第3話 G

警告!!!

「G」が苦手な人は絶対に読まないで下さい!

絶対ですよ! 絶対に読んじゃ駄目ですからね!!


―――――――――――――――――――――*



 春の陽差しがポカポカと暖かい、そんな日曜日の昼下がり。僕はリビングのソファに体を沈め、ゆったりと食後のコーヒーを楽しんでいた。

 隣のオープンキッチンでは、マイスゥイートのみいちゃんが洗い物をしながら、鼻歌なんか歌っている。何の曲かは分からないけど、かすかに耳に届くその音色はまるで花虻の羽音のように心地よく、眠気さえ誘ってくるほどだ。


 みいちゃんは只今、妊娠9カ月。結婚3年目にして、来月には待望の第一子が生まれる。

 どうやら女の子らしい。男兄弟で育った僕には楽しみ二倍と言ってもいい位に待ち遠しい出来事だ。

 とはいえ、その代りこんな穏やかな休日は当分お預けになってしまうんだろうな。今のうちに残り少ない静かな日々を満喫して置かなくちゃ、なんてね。

 そんなことを思いながらコーヒーカップを口に運ぼうとして、ふと気づく。ああ、もう空っぽになっちゃった。もう一杯貰おう。

 と、キッチンの方へ振り向いた時だった。


 カウンターの下の所に、モソモソと蠢く不吉な黒い影を見つけた。


「っ!」


 僕は思わず声を上げそうになって、慌てて口を噤んだ。まずい、「G」だ。みいちゃんに見つかったら大変だぞ。

 「G」とはつまり、どこのご家庭にも現れるあの黒い悪魔のこと。そう、ゴキブリだ。

 我が家では「ゴキブリ」という単語自体が禁句となっている。

 その理由は言わずもがな、みいちゃんが大の「G」嫌いだからだ。いやそもそも「G」が好きな女性なんて聞いた事ないけど。

 でもみいちゃんのそれは、世間一般の嫌いとは格が違う。その言葉を聞いただけで失禁もとい失神しかねないほどの恐怖と嫌悪を、魂に刻み込んでしまっているんだ。

 どうして彼女がそこまで「G」嫌いになってしまったのか、その理由を僕はみいちゃん本人から直接聞いて知っていた。


 実はみいちゃんは、昔「G」に襲われたことがあるらしい。

 それもただの襲われ方じゃない。壁にたかっていたこいつに殺虫剤をかけようと近づいたら、いきなり顔面に飛びかかられたそうだ。

 たったそれだけ? な訳がない。

 その時、驚いたみいちゃんはアッと大きく口を開いた。飛びかかった「G」もさぞかし驚いたことだろう、突然目の前にポッカリと空いた大穴に一直線に飛び込んでしまった。更にみいちゃんは反射的にその口をバクッと閉じて……。

 哀れな「G」を思いきり噛み潰してしまった、と。


 噛んだ拍子ににがっぱからい液体がブチュッと飛び出て口の中一杯に広がったとか。

 千切れてバラバラになった脚が舌に刺さって痛かったとか。

 生臭い臭いが鼻の奥にこびり付いて息をするたびに吐き気を催し涙が止まらなかったとか。

 その後何を口にしても「G」の味しかしなくて一週間絶食した挙句に電車の中で倒れて2時間遅延させたとか。


 何もそこまでと言いたくなるくらい、みいちゃんはその時の様子を事細かに説明してくれた。

 話しているうちに段々と顔から血の気が失せ目が虚ろになって行く彼女に、僕の方が怖くなって、泣きながら「もういいから!」と抱きしめて止めようとしたほどだ。

 それでもみいちゃんはおしゃべりを止めなかった。力なく体を預けたまま僕の耳元で事件の一部始終を、まるで呪文のように呟き続けた。最後に力尽きて、口から泡を吹いて崩れ落ちるまで。

 可哀そうに、きっと吐き出さずにはいられなかったんだろうな。誰かに聞いて貰いたいのをずっと我慢していたんだろう。

 あの時のことを思い出すと、今でも涙と吐き気がこみ上げてくる。


 そんなみいちゃんがこいつを見たら、どんな事になるか。

 ましてや今は出産を間近に控えた大事な時だ。お腹の子だって無事では済まないかも知れない。

 僕は決断した。大切な奥さんと生まれてくる我が子を守る為、今この時より「G」抹殺作戦を決行する!


