水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~

蝶野ともえ

一章「沈丁花の遭逢」

 






    一、




 今日、夜空に私が見えるらしい。

 


 梅雨前のからりとした昼間の暑さから一転。夜はまだまだ肌寒くなる季節。

 紅月は仕事帰りでクタクタになった体のまま、顔を上げてネオンが明るすぎる街で夜空を見上げた。今日は月が影に隠れていまう、皆既月食が見られると数日前からニュースで何度も伝えられていたが、どうやらこの街の人々は月の満ち欠けや色の変化には全く興味がないようで、夜空を見上げている人など周りにはいなかった。むしろ、自分が奇妙な目で見られてしまっている。



 地球の影に月が完全に入り込む現象。

 だが、影が落ちるのに黒くはならないらしい。ニュースで理由を詳しく話していたが、紅月はよくわからなかった。そして、やはり自分が夜空で異様な輝きを見せていた。



 赤ワインのような赤銅色の満月が、街を見下ろしている。アルビノの蛇の瞳のようだ。そして、血の色にも見える。赤く染まったその様子はどこか不気味な雰囲気を醸し出している。ホラー映画なら、この月が出た夜はきっと何処からともなく悲鳴が上がるのだろう。



 「……本当に、私と似てる。不気味ね」



 紅色の月。


 まさしく、街で月を見上げる彼女、#紅月__あつき__#と同じだった。

 そして、その存在する雰囲気自体も、似ていると、紅月は思った。


 けれど、それは紅月自らが選んで決めた道。だから、後悔などしていないし、むしろ嬉しくもある。

 あの存在もある種、自分と同じようなでもあるのだから。




 こんな不気味な紅い月が出迎えているのだ。

 それに、25歳になるまであと半年もない。

 だから、何かが起きる。いや、起きて欲しい。この日でなけば奇跡など起きるはずもない。


 そう思っていた。のに、この日も何事もなく自宅に到着してしまう。



 しかし、突然香りが鼻先を掠める。果実のような甘味の奥にあるは深い辛味のある香り。沈香の香り。お香好きの紅月が一番好きな香りだが、それでもとても気高さを感じる。

 


 それは、紅月を誘うように道の先へと続いている。少し古いアパートに到着したはずなのに、紅月の足は自然と夜道へと向かっていた。この先は住宅街が広がっており、いつもなら行かない場所。けれど、沈香の香りがどうしても気になって仕方がないのだ。


 人通りの少ない住宅街の道路。車がすれ違うのにもスピードを落とさないと危険なほど狭い道の奥。そこに何か大きなものが置かれていた。そこはごみ収集場所で、明日は粗大ごみの日なのか沢山の古びたり壊れたりした家具や家電が置かれていた。その中でも一際存在感がある大きいソファがあった。



 海外の映画で、裕福な家庭の暖炉の横に置かれているような、立派な皮製の一人用のウィングチェアが置かれていたのだ。高級感があるようにも見えるが、どうにも中から綿のような、弾力のある資材が穴があいてしまった所から飛び出ている。闇夜のせいでよく見えないが、きっと他も古びているのだろう。

 だが目に入るのはそのソファ古さではない。


 そのソファに座っている、ある男性が虚ろげな表情でこちらを見つめていたのだ。

 神秘的という言葉はこの男のためにあるのではないかと思うほどの、儚い雰囲気の男性だった。白にも見える銀色の髪は、紅い月の光を浴びてうっすらと赤く光っている。それと同じ長い睫毛も艶がある。髪よりも白い肌は青白いのに、唇が今日の月のように真っ赤で、怪しげな雰囲気を醸している。そして、丸々とした瞳も大きく、ショーケースに並んだ琥珀石のよう光ってる。


 夜風に吹かれて真っ白な袴の裾が揺れる。神職の服装のようにも見えるが、羽織は海よりも蒼く、波打つたびに光によって色合いを変える不思議な布だった。



 「おまえ、あと少しで死ぬんだな?」

 「………え?」



 澄んだ声は見た目と同じように美しく、女性とも男性ともとれるような音だった。けれど、紅月は男性だと、何故だかわかる。

 綺麗なものには毒があるというが、彼の言葉は毒のように恐ろしいものだった。

 どうして、自分が死ぬことを知っているのだろうか。何故?と思いつつも、すぐにわかる。紅い大きな満月を背にして神妙な顔でこちらを見る彼は、どうみても、この世のものではないからだ。

