【書籍化】オルクセン王国史 ~野蛮なオークの国は、如何にして平和なエルフの国を焼き払うに至ったか~【コミカライズ】
樽見 京一郎
第1話 へいわなオークのくに①
お天道様 お天道様
明日天気にしておくれ
お天道様 お天道様
明日は雨にしておくれ
お天道様 お天道様
実りを豊かにしておくれ
どうか豊かにしておくれ
ましてやそれが北方国境地帯、シルヴァン川流域の森林地帯でのものともなれば。
大河シルヴァンを挟んで対岸は、もはや隣国である。将来的にはこの地は戦場となるかもしれない。
全てを貪欲に食らいつくすとされるオークにとって、そういった意味でも狩場となるやもしれぬとなれば、自然と熱も入るというもの。
表向きはお忍びの保養に訪れているとはいえ、側近どもを引き連れ、このような僻地の山野を夢中で駆けていたのにはそんな理由があった。
かつてこの地には、ドワーフたちの立派な国があった。
いまは滅ぼされ、しかもそれは遠い過去のことであり、住まう者は疎らである。
隣国とは国交も個別レベルの交流さえも絶えていたから、街道さえ古びてしまっている。
グスタフの国オルクセンの民のうち、わずかに放牧に訪れ、酪農をし、あるいはコボルトの額ほどの広さの土地で農耕を営むものがいるだけだ。
河岸までいくと彼の国の領地内と呼べるかどうかは怪しく、国境線未確定地域とするのが相応しいだろう。
シルヴァン川東部下流域南岸はグスタフの国の一部ということになっているが、中部と西部にはかつての旧ドワーフ領を中心に川向こうの国の入植地も街もあり、必ずしも河川そのものが国境ともいえず、その境界は複雑に入り組んでいる。
ゆえに、この辺りの地図は、場所に依ってはひどく古いものしか残っていない。
新たに地図を作り、地形を調べ、植生を記録し、天候を知る必要があった。
世に産業革命があり。市民革命があり。
「剣と魔法」の時代から「銃と魔法」の現代へと移って久しいこんにち、戦争は諸事複雑になってきている。
日頃から備えをしておかねばならぬ。
巻き狩りの追い役や、待ち構えて猟銃を放つ者たちはみなグスタフの側近たちだ。
将来戦場を学ぶには、実際にその地を駆けてみるのがいちばんである。
ただ―――
そのような煩瑣を抜きにして。
狩りとは楽しいものだ。
包囲網を狭め、巨狼族を放ち、待ち構え、銃を撃ち、獲物をしとめる。
気配を気取られぬよう風を読み、地の起伏を利用し、あるいはどうやって故意に姿を見せ、威嚇するか。追い込む先は山頂がいいのか、あの渓谷がいいのか。
狩りそのものもまた、ある種の軍事行動と似ている。
頭も使えば、体も使う。
このうえなく楽しかった。
実際に獲物も射止めている。
一度の巻き狩りで、大きな、たいへん立派な
異変は、狩りを終えてから起こった。
巨狼の一頭が吠えたのだ。
もう、獲物もいないというのに。
それも長鳴きだ。つまり、主を呼んでいる。
耳を傾け、魔術を巡らせ、方向を確かめる。山麓のほうだ。遠くはない。
「陛下」
「じい、案ずるな。待っておれ」
グスタフは同道していた側近のひとりをそのままに、狩猟服に包まれた二メートルを超える丸々とした巨躯を巡らせ、おそらく人間たちがもし目撃すれば信じられないであろうほどの俊敏さでもって山道を山麓方向へと駆けた。
この辺りの森林は濃く、巨木が群れ、昼間でも薄暗い。
再び巨狼が吠えなければ、鼻だけを頼りにすることになっただろう。
―――これは。
血の匂いがした。
獣のものではない。
灰色に鈍く輝く、しなやかな毛並みが木々の狭間からたっぷりと見えてきた。
人間族なら失禁を催しかねない巨躯。あちらでも気づいたらしい。獰猛な顔と氷のような瞳をこちらへと向けている。
彼の飼う巨狼族の一頭だ。
アドヴィンと名付けている。
「
アドヴィンが、頼もしい声を上げた。
巨狼族は、いまではオーク族の忠実な飼い犬のようになっているが、本来なら誇り高き立派なひとつの魔種族だ。賢く、言葉をも解する。
「どうした?」
「これを」
巨狼が鋭くしなやかな鼻筋を向けたほうを見やると―――
窪地に、一個の影が横たわっていた。
人間というには、長躯である。
かといって、オークではない。
艶やかな栗髪。
茶褐色の肌。
長く尖った耳。
濃い茶色の羅紗製フード付きケープに、カウル襟のバルキーネット、革製のボディスとハイウェストパンツ。山野を駆け巡るのに最適であろう、狩猟靴。腰には独特な形状をした大振りの山刀が革鞘に収まっている。
どうやら肩下ほどまであるらしい髪は後ろで高く纏め、その顔立ちは燐として美しい女のものだ。
意識を失っているようで、瞳の機微までは分からないが、凛々しい眉、長い睫毛のかたちまでがよい。
両頬には白の顔料を用いた戦化粧が、高く通った鼻梁のそばから突耳の耳朶下ちかくまで二筋。
なんと。
なんと、なんと。
「
瞠目があった。
ダークエルフ。俗に黒エルフともいう。
川向うの種族であって、グスタフの国ではそうそうに見られるものではない。
