随想録10 潜伏者

 ―――うちに泊まっているお客さんの様子は、何処かおかしいのではないか。

 と、首都シュパーゲル通り近くにあるホテル・ヴァーグナーの主と女将が疑念を持ち始めたのは、星暦八七八年が六月に入ってからのことである。

 最初は、何処か体調が悪いらしいその人間族の客への、純粋な気掛かりだった。

 この懸念は、一週間ほどして晴れた。

 客は驚くほど元気になり、一階にあるレストランで朝晩しっかりと食事を摂るにようになったし、昼間は外出することも増えたのである。

 しかし五月の末になってから、客は

 チェックアウトはしていない。

 フロントに鍵は預けていったが、まるでいつもの通りの様子で、とくに長期出るというような話はなかった。

 毛皮襟のついたフロックコートを着て出たから、何か仕事絡みの外出なのだろうと思ってはいたが。

 しかし二日が経ち、三日が経っても、客は戻らない。

「何かあったのだろうかね・・・」

 四日目の夜。ロビーの片付けが済み、他の客たちが部屋へと引き揚げ、一息つき、自らたちの遅い夕食を摂り終えてから、コボルト族シェパード種の主人は妻に話題を振った。とくに主語を付けずとも、あの人間族の客のことであることは、女将にもすぐ理解できたほどには、共通の懸念になっている。

 ただ、ふたりは踏み倒しの心配はしていなかった。

 その人間族の客はスーツケースをひとつ部屋に残したままになっていたし、長期滞在だというので律儀にも自ら申し出て、滞在一週間ごとに宿泊費も食事代もしっかりと精算していたからだ。

 物腰も言葉使いも丁寧であり、低地オルク語を流暢に話し、女将などは「ああいった方を本物の紳士というのね」と褒めたたえていたほどである。

「・・・そういえば。少しおかしな事があって」

 女将は眉を寄せつつ、コーヒーを夫のカップに注いだ。

「なんだい?」

「外出される前日、うちの前であのお客さんが知り合いらしい方と、ばったり」

「ふむ?」

 温かい季節になると、女将はホテルの前に椅子を出して編み物をすることがあり、その光景を目撃したのだという。

「何か、むかしカードをやる仲間だったとか。相手の方も人間族で。それが―――」

「うん」

「宿帳と違う名で呼んでいたのよ。ええ、そう。確かに違う名だった・・・」

「・・・・・・」

 夫はこれを酷く不審に思った。

 ふたりは相談し、朝になったら警察を呼ぼうということに決めた。勘違いでもいい、何処かで事故にでも遭った可能性もある―――

 翌朝、定時巡邏中のところを呼び止められたオーク族の上級巡査は、ふたりから話を聞き、宿帳を確認し、氏名を手帳に書き記したうえで、ともかくも部屋を見せてくれといった。

 主人夫婦にとって安心材料になったのは、この上級巡査ホルスト・ブーフヘルツは顔馴染で、日頃の挨拶なども欠かさない仲であったことだ。

「勝手に荷物を改めてもよろしいので?」

「まあ、事態が事態だからねぇ」

 残されていたスーツケースに、鍵はかけられていなかった。

 旅行用の帽子入れもあった。

 ブーフヘルツはこれを改め、シャツ、下着といったものの中から、奇妙な代物を発見した。

「おいおい、こいつはなんだ・・・」

 独り言ち、片眉を上げた彼が発見したのは、旅券だ。

 サイズや書式にこそ若干の違いこそあれ、何処の国も使っている一枚紙の形式で、キャメロット連合王国発行のもの。比較的新しい八つ折の折り目がある。

 星欧各国は交易が盛んで、旅券を持たずに動き回れた歴史が長かったが、ちかごろでは随分と煩くなり、オルクセンでは魔種族の国ということもあって、外国籍人間族はとくに携行を強く推奨されている。

 税関の他にホテルや宿屋でも掲示を求められれば、軍事関連施設の周囲などでも同様だ。

 ブーフヘルツは、もう一度旅券を眺めた。「大陸を旅するキャメロット臣民セバスチャン・モラン氏」と定型文があった。

 名は宿帳の通りだ。

 ―――じゃあ、こいつはいま、何を使って移動しているんだ?