 突然目の前に現れた神職の格好の男は、驚きから声を止めている紅月にかまわずに、横柄な口調でそのまま言葉を続ける。



 「恐れなくてもいい。その呪いを退けてやってもいい」

 「呪い………」

 「蛇だな。おまえの心の臓には蛇の体がからまっている。誰にやられたのか、お前が蛇に好かれやすいのかわからないが。それを払ってやってもいい」



 そう言うと、その男はふわりと風のように古びたソファから体を浮かせた。飛ぶ、に近い動きに紅月はやはり彼はこの世のものではないと冷静に判断した。そんな風に落ち着いているのには自分でも驚いてしまう。

 その男は、ゆったりと手を伸ばして、紅月の頬に触れた。その手は花のように冷たく、さらりとした感触だった。そして、その時に彼からは先ほど紅月を誘っていた沈香の香りが漂ってきた。



 「俺もそろそろ消えそうなんだ」

 「それって、幽霊だから……ですか?」

 「幽霊か……。死んだもの全てを指しているのならその通りだが、ただの迷えし魂というわけではない」



 死人と普通に話せる事自体がありえない事のはずが、いたって普通に見えて、声も聞こえてしまうと彼は一見して人間と変わらない。彼は生きているのではないか。話していると、そんな風に思ってしまう。


 「鎮守神。祀られている一定区域の土地を守護するための神って奴だ」

 「どうして、神様が私を助けてくれるのですか?」

 「私にはおまえしかいないからな………」

 「……それはどういう意味ですか?初めて会ったのに……?」

 「……そうだな。まぁ、いいさ。長すぎる時間なのだから」



 寂しげにその言葉を残すと、鎮守神だという男は、紅月の頬に触れても温まることもない冷たい手を離し、またソファへと座る。



 「俺が呪いを払ってやる。その代わり、俺の嫁にならなれ」

 「………よ、嫁っ!?ですかっ?……神様のお嫁になんて普通の女がなれるはずがないですよ。それに、あなたの事を私は知らないのに……」

 「これから知って好きになればいい。俺がいなくなる時はおまえもいなくなる時だ。そうなれば神も人間も関係はない」

 「……それはどういう……」

 「とりあえず、握り飯をくれ。このままだと嫁を貰う前に本当に消えそうだ……」

 「え、神様っ!?」



 好き勝手な事を言ったまま、鎮守神はソファの座ったままずるずると体が丸くなり、ついには頭がひじ掛けのところまで来て、体が落ちてしまいそうなど脱力してしまったのだ。



 「お腹が空きすぎて死にそうだ………」



 もう死んでるでしょ、というありきたりな台詞をどうにか飲み込んで、紅月は困り顔で神様を見つけた。先ほどまで銀髪の彼は神々しという言葉が文字通りぴったりだったが、今はただの青年のようだった。24歳の紅月と同い年ぐらいだろう。



 ごみ捨て場で出会ったのは訳ありの神様。

 そして、神様からの死の宣告と求婚。



 そんな奇妙な縁をもたらしたかもしれない紅の月は、鎮守神の背中でただただ2人を見守っていたのだった。












 「うまいな。お前の作る握り飯は」

 「………おにぎりを褒められましても……。それはコンビニで買ったものなので……」

 「あぁ、あの夜でも光っている店だな。知ってるぞ」



 コンビニのおにぎりを買って目の前の神様に渡すと、3つをあっという間に食べ終えてしまった。初めて食べたというシーチキンマヨネーズの味が気に入ったようで、「今度もこれが食べたい」と上機嫌だった。


 結局、紅月は空腹で倒れそうだった神様の手を引いて歩いた。神様の体はふわふわと浮いており、全く重くはなかったが、神様と手を繋ぐという行為自体が不思議な気持ちだった。

