第4話 へいわなオークのくに④

 赤軍―――第一擲弾兵師団の斥候がやってきた。

 南からだ。

 統制部天幕の丘から、直接視認で観測できる範囲。

 擲弾兵一個中隊。

 他国からは「オルクセオークシャンンの黒・ブラック」、自国からは「黒旗の息子たち」などと呼ばれている、全軍の基調色として統一された黒戎服の集団。

 第一擲弾兵師団は、ふだん儀礼部隊的な役割も負っているから、他の師団よりも意匠の細部に華美がある。兵に至るまで全員が軍用兜。

 騎兵はいない。

 どこかで別の役目を果たしているか、赤軍はこの観測可能範囲だけに展開を開始しているのではなく、防禦に適した地形を求めて一斉に北上していたから、他の方面に投入されている可能性もある。

 一個中隊約二〇〇名は、なだらかな帯状丘陵を越え、のどかな田舎道といった態の街道を小隊毎横列の縦隊で進み、その丘下にあった南西と南東と、そして北へ分かれる三差路に到達。

 サーベルを振りかざす指揮官の号令のもと、先頭小隊は直進、第二小隊は右へ、第三小隊は左へといった具合にさっと左右に展開して横陣へと延伸、三差路南側に存在した、東西に歪なかたちで穿たれた枯れた灌漑路に飛び込んだ。

 既存地形を利用した、防御陣地の出来上がり。

 兵たちは腰の左後ろに吊っていた組立式の円匙を取り出して、灌漑路の底を掘り、北側に盛り付ける。陣地補強。巨体のオークでさえ完全に伏し隠れて射撃できるようになった。

 春の陽はすでに降り注いでいて、そこにはまだ冬の気配をひきずる弱々しさがあったが、軍用兜や、将校のサーベルの鞘がきらきらと反射する。

 さざめく波、奔流のような煌めきに見えた。

 ―――速い。

 統帥部の丘から双眼鏡を構えていたディネルース・アンダリエルは、舌を巻く。

 意外なことのようだが。

 オークは、動きが速いのだ。

 その巨体のうえに、重量馬の話や、やたらと練りまわした兵站組織の話があるので何か愚鈍な軍隊のような印象があるが。

 だが、こと戦術規模の動きとなると、とてつもなく敏捷で、俊敏で、機敏だった。

 オークの全身は脂肪などではない。

 筋肉の塊だ。

 そして強靭な体力と持久力もある。

 多少の距離なら、おそらくペルシュロン種あたりの駈歩より速い。重量馬の騎兵部隊など必要ないのではないかと思えるほど。

オークの嵐オルクス・シュトルム

 ディネルースたちの種族は、かつてそう呼んでいた。

 他国を侵すとき、五〇〇〇や、八〇〇〇や、果ては一〇〇〇〇にも上る長大重厚縦深な密集隊形を組み、甲冑を着込み、長槍を並べたてて突っ込んでくる様は、まさに大地を荒れ狂う嵐。

オークの津波オルクス・ラヴィーネ

 一二〇年前のロザリンド渓谷でも同様だった。

 既に彼我双方、甲冑を帯びた者は誰もいない時代になっていたが、密集隊形で、軍鼓を叩きならし、マスケットに最初から銃剣を帯び、長槍のようにし、射撃を繰り返しながら、一斉にあの速度で突っ込んでくる様子はまるで変わらなかった。

 銃火器を使うようになって、更にタチが悪くなっていただけ。

 大地鳴動。地鳴り。地響き。

 地獄の釜が開き、這い出てきたかのようなあの音を、いまでも思い出すことができる。

 恐怖でしかなかった。

 むろん、オークはその巨体そのものも武器だ。

 大きな要素であることは間違いない。

 だがあの速度が、あの野獣としての俊敏さこそが、オークへの恐怖の正体だったのだと、ディネルースは今更ながら実感している。

 その本質は今でも変わらないらしい―――

 さほど間を置かず、眼下の中隊の本隊及び後衛が到着した。

 さきほどの左右展開前進運動を、もっと規模を大きくして、一個大隊による防御線展開が行われる。

 大隊規模となると少しばかり複雑な動きになり、全ての兵力が投入されるわけではない。

 予備隊にあたる一個中隊と、大隊本部はあの帯状丘陵の稜線上から麓にかけて展開していた。

 擲弾兵大隊に二門配されている大隊砲―――五七ミリ山砲も同様。

 これは砲口径の点からいってまるで玩具のような砲で、大きさとしてもエルフの目から見ても児戯のような代物だが、それでも歩兵大隊が二門の砲を自前で有しているという事実は大きい。

 小さく纏められているだけあって機動力もあり、大隊長の思うさまに自隊の直接火力支援に用いることが出来る。

 更に二個大隊が到着。

 擲弾兵連隊の連隊本部と、七五ミリ野山砲六門の連隊砲中隊も付属している。

 彼らも展開をはじめ―――

 気づけば、あっという間に擲弾兵連隊一個約二〇〇〇名による、横幅東西約八〇〇メートル、予備隊と砲によって五〇〇メートルの深みも与えられた防御陣地が完成してしまった。

 懐中時計を取り出し、確認する。最初の中隊到着から、一時間もかかっていなかった。

 むろん、ただ横に広がったのではない。

 散兵線にあたる大隊二個は、おおむね各一個中隊を後方側面に置いて、これを「援隊」と呼ばれる予備隊兼用の側方防禦に当てている。各中隊もまた、一個小隊ほどを中隊長の手元に置いていた。

 この陣地は、なまじ側面から攻撃をしかけても崩せないものになっている、ということだ。

 こういった予備兵力は、側方に備えるだけでなく、戦闘が苛烈なものとなったとき前線部隊の補強や、敵を追い詰め逆襲する際にも投入できる。

 ディネルースの見るところ、敏捷だけがこれほど素早い陣地展開を成したのではなく、兵たちへの教育の高さも補強材料になっている。

 彼らはとくに指揮官の命を待たずとも、自らその配置箇所で円匙を取り出していた。

 穴を掘り、土を盛り、これを繋げて、少なくとも伏し隠れるにおいて頭一つ出すだけで済む浅い壕を作り上げてしまう。各級指揮官の陣地築城命令が降りたときには、これを補強拡大するだけというところまで、自ら持っていく―――

 この動作もまた、オークの絶大な体力が支えになっている。

 他種族の並の兵隊なら、激しく動いたあとならまず一息つきたくなるのが情というもの。

 誰しも一度腰を落ち着けたら、腰の水筒にでも手を伸ばし、のんびりしたいものだ。

 指揮官も同様だ。彼らの場合更に、情の深い者ほど、部下たちにそうさせてやりたい衝動に襲われる。

 だが、よく訓練されたオークたちは違う。

 敏捷性、体力。

 恐ろしくも今や頼もしい、これらオーク軍の特徴の本質は何も変わっていない。

 変わっていないが―――

 一個連隊で、横幅八〇〇メートルに縦深五〇〇メートルだと?

