御等野亜紀の短編集

御等野亜紀

雪降る夜に

雨のように細かく重たい雪が降っている。これはみぞれに変わるだろうなと思いながら仕事の帰り道を急いだ。


駅は渋滞してて電車は3時間遅れで動いているみたいだ。

「3時間遅れか…なら歩いても同じかな」


私は背広のネクタイを緩め、コートの襟を立てて歩き始めた。電車で立ち続けるのと家まで歩き続けるのとどちらが楽かはわからない。ただ、一人でいる時間が欲しかったのだ。


今日はひどかった。朝のコピー機の故障の修理から始まって、些細なミスをおかしてしまい延々午前中はそれてのお叱りで終わった。当然仕事は溜まり、午後は超特急でこなさなくてはならない仕事が山積みされ、ミスをする余裕も無いのでそれはそれは細心の注意をはらい神経を集中して仕事に取り組んだ。


今日は怒られたがもともと仕事はできるほうの私だ。こんな雪の日に残業する気も無く、ただひたすらに片付けた。もちろん片付け終わってからの帰宅である。


朝のコピー機がまずかった。最初から業者を呼ぶべきだった。こんな雪の日に呼ばなくても後日…と情をだしたのがいけない。手は完璧に洗ったつもりだったが、服についたインクの粉に気付かなかった。それが書類を駄目にしたのだ。


もとい今時、カードリッチの粉インクなんぞ使うコピー機を使うほうが悪い。あれはもともとが故障をしやすいのだ。今ならコピー機も液体インクが主流だろう。うちみたいな小型な印刷機兼用のレンタルコピー機なのだから。


だが一人で歩きたかったのはそんな面白くないことがあったからだけじゃない。定時に終わるのが5分遅れた。その5分を私の彼女は待てずに、さっさと友人と帰ってしまったのだ。


今日は雪が降るから外でのお祝いを止めて家で手料理を振舞ってくれる約束だったのだ。私の26になる誕生日だった。そんな日に失敗したりふられたり、ろくな日になったものだ。私は少し皮肉った笑いを浮かべ少しだけ立ち止まる。パン屋が見えていた。こんな日でも営業しているみたいだ。夕食もいるし立ち寄る事にした。


もう売り尽くしのパンばかりだろうと入っていったら、調度店主らしき人がパンを持ってでてくる。出来立てのパンのいい香りだ。私は思わず聞かずにはいられなかった。


「こんな時間までこんな日にパンを焼いて売れるのかね?」

店主はとても優しい笑顔で答えた。紡がれた声は女のものだった。すこし驚いて顔をまじまじと見る。ごつくでかく一見男に見えるが確かに女の人だった。

「こんな日のこんな時間だからパンを焼いてるのさね。これから電車は止まり駅から人があふれ泊まる場所も無くふらふらと歩いてくる人達がくるんだ。せめて出来上がりのパンでお腹をふくらませてやりたいのさ」


ああ、女の店主だからなのかな。それとも元来の人間性か。私は目を離さずにいられなかった。

「びっくりしてんだろう?私が女だったもんだから。器量も体形も男と間違うようなそれしか神様はくれなかったが、パン作りの腕だけは男にも負けないものを下さった」

「それもびっくりしているが考え方にな。まるで天使か仏のようだ」


店主が笑う。少しだけ女っぽさが垣間見えた。私はできたてのパンを買い帰路に再び足を運んだ。そして私は二度目のびっくりをすることになる。自分のマンションの自分の部屋が明かりが点いている。不法侵入者か?急いで部屋に向かった。


外においてある傘を片手に入っていくと彼女だった。俺はびっくりした。

「合鍵なんて渡してないはずだが…」

彼女は笑って答えた。

「一緒に帰ったにも関らず。仕事でぐでんぐでんにへたばって寝てしまった夜にそーっと作らせてもらいました。次の日休みなのに昼の3時まで寝てるんだもの」


私は頭を抱えた。そんな日もあったような気もする。だがもっとしとやかな女だと思っていたのになかなかしたたかなところがあるものだ。そしてふっと思いついて聞いてみた。確か友達と帰ったと聞かされた。


「友達なら駅まで一緒に帰ったわよ?後はこれは駄目だと思ってタクシーとばしたの。伊達にお嬢様はしてないんだから。食材も休みの間に買って置いて正解よね」

それを言われて私は急ぎパン屋の話をした。帰り道歩きながら1/3は食べてしまっていたからだ。食べれないわけでもないがお腹は空いていない。それを聞いた彼女は迷わず食器を片付け始めた。ためらいさえしなかった。


「私にもその天使のパン頂戴。私が作ったものは明日暖めなおしてたべましょう。そろそろ泊まっていってもいいでしょう?手をだせとは言わないから」

「お前のようなお嬢様は私には不釣合いだから手をださないように合鍵も渡さなかったんだ。勝手に人の予定狂わせて…手をだしたらどうする?」


「構わないけど?お嬢様だと思ってる間はちょっと悲しいかな。せめて立ち位置が同じになってからにしてよ?」

「いくら私がいい大学をでているからと言ってもこの若さで出世コースに乗っかるのは並大抵じゃないんだぞ。お前の親父様の条件が厳しすぎる」


「んじゃ、ふたりで駆け落ちでもする?」

おれは彼女を見やる酒は入ってないよなぁ…。いつも大抵大人しいのに今日はえらく大胆ではねっかえりが過ぎる。でもこんな一面もあるんだなと私は微笑んだ。

「いや、乗り越えるさ。お嬢様から惨めな思いはさせたくないし、私は一人だ。お前と公で結ばれれば誰もが逆玉だと羨ましがるだろう」


「そうね、人の努力なんて、気付きもせずに誰もが羨ましがるでしょうね。でも私だけはその努力を知っているわ。忘れないでね。パン美味しかったわ。焼きたてだけじゃないよね。これ」

「神様からいただいた職人の腕らしいからなぁ。私の寝室を使うといい、私はここで寝るとしよう。先に風呂入って来い。着替えがなくてかわいそうだが」


「風呂よりも一緒にいる時間のほうが大切。もう少しこうしてよう」

「人を置いて帰ったくせに。どんな思いで帰ってきたとおもう」

「ふられたとでも思った?」

「完全にな。合鍵を黙って作るのはやりすぎだ。せめて報告ぐらいしとけ」


「ごめんね」

その日私は彼女の最高の笑顔を見た。


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