 ヴァルダーベルグにあるアンファウグリア旅団衛戍地では、騎兵たちが訓練に励んでいた。

 六月一八日の陸軍記念日において、旅団が成すべきことは多い。

 騎兵第一連隊がパレードに参加することになっていたし、一個中隊が官邸警護。選抜の一個小隊三九騎が国王夫妻馬車の護衛任務にも就く。

 この馬車警護の隊が、他の連中とは違った武器を使い始めたのは、ベレリアンド戦争後のことだ。

 ――――騎槍という。

 長さ二・五メートル。この先端に約一三センチの槍身がついている。

 アンファウグリアは従来、騎兵銃とサーベルを武器にしてきた。しかしベレリアンド戦争において技量にも戦術にも優れたエルフィンド騎兵と戦い、その騎槍の猛威に接し、襲撃戦闘用として採用されたのだ。

 本来なら槍騎兵として一つの兵科を成すのが星欧流であったが、そこまでの余裕は小所帯であるオルクセン騎兵にはない。

 だがアンファウグリアでは馬車警護に最適だというので、ともかくも技量適者を選抜して持たせることにした。

 この騎槍、存外に扱いが難しい。

 重く、取り回しも大がかりで、慣れぬうちは腕などパンパンに腫れあがる。馬上で姿勢を保つ能力なども、高度なものを要求される。どうにか物にしたのはまだ六名だけだ。

 この六名を、馬車の直前に四名、後方に二名つける。

 旅団では彼女たちを中心にし、王室用の無蓋四輪馬車と同型のものまで用意して、予行訓練を繰り返していた。

 騎槍には、槍身の近くに金属製の環が二つあって、樫製の柄を箍めてある。この環には旗印として小旗を取り付けることができるから、オルクセンの国色である黒と白を上下にした二尾の装飾を施す。

 護衛役にして、国王馬車への儀仗を兼ねるわけだ。

 そうしてこの前後に、通常のサーベル装備の騎兵が先導と後衛につく―――

 アンファウグリア旅団第二代旅団長アルディス・ファロスリエン少将は、そのような訓練風景を旅団長室の窓辺から眺めていた。

 襟の刺繍は将官用のものに変わり、袖の階級を示す部分も線の数が増えている。

 ついちかごろ、それまでの「旅団長心得」から心得の文字が取れると同時に昇進していた。オルクセンでは、正規の旅団長職は少将がやる。「心得」という配置も本来なら臨時のもので、いつまでもそのような処置、大佐のままでいさせるわけにはいかない、と。

 ―――王妃様のゴリ押しだな。

 アルディスは、ベレリアンド戦争中の功績を買われ、終戦直後に大佐になったばかりだった。

 そこからの期間を思えば、幾らなんでも昇進が早すぎる。

 長命長寿、不老にして不死にさえ近い魔種族の軍隊なら、尚更のことだ。

 どうも、組織としての格好をつけるため、アンファウグリアに適当な他種族の少将を旅団長として配置しようという話が陸軍省人事筋であり、これを知ったディネルースが激怒し、この王妃にしては極めて珍しいことにあれこれ運動して、アルディスの昇進と正式な旅団長就任をねじ込んだらしい。

 弱ったことをしてくれた―――と、当事者たるアルディスは密かに溜息をついている。

 何か功績を建てたというのであるとか、年功序列上の適切な期間を大佐として過ごしたというのならまだしも、横紙破りもいいところだ。

 アルディスが寡黙にして勤勉、戦時中の戦功もあり、そしてオルクセン陸軍幹部たちからさえそのように評価されていなければ、彼女自身が何か一種の猟官運動をやったのだと誤解されかねない真似であった。