「旅団長・・・」

 側に控えていた、イアヴァスリル・アイナリンド中佐が呻く。

 ダークエルフ族に多い、長身、褐色肌、銀髪灰眼の持ち主であって、知的な顔立ちをした、ディネルースの腹心。

 故郷では、互いに小娘のころから知己のある、隣村の氏族長だった。

 彼女は困惑しきっていた。

「貴女も気づいた?」

「ええ。もちろんです。奴ら・・・いや、失礼、オルクセン軍は、完全に密集隊形を捨て去っていますな。これでは―――」

「そう。もっと大規模な兵力か、騎兵か、砲兵を引っ張ってこないとこれは崩せない。厄介だな」

 戦術面での、現代になって急速に訪れた変化のことを言っていた。

 具体的にいえば―――

 オルクセンの軍隊は、かつてあれほど愛し、自らの強大な体力と相乗させて最大の武器としていた、密集戦闘隊形を完全に過去のものとしていたのだ。

 理由は彼女たちにも分かっている。

 デュートネ戦争以降、急速に銃器火砲の威力が発展したからだ。

 いまや戦場で肩も触れ合うほどに集まっていては、小銃の長距離弾幕射撃や、火砲の集中直射によって一瞬で固まりごと斃されてしまう。

 だから、現代の軍隊は散兵線と呼ばれるものを形成する。

 兵士一名あたり、一歩乃至二歩に相当する間隔を取り、散らばるように広がる。

 さきほどの灌漑路のように、地形や、野戦築城による胸壁、塹壕なども利用して、伏し隠れ、敵弾に当たらないようにもする。

 ゆえに、たったの一個連隊規模でこれほど横幅と深みのある防禦線を展開できる。

 密集戦闘隊形なら、この半分も展開面積を取れればいいほうだ。

 ―――散兵戦術という。

 もちろんオルクセンの軍隊でも、必要が生じた場合にそなえて、密集隊形による射撃法などはいまでも兵に教育してもいた。

 だが、もはやそれを行う気は、更々ない。

 縦隊行軍中の姿のままで敵と遭遇した場合など、よほどの事でもなければ実施しない。

 オルクセン軍最新の歩兵操典―――八七四年度版操典は謳う。

「充分火力を発揚するには散開隊次如くもの無し、密集隊次を用い射撃するは例外とす」

 操典だの必携書だの、兵書だのといった類のものにありがちな小難しい文章を用いているが、ようするに射撃戦は散兵線を以て行う、密集隊形によるそれは例外だと否定しているのだ。

 散兵戦術自体は、ディネルースたちにはすでに馴染があった。

 いや、そもそも歴史的にはオルクセンより先にそれを取り込んでいた。

 彼女たちは皆が皆魔術通信をやれ、散開も再集合もやりやすく、野戦においてはとくにダークエルフ族がその担い手となり、散兵による擾乱射撃を行った。

 一二〇年前には、その戦法で散々にオークの軍勢を打ち破ってやったのだ。

 だが当時のそれは火器の威力不足があり、個別の技量に依る部分があって、組織立ってこれほどの規模で実行しているオルクセンとはまた異なったものだった。

「姉様・・・じゃなかった、旅団長ならどうなさいます?」

「参謀長の貴方がそれを聞く?」

 ディネルースはくすくすと笑う。

「そうだな・・・ 攻めない。繞回して取り囲むか、迂回で後方を叩く」

 冗談めかしてはいたが。

 つまり、それほどタチが悪いと言っている。

 おまけにこの質問も答えも、軍記物ではあるまいし、具体的に意味のあるものだとは彼女たちも思っていない。

 そのような解決法はディネルースが中将や大将の位にでもあり、完全に自由な裁量権が与えられている場合のみに可能なことであって、例えば同規模の兵力を与えられた身でこの三差路をどうしても奪え、確保しろと命じられていたら。この防禦陣地に直接取り組まざるを得なくなる。

 腰の図嚢に納められたこの演習地の地図を取り出し、眺めてみるに、あの三差路はかなり重要だ。

 演習地のほぼ中央、南寄りにあって、北から攻めてくるにも、南から守りにくるにしても街道はあそこでぶつかる。東にも西にも展開しやすい―――つまり両軍ともに進撃路にして兵站路としてどうしても確保したい場所。

 そして、ここより北には、演習場を東西にやや斜めのかたちで横切る川がある。首都を流れるものに繋がる支流のひとつで、川幅はかなりあった。

 北へと伸びる街道は、その川にかかる橋を牽制できる場所にある。この丘から視認できる距離で、約一キロメートルのところ。

 橋のかかる南岸か北岸に陣を張ってもいいが、橋を直接陣地にするのは相手の出方がはっきりしないうちはあまり褒められた真似ではない。そこまでしなくとも、砲はおろか小銃でさえ射程範囲内だから、管制できると踏んだのだろう。

 さて、青軍はどうするだろう?

 いささか意地の悪い心持ちで眺めていると、この精緻極まる防禦陣地は、昼食の準備を始めていた。

 連隊の補給段列に大型のものが二両、大隊の補給隊に小型のものが二両配されている野戦炊事馬車が寄り集まり、前線から五〇〇メートルほど後方にあって、火を焚き始める。炊事の煙が上がって目立たぬよう、小規模な林の枝葉の下に展開し、これを隠蔽する微に入り細に入った配慮もなされている。

 野戦炊事馬車は、馬車の荷台に竈と大鍋や中鍋の幾つかをおさめ、そこから煙突を突き出した見かけをした、まさしく「移動する台所」。

 似たようなものは他国の軍隊にもあったが、食にこだわるオークの軍隊らしく構造が精緻なうえ、数も多かった。

 下準備は終えていたのだろう、調理はかなり速かった。

 いかな野戦炊事車とはいえ移動しながら調理することは出来ないが、材料缶に下拵えしておいた材料の類を準備しておく、あらかじめ薪はそなえておくといった、工夫は凝らすことが出来る。

 野戦炊事班の輜重兵と、各部隊から派出の受取役がやってきて、巨大な二リットル容量のアルミニウム製保温缶へ、シチューらしきものを注ぎ始めた。

 保温缶は更なる外容器におさめて背に負えるようになっていて、かなり重そうだが、一挙に料理を前線部隊へと届けることが出来る。兵各自は飯盒でこれを受け取るのだ。

 同じ流れで、炊事馬車の副食窯から、何か黒い液体も。コーヒーだ。

 このころには陣地予備隊の更に後方から輜重馬車も到着していて、師団の補給隊に属する製パン中隊が朝から三時間かけて焼いた、よく水気を除いて焼き締めた軍用ライ麦パンも配しはじめた。

 ライ麦パンは、野戦における兵には一日分の主食として日一度一挙に供給される規定になっていて、一斤まるごとの姿のままだから、まるで鉄道の枕木を馬車に積み重ねてやってきたかのようだ。

 本当は、この製パン配布は朝に行う作業と定められているのだが、流石に間に合わなかったのだろう。

 もちろん、後方からやってくる輜重馬車はそれだけではない。軍用馬のために飼糧をつんだものもやってきて、そちらは隊の軍用馬がまとめて繋がれた野戦厩へ―――

 なんともはや。

 いきなり飯の手配とは実にオーク族の軍隊らしかったし、その充実し配慮と機微に満ちて組織系統立った体制には舌を巻く。悠長なようにも見えるが、食えるうちに食っておくのはいいことだ。戦場での温食は何よりの贅沢品、士気を高める。

 ディネルースなどは、あの山荘での素晴らしい料理を思い出さずにはいられない。傷つき、冷え、衰えた体と心をどれほど癒してくれたか。

 正直なところ、腹が減った。

 連日の疲労の上に、朝何も食わずにヴァルダーベルグを出てきたからだ。

 何か言いたげな顔つきをしたイアヴァスリルや、少しばかりそわそわしている作戦参謀のラエルノア・ケレブリン大尉も同じ心持ちらしい。

 同意同感の至りだが、誇り高き種族を代表してやってきているともなれば、腹が減ったとも言い出せない―――

 まるで誰かが見計らっていたのかと疑いたくなるほどの間合いで、統制部付きのオークの兵卒がやってきて「御昼食の準備ができました、どうぞこちらへ」と告げてくれたのには、本当に助かった。

「これは、どちらのだ?」

 天幕に戻ると、給仕された料理を前にグスタフがゼーベックに尋ねていた。

 オーク族の兵が使う、まるで鍋のように巨大な飯盒を、調理匙の如きスプーンでかき混ぜながら何かを確認している。

「青軍―――第七擲弾兵師団のものと同じものです。流石に配食体制に乗っかるわけにはいきませんから、同じ材料、同じ調理予定を使ってこちらで再現しました」

「そうか。うん、よしよし。タマネギは入ってないな。シュタウピッツ、安心していいぞ。スープは食える」

「ありがたいことで」

 辺りに失笑。

 既にディネルースは聞かされていたが、コボルト族はその生態として、玉葱や葱は食べられないらしいのだ。好嫌の問題ではなく、種族全体として、貧血やめまい、失神、最悪の場合には死をも引き起こしてしまう成分が含まれているのだという。

