第15話 お別れ




「幼いころから父親以外の男の人が苦手で、会話もまともにしたことがありませんでした」


 沙月さんは澄んだ声でゆっくりと語った。


「男性を前にすると体が強張り、呼吸が苦しくなってしまうのです。先生でも、同級生でも、そして小さな男の子であっても」


 俺と同じなのだろうか。

 俺は沙月さんから視線を逸らさずに、黙って続きを聞いた。


「その症状のせいで男子生徒と距離を置かざるを得なかった私は、同性からも異性からも『お高くとまっている』ととられてしまって、クラスだけでなく学校内で孤立していきました。それでも最後まで親友でいてくれた女の子も、その子が好意を寄せていた男子生徒が実は私のことを好きだった、という理由で離れていきました。私は学校が怖くなり、五年生になった時にはほとんど登校することなく、自宅で過ごしていました。」


 両手を胸の前で握る姿が痛ましい。


「それでも中学生になれば新しい友人ができるかもしれないと期待して、勇気を振り絞って中等部へ通い始めました。ですが楽陽中学校は初等部から進学する生徒が大半です。私の噂はすぐに広まり、またも通学することが苦痛になってしまいました。中学生になっても変わることがなかった。私はこの忌々しい心の病気と一生ともに生きていかなければならいのかと絶望の淵に立っていました」


「私は入学してすぐに心が折れてしまいました。小学校と違い、中学では欠席も内申に関係してきます。ですので、両親に迷惑はかけたくないと学校へは毎日通っていました。そんな失意のどん底にいたある日、学校から自宅へ帰る途中、私は他校のいわゆる不良グループに絡まれてしまいました」


「私は常に一人で帰宅していたので助けを求めようにも周りには誰もいません。声も出せなくて、怖くて、息を吸うのもうまくできなくて。どうしていいかわからずに、ただ震えていました。そして不良グループの中の一人に腕を掴まれて──私は恐怖でその場に座り込んでしまいました。それでも無理やり立ち上がらせようとする男の人の力に、私は抗うことができなくて、半ば引きずられるようにカラオケボックスに連れていかれそうになっていました。」


「泣きじゃくりながら諦めかけていたそのとき、私の前に王子様が現れたのです。その王子様は不良グループと私を見るなり『くだらねえことしてんじゃねぇ』といって助けてくれたのです。いえ、実際助けようとしてくれたのかはわかりませんが、その王子様の体躯と容姿と、それからどこまでも冷淡で鋭い目つきによって気勢が削がれた不良グループは、退散してしまったのです」


「我に返った私が、お礼をしようとその男性を探しましたが、すでにその方の姿はありません。一瞬、付近を探そうとも思ったのですが、またあの不良グループに見つかってしまったら、と思うと感謝を伝えなければという思いより恐怖が勝ってしまい、その場を離れて無我夢中で走って自宅に帰ってしまったのです」


「心配させたくなかったので家族の誰にも言えず、相談できる友人もいなかった私は心を落ちつけることもできず、その日の夜は一睡もできませんでした。そして翌日、どうにか平常を装って登校しました。精神的には疲れ果てていましたが、あのとき助けてくれた王子様のことを想い出すととても心が穏やかになっていくことに気づいたのです。それと同時、私が男性のことを考えていることに驚きました」


 ここで沙月さんは一度大きく息を吐いた。


「お話、辛くないですか?」


 俺は首を横に振る。


「そんなことはまったくないよ。それよりも俺と話していて大丈夫なの?」


 異性と話すと訪れる苦しさ。

その辛さは自分のことのようにわかる。


「ええ。私は以前の私ではありませんから。そうでなければ男性に告白などできません」


 ということは、沙月さんも異性に対する苦手意識を克服できたということか。

 つくづく自分と重なる。


「毎日苦痛を背負って学校へ通っていた私でしたが、するべきことができて感情に変化が起こりました。今までは足取りが重かった登下校も、とても軽やかになりました。ぜなら王子様に再会できることを心待ちにしていたからです。あれだけ苦手としていた男性を自分から探していたのです。もちろん、不良グループに絡まれないよう細心の注意を払いながら、そして手にはいざという時の防犯ブザーを握りしめながら。ですが私の願いは届かずに王子様を探すことはなかなか叶わずにいました」


「そして数日が経ったある日。私は意外な場所で王子様と再会することができたのです。その場所はこの中学校。なんと王子様は私と同じ学校の生徒だったのです。しかも同級生。もう、心の底から神様に感謝しました。襲われかけていたあのときの私は冷静さを欠いていて、王子様の服装をよく憶えていませんでした。そのため私の中の王子様は勝手に騎士服を着させられていたのです」


 沙月さんはなにかを思い出すようにクスッと笑う。


「王子様が同級生と知って、私は学校へ通うことが楽しくて仕方なくなりました。学校へ行けば王子様に会える。もうそれは物語の少女のように、朝も昼も夜も王子様のことで頭がいっぱいになっていました。ですが、ようやく居場所を突き止めた王子様なのに、いざとなるとなかなかお礼を伝える勇気が出せずにいました。それでも決心して王子様にお礼を伝えに行こうとしたのですが──」


