挿話 異人ルーカス・バンドン
ルーカス・バンドンと名乗った男を召喚した時、世にも名高く魔術師の王と目され、グルと尊称をつけて呼ばれるアグリッパ・コルビナスは、シタデルの
シタデル最高運営委員会には報告できない実験。
禁断の秘術である至高存在の召喚だ。難解な数式が書かれたメモが床に散乱し、魔術式を描いた大きな紙が壁を埋め尽くしている。
焼け跡だらけの大理石の床には、黒く変色した処女の血で精密に描写された魔術陣が微光を放っていた。
魔術陣の中心に立ったアグリッパは、精神集中して魔力を詠唱に乗せ、イマジネーションで
紡ぎ出す詠唱は、中空に波紋を描き、さざ波が広がるように室内に漂った。
魔術師アグリッパの外見は、若々しい青年であるが、実際はもう二〇〇年近く生きている
魔術陣の中に微風が舞い始め、バチバチと小さな稲妻が床から放電された。空気に初夏の雨あがり後のような匂いが漂う。
すでに数時間、魔力を注ぎ込んだため、疲労の極みだが、彼は最後の呼びかけを絶叫した。
「YHVHよ!」
その瞬間、魔術陣が爆発し、その勢いでアグリッパは凄まじい勢いで壁へ弾き飛ばされた。
一瞬、眩い光りが部屋に溢れたかと思ったが、すぐに光りは収縮し、代わりに真っ黒な円形に切り取られた空間が現れた。
「やあ、どうも」
場違いな挨拶をしながら、黒い空間から足を踏み出してきたのは、濃紺のストライプが入った背広に派手な柄のネクタイを締めた、燃えるように赤い髪の男だった。
男が部屋へと全身を踏み入れると、黒い空間はあっという間に縮小し消滅した。
後に残されたジバンシーの鼈甲柄サングラスをした男は、爆発で破壊され粉塵が立ち込める室内を見回し、壁際で倒れ込むアグリッパを見つけた。
「おっと、これは申し訳ない。怪我はないかね」
そういい、アグリッパを助け起こし、服の汚れをはたいて落してやる。彼はしきりに咳き込みながら、
「ゴホッゴホッ、やったか。また失敗なのか? ゴホッ」
あわただしく問いかけると、サングラスとスーツ姿の男は肩を竦め、
「失敗したとはなにかね。第一、まったくこの状況が分からないんだが。説明してくれんか」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
別室で向かい合った二人。
壁は高い天井まで書棚で占められ、入り切れずに床に無造作に積み上げられた乱雑な分厚い本の山。
くたびれた革張りのソファにゆったりと腰をかけ、足を組んだ男は、優雅な所作でアグリッパが淹れてくれた紅茶のカップを摘まんでいる。磨き込んだグレンソンのドレスシューズのつま先がブラブラしていた。
染み一つない爪先に眼をやり、アグリッパは苛立たしい気持ちを抑えながら、男が口を開くのを待った。やがてテーブルのソーサーに紅茶カップを置き、背中をソファに預け手を組んだ。
「では、改めて。わたしの名……うーん、ルーカス・バンドンとでも呼んでもらおう。別の世界では別の名前で呼ばれていたがね。仕事は、そうだな、いうならばコンサルタントといったところかな。それで、君は何者だい?」
アグリッパは、召喚したかった相手とは違うことに内心がっかりしながら、
「なるほど。わが名はアグリッパ・コルビナス。魔術都市シタデルの
ルーカス・バンドンと名乗る男は試すような眼つきになった。
「聞いたことがないな、魔術都市シタデルとは。どこかね?」
「アヴァタール東方世界アルナティカ。その東南、
ルーカス・バンドンは驚いた顔になった。
「アヴァタールね! ますます聞いたことがない。マルチバースの中のひとつか。なぜ、わたしが選ばれたんだろう?……」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから三昼夜、彼らはいろいろと話し合った。
「ふーん。この世界はなかなか面白そうだな。わたしもいろんな世界を見て歩いたが、魔術が幅を利かせる世界なんてのは、そうそうなかったよ、アグリッパ君」
「バンドン師よ。あなたのような卓越した超能力者でも、このアヴァタールのような世界は見聞されておられないのですか」
いつの間にかへりくだった口調へ変わったアグリッパが答えると、バンドンは芳醇なワインを飲み、片目を瞑った。
「わたしは神々に許されて、多次元世界マルチバースを渉猟するだけ。長い退屈な人生だからこそ、このアヴァタールなる世界には興味を惹かれるのさ」
「それです!」
アグリッパはバンドンの言葉に飛びついた。
「神々。多次元世界マルチバース。おお、世界にはなんと驚異が満ちていることか! バンドン師、それを教えていただけることはできませんか?」