 だからオルクセン軍は、ここ数年かけ軍の調達配給内容からそれを外した。

 軍全体ではかなりの数になっているコボルト族兵に配慮したのだ。

 玉葱や葱は保存野菜として優れていた上に、携行食糧用の乾燥野菜にも加工出来ていたから、実はなかなかの痛手である。しかし調理配食を前線において各種族系統に分けることは、供給体制に負荷がかかりすぎて、事実上不可能。止むを得ぬことだ。

 前線や季節においてどうしてもそれらの野菜を供給せざるを得ない場合は、部隊単位で兵配給規定のうちの肉類をコボルトに多めに回せ、などという事になっている。

 ディネルースが驚いたのは―――

 つまり、統制部の連中が、この演習場に展開している兵たちと同じ食事―――兵食を摂ろうとしていることだった。

 国王。上級大将がふたり。中将や少将。佐官級のエリートたち。

 その誰もかもが、当然のようにしていた。

 これが他国の軍隊なら、軍の調理部だけでなく専属のコックでも連れてきて、新鮮な食材もふんだんに使った、豪華な料理を用意させるだろう。

「これは、仕立てはなんだ? 牛脛か」

「いい出汁だな」

「うちの息子たちはよい腕をしていますので」

「流石は山賊・・・!」

「ですから、山賊はないでしょうに!?」

 微笑、失笑、談笑。

 粗食に不平を漏らすどころか、楽し気ですらあった。

 ディネルースたちの胃袋にも、染みた。

 そういえば、この演習場に散った配下たちはちゃんと昼食にありつけたのだろうか。

 心配になってそっと確認してみると、各所で視察将校たちにも配食があったらしい。

 ありがたいことだ。

 流石に、幾らか私物の酒類は持ち込まれていた。

 赤ワイン。麦酒。蒸留酒―――

「お。出ましたな、我が王お好みのカルヴァドス」

「いいぞ、こいつは」

「グロワールの戦場で覚えられて以来、それ一本槍ですな」

「最高だ、こいつは。そういえば、何本か用意させてある。あとで土産に持って帰れ。私の趣味だけじゃ不満だろうから、キャメロットのブレンデッドも。ちゃんとお前好みの、キャメリッシュ・ブラックバーンだ。二五年もの」

「なんと。ありがたい。いやはや、ありがたい!」

 私も火酒ヴィーナをもっと持ってくればよかったか。

 この国でもう少し度数の高いものが手に入るといいのだけれど、などと思いつつ、琺瑯製のカップを給仕の兵から一つ貰い、肋骨服の飾絨のうち左脇の一本に仕込み仕立てとなったポケットから、懐中用の金属水筒を取り出し、中身を注ぐ。

 火酒は透明だが、水を飲んでいるとは思われない姿だ。

 自重しようかとも思っていたが、気にする必要もなさそうだったので遠慮がない。

 火酒には鋭さがある。

 真冬の銀嶺の、雪解け水のような鋭利。

 それがいい。

「お、なんじゃ。シュヴァルツ殿はいける口か?」

 シュヴェーリン上級大将がディネルースの様子を目ざとく見つけ、諧謔に口元を歪ませた。

「ええ、閣下。少しばかり嗜みます」

 黒殿とはまた妙な名をつけられたものだな、そっとそう思ってもいる。

 エルフィンドでただ一言ダークエルフ族を黒と呼ぶのは、差別用語に近かった。

 だが、彼の屈託のなさ、表裏のなさから言って、そうではあるまい、そんなつもりでは決してあるまいとも理解する。

 黒はこの国の軍隊を表わす色だ。国旗に使われている色でもある。

 つまり、かなり好意的表現。

「嗜みます? シュヴェーリン、騙されるなよ。少将はかなり飲む。おまけに強い。底なしだ。火酒を一本飲み干しても、顔色一つ変わらない」

「なんと。なんと、なんとの難攻不落。そいつは剛毅。なんならうちの配下にこんか? 酒には不自由せんぞ」

「おいおい、シュヴェーリン。少将は私の直属だぞ」

「おおう、そうでしたな。こいつは失礼」

 荒くれ者の騎士がやるような芝居がかった仕草で、ディネルースは杯を高く掲げてみせた。

 再び天幕内に失笑。

 カイト少将やシュタウピッツ少将まで破顔している。

 ありがたいことで、ずいぶんと打ち解けてきた。というよりも、幸か不幸かグスタフが彼女の覚悟を固め直してくれたから、彼女の側でかなり度胸が座ったというべきか。

 それにしても―――

 オーク族は本当によく食べる。

 兵食ですら、味はもちろん高級食堂並とはいわなくとも、量だけはたっぷりとあった。

 オルクセン国軍が野戦展開において兵一頭一日当たりに供給すべきと定めているのは、


 ライ麦パン 一五〇〇グラム又は乾パン一一〇〇グラム

 ジャガイモ又は野菜  一五〇〇グラム

 豚肉又は加工豚肉 二四〇グラム

 牛肉又は加工牛肉又はその他肉類加工肉二四〇グラム

 牛脂又は乾燥野菜  九〇グラム

 ソース   三〇グラム

 マーマレード又は蜂蜜  四〇〇グラム

 ビール   二〇〇ミリリットル又はワイン二〇〇ミリリットル又は火酒五〇ミリリットル

 コーヒー  一六グラム 


 この他に過酷な環境におかれた者への特別配給として多めのパンや、ジャム、ハチミツ、マーマレード、砂糖の類が出されることもある。

 唖然としてしまう量だ。他種族の倍はある。

 また食糧生産能力及び保存能力が他国よりずっと高いため、他国の軍が乾燥野菜を主体にしているところを、生野菜をふんだんに用いていた。

 朝一度に一日分配られ、切り分けて食べることになっている軍用ライ麦パンなど、なんと一名当たり二斤ある。兵たちはこれを運ぶための雑嚢―――通称「パン籠」を腰に下げているし、切り分けるためのナイフを持ち歩いているのが常である。

 副食は個別に支給されるのではなく、部隊単位で野戦炊事馬車を使ってシチューやスープの類にしてから配食する。

 どうかしているのではないかと言いたくなった。

 兵站が異常なまでに発達するはずだ。

 調理法をあれこれとまとめた教本もあり、極力工夫を凝らし、飽きの来ないように配慮すべしとも推奨されている。

 例えば今日が塩スープなら明日は肉シチューといった具合に内容が重複しないようにし、ヴルストが加工肉として支給され、よほど時間的余裕があるときは、これを普段通りスープ類に入れるのではなく別に茹でて配布、特別感を持たせろ、等々―――

 つまり味にも配慮にも拘っている。

 だから、グスタフたちも兵食を食べていた。

 談笑し、楽し気でさえあったが、兵食を味わってみて、吟味する様は真剣であり、ときに漏らされる感想のうち幾つかは舌鋒鋭かった。不平不満などではなく、これもまた視察の一種、将来の改善点なのだ。

「シュタウピッツ。やはり多いか、君には」

「ええ。ありがたいことですが。一食で三日はいけますな」

「カイト。その辺りどうする? 現場で途方に暮れていることも多いと思うんだが・・・」

「確かに、問題ではありますが。隊に配された我らやコボルト族の頭数を事前に調べ、供給量を調整するというのはかなり困難です。供給過多ではなく、今度は過小を招く恐れが。全頭数、オーク族であると仮定して配給する現状の仕組みで行くしかありませんな。定数のある野戦憲兵隊の巨狼や、大鷲軍団、あー・・・それに仮称ダークエルフ旅団のように種族で固まった部隊相手にでもない限り、供給量調整は困難です」