神話伝承の類に呆れるほど登場するエルフ族の亜種族で、森と湖の領域の精霊か何かだと思われていて、ゆえに人間族などからも奇妙なほどの人気がある存在。
だがそのような存在をして、世俗とは無関係ではいられないらしい。
片膝をついて確認すると、血の匂いが濃くなった。
左の肩と、右の脇腹に銃傷がある。
どちらも貫通しているようだが、脇腹の傷が深い。
その威力からして、猟銃などではない。軍用銃によるものだ。
積み貯まった枯葉の上に、血だまりが出来ている。
褐色の肌が土気を帯びて見えるのは、この女の生まれゆえだけではないだろう。
そっと、頬に触れてみる。
なかば冷たくなりかけていた。
いまは秋。冬もちかいころだ。昼間といえど大気は冷涼で、夜ともなればぐっと気温も下がる。
このままにしておけば、いかな長命長寿不老のエルフ系種族といえども、間違いなく息絶えてしまうだろう。
「・・・・・・」
グスタフは自らの腰に巻いた革帯にある雑用嚢から、一本の金属製薬瓶を取り出した。
霊薬の原材料として知られているアンゼリカ草、モミの雌花などから精油を抽出し、砂糖とナツメグ、何種類ものハーブと調合した魔術薬。
それも軍用の、重傷者に用いる高純度なものだ。
ダークエルフの女、その口元に運ぶ。
嚥下してくれなければ、
エリクシエル剤は生産量も少なく高価だが、体力と気力、魔種族の持つ魔力を恢復させ、治癒力を高め、高純度なものだと多少の外傷など塞いでしまうほどの効果がある。
幸いにも、形のよいぽってりとした唇は万能薬を含み、嚥下もしてくれた。
続けてやはり腰にぶら下げた、平たい大型水筒を取り出し、蓋を開け、これもまた飲ませた。グスタフ自身が寒気を感じたときにでも飲もうと携えていた、グロワール産の
こいつは素晴らしい。美味いだけでなく、高貴な香りがし、気つけにもなる。
「う・・・ん・・・」
女が呻いた。
意識までは戻らぬものの、早くも傷口は塞がり、止血も出来たようだ。
「アドヴィン、背を貸せ」
「はい、我が王」
巨狼の背に、担ぎ上げた闇エルフの女を乗せると、どうやら彼を探して騒ぎ始めたらしい側近たちの気配がする山中を、静かに麓へと降りた。
辺りに散らばっていた女の持ち物は、グスタフ自身が携える。
よく手入れされた、レバーアクション式の単発騎銃が一丁。
雑嚢と水筒が一つ。
機微を確かめる。銃は弾を撃ち終えた状態だったが、排莢はされていなかった。そういえば女の盛り上がった胸元には革製の弾帯があったが、そちらにも残弾はなかった。
雑嚢には、エルフ族の、穀類を固く焼締めた携行食料がほんの僅かばかり。生活必需品が幾つか。羊飼いが使うものに似た、喇叭もあった。印章のおさまった小袋を見つけると、思うところがあり片眉を上げた。
水筒は空であった。匂いを嗅いでみる。ジャガイモで作られる火酒のそれがした。妖精さんはこんな強い酒を飲むのかと、少しばかり目が点になった。
山麗では、既に配下たちが篝火を焚きはじめていた。宿舎にしている山荘が、木製構造材に白漆喰の外壁と鋭い屋根で陰影を刻み、視界へと入ってくる。
「・・・我が王。珍しい獲物でございますな」
「じい。医者と療術士を呼び、この者を治癒してやれ。軽く処置はしてある」
安堵した様子で出迎えた側近に、手早く命じた。
「それと、ただちに警護の山岳猟兵を集めてくれ。この様子では、噂は本当らしい」
「エルフどもの噂にございますな?」
「ああ。同族内で殺しあっているという、例のな」
「・・・やれやれ。いささか、困ったことになりますな。事態は動くことになります」
「そのことよ。だが止むを得ん。猟兵による捜索を行え。何ならコボルト兵の魔術斥候も使って構わん。ただし出力は弱くさせろ。まだこの者の仲間もおるやもしれん」
俗に「見知らぬ天井」というやつを、ダークエルフ族の女ディネルース・アンダリエルは経験することになった。それも、息をも飲む環境で。
太い木材を山岳地帯式に組んだ、高い天井。
明るい照明。
清楚な室内。
極めて大振りな寝台に、白い綾織の病衣を着せられ、彼女は横たわっていた。
半ば混濁した意識のまま、左手を目の前でひらひらとさせる。
手ひどく受けたはずの銃傷による痛みがない。
脇腹も同様だった。
無意識のうちにもはっと思い至るものがあり、胸元に手をやる。
安堵した。
守りの木塊は、革紐で首に下がったままだった。
何よりも大切なものだ。
願をかけるときや魔術を強く使用するときなど、何度も触り、握りしめるので、長い年月のうちに摩擦により自然と光沢を帯びて、まるで宝石のようになる。
―――ここは・・・いったい・・・
ようやくそれを考えた。
「お目覚めになりましたね」
彼女の足元のほう、部屋の一隅で誰かが言った。
看護帽。
清楚とした青縞のシャツと白いエプロン。スカート。
看護婦だ。
ディネルースはたいへん驚いた。
身なりからしてどう見ても看護婦は看護婦だが。
巨体である。
背丈はエルフと変わらないが、肉塊と呼べるほど横幅がある。
首は太く、腕や足は、まるで丸太のようだ。