 そして、口さがない者、心ない者はそのように意図的に解釈し、噂や批難を広めもするだろう。

 おそらく、戦後のダークエルフ族社会とこの国での地位を完全に確立させたいという、ディネルースの動機も分からないわけではなかった。

 だが、アンファウグリアは、ダークエルフ族の私兵集団などではない。

 いまやオルクセン陸軍の立派な正規部隊だ。

 いつまでも戦前や戦時中の、形振り構っていられなかったころのようにはいかないのだが―――

「旅団長、入ります」

「うん」

 振り向くまでもなく、旅団参謀長イアヴァスリル・アイナリンド中佐の声だとわかった。

 旅団が国王官邸に交代で配置につけている、官邸警護の騎兵中隊が図嚢に納めて持ち帰った、ディネルースからの私信を携えていた。

 アルディスはそれを二度読み、じっくりと中身を咀嚼してから、部下に見せた。

「・・・式典当日、最低限の警護はつけられることになった、と」

「まあ、そういうことだな」

 内務大臣ボーニン大将が国王への諫言を行ったこと、ディネルースがこの「援護射撃」をしたこと。受けて、国王夫妻馬車に二名、騎乗となって周辺騎列に溶け込むかたちで八名の国王警護隊が直接警護として参加することになった、とあった。

「まずは、やれやれといったところですか」

「うん―――」

 出来れば、彼女たちにも来てもらって予行をやりたいところだ。

 ふたりは相談し、その旨、国王警護隊長リトヴァミア・フェアグリン大尉への連絡を行うことにした。

 国王警護隊は、名目上アンファウグリア旅団の配下だが独自に動いているので、こうでもしないと円滑に進まない。

 両者の潤滑油になっているのは、ディネルースと、その私信だ。

 国王との間にとっても同様の存在だと言えた。

 彼女たちが知るのは後日のことになるが。ディネルースの「援護射撃」は苛烈なもので、パレードの警護はともかく、朝市通いについては従来通りの警護でいい、早期の再開も図りたいと駄々をこねたグスタフに対し、

「あなたがそのつもりなら。王が護衛を要さない国なのだ、私は警護無しで乗馬に出るが構わんか?」

 と、罵り倒したのだ。

 これにはグスタフ王も二の句を告げず、ついには警護強化に同意するしかなかった。

「・・・ともかく―――」

 アルディスは、コーヒーを含んだ。

 淹れさせてから時間が経っていたから、酸味がでて、苦かった。

 アンファウグリア旅団としても、ダークエルフ族としても、彼女自身としても失敗のやれない警護だ。

「徹底して予行を繰り返すんだ。観衆役の兵も用意して、不意に飛び出させるというような。そんな実戦に則した訓練をやらせろ」



「―――セバスチャン・モランという人物は、実在しません」

 ヴァルトガーデンの北側。

 デュートネ戦争凱旋門近くにある、シンメトリーを成した重厚かつ壮麗な二階建て石造りのキャメロット連合王国公使館を訪れたヴィルトシュヴァイン警察の係官は、茫然としていた。

 彼は外事関係の担当で、行方不明となった謎のキャメロット人の捜索にあたっていた。

 事態の連絡と、単なる照会のつもりで公使館に問い合わせをやり、二日あってその返答を受け取りに来たところだった。

 既に六月の一週目が過ぎ去ろうとしていた。

「それは、いったい・・・?」

「正確に申し上げれば、セバスチャン・モランというは、ですが――――」

 書記官は本国からの電報を見やり、公使館側で作成した謄本を刑事に渡した。

「セバスチャン・モランは、確かに我が陸軍の将校名簿に実在しております。しかし、現在の任地はパシュトゥニスタン。メルヴィル将軍麾下の第六七歩兵連隊で、狙撃手を務めております」

「つまり・・・」

「この旅券は、真っ赤な偽物ということになりますな」

 これは極めて精巧に作られた代物で、一辺が一一インチ、もう一辺が一五インチの用紙も本物と同じなら、書き込まれていたモランという人物の、星暦八四〇年の出生年月日や出生地も同じ。ただ髪の色や目の色、身長といった要目が合わない、という。

 書記官は事態の憂慮を表明し、更なる調査を本国に伝えると約した。

 外事担当の刑事は、青銅製の瀟洒な公使館正面ゲートを抜け、辻馬車を拾い、フュクシュテルン大通りを下って、中洲にあるヴィルトシュヴァイン刑事警察の本部庁舎に戻ると、報告書の作成に取り掛かった。