「そうか・・・ そうだな。うん、そうなるだろうな」

「我が王。儂ゃ気の揉みすぎじゃと思うんじゃがな」

「そうかな?」

「ええ。もうちょっと、兵を信じなされ。我が息子たちは、素晴らしい。余れば隊内で分け合う、特配に利用する・・・そういった具合に、現場で上手く処理している。ドワーフやコボルトが、軍に溶け込む一助にもなっておる。飯やコーヒーを分けてくれる戦友は、たいてい周囲の人気者になるものだ。代わりに彼らが馬や馬車に乗れないときに抱きかかえてやる・・・ そういったことが自然に起こる」

「なるほど・・・ なるほどな。そうだな。現状のままで行こう。ありがとう、シュヴェーリン」

「なんの、なんの」

「ああ、アンダリエル少将。いまの話でおおむね流れはわかったと思うが、君の隊の供給量をそのうち定めなければならない。いまは手一杯で余裕も無いだろうが、カイトたちと相談の上、君の隊の兵站担当にでも任せて定めてくれ。そうでないと、戦場で一日にパン二斤届いて途方に暮れるぞ」

「はい、我が王。よろしくお願い致します、カイト少将」

「なんの、こちらこそ」

 そのような具合だった。

 ディネルースが驚いたのは、このような討議をやる際、上下の別や階級差を彼らがあまり気にしないことであった。

 まるで風通しがいい。

 軍隊という場所では何処の国でも上官への敬意というものが求められるし、封建的社会階級制度がのっかっている場合、とくにそうだ。

 平民の兵士は貴族の将校に気軽に口もきけない、そんな軍隊すらあり、むしろそういった国ばかり。エルフィンドの場合、ダークエルフ族がエルフ族に意見をするのはかなり気を遣う行為で、事実上、氏族長にしかやれなかった。

 もちろん、この場の場合、グスタフの性格もある。

 だがこれは全オルクセン軍の特徴ともいえた。

 彼らは教範にそれを明文化し、定め、むしろ推奨までしている。

 オルクセン軍の指揮官用教範である「高級指揮官教令」はその第一項に曰く、

「用兵は一の術にして、科学と魔術力応用を基礎とする自由にして且創造的なる行為なり。指揮官たる者の度量寛容は用兵上至高の条件とす」

 つまり、現代の用兵は科学と魔術力の応用により複雑化大規模化する一方であって、自由で創造的にあたらなければならない、そのためには指揮官たる者は狭量であってはならず、部下からの意見具申、進言の類も積極的に耳を傾け取り入れよ、という意味だ。

 これを指揮官用教範の第一項―――即ち、真っ先に記すことで、最も重要だと強調する部分に挙げている。

 兵たちにも、指揮官から下された命令の大目的を理解のうえ、細かな命令を下される前に自主的に目的に合致する判断をすること、何か思いついたら積極的に上官に進言すること、また明らかに異常と思われる命令には反論し討議すべし、それらは兵の権利にして義務である、という教育が施されていた。

 おそろしく柔軟で、他国に類を見ない。

 とくに兵にまでそれを推奨しているというのは、異常といってもいい。

 ―――訓令戦術という。

 上官の意図を部下たちは解し、戦闘の状況に合わせ、解決を図る。

 六年前に操典化もされ、全軍に取り入れられるようになった。

 単一指揮官が逐次全体に指示を下し、部下将兵は否応なくこれに従うという他国や従来の方法とは根本的に異なるものだ。

 オルクセン軍はそのために、軍隊としての規律維持のために必要な習慣上の使用はともかく、過剰な敬礼答礼の強要や、敬称に「閣下」をつけることをやらない。

 よほど統治体制や社会制度、国民の国家への忠誠心や義務感に自信がなければ、軍の叛乱や社会として身分制度の崩壊をも誘いかねない真似であって、容易に他国には取り入れられないものだった。

 あるいは現状の世界では、オルクセンにだけ可能な真似かもしれない。

 彼らの根幹は、上下の別なく、種族の別もなく、全ては生存するためという国是だ。

 ―――なるほど。

 ディネルースは舌を巻く。

 この天幕下の様子もまったくその通りであったし、ラインダースとの紹介の場もそうだった。さきほど目撃した対抗演習部隊の兵、彼らが素早く自主的に陣地構築を始めてしまったことへの納得がある。

 これは間違いなく、オルクセン軍の強みの一つ―――しかも大きな一つになっていた。



 対抗演習部隊両軍の接触は、午後になって始まった。

 第七擲弾兵師団―――青軍側には、国軍大鷲軍団から一個小隊、三羽の大鷲族が実験的に配されていて、彼らが「空中偵察」を実施したのだ。

 眼下の赤軍防禦線の上空にも、それがやってきた。

 高度九〇〇メートル強。大鷲たちの感覚でいうところの、「山一つ」。

 大鷲が旋回をはじめる。

 赤軍は当初それに気づいていなかった。

 高度をとって上空を飛ぶ大鷲は、その大きさが目立たなくなってしまうため、ごく一般的な鳥類にも見える。ぽかんと口をあけて空を見上げ続けてもいない限り、そんなものに違和感を抱く者は少ないだろうし、何よりも彼らの意識は防禦正面である北方に向けられていた―――

「・・・・・・・・・・」

 ディネルースや、彼女の配下たち、その特徴である尖耳がぴくりと蠢いた。

 上空から魔術通信の気配を感じたのだ。

 彼女たちの表現感覚でいえば、「耳を澄ませて」みる。聴覚上ではなく、魔術上の意識を集中させ、直接的に魔術通信の「波」を拾った。

 同時にその発生源である春空を見上げ、蒼天に大きく弧を描いて飛翔する、大鷲そのものの姿も見つけていた。

「・・・タリホー、タリホー」

 大鷲のものらしい。

 自らの種族の鳴き声を擬音で模した魔術波を放っていた。

傾注せよアハトゥンク。傾注せよ。乳牛ミルヒ・クーへ。乳牛へ。こちら青〇三ブラウ・ドライ、青〇三。聴こえるか? 送れ」 

 軍隊が電信による通信にも使っている簡単な暗号の一種、符丁を用いている。

 青〇三というのが、あの大鷲の符丁らしかった。

「青〇三、青〇三。こちら乳牛。よく聴こえる、送れ」

 魔術通信による返信が戻ってきた。

 突耳への感じ方からいって、ここより北方の地上方向―――つまり青軍地上部隊のどれかからだ。

「乳牛、乳牛。こちら青〇三。連隊規模の防禦散兵線を発見した。位置は・・・・あー、地図によればBDのベルタ・ドーラゼクス、BDの六だ。送れ」

「青〇三。なるほど・・・ すると南岸の三差路のあたりだな? 送れ」

「乳牛。そうだ・・・ 橋へ向かって北を防禦正面にしている。三差路南側に東西一キロ・・・いやそれほどは無いな。一キロ弱の散兵線。後方に予備隊。縦深は防禦正面の半分ほど。あー・・・砲もある。目立つものは・・・六門、六門だ。送れ」 

「助かる。空中偵察を続けてくれ。乳牛、終わり」

「了解した。青〇三、終わり」 

 大鷲は大きく弧を描く飛翔を続ける。

 なんということだ。

 ディネルースは、愕然としていた。

 頭では、効果は高い代物だろうと想像は出来ていた。

 だが。だが、これほどとは。

 ―――ほぼ正確に、何もかも掴めているではないか!