目方にすれば、どれほどになるか。信じられない重さに違いない。
なによりも、その豚顔。
「どうして・・・」
何故オークが。
狂暴で、粗野で、エルフはおろか同族すら喰らうという貪欲の魔物オークが。
何故。何故。何故。
「いま先生を呼んで参ります」
看護婦はディネルースの困惑をまるで誤解したらしい、丁寧にお辞儀をして誰かを呼びに行った。
すぐにやってきたのは、眼鏡をかけ白衣を帯びた、身なりも立派な医者。
だがこれもまたオークだ。
オーク族はそのほぼ全てが黒目で体毛もなく、やや薄桃色がかった白い肌をしていて、彼女にはまるで見分けがつかないが、こちらは男―――いや、牡のオークらしい。彼に従って戻ってきたさきほどの看護婦より、顔つきの彫りが深く、下顎から両頬脇へと伸びた牙も鋭く大きかった。
腕をとられたときは、一気に体が強張り、恐怖がこみ上げ、正直なところ食われるのかと思った。
手首へ太い指で触れられ、ようやく脈を診られているのだとわかる。
「少し、速いかな・・・ だがすまない、私も君たちの種族を診た経験はそうなくてね。ともかくまだ休みなさい」
そりゃ鼓動も速くなるでしょうよ、などとディネルースは思う。
困惑と恐怖で一杯だ。
なぜ。
本当になぜ。
オークとは、もっと凶悪な、非文明的な生き物のはず。
それがどうしてこれほどの医療を。
人間族たちの言うところの、科学的なものを。
なぜ、私を助ける。
膨大な数ゆえに常に飢え、周囲の種族たちをも食らう存在のはず。
彼らに見つかった以上、とっくに食われていてもおかしくない。
ディネルースは一二〇年ほど前に、オークたちと戦ったことがある。ここから北西に少しいったところの、ロザリンド渓谷でだ。彼らのことは良く知っているつもりである。
―――
彼女の一族では、そう蔑称で呼んでいた。
耳障りな甲高い声で喋り、喚き、周囲を侵す。貪欲で全てを食らい尽くす、穢らわしい野獣のような生き物たち。なまじ知恵があるだけに厭らしい目つきと下卑た言葉使いをしたドワーフどもよりは、まだ単純なぶん幾らかマシなだけ。
その彼らが、どうして。
「失礼するよ」
困惑のうちに、一匹の牡オークがやってきた。
山岳民族衣装風の、狩猟装い仕立ての身なりはいい。
まるで人間族の服飾のようだった。
ディネルースより頭一つ高いから、オーク族の牡としても大柄なほうだ。
何よりも、その声音に困惑した。甲高くなどなく、低く、父性的ですらある。
魔種族としての位階は、おそらく相当高い。巨躯から滲み出る魔力がある。これもまたオークとしては珍しい。オークは、馬鹿力こそあるが、魔術力を持つ個体はそう居ない。
「戸惑っているようだな。無理もない―――」
寝台際にあった、彼女の種族から見れば大ぶりな椅子にそのオークはつき、苦笑した。
「だが安心してほしい。我ら種族が他の魔種族を食らう習慣を捨て、もう七〇年ばかりになる。いまでは国法として禁忌ですらある。君を獲って食おうとは思っておらん」
「・・・・・・」
俄には信じがたい話だったが、思い当たる噂は耳にしたことがある。
―――シルヴァン川より南に住まう蕃族たちが、たいへん大きな国を作っている。
その国のことだろうか。
「ともかくも、お礼を―――」
迷った末、ディネルースは上体を起こし、名乗りを述べた。
いかな悪鬼ども相手とはいえ、助けられ、口上も述べられぬようでは氏族長の名が廃る、そのように思えたのだ。
「そうか、やはり族長殿か。気配風格からそうではないかとは思っていた」
オークもまた名乗りをした。
「オルクセン国王グスタフ・ファルケンハインと申す。出来れば、事情を聞かせてもらえると嬉しいのだが、無理強いはしない」
「・・・・・・」
オーク王。
王なのか。
この風格、魔力。
さもあらん、だ。
「あれから―――と言っても、君は気を失っていたが、君を助けてから更に10名ほどをこの辺りで見つけた。皆が皆、傷を負っていたが治療は済ませた。別の部屋にいる。あとで会うといい」
「それは・・・」
ディネルースは起き上がろうとしたが、オーク王は手のひらを広げる仕草で制した。
「まずは食事を摂りたまえ。それからでも遅くはあるまい。君の仲間にもそうしてもらっている」
彼が合図をすると、あの看護婦がウッドボードに乗せた食事を運んできた。
ベッドに折り畳み式の小机を設えてくれ、料理が並ぶ。
小麦入りのライ麦パン。苔桃のジャムとバターを添えて。
杏子茸をたっぷりと使った、クリームスープ。雉肉の肉団子入り。ブラックペッパーをほんのり。
ヘラジカの香草煮込み。こんがりと焼いたジャガイモとニンジンを付け合わせ、濃厚なソースをかけたもの。
体を温める赤ワインも、病み上がりの身に毒とならぬ程度に。熱くし、シナモンとクローブ、ドライオレンジを含ませてある。
「食は全ての根源だ。急なことゆえにあり合わせになってしまったが、なるべく君たちの郷土料理に寄せて用意させてみた。ではのちほど」
「か、かたじけない・・・」
あり合わせ? これが。
私たちの料理に寄せて・・・?
