神様の電子カルテ
佐藤悪夢
第1話 ”人喰いマクロファージ”
台無地域医療センターのたったひとりの胸部外科医、飛川先生に言わせれば、飛川先生の恩人は間違いなく半月英一院長であり、彼がいなかったら今頃どうなっていたか分かったもんじゃない。
飛川先生は人一倍患者さん思いで、勤勉真面目な胸部外科医だった。
白髪の交じり始めた頭髪、指紋まみれの黒縁メガネ、当直明けでしわしわになった白衣の下のシャツは、まさに中堅医師の呼び名にふさわしい。
口癖はもっぱら、
「いいんじゃないですか」
でもって、大学の医局人事にも『いいんじゃないですか』を言い続けた結果、単身でこんな地域病院なんぞに飛ばされてしまった。
台無地域医療センターは台無地域一帯では最果ての孤島と(医者から)恐れられ続けている医療センターである。
文字通り、周りを山に囲まれた陸の孤島で、常勤医師はわずか10名、病床数は200床、その8割が後期高齢者という恐るべき対人口比。
更に恐ろしいことに使用可能な外科設備がある。
ということで、大学病院におくらずとも外科の症例がここで完結してしまう。
理事会も事あるごとに大昔に掲げた外科病院の標榜を取り消そうとはしていたが、寄る高齢化の波と医師不足がそれを許さなかった。
重症の患者は、大学病院や都市部の大病院に回せばいい、という意見もあったにはあった。
では一体どこの病院が、山奥の古民家で左冠動脈主幹枝99%狭窄によって倒れた身寄りの無い高齢者を診るというのか?
他県の病院に行ってくれというのは、すなわち救急車の中で死んでくれと言うのに等しい。
結局のところ、台無医療センターが面倒をみるしかないのだ。
飛川先生は赴任した翌日の昼過ぎにはもう、自分が間違えた場所に来てしまった事を確信していた、具体的には夕方5時過ぎに、当時の院長に救急外来に呼び出され、
「先生、申し訳ないのですが、外科ということで、この大腿骨頚部骨折の患者様も診て頂いて」
と言われた時にだ。
その後、月10回の外科当直を入れられ、患者さんに頼られるまま、ない設備と、ないスタッフで胸部外科医を3年間も続けてきた。
後任も、代わりのスタッフもいない孤独な戦い。
それでも、地域のおじいちゃん、おばあちゃんに神よ仏よと崇められては、飛川先生ひくにひかれぬ。
もはや(病院的な)財力も、飛川先生じしんの体力も限界であった。
そんな時、半月英一院長がやってきたのだ。
はじまりは突然だった。
ある日の朝のことだ。
事務課の課長が、極自然に、あたかも、寒くなってきたので今日から全館ボイラーが入ります、とでも言うかのごとくに、
「飛川先生、今日から全館電子カルテになります」
「全館電子カルテ」
飛川先生はモーニング・コーヒーを飲みながら、数日分の付け忘れたレセプトを処理中であった。
こんな田舎の地域病院に、重大な事件なんて起ころうはずがない。
大概の朝の事務課ミーティングは、
「今日小3の娘がドングリを拾ってきました。秋です」
「台無医療センターの道路前で子狸が死んでいました。かわいそうに」
なんてものだ。
「そうですか」飛川先生は小声で呟いた。
それから、
「いいんじゃないですか」
と付け加えた。
一体こんな地域病院を全館電子カルテに改造して、何のメリットがあるというのか。
来るお年よりは勿論、常勤している医師だって大半がパソコンの使い方も知らないのだ。
それに電子カルテ化なんて、断じて内々に進めていいものじゃない。
病院に勤務する医療スタッフ達の協力があってはじめて、電子カルテ化という壮大な計画は遂行されるのだ。
とどのつまり、この若き事務課長は昨晩の研修会後の打ち上げで飲みすぎたのだ。
朝8時になって、まだ宴会気分でいるのだ。
「後ですね、貴田岡院長先生が倒れました。脳梗塞だそうで」
これは良くない、というか尋常じゃない、まさに、朝のカンファに相応しい内容である___飛川先生はレセプトをめくる手をとめ、顔を上げる。
それは大丈夫なんですか、という言葉は、若き事務長の楽しげな言葉に無残にも遮られる。
「昼から後任の院長先生が来ます。半月英一院長といいます。先生と同なじく、胸部外科のご出身ですよ。優秀な人だそうです」
飛川先生は何か言おうとする、が、言葉が出てこない。
「前の勤め先から、新しい先生も何人か連れてきてくださってるようです」
若き事務課長は人差し指を1本目の前に掲げ、笑顔を見せる。
「今日から忙しくなります」
