フィルタリング・スカイ
須藤しじま
フィルタリング・スカイ
透き通った青空はまどろむようにマジックアワーに落ちていく。昼でもなく夜でもない色。どちらでもない空があることを彼女が意識したのはその時が初めてだった。スマートフォンの向こうに広がるSNSには白と黒しかなかったし、それに、顔を上げて空を見上げたこともなかったから。今、彼女はファミレスの窓際席に座っていて、テーブルの向こうには彼女の親友のレイがいる。二人は黙って窓の外を眺めていた。無音の空間に、彼女は「キレイだね」と声を放つ。その声が届いていないのか、レイは何の反応も示さなかった。不意に、記憶が沈黙をやかましく満たして、彼女はレッスンで聞かされた言葉のひとつをそこに見つけた。ゼロは無ではありません。カウンセラーが何を言いたいのか、その時の彼女には理解することができなかった。
彼女の世界から音が消える前からAの世界には音がなかった。子供は見た目の違いならなんでも笑いの種にする。Aは耳の不能を補うために耳殻から側頭部へと伸びたタコの足にも似た人工内耳システムを装着していたから、それがクラスの他の女子や、女子の気を引きたい発情期の男子たちのエサにならないはずがなかった。彼女はその中にいた。彼女が先陣を切った。初めは些細なことだった。Aの横を通り過ぎる度に小声で言うのだ。キモ。それだけのこと。それだけのことでも子供たちは笑った。箸が転んでも子供たちは笑う。
Aには何も聴こえていないようだった。子供たちが何より嫌うのは自分たちが相手にされないことだ。言葉が増えた。うざい。バカ。帰れ。邪魔。死ね。身障。ガイジ。消えろ。けれども何を言われてもAは反応を返さない。聴こえているはずではあった。可聴の程度は誰も知らない。それでもAが特別支援学校ではなく一般的な公立校に通っていること、健常者のクラスメートに混じって授業を受けていることは誰でも知っていた。確かにAの耳は聴こえていたし、そのための人工内耳だった。声をかけても大抵は反応することがなかったが、ちょっとした頼み事や連絡なら少し離れていても反応する。彼女や子供たちにはひょっとしたらそれを恐れていたのかもしれない。Aは聴覚を完全に統御しているように見えたのだ。拾いきれない全ての音を拾ってしまう自分たちの聴覚システムと違って。的から敵へ。Aはいつしか子供たちの敵になった。もう言葉だけでは済まなかった。言葉は聴こえなくても目は見える。Aが腰を下ろそうとした瞬間にその椅子を引き抜いて、窓の外に投げ捨てようとした時に、レイは彼女に言った。もうやめた方がいいと思う。今、聴こえていないのは彼女の方だった。見えていないのも彼女の方だった。彼女は椅子を投げ捨てた。
彼女はそれを鳴り止まないLINE通知で知った。子供たちの不安げな気遣いがかえって彼女を動揺させた。添えられたリンクの一つから飛んだ先で、彼女はAの人工内耳が拾ったすべてを耳にした。インターネットに反響した言葉はまるで他人の言葉のように彼女には聴こえた。それから、ツイッターの通知が止まらなくなった。タイムラインには言葉が溢れていた。世の中のすべての呪詛が自分に向けられたようにその時の彼女には思えた。子供たちが逃げるようにLINEから離れた後で、入れ替わりに入ってきたレイのメッセージ、たった一言の「大丈夫?」でさえ呪詛だった。彼女も呪詛を返した。たった一言、裏切り者。
事実は眠れない夜の間に彼女が怯え、嘆き、憎んだものとはまるで違っていた。その頃にはAを攻撃した子供たち全員の名前と顔写真がその罵倒や嘲弄の言葉と共にインターネットに放流されていたから、朝のホームルームで教壇に立つ担任教師の顔にはありありと苛立ちの色が見えた。クレーム電話の対応で言葉も枯らしてさえいなければそんなことはさせなかっただろう。担任教師が言葉を探っている内に、Aは自ら説明役に志願して、後の言葉はAが続けた。Aの説明はごく短いものだった。Aの人工内耳システムにはAIフィルタリング機能と録音機能、無線通信によるクラウド同期機能が内蔵されている。Aはフィルターが弾いた有害な言葉をリアルタイムで聴くことはなかったが、それは全て録音されていたから、自分がいつ何を言われたかは全て把握していた。だから、彼女が一線を越えた時に、Aは手にした音を全てをSNSに放流することにした。それが何を意味するかをAは知っていたし、自分の力も知っていた。「声紋鑑定でわかります、もし私を恨む誰かが私を攻撃すれば。それでも構わなければどうぞ」