とんでもない。
我らの郷土料理は、日常的にはこれほど豪華ではない。我らの食むパンに小麦など入っていない。
ずいぶんと手が込んでいる。まるで精霊祭のハレの料理だ。
とくに、スープが食欲を誘った。エルフ族全般が好んでやまない杏子茸と、バターと、クリームのいい匂い。
温かい食事など、幾日ぶりだろうか。
空腹は最高の調味料と、俗にいう。それは事実でもあった。
あさましくも思えたが、ディネルースは完食した。
染みる。
四肢の隅々にまで力が漲るようだ。
ふつふつと気力までが満ちるとともに、思い出したくもないことも思い出してきた。
―――血の匂い。悲鳴。銃声。炎。殺戮。
大願成就のためには力をつけねばと完食したが、血の色にも思えるワインを飲み干したところで堪えきれなくなり、衝動に突き動かされ、室外に控ていた看護婦に声をかけ、手伝ってもらって着替えをした。
彼女の衣服は既に洗濯され、綺麗に乾かされていて、それもまた有難かった。
その様子からして、己は少なくとも数日は眠っていたらしい。
案内され、階下にあった大部屋へ通される。
「ディネルースさま!」
「ディネルースさまだ!」
「ああ、ああ。イアヴァスリル! アルディス! エレンウェ! それに貴女たち! 無事だったのだな・・・無事でいてくれたのだな・・・!」
ディネルースと彼女の仲間たちは手に手を取り合い、抱擁しあい、泣いた。
再会できた喜びもあれば、助けられた上でこう言っては何だが、気の弱い者のなかには突然オーク族たちの中で目覚め、不安がっていた者もいた。その安堵だった。
彼女とともに、凄惨な出来事から逃れるため同族や近隣氏族の生き残りで大河シルヴァンを越えようとした者は三〇名。
そのうちいま無事が確認出来たのは、彼女を含めて一四名。
オークたちの捜索は入念なものだったというから、その言葉を信じるなら、残りの者たちは駄目だったのだろう。
―――戻らねば。故郷へ。
白エルフどもを、ひとり残らず殺すために。
許さない。
奴らを許さない。
絶対に許さない。
「―――そうだったのか。惨いことを・・・惨いことを・・・」
本心である。心からのものだ。そのつもりだ。
山荘の休憩室で詰め物のよい椅子に腰かけたグスタフは、種族の者まで救ってくれたことに意を決し全ての事情を話したディネルースを前に、ようやく感想らしきものを漏らすことが出来た。
彼女も座らせてある。
配下でもない者を、まして誇り高き他種族を立たせたままにしておく趣味は、グスタフにはなかった。
淹れたての、濃く、熱いコーヒーがサイドテーブルにあったが、互いに口をつける雰囲気ではなくなっている。
噂通り、シルヴァン川北岸の国―――ベレリアンド半島エルフィンドのエルフたちは、同族同士の内戦に陥っているらしい。
いや、内戦と呼べるかどうかすら怪しい。
国民の九割九分以上を占める光のエルフたち、エルフといえば誰しもが想像する白い肌のエルフたちが、ダークエルフ族を一方的に
グスタフは脳内の記憶と知識の棚のなかから、この事態に遭い相応しい言葉を探した。
ぴったりのものを思い出す。
―――民族浄化というやつだな。
彼から見れば、エルフとダークエルフにはさほど大きな種族上の違いはない。
そもそも今眼前にいるディネルースとて、他種族が抱く空想ほど「黒く」はない。熟した麦のような、健康的な茶褐色の肌だ。ダークはダークであって、ブラックではないのだ。
エルフもダークエルフも長身だが、おおむね前者は線が細く可憐な妖精じみていて、後者は四肢にしなやかな逞しさが漂う野生的な体躯をしているという違いはある。
だが、多くの民族抗争がそうであるように、例え他種族からどのように似通って見えようとも、彼女たち自身の種族間の考え方では、両者は決定的に異なるものだという。
その種族としての分岐過程に本当のところ何があったのかは、彼女たちにも最早よくわかっていない。上古の昔、この世界の成り立ちに絡むと伝承の残る降星雨の光を見た者と、そうでなかった者だという。彼女たちの古い言葉でいうところの、「光のエルフ」と「闇のエルフ」という呼称は、そこから来ている。
そのような神話めいたものが肌の色まで変えてしまうとはグスタフには思えなかったから、おそらく単なる伝承に過ぎないが―――
ともかくも両者は、
ダークエルフ族は大陸とベレリアンド半島の境を流れ、伝承神話が彼女たちの国の国境だと定める、シルヴァン川北岸一帯。その山岳地帯で放牧と酪農、狩猟を糧に。
白エルフたちはそれより北方、国土の大部分であるベレリアンド半島の中心部から北端まで。森林と湖沼を愛し、農耕を主に。歌と音楽、知恵と言葉遊び、書物を友にして。
エルフたちはダークエルフに対して侮蔑にも似た、淡い差別意識を抱き続けていたが、それでも彼女たちが対外戦争を戦っているうちは良かった。
両者はしばしば協力し、手に手を取り合って、作戦の類は白エルフが立て、ダークエルフの各氏族は精強無比な国境防護の戦士として、故国に勝利をもたらしてきたからだ。
しかし、対外戦争が絶え、ゆるやかな平和がここ百年ばかり続いた果てに―――
国内にあって元々背景として存在した両者の関係に、好ましくない変化が起きた。
まず、経済競争原理の普及と、人間族の国々からの科学技術の流入がいけなかった。
富の偏在と、新しい時代の新しい技術に乗れた者と乗れなかった者の別を生み出した。そしてそれは彼女たちの国では、エルフとダークエルフの別にそのまま符合してしまった。
あとは、導火線に火が着く直接的かつ決定的な「何か」を待つだけであった。
一年ほど前、それまでエルフィンド王家側近に取り立てられていたダークエルフのひとりが、反逆のかどを問われ失脚。裁判こそ無事に済んだが、他の側近たちに暗殺されたという。どうも、その事件自体は、陰惨だが、嫉妬や私怨から起こった政治闘争だったらしい。