 コンビニの近くの公園は大きく、夜中にランニングをしている人も多かった。

 けれど、おにぎりを膝の上に置いて、神様と話しをしていると、ランニング中の人々に怪訝な表情でジロジロと見られてしまう。

 やはり、神様は普通の人には見れないようだ。




 「それで、どうする?紅月。俺の嫁となって助けを求めるか?」

 「私の名前まで知ってるんですね」

 「神様だからな。……と、言いたいところだが、おまえだから知っている。先ほど話しただろう?俺にはおまえしかいないのだ」

 「その意味がわからないんですけども……」



 女性にそんな台詞を伝えたら立派なプロポーズになってしまうような甘い言葉だが、神様が言う理由は違うのだろう。

 その言葉の意味が、理解出来なかった。

 けれど、先ほど「嫁になれ」とも言われたので、そういう意味もあるのだろうか。



 「矢鏡神社」

 「それって、私が小さい頃住んでいた場所の山奥の……」

 「それは覚えているのか」

 「覚えています。毎日のようにお参りに行っていたので」

 「俺はその矢鏡神社の神だ。その神社がある山や周辺を守る神様って事だ」



 確かに紅月はその神社の事を知っていた。

 昔住んでいた村は山と川に囲まれた田舎にあった。今は実家を出て、その矢鏡神社がある村からは離れた街で住んでいる。そんな紅月を探して、わざわざその神様が目の前に姿を現している。

 どうして、自分の元へとやってきたのか。本当の理由はわからない。

 それに、先程から自分には紅月しかいない、という言葉も気になる。


 おにぎりと一緒に買った緑茶のペットボトルを一口飲んだ後、矢鏡神社の神様は遠くで怪しく光る月を見つめながら話始めた。ここから見えはしない遠い自分の神社を見つめているかのように綺麗は瞳を細めている。



 「あの神社の事を思い出してみろ」

 「えっと。すごく古くて、今にも崩れそうな感じでした」

 「そう。あの神社は死んでいるようなものだ」



 矢鏡神社は村を見渡すように、高い山の中腹建てられていた。

 とても小さな境内で、有名な神社のように立派な作りではなかった。が、それだけで神社が死んでいるというわけではもちろんないのだ。

 廃神社のように、ボロボロで本当に神様がいるのだろうか。そう思ってしまうほど古いのだ。石で出来た鳥居は所々が欠けており、崩れている。本殿は木製であるが、全体的に傾き、木が腐っているようだった。注連縄も古びておりそこから垂れているカミナリ型の#紙垂__しれ__#も4つあるはずが、破れたりどこかへ飛んで行ったりしたせいか、黒ずんだ2枚の紙垂だけが揺れていたのを紅月は覚えていた。

 そんな矢鏡神社を参拝するものはおらず、村の人間をその場で見た事はなかった。



 村の住民に大切にされていなかったのだ。



 そんな事を目の前の彼に言えるはずもなく、言葉を詰まらせる。

 けれど、紅月が飲み込んだ言葉は神様が変わりに答えてしまう。どうやら顔に出ていたようだ。



 「酷かっただろ。もうすぐにでも倒れそうなほどな」

 「それは、そうでしたが……」

 「神って存在は、人間から信仰がなかったり忘れられたらおしまいなんだと。俺の神社を訪れて「ありがとう」って言ってくれているのは今や、おまえだけなんだ」

 「………」

 「だから、だ。おまえに死なれたら、俺も消滅するってわけだ」

 「私が死んだら、神様も消えちゃうんですか?」

 「そういう事だ」



 自分は呪いにかかっていて近々死ぬ。

 そして、私しかお参りをしていない神様も紅月が死んでしまうと、消えてしまう。


 非現実的な事のはずなのに、紅月は「そうなのか」と納得してしまっていた。

 その理由だけは、紅月だけが知っている。



 「おまえも死なず、俺も消えない。そして、こんな美形な神様の嫁になれるんだ。断る理由などないだろ?」



 やはり神様という存在は少し自信家な部分があるのだろうか。

 確かに目の前の神様は人ならざぬ存在であるし、儚く神秘的な美しさと蠱惑的な色っぽさがある。透けるような肌と髪、長い睫毛のせいで少し陰りがある瞳は光がなくても輝いてみえる。

 どこからどう見ても美青年だ。

 

 それに死は怖い。

 その先にあるものも、全てが。


 断れるはずがない。


 「……私は死ななくていいのですか?」

 「あぁ。俺も端くれだとしても神だ。守ってみせよう。俺が守る唯一の人間なのだから」

 「では1つだけ、許してくれるならば。私をお嫁にしてください」

 「なんだ?言ってみろ」



 この1つは、きっと1つではないだろう。

 だからこそ、話しておかなければと思った。

 神様に知られてしまう前に。



 「私は1つの嘘をついてます。それだけ、お許しいただければ、その条件をぜひ飲ませてもらいます」



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