それから、子供たちはAの周りに群がるようになった。再び言葉が溢れた。見え透いた行動だった。今度は良い言葉を拡散してもらおうとしたのだ。彼女の周りに残ったのはレイだけだった。レイの沈黙は彼女を苛立たせた。その行動は彼女にはレイの優柔不断に見えたから。アカウントをいくら作り直しても特定されて、また同じ無責任な非難の言葉で溢れかえるタイムラインの、追い切れない、追う必要もない文字列をどうにか捉えようと、捉えて叩き潰して、振り切ろうと、無意味なタップを続けながら、彼女は徒労のはけ口をレイに見出す。なに? あんたもあっちに行けば? つか邪魔なんだけど。その言葉は、パーソナルイヤフォンを介さなくても彼女の脳に今でも記憶されている。レイは何も言わずに、ただ彼女の傍らに居続けた。
彼女が授業に出席することもなくなった頃、スクールカウンセラーは彼女に認知矯正プログラムを提示した。数週間のレッスンは授業日数にカウントされる。クラスの子供たちと顔を合わせる必要もなかったから、彼女は決して乗り気ではなかったけれど、両親の勧めもあって断ることはしなかった。最初のレッスンで彼女は自分を三人称で呼ぶことを求められた。私から私を引き離すこと。彼女は教室で彼女の日記を書いた。講師は日記に目を通すと、文体を可能な限り過去形に変えるよう指導した。私を私から引き離すこと。その夜、彼女は一人で泣いた。洗脳だと思った。その惨めさは、彼女を世界への復讐に駆り立てた。堕ちるところまで堕ちればいいのだ。数週間後、洗脳されてすっかり変わり果てた自分を見て、両親も、担任教師も、クラスの子供たちも、Aも、SNSの暴徒たちも、レイも、誰もが自分の罪を自覚するに違いない。彼女は彼女の日記の課題に打ち込んだ。そうしている間はSNSを見なくて済んだから、好都合だった。
次のレッスンで彼女はゼロを学んだ。ゼロは無ではありません。ゼロの定義はゼロ以外の数字ではない数字です。1は1以外の数字ではない数字。2は2以外の数字ではない数字。そしてゼロはゼロ以外の数字でははない数字。全ての数字は他の数字ではない数字です。全ての数字は他の数字では代替不可能な数字です。1と2に概念上の優劣がないように、1と0にも優劣はありません。その全てが同じ価値を持ちながら他のどの数字とも交換することができないものが数字です。ゼロと1は全く同じで全く異なる数字です。そのレッスンは彼女を少なからず困惑させた。彼女が抱える当座の問題とは何も関係しないように思えたからだった。けれども、そんな話をただ聞くだけのレッスンなら歓迎だった。楽だったし、本当のことを言えば、洗脳に対する恐れは依然としてあったのだ。
三度目のレッスンで彼女はパーソナルイヤフォンを渡された。その日のレッスンはパーソナルイヤフォンの使い方の説明だった。AIフィルタリング機能と録音機能、無線通信によるクラウド同期機能。それはAの人工内耳システムと同じ機能を持った、健常者用の劣化版だった。レッスンでは彼女はただ講師の説明に従った。家に戻ると冷静ではいられなかった。イヤフォンを壁に投げつけて、LINEグループでただ一人既読が付くレイに憎悪と嫌悪の入り交じったチャットを打つ。打とうとした。彼女の指が止まった。頭の中で組み立てた彼女の文章と、指が打ち込もうとしている文章が食い違っていたからだった。そのときに、彼女は彼女の中に彼女と私がいることを知った。私を彼女を止めることができることも。私が投げ捨てたイヤフォンを彼女は拾って、装着した。ノイズキャンセリングが彼女を音世界から締め出した。依然として音世界に留まる私の鼓動だけが無音世界の彼女に聴こえた。Spotifyで音楽を聴こうと思った。スマートウォッチと連動すれば、聴取時のバイタルデータから好みの音楽を算出して、自動でプレイリストに追加してくれる。それが面白くて何時間も音楽に浸っていたから、彼女は彼からの電話になかなか気付くことができなかった。