だがこれを導火線として起こった、「ダークエルフ狩り」。
清楚とした妖精じみた存在だったはずのエルフたちは、同根異種族を憎む差別主義者にして殺戮者に変わった。
いまやダークエルフたちは、地位的には元々足場の弱かった国家中枢から追いやられ、地域的には国境部へと追い立てられて、生物的には死に瀕している。
不意を襲われた大半の者。
銃殺された者。
縄で吊るされた者。
巨大な穴を掘り、生きたまま埋められた者。
生き続けることに絶望し、自ら死を選んだ者―――
ディネルースの氏族の場合、ある日とつぜん、村ごとエルフィンドの正規軍に焼かれた。
ずいぶんと大勢死んだという。
猟に出ていたために無事で済んだ彼女は、敢然と立ち向かったが、多勢に無勢である。
そして止むを得ぬ選択として、国境たるシルヴァン川を生き残った者たちと越え、そこを迂回路として逃げ延び、同じダークエルフ族の他氏族と連絡を取り合おうとしていた―――
そういうわけだった。
―――これは間接的には私にも罪のあることだな・・・
グスタフはそっと、やや歪んだ思考を弄んだ。
エルフィンドにとって、過去の主たる対外戦争の相手は我らがオーク。
長い年月がかかったが、そのオークの地域を纏め、侵略戦争を控え、明確な国法を定め、産業を興し、人間族たちとさえときに争いつつも交流し、内需拡大に専念してきたのは私なのだから。
それが、エルフ系種族たちをこんなかたちで追い詰めてしまうとは・・・
「それで・・・これからどうなされる気か?」
「戻る。戻るつもりだ」
全ての説明を終えたあとで、ディネルースはきっぱりと告げた。
太いが形よく凛々しい眉にも、その栗色の髪と同じ色の瞳にも、強い意志がある。ふっくらとした唇は真一文字に結ばれている。地のものらしい低い声音や、野趣の色がある言葉使い、エルフという種族に他種族が抱いている想像よりずっと逞しい肢体の全身には、気圧されるほどの怨嗟の炎があった。
「氏族の者たちを助け、他氏族とも手を取り合い、可能な限りの抵抗をする」
「そうか・・・」
止めるつもりはなかった。
口を出す権利もない。
だが。
―――勝てまい。
数が違い過ぎる。
それは彼女自身にも分かりきっているようだった。
「白エルフたちを殺す。ひとりでも多く殺す」
「・・・・・・」
無謀な抵抗だと理解した上で。
それでも挑む以外の選択肢など存在しないほどに、ダークエルフたちは白エルフの手によって追い詰められるところまできていた。
そして、幾らか迷った上で、彼女は言った。
「このように助けてもらった上に、頼めた義理ではないが・・・ いくらか武器と医薬品を分けてもらえまいか。そして、傷の酷いもの、気の弱っている者をこのまま預かっていただけまいか。代償に払う糧すらないゆえ、それさえ叶えていただけるなら、私は貴方に我が命を捧げよう。必ずここへ戻ってくる。そのあとでなら、私を食べてもらおうと、牝として扱ってもらおうと構わない」
「・・・・・・」
グスタフは目頭を揉んだ。
しばし沈思し、素早く思慮を巡らせ、脳内で吟味し、決断し、告げた。
「それほどの覚悟があるのならば、私は貴女に別の選択肢を提案したい」
「・・・なんだ?」
「将来の捲土重来を期し、貴女の同胞たち皆で、私の国に移住してくるといい」
「・・・・・・・馬鹿な」
ディネルースは、呆けたような顔をした。
そんなことが。
信じられない、といった表情だった。
「元々魔術力の高い貴女の種族は、ある程度近くまでいけば同族たちと交信できると聞いたことがある。事実だろうか?」
「・・・事実だ。だがいまはあまり強くは使えない。白エルフたちにも気取られてしまう」
「そうだな。だから、シルヴァン川北岸まで貴女が戻ることは同意する。そこでひとりでも多くの仲間たちと連絡を取り合い、他氏族をも集め、救い、大河を南へ越えさせよ。言っておくが、これは戦うより困難なことだ。白エルフたちに見つかってはならん。理由はわかるな?」
「―――大っぴらに支援したことが白エルフどもに知られれば、エルフィンドと貴方の国とが戦争になりかねない」
「そうだ、その通り」
満点だ、というようにグスタフは頷いてみせた。
「だから素早く、迅速に、しかし極秘裏に、貴女が周囲を説得しとげ、脱出を成し遂げねばならん」
「・・・・・・」
「私はこの南岸に、食料と医薬品、配下の者の手を集める。一時的な治療をしたのち、我が国に迎え入れる」
「・・・・・・」
ディネルースは完全に迷っているようだった。
それは実行に伴う困難さを想像してというよりも、なぜこれほど望外な救いの手を差し伸べてくれるのか、そしてその救いの手を差し出した相手が、かつて戦場で相まみえたことすらあるオークであるという二点に依った。
ディネルースはそれを率直に疑問として口にした。
「・・・どうして・・・そこまで。信じられない」
「・・・だろうな。無理もない」
グスタフもまた、腹を割って応じた。このようなときには小細工や欺瞞を弄さず、あるがままに語るのがいちばんだという経験が彼にはあった。
国を治める者は、腹芸や寝技を自在にこなさねばならぬが、常にそれがいいとは限らない。
「一二〇年ほどまえ、私は貴女がたとロザリンド渓谷で戦ったことがある。私はまだ一兵士で、若造で。全体など見えはしていなかったが・・・」
「奇遇だな。私もそのころ既に氏族長としてあの古戦場にいた」
「そうか」
ディネルースは、今年で一五〇歳になるグスタフよりずっと年上らしかった。