 彼自身はこの時点では、密輸絡みを疑っていた。宝石か、阿片か、コカインか、モルヒネか。ともかく何かろくでもない代物をオルクセンに持ち込もうとした、キャメロット人の密売屋が何らかの事情により――――おそらく、本名を知られそうになって消えたのだ、と。

 とくにオルクセンでは、阿片やコカインといった麻薬の流通は厳格に取り締まられている。医療及び研究用として、国が輸入の管理をし、他の星欧諸国のように大っぴらに薬局で買えたり、貧民街に阿片窟が存在したりはしていない。

 魔種族の寿命があまりにも長いため、薬物中毒は影響が大きいとされて、取り締まる法があった。

 当然というべきか、取り締る法があれば、破ろうとする者もいる。

 オーク族とは、その根本において快楽を求める種族だ。

 とくに近年勃興著しい富豪階級の者たちが、表向きは芸術庇護のサロン、その実は怪し気な集会などを開いて迂闊な娯楽目的で手を出すため、密売屋なども裏社会には存在した。

 ともかくもこの報告書が回覧に付され、その日のうちに刑事部長カール・ローマン警視の目に留まった。

 このころのヴィルトシュヴァイン警察は、後年のそれと比べると全く小さな所帯で、何しろ制服警官を含めて四五〇名しかいない。

 外事担当も独立した部局などではなく、刑事部のしたにあった。

「・・・マルヒ。こいつをどう思う?」

 この牡一級の勘のようなものに引っかかるところがあり、彼はそれを信頼する部下に見せた。

「・・・こいつは妙ですね。密売屋が、長期で宿泊するような真似をやりますかね? とっととブツを捌き、金を手にしたら、さっと出国する。それが奴らの常套手段です」

「そう、そこだ」

 ローマンは頷いた。

「完全な偽名ではなく、実在する他者を装ったところもおかしい。おそらくこの謎の男にとって知人か、同窓か。そんな相手だったのだろう。多少の職務質問程度はやり過ごせる、極力身元がバレるような真似を防ぎたかったに違いない。ともかくもこいつは、何か目的があって、この街に長期で滞在をやりたかったのだ」

「では?」

 マルヒの有能な上司は、ちょっと考え込んでから指示を下した。

「うん。巡羅に指令を出して、各受け持ち区のホテルや宿屋を照会させろ。料理宿の類もだぞ。怪しい人間族が宿泊していないか、やってきていないか、と。名は変えられても、人相は変えられない」

 ローマンは懐中時計を取り出し、時刻を確認した。

 もう退庁時間に近い。

 どうにか今週末には、女房から何度も頼まれている自宅の納戸の扉の修理をやりたいのだが、などと思っている。

「明日、朝の巡邏で結果がわかるな」



 巡回の制服警察官たちは、首都域内を二〇に分ける各市区のうち主要六区の本署、それぞれの市区内にある地区の分署から出る。

 通常、日に四回。午前、午後、夜間に二回だ。

 郊外まで含めた場合の住民数一〇〇万。オーク族を主体に、コボルト族、ドワーフ族、それにダークエルフ族、在留者を中心に僅かな帰化者の人間族もいるこの巨大都市を護るには、四五〇名という刑事警察官の数は余りにも少なかった。

