三③
「あの、島崎先生」
「何ですか?」
「座っても、いいですか?」
章子さんは涼やかな声音を緊張に震わせながらそう尋ねてきた。僕は予想できなかったその言葉に一瞬だけ目を丸くするも、すぐに破顔し言葉を返す。
「どうぞ」
僕の言葉を受けた彼女は、僕が座っていた席の前に座る。静かな教室内に、今僕は彼女と二人きりだ。
そう意識した瞬間、僕は一瞬で執筆に集中できなくなるのだった。
どくどくと脈打ち出した心臓の音に耳を澄ませながら、僕は執筆に集中しているふりをする。もう僕の意識は完全に章子さんにあった。彼女の視線を意識するだけで、僕の胸は焦がれるように熱くなる。
僕はこの状況を打破するように、努めて冷静な声音で章子さんへと声をかけた。
「あの、章子さん……」
「へっ?」
僕の呼びかけに章子さんは驚いたのか、声が裏返ってしまっていた。そんな章子さんの様子に今度は僕が驚く。
「ど、どうかされましたか?」
「先生、あの、私の名前……」
「え? お名前、間違っていましたか?」
しどろもどろに返された章子さんの言葉に、僕は目をしばたたかせた。
もしかして、名前を間違えて覚えてしまっていただろうか?
不安に襲われる僕に、章子さんは少し顔を赤らめながら口を開いた。
「いえ、間違っては、いません……」
そしてそれっきり、章子さんは顔を赤らめたまま俯いてしまう。
名前が一体何だったというのだろうか?
僕はそんなことを疑問に思いながら言葉を続けた。
「章子さんは今日、逃げずにこちらに来てくださったんですよね」
ありがとうございます、と笑顔を向けると、章子さんは美しい切れ長の瞳を丸くする。
そうしてゆっくりと言葉を選ぶように紡いでいった。
「あの、私別に、先生から逃げていた訳ではないんです。ただ、若い大人の、男の人に、どう接したら良いのか分からなくて……」
もごもごとそう口に出す章子さんの顔は耳まで真っ赤だ。ここに来て僕は、ようやく先程の章子さんの態度に合点がいった。
章子さんは、うぶなのだ。男性に対する免疫がほとんどない。そんな折、僕が彼女の名前を突然呼んだのだ。しかも佐藤さん、ではなく、章子さん、と。
ご両親や級友たち以外の、しかも年若い男に名を呼ばれ、章子さんは驚いたに違いない。
そこまで考えて、僕は彼女に少し悪いことをしてしまったかな? と思うのだった。
この日を境に章子さんは放課後、よく僕と一緒に二階のいつもの空き教室に顔を出してくれるようになった。
放課後のこの時間、僕たちは様々な話をした。
友人、家族、趣味や将来の夢など。
冬は日が落ちるのがとても早い。
僕たちは毎日、教室の中が薄暗くなるまで話し込み、帰りは章子さんの自宅である神社へと、送り届けるのが僕の日課となるのだった。
そうして日々を過ごすも、その日々は長くは続かなかった。
僕と章子さんの関係は学校を飛び出し、町中の噂になってしまったのだ。
最初の噂は、勉強熱心な教師と生徒だった。しかしすぐにその内容には尾ひれ背びれが付いていき、あることないことが広まっていくのだった。
最後には、僕たちの関係は邪推の対象となり、僕は校長に呼び出されることとなった。
「失礼します」
「あぁ、島崎くん。待っていたよ」
校長は苦い表情で僕を迎え入れてくれる。僕は校長が座っている机の前まで行くと、そこに立つ。校長はそんな僕を、両手を机について見上げた。
「
「いいえ。噂は全て、事実無根でございます」
「ふむ……」
校長はそう言うと押し黙ってしまった。僕は黙って校長の次の言葉を待っている。
「では何故、町中でこのような噂が拡大してしまったと、君は考えるかね?」
校長の問いかけに、僕は少しの間思案する。
僕に言わせると、人々はきっと現在退屈しているのだろう。その退屈を紛らわすために、人々は常に刺激を探しているに違いない。そして今、教師と女学生と言う刺激的な関係に飛びつき、そして自分たち好みの味付けをしているに他ならないのだ。
「では君は、君自身に落ち度は一切なかったと考えるのかね?」
僕の説明を受けた校長は、僕に向かってこんなことを尋ねてくる。僕には何故こんなことを聞かれているのかさっぱり理解が出来ない。
そんな僕の様子が校長にも伝わったのだろう。校長は深くため息を吐き出すと、真っ直ぐに僕を見つめる。
「悪いことは言わない。君はほとぼりが冷めるまで、この町を出て行った方が良い」
「つまり、僕にこの学校を辞めろ、と仰るんですね?」
僕の問いかけに校長は無言を返した。
僕ははぁ、と嘆息すると、
「分かりました。今まで、お世話になりました」
そう言って校長に頭を下げると、僕は静かに校長室を後にするのだった。
「先生っ!」
僕が校長室を出てすぐ、耳慣れた声が後ろから聞こえた。確認しなくても分かる。この声は章子さんのものだ。僕はゆっくりと彼女を振り返った。
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