エルフ族の氏族長とは、人間族に例えていえば村長や町長、市長といった役割に加えて、戦時においては氏族規模に応じて編成される軍の部隊指揮官でもあったから、魔術力と指導力があり、周囲が従いもする、ある程度年嵩のある者が選ばれると耳にしたことがある。
「貴女がたに恨みなどない。兵と兵が相戦うは、世の習いだ。それに飢饉に瀕した我らがこの地のドワーフの国へと穀倉地帯を求め攻め入り、それにエルフィンドが脅威を覚え出兵したのだから、むしろ非は当時の我らにある。だがロザリンドの会戦で我らが敗走したあと、何が起こったかご存知か」
「・・・あのあと? 我らはオークを打ち負かし、帰還したが・・・」
「
「・・・?」
「白エルフの一部はロザリンドに留まった。そして返す刀で、このシルヴァン南岸を治めていたドワーフ王を襲った」
「・・・馬鹿な。ドワーフの国は貴方がたが撤退に乗じて滅ぼした。そう聞いた」
「なるほど、そのように聞かされてきたのか。個々の交易すら絶えるはずだ。それはエルフたちのでっち上げた、偽りの物語だ。元々ドワーフを見下し、それでいて彼らの冶金技術を脅威に感じていたエルフたちは、ドワーフの国をもっけの幸いと滅ぼしたのだ」
「・・・・・・」
「私は、白エルフがどれほどのことを計算高くしてのけるのか、あのときそれを実際に見た」
「・・・・・・」
「他にもエルフたちの手でベレリアンド地方から駆逐された魔種族はいる。巨狼、コボルト、大鷲・・・巨狼は牙を恐れられ、コボルトは商才を疎まれ、大鷲はエルフとは別の知能的な一族がいることが許せなかったらしい。いまでは皆、我が国にいる。なんなら会わせて差し上げよう。私の相棒は巨狼で、執事はコボルト、我が国の工業技術を支えているのはドワーフたちだ。大鷲たちは我らのため、空を飛んでくれる。私が他種族を食らうことを禁忌として国法に定めたのは、彼らと国を共にしていくためだ」
「・・・・・・」
「そして今度白エルフ族の標的になった存在は、貴女たちの番だったというわけだ。それは貴女自身がたっぷり見たのだろう?」
「・・・・・・」
ディネルースは完全に衝撃を受けていた。
四肢を震わせ、大きく肩で息をし、目は泳いでいる。
だが、あれこれと得心の行くものがあったらしい。
他種族の駆逐については、エルフィンドのなかで狩猟を得意技のひとつとするダークエルフ族のひとりとして、身に覚えもあったのだ。
そしてそれは彼女の白エルフたちへの憎悪を増幅させた。対オークの聖戦と謳われた一二〇年前の出征にすら偽りがあったのだとすれば―――
あれこれと白エルフたちから理由を吹きこまれ、言わば道具となって他種族を駆逐してきた過去にも後ろ暗いものがあったのだとすれば―――
どれほどの長きにあって彼女たちの一族は騙され続けてきたのか―――
そのうえで滅ぼされようとしているのなら。
まるで道化ではないか。
「故に、私はいつの日か、それもそう遠くない将来、エルフたちと我が国が戦争になると確信している。小競り合いなどではない、国と国の命運をかけた、国家総力戦とも呼ぶべき、最終戦争になるだろう」
「・・・・・・」
「そのとき、一種族でも多くの味方が欲しい。背を預けられる同胞が欲しい。貴女とその同族を助けるのはそれゆえだ」
打算もあるのだと、率直に告げた。
「・・・・・・・・・葉巻、吸ってもいいかしら?」
「ああ、構わん。私もパイプを失礼しよう」
お互いが大きく吐息をついたあと、奇妙なほどの雪解けが、グスタフとディネルースの間に流れた。
マッチを擦る音がほぼ同時に響き、紫煙が漂う。
おそらくこのダークエルフの低い声音は、こんな剣呑とした出会いではなく、もっと日常的な、穏健なもので交わせていれば、たまらなく優しく聞こえただろう質のものだな―――
そんな他愛もないことを思う余裕も生まれた。
「いま一つ伺いたい、オーク王」
「何だろう?」
「貴方がそれほどの種族を集め、白エルフに打ち勝つ日が来たとき・・・いままでのエルフのように、今度はオークたちが他種族を粗略に扱わない、という保証はどこにあるのだ?」
鋭いな、この
グスタフは舌を巻く。
これもまた、率直に答えることにした。
「確かに。我らは各種族のなかで最も数が多い。そうなる可能性は、なきにしもあらずと思えるだろう。いや、そのように思えて当然だ」
―――なにしろ、そんな目に遭った直後だからな。何も信じられなくとも、無理はない。
「しかし。一二〇年前ならいざ知らず、もはや不可能なのだよ、そんな事は。理由はやはり我らの数の多さだ」
「・・・・・・」
「我らはしかも、他種族からみれば信じられないほどの量を食らう。食糧を増産し、工業力を高め、国を富ませなければ、明日の糧を賄えない。オーク自身の殆どには馬鹿力はあっても魔術力はない。コボルトの魔術力と商才を借り、ドワーフの技術を学び、巨狼に放牧を手伝ってもらい、大鷲に天候を見てもらわねば。そして我ら自身が総じてその恩恵を噛みしめ、自ら汗をかかねば」
ディネルースはまた得心がいったようだった。
「・・・食は全ての根源。そういう意味だったのね。しかもそれはとても上手くいっている、と。オークはこの一二〇年、ただの一度も収穫期になっても我らを攻めてこなかった。貴方や、医師たちの様子を見ても、どれほど発展したのかわかる」
あの食事。
あれがあり合わせのものだというなら、物を作り上げ、交易を巡らせ、富を得た国のものに相違ないからだ。
「そうだ。やはり貴女は鋭い」
嬉しくなるほどだ。
「それに理由はもう一つある。もし白エルフに勝てたとしても・・・」
グスタフは、香りのよいイスマイル葉のパイプ煙草を吸い、咥内でくゆらせ、吐き出しつつ、弱ったなとも思っている。
ここまで話すつもりはなかったのだ。
側近たちの全てにも、まだ理解の及ばぬ話だと思っているものだ。