 おそらく軍隊用の、正確な升目を割り振った地図まで用いている。軍用地図には、西から東へAA、AB、AC、北から南に〇一、〇二という具合に座標が振ってある。その座標を使ってやり取りしていた。

 双眼鏡を構え、大鷲を覗いてみる。

 この国の優れた産業品の一つである、野戦双眼鏡の明るい視界は、大鷲の首のところに木枠で出来たなにか妙なものが装着されていることを見てとれた。

 なるほど、おそらくあの枠に軍用地図がはめ込まれているのだ。

 飛行中の大鷲は、翼や足を極度に傾けることなど出来ないから、そうやって地図を確かめている。きっとこのような方法一つ一つを生み出すまで、いままで何度も試行錯誤を重ねてきたことだろう。

 符丁の使用といい、地図の活用といい、聞き逃さぬようなるべく繰り返す通信方法といい、初めて試すものにしては板につきすぎていた。

 気づくと、眼下の赤軍防禦陣地で、ちょっとした騒ぎが起こっていた。

 将校らが上空を指差し、兵たちが騒いでいる。

 おそらく、魔術通信波を彼らに属するコボルト通信兵が傍受して、大鷲に気づいたのだ。

 明らかに困惑していた。

 当然だろう。

 軍隊は、地上と地上とで相対するもの。

 空の飛ぶものと戦う術など、どのような教本にも存在しない。まだオルクセンにすらなかった。

 それでもサーベルを引き抜いた将校が号令をかけ、幾名かの兵が小銃を上空へ向け構えると、パンパンと射撃が始まった。もちろん演習だから、空砲を使っている。

 困惑の尾を引きずったままであって、射撃の調子は揃っておらず、てんでバラバラだ。

 しかも―――

 あれでは当たるまい。

 故郷で狩猟を糧としていたディネルースには、確信があった。

 誰も彼もが、大鷲そのものを銃口で追っている。あれでは当たらない。地上の獲物でもそうだが、空を飛ぶものなら尚のこと、獲物が進む方向―――未来位置を予測して撃たなければ。

 しかし、オルクセン軍の立ち直りは早かった。

 刻を追うごとに上空に向かって射撃する兵が増え、射撃音の調子も揃ってくる。

 照準の付け方に気づいた者まで出現した。

 おそらく彼らの部隊の中にも存在したのであろう、猟師出身の者たちが周囲や上官に何かを喚き、これに頷いた将校がサーベルの向け方を明らかに変えた。未来位置へ突き立て、兵がこれに従い―――

「青〇三、青〇三。聴こえるか? こちら演習統制部」

 さきほどまでとは違う声、別の方角からの、魔術通信が飛来した。遠くない。

 地上―――おそらく赤軍部隊にくっついてきている、演習統制官からだ。

「演習統制部、演習統制部。青〇三、よく聴こえる。送れ」

「青〇三、貴殿には地上からの射撃が命中したと判定した。空中偵察の続行は困難。ただちに現場上空を離脱。出発位置まで戻り、統制部の指示を受けよ。終わり」 

「統制部。青〇三、了解した。・・・次はもう少し高く飛ぶよ。帰投する。終わり」

 天心でばさり、ばさりと羽ばたいた大鷲は嘴を巡らせ、北の空へ消えた―――

「ねぇ、あなた。そこのあなた」

 背後でラエルノア・ケレブリン大尉の声がした。

 多少声に甘いものをまぶしながら、手近にいた、統制部警護の擲弾兵に話かけている。

 栗髪、目尻の下がった愛らしさのある顔立ちをしたラエルノアがそんな声をだせば、世のたいていの牡はどんな種族でも参ってしまうだろう。

 だが、ディネルースは知っている。

 彼女の容貌や声音に騙されてはいけない。

 ラエルノアは感覚が鋭く、どんなものでも利用して、ときに奇抜なことも思いつき、獲物を必ず仕留める狩人だった。だから作戦参謀にした。

「はっ。大尉殿。なんでありましょうか・・・?」

 哀れな獲物、そのオーク族の兵は明らかに動揺している。

 はぁ、世のなかにごげな綺麗な生き物がおるんだべか。

 そんな様子。

「お願いがあるのだけれど。ちょっと、その小銃見せてくれない?」

「それは・・・ しかし、立哨中でありまして・・・」

「あら。立派ね。偉いわ。じゃあ、その小銃の最大照尺、幾つ? それを教えてくれればいい」

「は? はっ、一五〇〇メートルであります」

「そう、ありがとう。行っていいわ」

 ラエルノアは戻ってきて、そっとディネルースと参謀長のイアヴァスリル・アイナリンドに囁いた。

「聞きました? 姉様がた」

「ああ。ありがたい。お前も気になったか。あんな上空の大鷲を撃って、命中などという判定を下させた小銃を」

「・・・噂には聞いていましたし、教本も読みましたが。現物を見るまでは信じられませんでした。オルクセンの小銃は、とんでもない性能をしていますね・・・」

「最大照尺一五〇〇だと? 飛距離はもう少し、そう、一七〇〇か八〇〇はあるといったところか」

「俄には信じられませんな」

「まったくです」

 軍の小銃の、射程距離のことを言っている。

 ちかごろではどこの国の軍用銃でもそうだが、小銃には機関部の近くに可動式の「照尺」と呼ばれるものがついている。「表尺」ともいう。

 この照尺に刻まれた射距離に合わせて―――標的を狙うために覗き込む部分を可動、調整して固定させる。これを銃口部にある照星がぴたりと合うように狙いをつければ、銃の性能内という上限はあるものの望む射撃距離で命中弾が得られる、というわけだ。

 オルクセン陸軍の歩兵操典が、理想的交戦開始距離としているのは一〇〇〇メートル。

 これは照尺を調整させ、肉眼で照準できて、兵が射撃し、命中させえる距離、ということだ(ただし、遠距離であるほど個別の射撃技量で命中させ得る可能性は下がるから、実際には目標距離に対して部隊全体で射撃をすることで「弾幕」を作り出す、という運用になる)。

 その時点で、他国より長い。

 他国の軍隊はおおむね八〇〇メートルと規定していた。

 最大射程―――その小銃がもっとも遠くまで弾丸を放つことが出来る距離は、おおむね一〇〇〇メートルあればいいほう、あって一二〇〇メートルだった。

 ところがオルクセンの最新小銃―――二年前に正式採用された一一ミリ槓桿単発式小銃エアハルトGew七四は、その最大射程が一七〇〇メートルあるというのだ。

 当然ながら、両者が撃ちあった場合、オルクセン側が有利に決まっている。

 仮に同じ八〇〇メートルで交戦したとしても、より遠くまで弾丸を飛ばすことの出来る性能を持っている銃のほうが、これ即ち高い貫通力を持っている。

 しかもその距離まで間合いをつめるまでに、オルクセンの小銃からは一方的に撃たれてしまうということだ。

 オルクセンの誇る高い技術力が、これを成した。

 槓桿単発式という形式も含めて、世の殆ど軍隊の小銃が属している後装式小銃―――むかしのマスケットのように前から弾丸を突き固めるのではなく、後ろにある機関部から弾丸を込める銃にとって問題となってきたのは、発射時に燃焼する火薬から生じるガスを、構造が複雑なものである機関部が抑えきれないというものだ。

 ガスは弾丸を前へ前へと押し出す力そのものであるため、漏れれば漏れるほど運動力を弾丸に伝えきれなくなる。

 ―――エアハルトGew七四は、これを完全に解決した世界初の小銃。

 オルクセンへ逃げ延び、部隊編成を始めてから聞かされた通りだった。

 きわめて緻密に、弾を込めるために可動はするが構造上の工夫によって隙間がまるでないという精巧な機関部を設計し、おまけにそれをモリム鋼で高精度に加工し製造、製作したという。

