【世界の童話】犬とキツネと肉とブドウ【異説】

北條カズマレ

犬と狐と肉と葡萄

 あるところに川と橋がありました。


 ある日のこと、肉を咥えた犬が一匹、その橋を渡ろうとしました。


 橋の途中で犬は川面を覗き込みました。


 するとそこには、美味しそうな肉を咥えた一匹の犬が映っているではありませんか。

 

 (その肉をよこせ。それこそ俺が手に入れるべき真の肉だ)

 

 犬はそう思って、吠えかかりました。

 

 もちろん、犬が見たのは川面に映った自分の姿、彼が咥えていた肉は吠えた拍子に口から落ちて、川の中へとぽちゃんと消えてしまいました。

 

「見ていたよ、犬さん。愚かなことをしたね」

 

 犬が声をした方を見ると、見知った顔がありました。

 

「狐くん」

 

 そこには今朝この橋ですれ違った狐の姿がありました。


 犬はニヤリと皮肉に笑ってこう言いました。

 

「今朝、言っていた、葡萄はどうしたんだい? きっと手に入れてくるぞと意気込んでいたけれども。俺はてっきり、君が葡萄を一房咥えて帰ってくるものと思っていたけれど」

 

「ああ、あれねえ」

 

 狐は虚ろな顔で言いました。

 

「あれはきっと私が本当に欲しい葡萄じゃなかったんだ。真の葡萄ではないんだ。甘みはなく、酸味だけがある、偽物の葡萄だったのさ」

 

 そこまで言って犬の様子を見ます。犬はニヤニヤ笑っていました。狐は誤魔化せないと分かって、渋々本当のことを言いました。

 

「仕方ない。白状するよ。本当はあの葡萄の味なんてわからない。欲しかったけれど、でも仕方ないじゃないか。どんなに必死になって跳ねても、人間の葡萄棚になっていたどれひとつにも届かなかったんだ。なに、手に入らないことには慣れてる。今までの人生で何一つとして本当に欲しいものなんて手に入らなかった。今回もそうだっただけさ」

 

 犬は掠れた声で笑いました。


 ひとしきり笑ったあと、今度は厳しい顔になって唸るように言いました。

 

「俺はさっきの肉を必死な思いで人間の肉屋から盗んできた。それをお前はなんだ? 届かなかったから本当に欲しいものではないだって? どうして俺のように欲しいものを手に入れることに全力になれないんだ? 水面に映ったものにまで欲望を抱いて、挙句全てを失ってしまうほどなのに。本当に本気で跳ねたのか?」

 

 狐はため息をついて答えます。


「今まで、自分が欲しいままに欲しいものを手に入れることができた奴の言葉だな。あんたには私の気持ちはわからんよ。でも考えてもみてくれ。あんたの欲望はそんなに大切なものなのか? その通りに生きることが、本当にお前の幸せだとでもいうつもりか? あんたの欲望は本当にあなた自身を表すのに適したものだというのか? もっと他に目を向けるべきものがあるんじゃないか? あんたは本当は欲望なんかで示されるほど単純な存在じゃないんじゃないか?」


 犬はすっかり軽蔑した顔で答えます。

 

「お前は今までの人生で何かを手に入れることができたことはあるのか? お前の欲望の向かう先のものを一つでも手に入れたことがあるのか? お前の欲望を一瞬でも好きになれたことはあるのか?」

 

 狐はそれには答えませんでした。


 犬は鼻を晴らして橋の欄干の上に四本足で立ちました。

 

「俺も悲しい気持ちは知っている。肉を盗もうとして、人間に叩き殺されてしまった犬なんて、いくらでもいる。俺はたくさんの不幸な犬の中の、幸運な一匹にすぎない。俺もまた、自分が欲望の奴隷であることを知っている」


 自信に溢れた犬と自信を失った狐は、じっと見つめ合いました。


 やがて、犬はこう言います。


「だがな、よく見ておけ。これが俺の誇りだ。俺が大切にしている真の愚かしさだ。真の肉よ、今手に入れてやるぞ」

 

 そう言って、犬は川へと身を投げました。狐は泣き崩れました。

 

「違う、違うんだ、犬さん。私だって本当は葡萄を手に入れたかった、なのになんで人間はあんな高いところに葡萄をならしておくんだ。なんで肉屋は棒切れを持って犬が来ないか見張っているんだ。犬さん。あんたが命を投げ出してでも肉を手に入れようとすることも、私がどんなに頑張っても葡萄を手に入れられないことも、どっちもひどい話じゃないか。本当は私たちは、一緒に怒るべきだったんだ。私たちは自分の欲望を誰に煽り立てられているか、知るべきだったんだ。そのためにはまず、こう考えてみるべきだったんだ。本当に私たちの欲望は、私たちのものですか? と」

 

 そして狐も川へと身を投げました。


 水の中で狐が見たものは、底に沈んだたくさんの犬の亡骸と、狐の亡骸でした。


 また一つ、亡骸が積み重なりました。


 いつの日か、誰も誰かから食べ物を盗まずに生きていけるようになるまで、呪いのように亡骸は積み重なっていくのです。

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