「その次は人間族と戦争になる。銃や、大砲。鉄道。電信。鉄の船。一二〇年前のように筒先から弾を込めるマスケットや銃剣ではなく、後装式の施条小銃を使う貴女にはそれがわかるはずだ。急速に人間族の技術は発展している。いまに魔術と腕力だけでは補いがつかなくなる。いや、もうそうなっている。彼らとの戦争を避けるには、やはり種族の垣根を越えて国を纏め続けるしかない」
「・・・オーク王。失礼な言いようだけど、貴方とても変わっている。話していると、本当にオークとは思えない。まるでエルフか・・・そう、人間族のような考え方をする」
褒められているのだろうか。
いささか迷うところだったが、しかし、全てを理解してくれたのだと、安堵する。
「王。流石の王。脱帽するしかない。つまり貴方は、我らの種族を助け、住む場所と武器まで与えてくれて、近い将来に白エルフどもを討つ機会まで与えてくださる、と」
彼女は立ち上がった。
雄々しくさえ思える起立だった。
種族滅亡の窮地から見えた一筋の光明が、いまは成すべき方針を明確に照らし出し、彼女を奮い立たせていた。
この異種族遭遇が成功したのかどうかがわかり、グスタフもまた立ち上がった。
「その案、乗りましょう。オーク王」
「ならば我らはそれを心から歓迎しよう、ディネルース・アンダリエル」
ふたりは、歴史背景的に無理からぬことながら少しばかりぎこちなく、だがしっかりと握手した。
あれから一ヶ月半が経とうとしている。
秋から冬の境を越え、オルクセン最北端の山脈、あのシルヴァン川の南側にあるツェーンジーク山脈は、既に積雪をたっぷりとかぶっていた。
平地でも雨や、雪まじりの霙の日が増え、ついには本格的な降雪を迎え、晴天の日数は減るばかりだ。
外気温は下がり続けている。
その夜は、雪にこそならなかったが、氷のように冷たく激しい雨が降った。
シルヴァン川の川幅はもともと広く、そして大部分が深い。
上流には大瀑布すらあり、剣俊な断崖が両岸に広がり、おまけに橋も殆ど架けられていない大河だ。この川はエルフたちにとって一種の聖地で、神話伝承により国境だと定められた地。意図的に交通の便を断ち、ここより北方に閉じこもるための天然の要害だ。
東方下流域になって、砕けた岩石と川砂が積り貯まり、ようやくと渡渉できる浅瀬帯がある。
エルフィンドを脱出するダークエルフ族最後の一団、約一二〇〇名はそこを越えた。
対岸からほんの僅かばかり南側に広がる森林地帯のなかで、グスタフ・ファルケンハインは彼女たちを待ちわびていた。
ようやく、という思いがする。
この期間というもの、ダークエルフたちの脱出は困難を極めた。
橋は、使えない。最初から選択肢にならなかった。エルフィンドの兵たちが哨所を設け、警備を増やしていた。一度のことならばこれを襲い、無理矢理の強硬突破も出来ただろうが、そのような方法を採るには脱出ダークエルフ族の数が多すぎる。また、仮に渡れたところで、そのような場所はエルフィンドのシルヴァン南岸入植地。まさしく「危ない橋」。
また最初のころは、ディネルースの氏族間説得がオーク族への不信感と恐怖や侮蔑ゆえに上手くいかず、しかしながら差し迫った眼前の脅威、白エルフによる民族浄化が迫りに迫り、ようやく説諭が成功し、まとまった数が脱出できるようになったころには、この浅瀬帯も使えなくなっていた。
大河唯一に近い渡渉箇所ともなれば、当然ながら白エルフの警戒も及んでいたからだ。ときおりだが、エルフィンド正規軍の騎兵斥候が出没するようになっていた。
その軍勢も、あちらの町を攻め、こちらの村を焼き、主要な街道を封鎖しはじめるなど、対ダークエルフの包囲環を日に日に狭めていく。
ゆえに、いままでダークエルフ族たちの脱出行は、主にここより上流を使わざるを得なかった。
冬季の、身も凍るような河川を、それも水嵩を増していくばかりの大河を、わずかばかりの食料だけを携え、労苦の末に断崖を上り下りし、見つからぬよう小集団になって、泳いで渡ったのだ。
不老不死にして、身体的に重大な外傷を招くか、自ら生きることを辞めない限り生きていられるダークエルフといえども、これは大変な真似だ。凍傷その他を防ぐため、すぐに治療を受けねばならない。元より、対エルフとの戦闘で負傷するか、疲労困憊していた者も多かった。不幸にも濁流に飲まれ、力尽き、果ててしまった者の数は一名や二名ではなかった。
グスタフは、彼の国の国境警備隊や、国境部にもっとも近いオルクセンの都市、アーンバンドに駐屯する第一七山岳猟兵師団からその各大隊の野戦炊事車、師団輜重段列の半分と野戦病院の全てを投入して彼女たちを支援したが、こちらの部隊展開もまた慎重に行わざるを得なかった。
大っぴらに軍を投入すれば、エルフィンドとの国境紛争に陥りかねない。
渡河点と対岸の一次集合地点を決め、オルクセン軍に属して魔術を受け持つコボルト兵や、ダークエルフたちのうちから志願者がその場所を知らせるために、傍受されないよう出力をぎりぎりまで弱めた魔術交信を両岸で交わし、最終集合地点をあの山荘周辺として、数十から多くとも一〇〇名ほどの集団となって脱出する―――
決行する渡河点を複数にして補ったが、労苦ばかりが重なる事実は変えようがなかった。
この困難な期間、ディネルースはエルフィンド側にあり続けた。
ダークエルフ族側で脱出計画を軌道に乗せるという大変な作業をしてのけつつ、彼女に従う少数精鋭の一隊と、グスタフから支給を受けた銃火器と医薬品とを以て、僅かな携行食料と水だけを頼りに、エルフィンド正規軍に対して不正規戦を挑んだ。
本格的な戦闘行為を企図したものではなく、同胞が脱出を行うための時間稼ぎ―――軍学上で言うところの、遅滞戦闘である。