 まずは。

 部屋をそっと見回し、武器を探す。

 殺虫剤は去年の秋に仕舞ったままだ。夏場なら各部屋ごと東西南北に風水のお守りのごとく並べておくのだけれど、毎年衣替えの時期に家中燻蒸してお清めをした後は片づけてしまう。今年の冬は寒かったものだから、油断していたな。

 雑誌で叩くのも駄目だ。いずれにしてもそんな大騒ぎをしたらみいちゃんにバレてしまう。

 となればティッシュで手掴みか、うーん。


 正直な話、僕だって「G」は苦手だ。てゆうか、はっきり言って怖い。キモい。

 あのテラテラと黒光りする脂ぎった中年オヤジのような肌艶。一見固そうに見えて実はちょっと力を入れただけで簡単に潰れてしまうグニャリとした触感。とげだか脛毛すねげだかよくわかんないモサモサがワサワサと生えた気色悪い脚。

 うっかり素手でなんか触れようものなら、たちまちバイキンまみれになって指先から腐り落ちてしまいそうな気さえする。

 うううっ、考えただけで鳥肌が立ってきた。


 もう一度チラリと見ると、奴はさっきと同じ場所に留まったまま、長いヒゲをフリフリと揺らしながら周囲を窺っている様子だった。

 でも、んんっ? なんだか様子がおかしいぞ。

 何となくだけど、動きが鈍いような気がする。普通ならもっとササッとすばしっこく動き回るはずなのに……。

 そうか、冬眠から覚めたばかりでまだ体がよく動かないんだな。長い冬を何カ月も飲まず食わずでじっとしたまま過ごしてきたんだもんな。相当弱り切っているんだろう。


 思えば、「G」という昆虫も不思議な生き物だ。

 見た目に際立った特徴はなく、音や鳴き声を上げる訳でもない。毒やネバネバした液体を出すこともなく、悪臭を放ったりもしない。農作物も荒らさず、人も刺さない。無い無い尽くしの実に地味で控え目な生物だ。

 みいちゃんが襲われたのだって、「G」本人にしてみればそんなつもりは全然なかっただろう。

 そもそも「G」には、人間が敵であるという意識すらないはずだ。暗がりの狭い場所を住処とする「G」は視力が極めて低く、敵と認識できるのはせいぜい間近に迫ってくる腕の先くらい。その向こうにある胴体など巨大すぎて木か岩の塊にしか見えていないだろう。

 そう、「G」には人間を攻撃しようなどという意思は微塵もなく、ただ逃げ場を求めてより高い場所に飛び移ろうとしただけなんだ。

 牙も爪も持たず、物の影に潜んでただひたすらに生を求めひっそりと暮らすその生き様の、なんと謙虚なことか。


 にもかかわらず、彼らはただそこに居るというだけでこれほどまでに人間に忌み嫌われている。彼らにそうされなければならない罪などなど一切ないのに、なんとなく嫌いだというただそれだけの理由で。

 もし僕が「G」であったとしたら「理不尽にもほどがある!」と全力で抗議していたことだろう。

 目の前にいるこいつだってそう、きっと長く辛い冬をやっとの思いで生き延びたところなんだ。その根性を讃えて、このまま庭に放ってあげようかな。うん。


 なんて、誰が思うかああああっ!!


 罪だって? そんなのは決まっている。僕のみいちゃんを泣かせたというただその一点だけで、一族郎党一匹残らず根絶やしの刑に値する十分な大罪だあっ!

 と、僕が興奮のあまり我を忘れて立ち上がろうとしたその時、水道の音がキュッと止まり、みいちゃんがキッチンから出て来た。

 うっ、マズい。


「おトーイレっ、おトーイレっと。ん? たっくん、どしたの?」


 腰を浮かしかけていた僕に、みいちゃんが足を止めた。


「あ、うん。コーヒーお替り。トイレ行くの? 気を付けてね。一人で大丈夫?」

「いやあだ、大袈裟ぁ」


 コロコロと可愛らしい声で笑いながら、僕の背中をパンと叩く。僕もアハハゴメンゴメンと頭を掻きながら、全神経をみいちゃんの足元に注いでいた。

 どうか気付きませんように気付きませんように気付きませんように気付きませんように……。

 などと神様に祈りと冷や汗を捧げているそばから、みいちゃんてば


「では旦那様、行ってまいりますっ」


 と、深々と頭を下げる。

 やめてーっ!


 でも幸いにしてみいちゃんは眼下の脅威に気づくことなく、軽やかな足取りでリビングの外へと去って行った。ふう、心臓が止まるかと思った。

 よしっ!


 急いでティッシュ数枚を掴み取り、カウンターの下にしゃがみこむ。

 さあ覚悟しろ。動くなよー、動くなよー。

 そーっとそーっと、右手を伸ばして……えいっ!

 だが「G」はその手をサッと躱した。

 くそっ、もう一度。やっ!

 またもや躱された。

 奴も必死だ。儘にならない体を死に物狂いで動かして、この窮地を脱しようとしている。

 でも、捕まらない理由はそれだけではない。実はこの僕自身の体が思うように動けていないのが、問題だった。

 だってだって! 気持ち悪いんだもん!