 しかも、同時に弾薬を改良している。

 現在、世界のほぼ全ての軍で使われている小銃弾は、薬莢の構造形式や弾体形状に多少の違いはあっても、その口径は概ねどこの国も示し合わせたかのように一一ミリだ。

 多少の差はあるが、各国とも技術的試行錯誤の末、あるいは模倣しあい、遅かれ速かれ皆が皆その口径に行き着いた。それが最適な大きさ、というわけだ。

 何故か。

 軍隊が長い間、弾薬に用いてきた黒色火薬ブラック・パウダーは、点火すると一瞬で爆発燃焼するという特性を持っている。

 つまり、弾丸にただ一瞬、刹那といっていい瞬間だけに運動力が伝わる。

 これ以上弾丸を大きくしても小さくしても、効率が下がり、その運動力が伝わりにくくなるのだ。だから一一ミリ弾になった。

 オルクセンは、この火薬を変えた。

 褐色火薬ブラウン・パウダーという。

 技術的には黒色火薬の延長線上にあるもので、原材料素材には木材ではなく、ライ麦の籾殻を用いていた。

 この火薬を用いると、ほんの僅かな差だが、一瞬ではなく粘り強く爆発燃焼が起こる。

 長く爆発するということは、即ちそれだけ多く運動力が弾丸に伝わるということ。

 そうやって射程距離を伸ばした。

 しかも、この褐色火薬のつまった金属製薬莢の先端にある、弾丸の形状を改めていた。

 それまで、弾丸はいってみればドングリの実のようなかたちをしていた。

 これをより鋭く、先端を尖らせた形状に変えることで、飛翔力を高め、やはり射距離を伸進したのだ。オルクセンでは尖頭スピッツァ弾と呼んでいる。

 弾丸の後ろ、爆発力を受け止める底の部分の形状も改め、ただ平たいものだったそれを、絞ったものにした。

 銃身の内部、筒の部分、これを小難しく専門用語を使えば銃膅というが、ここには弾丸に回転運動を与え、より射距離を伸ばすための溝が刻まれている。

 これ自体は以前からあった施条という技術だが、弾底を絞った形状にすれば、ただその施条により回転力を与えられて飛び出すだけでなく、より飛翔力を高められる。

 これもまた射距離が延びる要因となる。こちらは形状がまるで船舶の船尾のようなので、船尾ボートテール弾と呼ばれることもあった。

 それら全て、いってみればそれぞれは今までの技術の延長線上にあるものを、すべて組み合わせたのがGew七四という小銃だった。革新的でありながら、手堅い技術でまとめた銃。そう表現できる。

 火薬については、技術者たちはもっと別のものを本当は目指していたというが―――

 ともかくも、ディネルースらにしてみれば衝撃的な代物だった。

 オルクセンは、こんなものを国内二カ所の造兵廠を使い年間一二万丁も生産し、急速にそれまでの制式小銃から置き換えている。

 この銃身を短くした、騎兵用や砲兵、工兵用のものも同様だ。

 いつだったか、歩兵用の銃身の長い小銃と、用兵上短かな銃身に仕上げられた騎兵銃は、撃ちあうと射程距離において後者が劣るため、騎兵銃側が不利になるという話をしたが。

 これは、同じ性能土俵上の銃同士が撃ちあった場合の話だ。

 Gew七四の騎兵銃版、Kar七四は、元になった小銃の性能が向上しているため、理想的とされる交戦距離が八〇〇メートルにまで伸びていた。

 つまり、現状他国の歩兵銃と充分に撃ち合え、対抗できてしまう。

 唖然とし、愕然とし、瞠目してしまうのも無理はなかった。


 

 あの赤軍防禦線を目指し、青軍部隊が南下してきた。

 正確にその位置、兵力、配置を掴んだのである。戦略上の重要拠点である三差路を目指し、動かない理由は彼らにはなかった。

 おまけに、空中偵察で探知されたことを相手側も気づいている。

 赤軍側が何等かの対処をとってしまわないうちに先制し、進撃し、対処しなければならない―――

 青軍指揮官はそう判断したのだ。

 斥候、その本隊、さらに上部部隊というあの展開運動が、青軍側でも行われる。

 ただし、その動きは更に巧緻になっていた。

 展開兵力が故意に薄い。場所は川向う。

 当然、魔術探知及び視認により正面に敵出現と判断した赤軍は、射撃を始めた。対応はかなり速かった。赤軍側の前線指揮官は賢明にも、便利極まる魔術探知だけに頼りきるのではなく、高所や哨兵によって遠方まで警戒にあたるという、従来からの手堅い方法も組み合わせていた。

 彼我両軍の距離、一五〇〇メートル。

 理想とされる交戦開始距離にはわずかに遠いが、それ以上青軍側、一個大隊規模の兵力が前進してこないため、発砲を開始せざるを得なかった。それでも、Gew七四の性能から言えば一応は射程距離範囲。おまけに砲もある。

 号令。

 擲弾兵で形成された散兵線が射撃開始。

 まずは統制射撃。

 装填し、狙いをつけた擲弾兵が、指揮官の号令一下、中隊単位で一挙に射撃する方法だ。

 一斉に銃声と白煙が立ち上る。

 白煙の量は、褐色火薬の薬莢でも、黒色火薬のそれと見た目上は変わらない。

 ぶわっと広がるが、一陣の風でもあればすぐに澄んでしまう。

 ただし、濃厚な硝煙の匂いが漂う。

 オーク兵たちが愛憎を込めて語るところの、「どんな牝よりも魔性の匂い」。

 横幅八〇〇メートルによる、銃弾の雨。これが実弾なら、直立している敵がいれば、残らず打ち倒されるであろうと思えるほどのもの。

 この強力な弾幕展開を二度実施。

 次に、各個独立射撃に移行。

 弾を込め、照準をつけ終わった兵から、号令を待たずに撃つ。

 予備隊を除く、しかも空砲とはいえ一個連隊もの全力射撃となると、凄まじい迫力だ。

 射撃とともに生じる白煙。

 その音響。

 何もかもを包み込む。演習場近くの村では、耳を塞いでいるものまでいるかもしれない。

「・・・・・・・」

 ディネルースは眉を寄せ、じっとそれを見つめていた。

「ずいぶん早いな、このままでは・・・」

 演習場全てを圧するかとさえ思える音響にかき消されつつ、イアヴァスリルが呻く。

 擲弾兵たちの射撃速度のことを言っていた。

 後装式、槓桿単発という構造の銃には、それほどの性能がある。

 だがこんな速度で射撃を続けていては、携行弾薬―――つまり兵一名一名が携えている弾薬が、たちまちに尽きてしまうだろう。流石に撃ち尽くしてしまうとは大仰かもしれないが、それでも大半を使ってしまう。歩兵最大の武器、小銃による射撃火力がなくなってしまう。

 これを補うには、いまは予備隊位置に控える、弾薬を満載した軍用馬車から予備弾薬を届ける作業を始めなければならないが。オルクセン軍にしては―――あの兵站には何事も煩いオルクセン軍にしては、まるでその動きがなかった。

「おい・・・」

 再び。

「おいおい・・・いったいどれだけ撃つ気なんだ!」

 ついに叫びにも似た調子で、彼女たちは困惑する。

「歩兵操典を。本書じゃない、付属書のほう」

 ディネルースが命じ、ラエルノアが軍用鞄から教本を取り出した。歩兵操典付属書。歩兵の基本的動作や戦術内容を記したものに付属した別書で、具体的な小銃の扱い方であるとか、装具の帯び方等を記したものだ。

