借りてきたカレ

しじましろ

第一章 ゾンビ女とレンタル彼氏

1-1

 カタカタカタカタ……。


 暗闇にキーボードの音が響く。それに返事でもするかのようにギーギーとパソコンが唸る。どちらも周囲に人のざわめきがあったならかき消されてしまうような小さな音だが、一人ぼっちの真夜中のオフィスでははっきりと聞こえる。


 萩野はぎのみさをは完全に冷え切っているコーヒーに手を伸ばした。しかし、あまりの渋さに口に入れたことをすぐさま後悔した。


「あと少し」


 みさをはラストスパートとばかりに指を走らせる。コードはとっくに頭の中で完成しているのに、それを打ち込むのにかかる時間がもどかしかった。文字を思い浮かべるだけで入力できる機械があったらどんなにいいかと思う。


「よし! 終わった」


 最後の行を入力し終えた時、画面左下の時計は午前四時を過ぎていた。


「ええと、この件の依頼者は……。アプリ事業部の岸部さんか」


 作業完了の定型文を貼りつけたメールを送信して、みさをは大きく息を吐いた。褒めてくれる人も労ってくれる人もいないが、このゲームをクリアしたような一瞬の達成感だけで充分だった。



 メールの受信箱には、【緊急対応お願いします!】や【助けてください】など穏やかでないタイトルがずらっと並んでいる。しかし、これらの案件はどれもみさをの仕事ではない。他の部署のエンジニアが自分たちで手に負えなくなった仕事をみさをに回しているのだ。言うなれば社内ボランティアといったところ。


 みさをは社長直々の案件を扱う特別開発チームのチーフエンジニア。本来の業務では設計や管理が主で、自身が手を動かすことはほとんどない。


 こうなったきっかけは数年前、個人的によく知る社員に泣きつかれて、こっそり彼の仕事に手を貸したことだった。その話が社内で広まり、「困った時の萩野頼み」と格言のように伝えられているとか。今では顔も知らない社員からいきなり依頼が来ることも珍しくない。


 本来の仕事もあるので、作業はどうしても就業時間外になってしまい、今日のように徹夜になることもしょっちゅうだ。


 自分たちでどうにかしろと突っぱねてしまえばいいのかもしれないが、みさをにはそれが出来なかった。


 目の前でボヤが起こっていて、自分はその消し方を知っている。放っておけばみるみる炎が広がることを分かっていて何もせずにいられるだろうか。下手すれば会社の危機に繋がる可能性だってあるのだ。


 ……なんて格好いいことを言っても、みさをも人間だ。体力が無尽蔵にあるわけではない。


 今日はもう電池切れ。これ以上一秒たりとも瞼を開けていたくなかった。


 最後の力を振り絞って立ち上がると、ふらふらと部屋の隅にある倉庫に向かう。


 備品が置かれた棚の奥には、使用済みの段ボールが畳まれ山積みになっている。

 みさをはその上にばったり倒れ込むと、そのまま気を失った。

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