内科外来全般を掌握する1診の守り神、田宮古先生でさえ、電子カルテ化の話はまったく聞いていなかったとのことであった。
「まあ、聞きはしませんでしたが、今、目にはしています」
診察室にはすでに、真新しい電子カルテの媒体が置かれている。
「人呼んでOrdering PaNDa。画像ビューアも新しくなりました、PaNDa Viewer。パンダは可愛いですが機能はえげつない。単純CTで擬似MRIみたいな画像が撮影できる」
田宮古先生はテキパキと撮り立てのCT画像の上に表示される擬似MRI適応ボタンを押した。
CTでは見えなかったポツポツした点が腎臓上に描出される。
「糖尿病の76歳男性、微小腎膿瘍発見の巻」
飛川先生は身を乗り出し、がらにもなく興奮する。
「すごい!すごい!そんな機能ができたんですね。それを是非、腎不全の術後CRP高値の患者さんに。eGFRが30以下で低いもので、造影とれなくて困ってたんです!」
「これは序の口。まだまだ最新の技術がたくさん」
田宮古先生。
「一体こんな田舎病院に、こんな大層なもの連れて来た院長先生はどんな方なんでしょう?」
半月先生は午前中の早いうちにやってきて、数少ない常勤医師の、ひとりひとりの診察室をノックして挨拶を述べた。
「半月英一です」
半月先生は総白髪の、いかにも院長といった風貌であった。
目つきは鋭く、痩身で、若い頃はさぞやモテただろう、という感じ。
言葉はどこか冷たく、機械じみてはいるが、それが外科医に必要な威厳と冷静さを醸し出している。
「胸部外科の飛川です。えっとこの度は___」
飛川先生は下を向く。
朝から余りにも想定外の出来事ばかりで、この温厚な胸部外科医はすっかり落ち着きを失い、外科外来で電子カルテを前にフリーズすることも1度や2度じゃなかった。
もしかしたら、突然こんな機械を導入したこの新院長に、少しくらい苦言を呈してもいいのじゃないか?
そんな思いは次の一言で見事にかき消えた。
「ええ、存じ上げてます。飛川先生。早速ですが、明日からうちの所属の若い胸部外科医がお世話になりますよ。急なことですが、ご指導宜しくお願いします」
「部下が___?」
飛川先生のこの声色には、そういう人事は数ヶ月前からそれとなく周知させておくものだ、急に言われたって困るじゃないか、という苦情がおよそ0.3%、残りの99.7%は、信じられない、奇跡じゃないか、神様ありがとう、という望外の喜びに溢れていた。
「ええ。私が言うのもなんですが、非常に優秀な子です」
半月先生。
「なんと……」
飛川先生。
「それに関してですがね、明後日のオペ表を拝見しました。あのオペ表は、ひとりの胸部外科医が行うには重荷過ぎる」
半月先生の至極まっとうな意見に、飛川先生は目をつむって頷く。
「私も常々そう思っていたんです」
飛川先生の心はもはや完璧に半月先生にガッシリ捕まれていた。
「それでですね、明後日のオペから、その若い胸部外科医を執刀として参加させたいと思っています」
半月先生。
「 」
飛川先生は何か喋ろうとして、言葉がでなくなった。
驚いたのだ。
飛川先生の沈黙を勘違いした半月英一新院長は、困った顔をして(茶目っ気を出しているようにも見えた)あらぬ方向へ言い訳を発展させる。
「不安なお気持ちはお察しします。ですが、腕の方は保証しますよ。執刀する若い先生は天目先生といいます。後でご挨拶に来ます。大きいのですぐ分かりますよ」
ソレジャナイ、飛川先生は思う、ここの手術室の問題は、執刀医の身長が大きい小さいの問題じゃないのだ。
「……ありがたいのですが、我々のところ、施設にいささか不備が……きっと驚かれると思います」
不備というのは、PCPSが時々手動で回さざるを得なくなったり、セボフルランが時々麻酔器から漏れたり、一世代前の電気バサミが時々血管をつかんで離さなくなったりといった、些細で取るに足らない不備の事だ。
「もうそろそろ、外科なんて標榜を畳まなくてはならんと思っているのですが。何せ、こんな地域病院です。畳んでしまったら、何百という患者さんが路頭に迷う。スタッフは来ない、後任もいない。私達も悩んでいる所なんですが」
院長先生は目を細めて笑う。
飛川先生は、いい中年の癖に、なんだかドキドキしてしまう。
「噂は聞いています。でも、我々が来たからにはもう安心ですよ」
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