 ざっと頁を捲り、擲弾兵一名辺りの携行弾薬数を確認する。

 前嚢―――腰の革帯の前に二個帯びる弾薬嚢に、三〇発ずつ、計六〇発。

 後嚢―――やはり革帯の、ただしこちらは後ろにぶら下げる少し大きな弾薬嚢に、四〇発ずつ、計八〇発。

 ―――つまり、合計一四〇発の一一ミリ小銃弾。

「馬鹿な」

 ディネルースは呻いた。

 他国の倍以上だ。

 一一ミリ小銃弾は、大きい。重い。

 人間族やエルフ族は、携行装具の方式に違いこそあれ、おおむね歩兵一名に七〇発を帯びさせる。それが限界だとされていた。

 これ以上持たせると、歩兵の機動力の根幹たる行軍に支障をきたす。耐えきれなくなり、倒れてしまう者―――落伍者まで出る。

 歩兵は、何処の国おいても過酷な兵種だ。弾薬だけを帯びていくのではない。

 携行食糧。水筒。背嚢。雑嚢。個人天幕。円匙。外套。応急処置用医薬品、そして何よりも小銃―――そんなものを全て携え、己が二本の脚で歩いていく。

 そんな彼らにこれ以上携行弾薬を増やすには、何か技術革新が起きて、銃弾の大きさそのものが小さなものにでも変わらない限り、無理だと各国揃って判断していた。戦時において戦場の応急的処置として規定以上に携えることはあっても、日常的に定数を増やすのは無理だ、と。

 エルフ族には人間族より強靭な体力があったが、体格はオークほどではない。判断結果はやはり同様。

 ―――だが、オルクセンの携行弾薬数は、その倍以上。

 理由についてはすぐに察しがついた。

 オークだから、だ。

 オーク族の巨体、馬鹿力、持久力。

 あの身も震えるようなオーク族の軍隊による恐怖の根源を、現代の彼らはそんなところに用いていた。

 これには、参謀本部兵站局の意図もあった。

 ただでさえ大飯ぐらいのオーク族だ。当然ながら食糧輸送の点において軍の輜重隊に大きな負担をかけている。

 ならば。

 他国なら、兵に定数七〇発、後方の弾薬段列に定数二回分一四〇発と運ばせている弾薬を、最初から兵に持たせてしまえばいいのではないか。我らには、我らにだけは、それがやれる。

 例え一部だけでも、そのぶん、段列の負担を軽くすることができる―――

 発想の逆転だった。

 もっとも、ディネルースたちが読み取れた気になっているほど、携行弾薬の増加についてはあっさりと採用された方針でもなかった。

 むしろ紆余曲折があった。

 兵一名一名に多くの弾を持たすと、あっという間にそれを撃ち尽くしてしまい、むしろ返って後方兵站に負担をかけてしまうのではないか。当初、そんな反対も起こったのだ。

 そこでオルクセン軍は、ここに至るまでの過程で何度も実験をやった。

 今まで通り七〇発持たせた兵と、一四〇発持たせた兵を演習で撃たせて、その射撃数が増加するかどうか検証したのだ。

 すると―――

 概ねどちらの場合も、例えどれほど周囲から迅速かつ盛大な射撃をしているように見えたとしても、一つの戦闘で槓桿式単発小銃を備えた兵一頭あたりが撃ってしまう弾の数は一〇発が最大値、という結果が出たのだ。

 平均値なら七発くらいだった。

 それでも仮に一個連隊二〇〇〇名が一斉射撃した場合、約二万発撃っている。兵個々の射撃量ではなく、集団としての火力で相手を圧倒している。

 これは携行弾薬数に影響されなかった。現代戦における想定戦闘経過時間が、おおむねその辺りで終結を迎えてしまうからだった。

 つまり、これならどれだけ多く弾を持っていようが、七〇発と規定された量に充分収まっている。例え補給無しに何度も戦闘をこなしたとしても、何とかなる―――

 むしろ弾切れを起こさないほうがいいに決まっている。

 操典に定めた、軍の戦術方針にも合致した。

「歩兵戦闘は火力を以て決戦するを常とす」

「突撃は敵兵既に去りたるか、もしくは僅かに防止したる陣地に向かうに過ぎず」

 オークたちは、彼らがかつてあれほど愛した、肉弾を用いた突撃を否定していた。

 きっぱりと否定しきっていた。

 新たな時代。新たな技術。新たな戦術。

 ―――我らの牙は、火力。

 ―――我らの盾は、火力。

 そう言っているのだ。

 もちろん、これは歩兵のみならず、他の兵科である砲兵や騎兵なども同様。

 眼下では、あの精巧にして高性能極まる五七ミリ山砲や七五ミリ野山砲もまた、全力砲撃をおこなっていた。

 どちらの砲も、まず「試射」と呼ばれる射撃をして、これを元に狙いを修正、更に射撃、また修正といった動作を繰り返し、概ね三発目から四発目で全力射撃―――「効力射」という流れ。

 大隊砲である五七ミリ山砲は、あの玩具じみた大きさのもので、砲架の後部、鳥の尾っぽのようにつんとつきあがった形状をして地面にお尻をつける部分「架尾」の底に、農機具の鋤板のようなものが備わっている。

 事前に穴を掘り、この鋤板のようなもの「駐鋤」を埋め込んでおくと、反動を抑え込んで、後ろに下がったりしない。

 砲弾も小さな小さな代物であって装填に手間がかからない。

 また、砲そのものの成りも小柄であるため、方向転換や、多少の移動等の際、規定上は四名で動かすことになっているものの、力のあるオーク族は一頭で動かしてしまうことすらある。

 これは人間族やエルフ族にもその気になれば可能なほどで、つまりそれほど機動性に富んだ砲なのだ。威力はもちろんそれなりだが、かなり速く打てた。

 七五ミリ野山砲は、これよりずっと大きな火砲だ。

 各種砲弾を納めた弾薬車も含め、六頭の馬で牽引する。操作にも六名を要するほど。

 こちらは、発砲のたびに反動により後退する。

 これを元の位置に戻し、再び射撃姿勢にすることが射撃時における砲兵のもっとも困難な任務。素早く元の射撃位置に戻すことが、これ即ち射撃速度に直結する。

 熟練された砲兵なら、それでも毎分最大七発を撃つ。通常は一分間に三発ほど。

 状況が許せば、砲の後ろに土を盛り、発射するとそこに砲車が乗りあがって、元へと戻っていくように陣地を作ることが望ましいとされている。

 射撃距離はおおむね二五〇〇メートルから三〇〇〇メートル。

 最大射程はその倍はあるのだが、その距離で撃つことはよほど大きな目標―――要塞相手でもない限り、滅多に起こらない。

 最大射程五〇〇〇メートルとなると、地平線付近となる。

 そこまで距離が開いてしまうと、当然ながら観測は容易ではない。

 また星欧大陸には平野部が多いと一口で言っても、実際にはその平野には起伏があり、森があり、街などがある。すると殆どの場所で直接視認できる距離は五〇〇〇メートルもいかない。

 これは砲兵たちにとっても痛し痒しといった問題で、あまりに急速な火砲の発達に対し、光学機器その他を用いた観測手段の技術技法が追いついていないのだ。

 砲兵たちが直接に視認し観測できる範囲のものを撃つ射撃法、いわゆる直接射撃が主流である以上、致し方ない―――そう思われている。

 観測班を前進させるか高所に上げてその観測結果を砲列に伝え間接的に射撃する方法―――間接射撃もあったが、そちらは自前の通信隊まで持った砲兵大隊でもなければそうそうに行えない真似だった。

 砲兵は戦場の王と、俗に言う。

 その全力射撃は殷々と木霊し、響き、空気を圧し、相対するものから論理的思考など奪い去ってしまうかのようだ。

 ―――それでも。

 ディネルースは、眉を寄せ、目を細め、軽く下唇を舐めながら、冷静に考え込んでいる。

 元に野性的な美しさがある彼女がそのような顔をすると、獰猛にして沈着な狩人そのもの。

 オルクセン軍の数々の革新的制度や技術に一度にずいぶんたくさん接したため、妙に冷めてしまい、眼下に広がる鉄の暴力を己ならどう攻めたものかと、思考の転換ができる余裕が生まれていた。

 オルクセン軍にはずいぶんと感心し、感服もし、学ばなければならない点もあるが、全てを模倣できるわけではないことにも彼女は気づいていた。小銃弾の携行弾数など、その最たるものだ。我らは我らなりの方法で、そういう目で見ている。

