第54話


 昨年習ったはずの内容に、望乃はすっかり頭を悩ませていた。

 勉強はあまり得意ではないとはいえ、ここまで内容を忘れているとは思わなかった。


 一人で解くのに限界を感じて、勉強机で宿題と向き合っている葵に声を掛ける。


 「葵ちゃん、ちょっと教えて欲しいところあるの」

 「私2年生の範囲分かんないよ?」

 「一年生の範囲だから葵ちゃんでも分かると思う」


 参考書を見せれば、葵が戸惑ったように狼狽える。


 「誰でもわかる数学Iって…望乃間違って買ってない?」

 「これでいいの」

 「でも…」

 「良いなって思ってる大学の受験科目だから、早めに勉強しておきたくて」

 「望乃、どこの大学行きたいの」


 事前に取り寄せていた、パンフレットを見せる。

 キャンパスが綺麗で、都内の有名駅が最寄なためにアクセスがいい。


 「ここ。女子大で…幼児教育の勉強出来るから……やっぱり諦められないよ」


 その言葉に全てを察したのか、葵の表情がみるみるうちに明るくなっていく。


 酷く優しい女の子だから、あの出来事で望乃が夢を諦めていたことを、きっと気にかけてくれていたのだ。


 誰よりも優しい女の子の側にいたから、望乃はもう一度前を向けた。

 怖くても、もう一度夢を見たいと思えた。


 周囲からどんな目で見られても、自分の信念を貫く強さを得られたのだ。





 

 数ヶ月ぶりに、望乃は葵と共にかつて通っていた幼稚園を訪れていた。


 前回来た時は梅雨入り前だったというのに、今はすっかり秋の季節を迎えて肌寒くなっている。


 「葵ちゃんごめんね、付いてきてもらっちゃって」

 「私も園長先生に会いたかったし」

 「ありがとう…やっぱり、どうしても伝えたかったんだ」


 以前と同じ流れで警備員に声を掛ければ、園長室へと案内される。

 少し厚手のカーディガンを羽織った園長先生は、相変わらず優しい笑みで望乃たちを出迎えてくれた。


 「お久しぶりです」

 「全然いいのよ。2人が会いに来てくれて本当に嬉しい」


 ソファに座ってから出されたのは、ブラックコーヒーだった。

 砂糖とミルクも一緒に出されるが、あえて何も入れずにそのままで飲み込む。


 相変わらず苦いけれど、それも悪くないと思える。

 苦味の奥にある味わいに、ようやく気づくことが出来たのだ。


 「あの…私、やっぱり幼稚園の先生目指します」


 表情を変えずに、園長先生は望乃の言葉に耳を傾けてくれていた。


 驚かずに、否定もしない。


 全てを包み込む優しさを持つ彼女だからこそ、望乃は園長先生に憧れを抱いているのだ。


 「やっぱりやめようって…わたしには無理だって思った時もあったんですけど諦めきれなくて……園長先生みたいになれるかは分からないけど」

 「私が吸血鬼に対して好意的なのは…初めて会った吸血鬼が望乃ちゃんだったから」

 「先生…」

 「いつも優しくて思いやりがあって…皆んな望乃ちゃんが好きだった。今だから言えるけど…最初の頃は色々言ってくる保護者の方もいたのよ」


 「吸血鬼と関わったことがないから、偏った知識しか持っていなかったのでしょう」と彼女が言葉を付け加える。


 「けど、自分の子供が望乃ちゃん望乃ちゃんって嬉しそうに話すから…価値観も変わっていったのね」

 「……っ」

 「大変なこともあるかもしれないけど…望乃ちゃんなら絶対に大丈夫よ。こんなに素敵な女の子なんだもの」


 じわじわと涙が込み上げてくる。

 強くなったつもりでいたけれど、涙脆い癖は相変わらずだ。


 「子供は純粋だから、本能的に良い人か悪い人か分かるんでしょうね。この前望乃ちゃんに面倒を見てもらった子達がね、望乃お姉ちゃんに会いたいって何度も言うの」

 「……本当ですか?」

 「ええ。だから、自分の夢に胸を張ってね。夢があるなんて、本当に素敵なことなんだから」


 その言葉に力強く頷いてみせる。


 夢を見るにあたって、きっと辛いことや困難も沢山あるだろうけれど、この言葉を思い出せば幾らでも乗り越えられるような気がしてしまう。

 

 どんな時も自分の信念を曲げずに、真っ直ぐと前を見据えることが出来る様な気がするのだ。





 それから他愛無い話をして、幼稚園を出る頃には外では雨が降り注いでいた。

 鞄に入っていた折り畳み傘に2人で入りながら、雨が降る帰り道を一緒に歩く。


 「雨も悪くないね」

 「え…」

 「望乃とくっついて歩けるから」


 傘を打つ雨音を聞いても、変わらずに葵は嬉しそうだった。


 2人が結ばれたあの日を思い出して、つい幸福感に駆られてしまう。


 「あのね……たぶん、夢を叶えられても色々と言われると思う。昔は誰かから辛い言葉を掛けられるのが怖くて仕方なかったの。でも…わたしには葵ちゃんがいるから」


 ギュッと、手を握る力を込める。


 「葵ちゃんがいれば、何があっても乗り越えられるような気がするんだ」

 「…こっちのセリフだよ」


 返される言葉に、幸せを噛み締める。


 かつての望乃はずっとあの頃が眩しくて、戻りたくて仕方なかったのだ。


 まだ厳しい現実を知らなかった純粋だった頃。


 想いを馳せては厳しい現実に胸を痛めていたけれど、今は隣に葵がいる。


 あの頃のように無邪気に夢を語ることは出来ないけれど、この子がいれば厳しい現実でも笑って生きていきたいと思える。


 過去の葵ではなくて、今の葵と幸せを重ねていきたいのだ。


 きっともう、過去の明かりを求めて振り返ることはないだろう。

 昔より何倍もキラキラと輝く未来が待っていると信じられるのは、全て葵のおかげなのだ。


 これからも吸血鬼として様々な言葉を投げかけられるだろうけれど、それに囚われずに影美望乃としてありのままで生きていきたい。


 葵が好きだと言ってくれる影美望乃として、彼女と共に悔いのない人生を送っていきたいと思えるのだ。

 

 (了)

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