必然的に、彼女たちが最後の脱出組になった。
その期間、大河シルヴァンの水嵩は増し続けた。
上流の渡河点はついに使用不能になり、このままでは東部下流域の渡渉地すら危ない。
難戦苦闘を続け既に傷つき体力を失った彼女たちに、泳いで大河を渡れというのは無理無謀というものだ。
グスタフ直属の、オルクセン国軍参謀本部の参謀のひとりがある提案をしたのは、このときだった。
重大な脅威と見られない程度の部隊を、わざとエルフィンド側に見せてはどうか。
国境紛争にまで事態を陥れたくないのは、エルフ側も同様のはず。
のちのちにオルクセン側に気づかれるのならまだしも、民族浄化行為にふけっているとは悟られたくもないはず。あちらにしてみれば国防上の弱点を晒していると取られかねないからだ。
渡渉地は元々軍事上使えないと思っていた場所なのだ、試してみる価値はある―――
グスタフはただちにこの案を採用した。
加減が難しかったが、中隊規模の斥候隊に見えるものを山岳猟兵師団の猟兵連隊各隊から組織して、あちこちに出没させた。オルクセン側が、国境で何かが起こっていると察知しかけ、そのために派遣した隊だと見える規模である。
計画は図にあたった。
渡渉地周辺に出没していたエルフィンド騎兵斥候が引いたのだ。
長くは持たないだろう。
より規模を大きくした、例えば歩兵や砲兵を伴うような威力偵察部隊がやってくる可能性があった。
手早く両岸で魔術交信を取り合い、その夜のうちに、最後の一団は渡渉を決行することになった。幸い、天の慈悲というべきか、渡河決行の直前に雨足は弱まり始めた。
オークは、種族の興りとしては元々夜行性であったため、夜目が効く。
魔術力のあるグスタフはとくにそうだ。
ダークエルフも同様。
身体的な能力ばかりでなく魔術まで用いて夜目を効かせるとき、彼女たちの瞳は、淡く赤い燐光を帯びる。
その光がちらちらと見えた。
静かに、膝まで水に浸かり、だが素早く、落伍者を防ぐために一団となって渡ってくるダークエルフたち。
全員があのダークエルフの民族衣装といえるフード付きコートを着ており、頬には各々の氏族に伝わる紋様で描かれた白顔料の戦化粧。
グスタフは、彼にはたいへん珍しいことだが、背筋に薄ら寒いものを覚えた。
―――なんという目をしているのだ。
ケープの内側に籠った、燐光のせいではない。
それは、ダークエルフの生態を事前に知識として得ていれば驚くまでもないことだ。
降雨のなかにも正面を見据え、微動だにせず、眉根一つ動かさず。
兵士の目だ。
実戦経験をいやになるほど積み、敵の死も仲間の死も見続け、生き残った上に闘争心を維持した者たちだけに出来る目だ。
おまけにその集団は、憎悪も携えている。
あの一月前のディネルース自身すら凌駕する憎悪を。ただただ灼熱に煮えたぎる、白エルフ族への憎悪を。隊伍には、息も絶え絶えの仲間を背負った者もいる。たくさんの護符を紐のところで重ねて握りしめている者も多い。死んだ仲間たちから回収したのだろう。
猛り狂ったときの、巨狼の瞳が近いかもしれない。
最先頭の者は、渡渉を成し遂げると立ち止まって一団の最後尾が渡り切るまでそれを見守り、文字通り最後のひとりとなって一時集合地点の森へと分け入った。
確かめるまでもなく、ディネルース・アンダリエルであった。
グスタフは自ら彼女に分厚い毛布をかぶせてやった。
最初、ディネルースは彼に気づかなかったらしい。
しばしグスタフの巨体を見上げ、茫然自失とも虚脱ともとれる瞳をし、ようやく全てを成し遂げたのだと悟ったようだった。
「・・・オーク王」
「いいから、喋るな。よくやった、よくやったぞ、ディネルース。よくぞ戻った」
毛布を摩擦し、更には魔術力の波動に療術魔法を滲ませそちらでも彼女を包む。
半ば衝動的に横抱きにかかえ、医療班のもとへと運んでやることにした。師団輜重段列の製パン中隊がパンを焼き、大型野戦炊事馬車が肉入りの塩スープを熱く用意して待ってもいる。
「王。王よ。どれほど脱出できた・・・?」
腕の中で、ディネルースが尋ねてきた。自らの手勢のことではないのは明らかだった。
「・・・・・・・・・・・・約一万二千だ」
「・・・・・・そうか」
ダークエルフ族は、虐殺が始まる以前、国境部全体で約七万いた。
残りはその殆どが死ぬか、僅かな生き残りは農奴として北部に連れ去られた。
完全に不意を突かれるかたちで虐殺が始まったゆえに、その犠牲の大半が事変の初期に生じていた。
これほどまでの短期間に、これほどの数の者が一気に死に絶えてしまったのは、エルフ族全体が身体を持ちはするものの一種の精神生命体であって、強い絶望感を抱くと生き続けることを維持できなくなるからだった。
不老不死に近い彼女たちはこれを「失輝死」と呼んでいる。命の輝きを失ってしまう死、という意味だ。時期的にはディネルースが最初に川を越えたころだ。
「・・・・・・すまん。もっと早く気づいてやれていれば」
グスタフは詫びた。
ディネルースはそっと首を振る。そうして襟元の護符を取り出し、気丈に握り、口調を改め告げた。
「我らに救いの手を差し伸べてくださり、感謝致します。そうでなければ、我らダークエルフは滅んでいたでしょう。お約束通り、私ディネルース・アンダリエルの命は、ただいまこの瞬間から王ただひとりのものと思ってくださって結構です。
刹那ほどの間、虚脱に陥るのはグスタフの番だった。
ディネルースの健気さに、静かに牡泣きに泣いた。
白エルフたちを食らい尽くす狂暴な
「ならば汝とその仲間は我が民だ、我が同胞だ、ディネルース、その忠誠に我が全身全霊を以て報いよう」
(続)
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