 双眼鏡を青軍側に巡らせる。

 川向う、一キロ半先で、そこに存在した放牧地の石垣を利用して展開した彼ら。

 撃ち返してはいるものの、妙に動きがない。

 魔術探索の波を飛ばしてみるが、後続する部隊もない。

 ―――何か企んでいるな。

 そうとしか思えなかった。



 このような極めて近代化された軍を打ち破る方法は、それでも幾つか存在した。

 もっと大規模な火力や兵力をぶつけるか、回り込むか、だ。

 ディネルースは正しい。

 戦術における原則は、時代が移ろい変わってもそう変わらない。

 極論から言ってしまえば。戦場における勝敗とは、例えどのような兵器を使うようになったとしても、相手側の兵力を無力化できるかどうか、なのだ。大別すれば、直接的にこれを叩くか、間接的に叩くか、である。

 そのための手練手管が増えていく一方、複雑になり、広範囲になり、大規模化しているだけだった。

 赤軍に対し、その兵力や配置を正確に掴みながら、ややそれより劣る兵力を投入したように見える青軍の動きは、陽動だった。

 彼らの主力はこの場所よりずっと東方六キロにある地点から、演習場を東西に流れる河川に、工兵隊により橋を架けさせ、大きく後方に回り込んでしまったのだ。

 川幅は広く、地形上、完全な障害であって赤軍側はそのような真似はできないと判断していた場所だ。

 また赤軍側は演習開始早々に騎兵中隊を使って、他の渡河点である橋を一つだけ残して「焼いて」しまっていたので、この統制部眼下の防禦陣地を攻めるしか青軍には手段がない、赤軍指揮官はそう思い込んでいた。ただ一つ残った橋から続く街道は、この三差路につながっていたからである。

 ―――橋を架ける。

 簡単に言ってくれるな、そう思えるかもしれない。

 だがこの時代、すでにそれを短期間で行う工学技術的手段が登場していた。

 浮橋という。

 ざっくりと言ってしまえば、何隻かの小舟を横に並べてつなぎあわせ、それに橋床に相当する板を乗せる。これで一つの艀が出来る。この艀をいくつかつなぎ合わせていくと文字通り川面に浮いた状態の橋、浮橋が出来上がる、という方法だ。

 浮橋自体は、デュートネ戦争より以前でさえその萌芽があった。

 だが現代の工兵隊は、このために必要な資材、架橋材料と呼ばれるものを規格化もし常に備えておくところまで進んでいる。

 オルクセンの軍制では、擲弾兵師団の隷下には、工兵大隊とは別に、同じ工兵科で運用される架橋縦列と呼ばれる組織がぶら下がっていた。八三名の架橋小隊四つからなり、架橋材料大小を備え、敷設できる。

 赤軍側は、この浮橋架橋も無理だろうと判断していた。

 この工兵作業を行うには、川なら何処でもいいというわけではない。

 ある程度流れが緩やかで、それでいて常備機材で架けられるだけの川幅の範囲でなければならない。

 これは河川という自然環境のなかでは相反する条件であって(川は、川幅が広いほど流れがゆるやかである)、そう多くの場所が該当するわけではなかった。

 赤軍―――第一擲弾兵師団は首都駐屯の部隊だけに、この演習場を知り抜いていた。

 浮橋による架橋可能箇所は一か所しかない。

 そしてその場所は街道からあまりにも大きく離れているため、架橋材料の馬車運搬ができない。川岸であるがゆえに大地が常にぬかるんでおり、重量馬車は埋まってしまう。そう判断していたのだ。

 青軍である第七擲弾兵師団は、これを力技で解決した。

 工兵だけでなく、擲弾兵まで投入して、架橋材料を延々と手作業で約八〇〇メートル引きづっていったのである。組み立てるのも、工兵に指導を受けながら擲弾兵もこれにあたった。

 彼らの大半は農家や酪農家出身で、力作業にも泥濘にも慣れていた。

 そして、穀類の作付け種類に乏しい北方地帯の兵ゆえ、粗食にも。

「パン籠」に携行食糧を規定の倍ほど詰め込み、その唖然とするしかない作業を夕刻までにやり遂げてしまったのだ。

 彼らはそのまま、大きく赤軍想定の戦場を繞回運動。

 側面からこれを突こうとしていた。

 赤軍側はそれに気づき、司令部が大恐慌に陥っていたところ。

 なにしろ彼らは主力の半分を三差路防禦陣地につぎ込んでしまっている―――

 ちなみに。

 やや小難しい話になるが、オルクセン軍の規定によれば、「迂回」運動と「繞回」運動は異なる。軍の集団が回り込むような運動戦を展開するという点ではよく似てはいるが、非ざるものである。

 繞回運動とは、今回のように戦術上の目的達成のために行われるもの。

 一方の迂回運動とは、もっと大規模に、長距離を移動する戦略的なものを指す。

 この想定状況でいえば、橋を渡ったあと陣地を叩くのではなく、もっと後方で退却路を塞いでしまうであるとか、更にずっと後方の兵站拠点を叩くであるとか。そういった戦略的色彩を帯びた場合の運動のことだ。

「北の兵は強いなぁ・・・」

 いつの間にか天幕外に出ていたグスタフがやってきて、ディネルースたちにも戦況を教えてくれた。

 丘から遠く東方を見つめている。

 演習地があまりに広いため、また森や起伏もあり、件の川は見えたが、架橋された浮橋や迂回機動中の青軍は見えない。

 だが、もう結果は出てしまったようなものだ。

「なにを仰いますやら。王も北の生まれでしょうに。今回は大鷲に助けられた点も多いですし」

 これはグスタフ王に伴われていた、シュヴェーリン上級大将の応え。

「王。我が王よ。王や参謀本部は、儂に言わせれば兵站を気にしすぎなんですな。兵たちには、元より二日分の携行口糧がある。これと銃と弾丸、少しばかり医薬品があれば、どこにでも行けるんですわ。何しろ儂らは、一発や二発鉄砲玉があたったところで死なん」

「・・・うん」

「街道。鉄道。そりゃ便利ですがな。使えなくなるとき、それに、無理をどうしてもやらにゃならんときというのはあります。むろん、ご配慮には何よりも感謝しております。無茶が通るのが、二日。どれほど引っ張っても四日というところでしょう。それを、前線を預かる儂らが忘れちゃならん、それだけのことです。あまり太く長く尾っぽを引きずったままでは運動を阻害します」

 尾っぽを引きずるとは、オルクセン式表現での「枝に絡まる」だった。

 シュヴェーリンの言い分はこうだ。

 街道から逸れた架橋、繞回運動は確かに無茶だ。

 だが、彼らは夜襲をも躊躇わずに運動を続行、赤軍側に立ち直る隙を与えず、赤軍陣地を側面及び後方からこれを叩き、奪取してしまうだろう。

 即ち、橋も三差路も青軍側の手に落ちる。交通基盤を手中に納めれば補給兵站は追送で間に合う―――

 ひとつの道理ではあった。

 軍事行動は、ときにそんな無茶も要求される。

 オーク族の高い体力を利用した運動戦はオルクセン軍の伝統的戦闘法でもあり、火力戦とともに重視するところ。

 古くから軍を指揮するシュヴェーリンにとっては、敬愛もする王や参謀本部の掲げる兵站への高い理想はやや愚鈍に過ぎ、どうしても「尾っぽ」だと思える部分があった―――

「同意はする。我らとて兵站の何もかも完璧だとははなから思ってもいない。生き物のやることに完璧などない。だがな、だからこそ・・・」

 何を嗅ぎつけたのか、王は鼻を蠢かせていた。

 すでに夕闇の気配が東方に訪れはじめている空を見上げた彼は、あちらを見回し、こちらを眺め、そうしてぼそりと言った。

「シュヴェーリン、これは・・・明日は雨になるぞ」

「・・・なんですと」



(続)

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