「少し腰が引けてしまいまして。だって王子様の隣には常に不良グループのような男子がいて、その王子様本人は『冷酷王子』なんて恐れられているのですもの。男性とまともに喋ったことがない私にはすこしハードルが高くてなかなか近づくことができずにいたのです。」


「王子様のことを調べるうちに王子様がなぜ『冷酷王子』などと呼ばれているのかを知り、私は驚きました。王子様は私と同じ異性が苦手な方だったのです。私と同じ境遇。そのことを知ってから、いっそう王子様のことを知りたくなりました」


「王子様とお話がしたいという想いは日に日に募りました。王子様のことならどんな些細なことでも知っておきたくて、その情報を得るためにいつしか王子様以外の男子生徒とも会話ができるようになっていったのです。そして小学校時代の友人たちとも仲良くなり、私の学校生活はとてもカラフルになっていきました──」



 沙月さんがふいに俺の両腕を握った。

 小さく柔らかい手──。

 折に吹いた春風が、沙月さんの髪を美しく靡かせる。


「あのとき不良グループから私を救ってくれた王子様。私の人生に花を添えてくれた王子様。私を孤独という殻から救い出してくれた王子様。今になってしまいましたけれど、本当にありがとうございました。そして──」


 俺の手を握る沙月さんの手に力がこもる。


「初めて会った日から、貴方だけを想ってきました。貴方の姿だけを追い続けてきました。逢坂春臣さん。私は貴方のことが大好きです。どんなに酷く振られようともこの想いを告げずにはいられないほど、貴方のことが大好きです」


 沙月さんは涙を流していた。


「私……逢坂さんと出会えてよかった……逢坂さんを好きになってよかった……」

「沙月さん……」


 どんどん泣き顔に崩れていく沙月さんはそれでも俺の手を離そうとしない。

 俺はその手をそっと離すと、取り出したハンカチで沙月さんの涙を拭った。


「もう……私……泣かないって……」


 同級生の涙は二回目だ。

 沙月さんは渡したハンカチに顔をうずめる。


「沙月さん。ありがとう。辛い事も話してくれて」


 沙月さんは顔をうずめたまま、否定するように首だけを横に振った。


「沙月さんの役に立てたのだとしたら、そんなに嬉しいことはない」


 なぜなら俺にもそういう人がいるからだ。

 遥さんと十河みつはさん──。

 俺は彼女たちに救ってもらった。


「俺は女性を好きになる資格をまだ得ていないんだ。酷いことを言い続けて、手のひらを返したように女子を好きになるなんて、それは神様が許さないと思う。でも。それでも。たとえ神に歯向かってでも好きになりたいと思っている女性がいる。ただ──それは沙月さんではないんだ」


 俺は俯く沙月さんに向かって心の裡を告げる。


「はい。わかっています。わかっていますけど……どうしてそんなに優しく振るのですか……」


「女性にはもう酷いことは言いたくない。それが俺を想ってくれている女性なら尚更」


「……ありがとうございました。逢坂さん。私の話を聞いてくれて」


「俺の方こそ。俺を好きになってくれてありがとう」


 顔を上げた沙月さんの目は赤かったが、表情は今日の天気のようにとても晴れやかだった。


「私の人生初めての告白が逢坂さんだったこと、一生忘れません」


「俺も初めてちゃんと告白を受けた沙月さんのこと、忘れないよ」


 俺と沙月さんが笑いあったとき、周囲に大きな拍手が沸き起こった。

 驚いて回りを見ると、隠れていたはずの生徒たちが俺と沙月さんを囲っている。


「最高じゃねえか! ハル! 感動したぜっ!」


 美咲が叫ぶ。こうなるともはや隠れるつもりもないらしい。


「春っちぃ! 僕、春っちの友達で良かったよぉ!」


 省吾が号泣している。


「あの春臣が! なんてイケメンなんだよ!」

「伝説じゃね! これ動画サイトにUP案件じゃね!」


 俊哉と正信の横には──


 遥さんまで! ずっと見てたの!?


 ハンカチで目許を抑える遥さんがいた。


「うぉお! 我慢できねぇ! 俺も告白してくる!」

「私もっ!」

「うぁああ! 俺もだっ!」


 二人、三人とどこかへ駆けていく。


 俺と沙月さんはそんな生徒たちに、どちらともなく噴き出す。


「ところで、その助けたという件だけど本当に俺だった?」


「はい。間違いようがありません」


「申し訳ないけど記憶にないんだよな」


「私の記憶には刻まれていますから、それで良いのです」


「そうか、それならそういうことにしておこう」


「はい。晴臣さん」


「では、東京でもお元気で」


「ありがとうございます。春臣さんもこの先、言い寄ってくる女性に気をつけて」


「俺は男子校だよ?」


「そうでした。では男子にも気をつけて」




 俺を春臣さんと呼ぶ沙月さんの瞳に、俺は新しい恋の成就を願うのだった。




    第一章   謝罪と改心       完

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