 なかでも、巡査はつらい仕事である。

 給料も安い。

 軍の兵隊などより額面上は高額だったが、兵士には衣食住が保証されている。だが警察官は下級の者も含めて自力で暮らさねばならない。

 それでも彼らは日々懸命に職務に努めている。

「我ら、市民とともに」

 ヴィルトシュヴァイン刑事警察の警察署なら、どこの正面にも掲げられているモットーである。

 市民たちも、そんな彼らには好意的に応じた。

 ヴルストを分けてやる呼売商、立ち寄る度にコーヒーを淹れてやる下町商店の経営者夫婦、巡査の多くが自宅にしている集合住宅に戻ると余り物を差し入れる隣家や管理人。

 この街の治安は、そんな持ちつ持たれつによって保たれていた。

 むろん、彼らを蛇蝎のように意味嫌っている犯罪者や裏社会の者たちもいる。

 だがこのころの社会ときたら本当にまだ牧歌的で、

「おい、フランツ。ちかごろ目立ち過ぎた」

「へい」

「しばらく大人しくしていろ」

「わかりやした、旦那」

 巡査と、界隈でそれと知れた掏摸やかっぱらいの間でも、そのようなやりとりで済んだ。

 警官によるお目こぼしもあれば、掏摸の方でも薬物や殺しといった「芯から腐った」犯罪が起こればそのような存在をこそ嫌って、何処そこで怪しい奴を見たと、情報源になったりしたものだ。

 新聞紙面を飾るような重大犯罪は、年に数えるほどしかなかった。

 巡査たちの主たる仕事といえば、本来は職務外の夫婦喧嘩の仲裁であるとか、素行の悪い若い者を、周囲に頼まれて説教をするだとか。そんな具合だった。

 地区の古老のなかには、まだこの街がたった六名の刑事捜査官を特別任命しているだけだった一〇〇年ほど前の時代を記憶している者もいて、

「平和になったものだ」

 などと目を細めた。

 そのころといえば、街の揉め事はたいていの場合、当事者であるオーク族同士の殴り合いや、酒量の誇り合いでケリをつけたものだ。街角での決闘など始終のことだった。

 オルクセン首都を近代的な治安状態にしたのは、「警官とアーク電燈だ」などと評されていた所以である。

 六月八日の朝、この警察官たちが各々の受け持ち地区にあるホテル、宿屋などを聞き込んだ。

 フュクシュテルン大通り、デュートネ戦争凱旋門のすぐ南側にあるホテル・ヴァインモナトを受け持っていたのは、中央区署の主任巡査だった。

 ホテルや宿屋といってもそのランクは実に様々だが、ヴァインモナトはこの街一級のホテルだ。

 地上七階、屋根裏一階の壮麗な建物。青銅屋根に大理石造りの新古典主義様式。一五〇の客室。この季節から夏場にかけては、サンシェードを広げ、パラソルつきのテラスなども用意したファサード。一級の附属レストランや、装飾の煌めき、大理石の彫刻像までもが美しいロビー・・・

 経営者であるコボルト族フリッツ・ベルグマンは、建国記念日の国王官邸晩餐会にも毎年招致されるほどの経営者で、産業連盟にも名を連ねる。

 そして、国王御用達認定を受けたヴィルトシュヴァイン唯一のホテルでもある。

 国内のみならず、海外も含めた要人、芸術家、著名人などの宿泊も多い。

 さきのヴィルトシュヴァイン会議時など、各国の政府関係者で溢れかえっていた。

 主任巡査はフロントへ行き、用向きを告げた。

 レストランに朝食を摂りに向かう澄ました客、清潔な揃いの制服を着たボーイなどが行き交うなか、自覚としてもちょっと場違いな思いを味わっている。

 焼きたてのパンや淹れたてのコーヒー、バターの馥郁たる香りが漂い、それも匂いひとつとってみても高級極まりないと感じられるものであって、主任巡査の腹が情けない音を立てた。

 密かに顔を赤らめているところへ、すぐに副支配人が現れたが、慇懃な態度に迷惑そうな扱いを潜ませていて、

「怪しい人間族でございますか・・・」

 言外に、そのような客はうちにはただのひとりもございません、と態度で示していた。

 まぁ、そうだよなぁ―――と、主任巡査も思う。

 ホテル・ヴァインモナトに現在宿泊中の人間族は、某国外交官を筆頭に二三名。うち、問題となっている失踪日以降の投宿者は八名。

 数も多いことだから、調査結果をホテル側で署に知らせる、という話になった。

「では・・・」

 主任巡査は敬礼してホテルをでた―――

 このとき、つい先ごろまでセバスチャン・モランを名乗っていた人間族の男は、彼らの頭上、ホテル・ヴァインモナトの四階にいた。

 大胆にも、いまは外交官を名乗っている。

 カッセル・フェルシュタイン公国のウィルヘルム・フォン・クラムというのがその触れ込みだ。オルクセンの南隣、アスカニアを構成する小国である。

 その地方の人間の好む、キャメロット人から見ればいささか品の悪い毛皮襟の飾りがついたフロックコートまで用意していて、これは二つあるスーツケースのうち一つに仕舞いこんできたものだ。