カラオケの喧噪が彼女には懐かしく思えた。無音のカラオケ店は汚らしさばかりが目につく。廊下から見える声のない熱唱は滑稽だった。何が面白かったのだろう、と彼女は思った。ほんの一ヶ月前まで彼女は彼や子供たちとそこに入り浸っていたはずなのに。部屋に入ると彼はらしくない深刻な面持ちで話し始めた。イヤフォンが刻んだ言葉の断片を聴く限りでは彼女を心配しているようだった。その心配の下心を見抜けないほど彼女は初心ではなかったけれど、見抜けないと思わせた方が言葉は引き出せた。彼女はその言葉が好きだった。その彼女は今では遠い私だった。
彼の手がAVでよくやるように下着に滑り込んでも彼女は以前のようには彼を感じることができなかった。ワンテンポ遅れて耳に届くフィルター越しの彼のエロティックな言葉は冗談にさえ思えた。そのとき、彼女は二人を包んでいた情熱が音であったことを理解した。息づかい、あえぎ声、愛のささやき、肌と肌の衝突、衣擦れやベッドのスプリング、廊下や階下から聞こえる誰かの足音、ドアのノック。大小無数のノイズによる酩酊。セックスは音の洪水への没入だった。少なくとも彼にとってはそうだった。彼女にとってはもう、そうではなかった。
レッスンはまだ残っていたが彼女は授業に出席することにした。子供たちのざわめきは気にならなかった。イヤフォンが雑音として全てクラウドのゴミ箱送りにしていたからだ。乳幼児は食べられるものと食べられないものを区別することができない。雑音だらけの音世界に生きる子供たちも同じだった。どの音を聞くべきか、あるいは発するべきか判断できない子供たちと一緒に音を食い荒らしていた素朴な時代が私にもあったことを、彼女は信じられなかった。授業の用意をしていると、レイの声がフィルターを通過した。「大丈夫?」それが、彼女には彼の言葉と同じように聞こえて可笑しかった。レイは彼女の笑いに困惑しているようだった。まだ、子供たちの中にいるのだ。
学校に戻ってからはAとは何度も顔を合わせる機会があったが、Aは彼女に何も言わず、何の表情も向けなかった。その代わりAは時々事務的な要件を手話で彼女に伝えた。今や単なるクラスメイトで、笑うこともプライベートな話をすることもなかったけれど、それでも彼女は他の誰よりもAに親近感を覚えた。Aが手話を使うのは彼女に対してだけだった。彼女は手話ができなかったが、それが認知矯正プログラムに組み込まれていることをAは知っていたのだろう。その素っ気ない身振りはかえってAの彼女に対する奇妙な信頼を表しているように彼女には思えた。無音世界では信頼の形も違っていた。Aの手の動きは美しかった。水族館の魚のようでも、風にはためく洗濯物のようでも、想像上の陶芸のようでもあった。無心に母親の乳を求めるような彼の幼稚な手の動きとは違う。
彼女はそれを理解したいと思ったから、レッスンも再開することにした。手話のレッスン。読唇術のレッスン。そのうち彼女もAの無音世界に到達することができるだろう。いつのまにかSNSも見なくなった。それは音世界の子供たちが無音世界によじ登ろうとする蜘蛛の糸だった。久しぶりのファミレスに誘うレイからのLINEもその一つだった。
「聞こえなかった? ねぇ、なんか言ってみてよ。読唇術、試してみたいんだ」日の名残はそろそろ消えて、やがて暗闇が辺りを覆う。ビルや家々、コンビニや街灯の目が開いて夜にしか見えないものを見るだろう。昼にしかないもの。夜にしかないもの。ゼロは無ではありません。それから、レイが慎ましく口を開いた。彼女の読唇術はまだ未熟だから、イヤフォンのフィルターが有害か無害か判断する前に、その強ばった口の動きを完全に読み取ることはできなかった。どちらだろうと思った。違いの僅かな三文字の言葉、キレイと、キライと。
フィルタリング・スカイ 須藤しじま @SijimaSudooo
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