バンドンは笑い声をあげた。
「神々もマルチバースも、いうなれば、輝かしいダイヤモンドの何億もカットされた面のひとつ。ダイヤモンドから放たれる光りこそが不滅なのさ」
「その光りとはなんなんです?」
バンドンはワイングラスをテーブルに置いた。
そこはシタデルの海沿いにある高級レストランだ。茫漠と広がって、絶え間なく波打つ紺碧の海を見渡される席で、ふたりは料理を堪能していた。
バンドンはふたたびクスクスと笑い、美しく盛り付けされた牛のフィレを切り分け、ナイフの先を、身を乗り出したアグリッパに向けた。
「君も持っているものだよ、アグリッパ君」
アグリッパは焦らされて膨れっ面になった。
「教えてください、バンドン師」
「フフッ。それは魂さ。霊体ともいうがね」
「魂!?」
「至高の存在が管理する
しばらく打ち寄せる波の音と、バンドンが美味な肉を咀嚼する音だけがあった。
バンドンはナプキンで口を拭い、冷たい水を含んだ。
「君が持っているその赤い石は尋常なものではないな」
深く考え込んでいたアグリッパはビクッとした顔に変わった。
「ご存知でしたか」
「その赤い石、ただの便利な石ではないんじゃないかと感じるよ。マルチバースへの鍵でもあるとわたしは睨んでいる。まさに神々からの賜り物だろうな」
「この石、
バンドンの目がきらりと光った。
「ほう、”マザー”」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
シタデルの中心。
高さ三〇メルテの堅固な壁に囲まれた内部に、それは永劫の昔から鎮座していた。未知の物質で作られた真っ黒な外殻は継ぎ目もない。陽の光に反射しても熱を帯びることなく、触るとヒンヤリと感じる。
その名はキューブ。
正四面体であるキューブは、地面に僅かにめり込んで、一辺の角を天に向けた状態で聳え立っていた。常に静かな振動波を発し、周囲の空気がやや歪んで見える。それは不可思議なエネルギーがキューブから漏れ出ているためだという。傾いた一面には後付けの建物が接合され、そこからキューブ内部へと入ることができるようになっていた。
その中から、異能の漂着者ルーカス・バンドンと魔術師アグリッパ・コルビナスが姿を現した。ふたりは無言のまま、一言もかわすことなくシタデルの街路を歩き、魔術師たちの根城である、
バンドンの手には、赤く煌めく石が握られていた。彼はそれを手のひらにから摘み揚げ、陽の光に透かしながら礼をいった。
「君のお蔭で、”マザー”からチャムシルを授かることができたよ。ありがとう、アグリッパ君」
「まさか、超能力、六具神通の所持者とは思いませんでした」
「ながく生きているといろいろあるのさ」
「やはり、あなたは凄い方です」
「まあ、あまり使わないけどね。面白くないだろう、人生出たとこ勝負だよ。さて」
異人ルーカス・バンドンは、立ち止まった二人の周囲をなぜか大きく避けて往来する人々に眼もくれず、右手を差し出した。
「これでお別れだ、アグリッパ君。わたしはこのアヴァタールを見て歩くつもりだ」
アグリッパはかねて聞いていたとおりで、衝撃はなかったが、別離の悲しみは変わらない。それでも、バンドンの差し出した手をがっしりと握った。出会って間もないが、すべてを研究し尽くし、全智を極めたと驕り昂ぶった自分を驚嘆させたこの異人に傾倒していたのだ。
「どうか、御無事で。バンドン師」
「うん、大丈夫さ。おっと、このチャムシルはなにかの飾りにでも使ってみようか」
そういって彼は懐に石をしまった。
あらためてアグリッパに向き合い溜め息をついて告げた。
「アグリッパ君。これは友達への別れとしていうが、君の探し求める至高存在へのアクセスは、君がいまから旅立つアヴァタールの
アグリッパは驚いたが、すぐに満面の笑みへと変わった。
「ありがとうございます! 行きますとも、死は障害ではありません。求めたものに辿り着けるなら」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
シタデルの西門。
旅装束を整えた二人は、なにごとか話し合い笑いながら途中まで共に歩いて門を出た。やがて分かれ道に至ったふたり。
魔術師アグリッパ・コルビナスは
多次元世界から漂着した異人ルーカス・バンドンは
お互いに手を振って、それぞれの人生へ歩き出した。
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