 ―――旅券はどうしたのか。

 アルビニーでの滞在期間を使って、偽造屋に作らせたものだった。

 あの小国は、「交通の要衝」。

 密輸品まで集まる。

 すると、犯罪組織の用を仰せつかる様々な裏のビジネスも当然存在していて、伝手や紹介、そして資金があれば幾らでも利用できた。

 あのガンスミスなども、そのひとつだ。銃が仕上がるまで、時間もたっぷりと三週間あった。

 二通目の偽造旅券は、旅行者や外交官がよくやるように丁寧に八つ折にし、やはりアルビニーで両替したオルクセン紙幣三〇〇ラングとともに、スーツケースの底に仕込んだ二重の布張りに隠し、オルクセンへと持ち込んでいた。

 男は、目的の日時が近づくほど、どんどんと沈着にして冷静、大胆になっていった。自らの計画に自信を深めつつあったのである。

 本当はもうしばらく後でこのホテルに移るつもりでアルビニーから予約まで入れていたのだが、やむを得なかった。予定より早く滞在することになった、構わないだろうかという男に、ホテル側は快く応じてくれた。

 ―――それにしても。

 かつて一緒に仕事をしたことのあるキャメロット人に、ばったりと出くわしたときには本当に驚いた。何か美味い話があると、仲間うちで用いていた「カード」という隠語を使い、改めて訪ねてくるという口振りであり、逃げるように発つしかなかった。

 何よりも、あの女将に名を聞かれたのが不味かった。一瞬のことだったから、バレてなどいないと思うが。

 出来得る限り、時間を稼ぐための手立てを施してもきた。

 あのホテルには故意に荷物を残してきた。二、三日は稼げるだろう。用済みになった、フォックスフォード時代の同窓セバスチャン・モランの名を語った旅券も。身体容姿はとっくに目撃されているのだから、書面に残っていようと意味はない。

 男は、己でも奇妙なほど冷静に考え続けた。

 ―――あと一〇日。

 大丈夫だ。やれる。

 男はじっくりと時間をかけて計画の齟齬が最低限であることを確認すると、昼食を摂りに降りた。

 ロヴァルナ風の前菜、キャヴィアを添えたツノガレイ、若鳥の胸肉、青えんどう豆のキャメロット風といった素晴らしい料理を楽しみつつ、活力を取り戻していった。



 国王官邸の国王執務室近くにある一室では、国王警護隊リトヴァミア・フェアグリン大尉が部下たちと打ち合わせをやっていた。

 全幅の信頼を寄せられるようになっている副隊長のヘルガリル・ラムスエレン中尉、そして戦時中からの部下である隊付下士官のイルヴァネス曹長が相手だ。

「・・・騎乗警護はヘルガ、お前が頼む」

「はい」

「イルヴァネス、お前は私と馬車に乗る」

「お任せを」

 地図と、最終的な予定表とを見比べ、陸軍記念日当日の手順を確認していた。

「―――陛下は、閲兵を済ませられたあと、フュクシュテルン大通りの閲兵台から移動。王妃殿下とともに本年の陸軍関係者への叙勲式に臨まれる」

「それにしても・・・」

 ヘルガリルは形のよい顎に指をあてた。

「なんだ?」

「妙な場所で、叙勲式をやるのですな?」

「ああ―――」

 ちかごろでは、少しばかり感情を表に出すようになってきたリトヴァミアが小さく肩をすくめる仕草をして、応じた。

「なんでも、デュートネ戦争凱旋以来の伝統なのだそうだ。あの場所にあった館の主が、大層な酒宴を催し、陛下もそこで兵たちに勲章を送ったのだと。それに、あそこは凱旋門の目前であるからな」

「なるほど―――」

 ヘルガリルは頷いた。

「それがいまの、ホテル・ヴァインモナトというわけですか」 



(続)

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