に着替えた2人は、インキュベータ室に向かった。その入り口は強固な気密扉になっている。bがドアの中央の読み取り装置に手をかざすと、ガコンと音がして鍵が開いた。その内側はエアシューターになっており、aとbは両手を上げて埃を払いながら進んだ。また床のトレーの液体に入り、靴底の消毒を済ませた。さらに重厚な扉があり、その先がやっとインキュベータ室だった。
インキュベータ室は、薄暗く赤っぽい色の照明で照らされていて、全容を見渡すことはできなかった。熱帯魚用の水槽のようなものが延々と並んでいたが、その列の向こうの端はうっすらとしか見えない。
入り口の一番近くの水槽にも胎児が入っていた。水槽の上部と下部に、点滅する光や無数のボタンがあった。胎児のへその緒は上部からぶら下がっており、胎児は頭を下にしていた。半透明のぶよぶよした組織が胎児とガラスを隔てていたが、前面は切り開かれ胎児本体が見えた。かすかにブンブンという機械音がした。全部で15000の機械があるが、その数にしては静かだった。胎児に影響がないよう音と振動は最小限に抑えられているのだ。
「アレイ12はこっちです」bはマスク越しに言った。その声を聞いた近くの胎児は皆ピクリと動いた。
aの担当の場所に着くまで2分ほど歩かなければならなかった。部屋の壁面と機械の上部のそれぞれに12と書かれていた。
「アレイ12は500台のEAUがあります。そのうち100台が旧型で、残りは全部新型です。他は全部新型か旧型なんですけどね。旧型があるのはアレイ1から12だけです」
「旧型はこれですか」aは近くの機械を指差した。bは大きく頷いた。
「今の主流と違うのは、機械の右下に栄養ユニットがあるので、薬剤投入口も右下側。モニターは左側に小さくまとめてあります。読み方になれてもらわないと間違えてしまうんで気をつけてください」
確かに左側にモニターがまとめられていた。血中酸素濃度と血糖値が縦に並んでいて紛らわしく、ヒューマンエラーにつながりかねない。
2人はさらに歩き、新型機械がある方へ向かった。
「こっちが新型です。投入口は全て上にまとめてあります」
「この形式の方が見慣れてますね」aはボタンやランプ、ディスプレイを一つ一つ指差し確認した。
aは容器内の胎児に目を移した。小さくて痩せているが、もうすでに人の形に完成されている。あとは大きくなるだけといったところだ。
見学と説明を終えたaとbは、インキュベータ室を後にし、事務所に戻った。aは割り当てられたデスクにつき、bから渡されたプロトコルの確認を行なった。着床時以外の操作は以前と全く同じだった。この操作法というものはところによって変わるようなものではない。体外式人工子宮のメーカーは世界で5社しかないし、設計には業界水準が存在する。手動運転車の運転方法がどのメーカーでも同じようなものだ。そして、人間の仕様は世界共通だ。
そのほか細々とした業務を片付け、aの石狩支部での1日は終わった。
しかし、まだ重要な仕事が残っていた。aは家に帰らなくてはならない。だがその家が帰れる状態になかった。aは生菅の寮に入ることになっていたが、荷物がまだ届いていないのだ。
事前に調べた情報を手掛かりに、aは一路寮へと急いだ。JRと地下鉄を乗り継ぎ、1時間ほどかけて移動することとなる。
琴似駅で待つことなく列車に乗れたが、地下鉄の駅で待たされることとなった。やっと列車に乗り、座席にかけたaだったが、めまいを感じ始めていた。これから向かうのは札幌の中でも土地勘がない地域なので、それが疲れに輪をかけた。東苗穂3条2丁目、東苗穂4条3丁目…と、本州育ちの者には暗号のように聞こえる駅名が次々読み上げられた。暗号の数字が大きくなるとaの眠気も増していった。本格的に意識が遠のいたその時、東苗穂14条3丁目、aが降りるべき駅に着いた。aは慌てて列車を降りた。
駅から出ると、日が完全に沈んで街灯がまばらなので、ほとんど何も見えなかった。迷う心配はなかったが、aはひどく心細く感じながら、歩を進めた。歩道の傷みが酷く、暗いせいもあってaは何度もつまづきそうになった。
10分ほど歩くと、寮に着いた。aにはその道のりが20分に感じられた。時刻は午後6時35分。aの荷物の受け取りに間に合った。
aは管理事務所に声をかけ、自分の部屋へと向かった。普通のワンルームのような作りで、部屋には家具と家電だけがあった。
aは管理事務所に戻り、布団一式を借り、管理職員と共に自室へと運んだ。重さと階段の往復でaの疲れが極限に達した。aは手荷物のリュックから、買っておいたパンを取り出した。パンは他の荷物に押されて潰れていた。aはパンをかじりながら、家財を含む荷物が届くのを待った。
ひどい1日だ、とaは内心で言った。正確には2日だった。aは前日まで立川で業務を行い、その夜羽田まで移動して、この朝羽田から出発した。立川と石狩の両方で問題が起き、立川での業務が延長して、石狩での勤務開始が前倒しされた。aがbから聞いた話では、所長らの研修出張に関係があるらしい。上司には、新しい作業内容の指導を一度に済ませたい思惑があるのかもしれない。
ドアがノックされ、2人の配達員が現れた。配達員らは段ボール箱を次々と運び入れ、最後に手回り品をつめた旅行鞄をaに手渡した。作業を終えると、aの腕は小刻みに震え始めた。
これでやっと、今日のaの仕事は完了した。あとは疲れを取り除くのみだった。気力を振り絞って風呂に入り、布団を整えた。
ふと外の様子が気になり、aは二重窓を開けた。ベランダがついており、外に出ることができたが、真っ暗で地上のものは何も見えなかった。空を見ると星が点々と輝いていたが、東京に比べてその数が多いというわけではなかった。特に面白い発見もないので、aは部屋に戻り床についた。
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