第2章 北の果て 第1話
陰鬱に垂れる灰色の雲の下、厚く雪に覆われた森。
地平までびっしりと聳え立つ大きな木々。黒い樹皮の幹は、大人が腕をまわしても届かないほどだ。ここは北極圏に近い雪と氷の大地。
アヴァタールの北方世界。
万年雪がこびりついた岩山が、硬い葉の針葉樹の間に点在する荒野。
そんな森のまばらな枝から覗く大岩がある。
切り立った大岩の表面は鋭く尖り、積もった雪は固い氷の刃と化している。
咽び泣くような風が吹きつける頂きに、黒い毛皮のマントをきつく掴んで寒さに耐えるヒトがいた。
大人が三人も立てば、誰かが落ちそうな狭い頂上。
落ちないように、じっとしている。
どうやら旅人らしい。足元には大きなリュックが転がっていた。
旅人はまだ若いようだ。
フードを被った中から、寒さで赤くなった頬と、赤い鼻が見える。まだあどけない雰囲気だった。彼はよく動く黒い眼で下を覗きこんでいた。
眼下の脅威。
怯えて窺う大岩の麓には、雪原の猛獣である
ここまで若者は、野獣に見つからないよう用心しながら、大森林に入ったが、すぐに嗅ぎつけられてしまった。いきなり襲われ、乗って来た馬も食糧の大半も食い尽くされた。
だが、すぐに
そして北極圏の吹き荒ぶ極寒のなかで半日過ごしたが、諦めてどこかに行ってくれるかという淡い期待と裏腹に、しつこく徘徊して、どうしても離れていくことはなかった。
旅の若者はアイザックという。
この北極圏の遥か南、
極北辺境との取引は、古来より、北の大国エルメルナスの富商たちに独占されており、北方三公国の商人たちはそのおこぼれに与かるくらいの程度で長年苦汁を嘗めてきた。
国境の海、シュルンベルジュ水道を通じ、エルメルナス領内を通行することのない西方の山脈、前人未踏のオリュンポス大山脈の麓を通るルート。その未開のルートを開拓するよう社命を受けて、辺境まで足を運んだのだった。
散々苦労した挙句、シュルンベルジュ水道西岸の、あまり使われることのない良好な抜け道を見つけ出した。アイザックはその道を辿り、首尾よくある村でそれなりの取引をまとめることができたのだった。
その時、さらに北極圏の奥には神秘的な部族がいて、珍しい産物を持って到来することがあるという話しを耳にした。
せっかくここまで来たのだからと、案内を雇い、わざわざ足を延ばしてきたのだ。だが
「くっそー! 熊公め」
足元の雪を丸めて投げつけるが、激昂した
アイザックの腰には、護身用の短剣がぶら下がっているが、何の役にも立たないのは明らかだ。いよいよとなれば、足元の大きなリュックを投げ落とし、大白熊が注意を引かれている隙に、森へと逃げ出そうと決めていた。もし追いつかれたら、短剣で少しでも抵抗してやるつもりで。
――せっかく、ここまでこの世界に慣れたのに。
そのとき、
突如、風鳴りを圧倒して、大きな音が嚠々と鳴り響いた。
ブォォォーーー!!
ブォォォーーー!!
ブォォォーーー!!
三度めが鳴り終わる前に、巨体から想像できないほど素早い動きで、大森林の中へと姿を消してしまった。
呆気にとられたアイザックだったが、ようやく命拾いしたのだわかり、その場に座り込んでしまった。
「助かった……」
ハッと気を取り直した彼は、下を覗き込んだ。
よくよく見ると、大森林の黒い針葉樹の間から、人影が彼に向かって手を振っていた。
慌ててアイザックは手を振り返し、重い大きなリュックを背負うと、転げ落ちないように気を付けながらできるだけ急いで大岩から降りた。
駆け寄ったアイザックは、助けてくれた人影の間近になって、さらに驚いた。
背丈は2ルーデを越えているだろう。1スパン半もないアイザックにすれば巨人のようである。
(※アイザックの出身国ハンスターが属する
乱雑に切り揃えて伸び放題の黒髪のしたから、北極圏の空のように蒼い眼で彼を見ている。無精髭の生えた頑丈そうな顎に太い首、分厚い身体を黒革胴衣で包んでいるが胸板の厚さは隠しようもない。杖代わりに長い槍を持った腕もアイザックの胴回りほどもある。黒いマントを羽織り、背には何枚もの巻いた毛皮を担いで、腰帯には重そうな斧を手挟んでいた。
もう片方の手には、首から革紐で吊るした角笛を持っていた。さっき鳴らしたのはこの角笛のようだ。
「Hei、Hei! kom igjen、hvisi du jager bort bjørnen og redder den、 er det en sa liten person!」
(おいおい、熊を追っ払って助けてみれば、こんなに小さい人だったのかよ!)
アイザックは荷物を下すと、丁寧にお辞儀をした。
「あのぉ、どうも助かりました。ありがとうございます……。って共通言語は解りますか」
「Å du er fremmed fra sør。
(ああ、共通言語なら分かるぜ……。)
あんた、南から来たヒトだな?」
「ああ、よかった。僕、アイザックと申します。北方公国ハンスターの旅商人です」
黒髪の巨漢は、疑わしそうな眼で彼を見ている。
アイザックは慌てて、懐から薄い銅のカードを取り出し、巨漢に手渡した。巨漢は薄いカードを折ってしまわないように気を付けながら、カードのの表面に彫られた文字をしげしげと眺めた。
《ゲックス商会購買部開発担当主任
アイザック
3-4-20 レンドルフ通り、コノート市、ハンスター国》
「なんだ、こりゃ?」
「あ、僕の名刺です!」
「ふーん。これ、貰っておいていいのか?」
「もちろんですよ。ご贔屓にお願いします」
黒髪の巨漢は腰ベルトの隠しに名刺を仕舞った。そしてニヤッと笑った。先ほど仏頂面に比べると意外に愛嬌のある笑顔だ。
「あんた、運が良かったな! 奴らは冬眠明けで死ぬほど腹を空かせてるからな!」
アイザックは何度も頷き、大きく手を広げた。
「ほんとに生きた心地しませんでしたよ! ……で、あのぉ、命の恩人のお名前はなんと仰るんですか?」
黒髪の巨漢は、針葉樹の枝に積もった雪が落ちるほどの、咆哮のような呵々大笑をした。
「ハハハッ! 俺の名はアレン・だ。コナー・ゴルディドラグの子、アレンだ。よろしくな」
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