 いやいやいや、そんなことを言っている場合じゃない。グズグズしているとみいちゃんが戻ってきてしまう。

 こうなったら覚悟を決めて、両手で。

 それっ!

 よし、捕まえた!

 と思ったら、奴がティッシュの間から抜け出て来た。


「くっ」


 慌てて右手を被せて抑え込もうとするも「G」は僅かな隙間を縫って左手に飛び付き、一瞬のうちに手の甲の上を駆け抜けて……。

シャツの袖口に侵入した。


「ムバグッ!」


 僕は思わず悲鳴を上げそうになった口を、無理矢理手で塞いだ。

 カサカサという耳を覆いたくなる不協和音と共に、ムズかゆいようなくすぐったいような途轍もなく不快な感触が左腕を這い登って来る。


「ブブフッ、ブフーッ、ムフーッ」


 駄目だ、大声なんか出したらみいちゃんに知れてしまう。落ち着け、落ち着け。

 でもその間にも「G」は二の腕から背中へと回り、今度は出口を求めて、体と下着の間を縦横無尽に這い回り始めた。

 狭くて動き辛いのか、「G」は僕の背中に思いっきり爪を立ててグイグイと進んでいく。進んだ後には、針でつつかれたようなチクチクした痛みと「G」の腹をこすり付けられたズルズルな感触が、轍のような跡を作った。

 ああああああ、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いよおっ!

 僕は今すぐ着ている物を全部脱ぎ捨てて床の上を転げまわりたい衝動に駆られた。

 いいや、駄目だ駄目だ駄目だ。そんなことをしたらみいちゃんに全部バレてしまう。


 捕まえようにも、背中には手が届かない。前に回ったところを上から押さえたら腹に咬み付いてきて、思わず手を放してしまった。

 更に、腋下に入り込みあろうことか腋毛に引っかかって狂ったように大暴れを始めた時にはもう、本気で泣きそうになった。

 そこで腋を締めて抑え込んでしまえば良かったんだろうけど、その時僕は「G」の体がグチャッと潰れる感触と柔肌にトゲトゲの脚が突き刺さる様子をリアルに想像してしまい、抑え込むどころか身動きひとつできずに「G」と腋毛の格闘を最後まで見届けてしまった。


 みいちゃん御免なさい、僕の体は汚されてしまいました。こんな体ではもう君と肌を合わせるなんて二度と出来ません。

 いやそれどころか、生まれくるマイベイビーを抱き上げる資格すら失ってしまいました。

 ああああ、僕はもう生きる希望を失った。この先、いったい何を楽しみに毎日を暮していけばいいんだ。

 くっそお、この怒りと悲しみをどこにぶつけてくれようか。

 そんなことは決まってる、この「G」野郎以外に何がある。

 僕の体がどうなろうと、それで愛する妻と子の幸せを守れるのなら本望だ。例えこいつと刺し違えることになっても、全身全霊をあげて滅殺してくれる!!!


 カリッ


「あふンっ!」


 なっ、なんだ。いきなり咬み付いてきた!

 だ、だけど何だ今の衝撃は。さっき腹を咬まれた時は普通に痛かっただけなのに、今度のは全身に電撃が走ったようなショックだったぞ。


 カリッ


「はぅんっ!」


 ま、まただ。駄目だ、力が抜けて立ってられない。


「はあふううっ」


 思わず、変な息を吐きながら床に座り込んでしまう。

 なんだこの感覚、僕はいったいどうしちゃったんだ。言いたくないけど、ホントに言いたくないけど、痛いというよりもむしろ、か……快感……みたいな……。

 まてよ、そう言えばさっきから体中がジンジンと痺れているような感じだ。もしかして「G」に這い回られたせいで、肌の感覚がおかしくなっちゃってるのか。

 くっそお、こんな事で。


 カリッ


「ぁふアッ!」


 カリッ


「んふぅんっ!」


 カリッ


「あっ!はああんっっ!」


 ちくしょうちくしょうちくしょう! こんな「G」ごときに体中をいじくり回されて快感にのたうち回るだなんて、こんな屈辱は生まれて初めてだ。

 虫けらめ、どこまで僕の体をもてあそべば気が済むんだああっ!


 カリカリッ


「ら、らめえええええっ!」


 も、もう駄目。このままじゃ頭がおかしくなっちゃう。

 僕はこの快楽地獄から逃れようと、シャツのボタンに手をかけようとした。その時、

 廊下からパタパタとスリッパの音が響いてきた。

 僕は慌ててソファに戻り、何食わぬ顔でコーヒーカップを震える手に取って……。空っぽのままだったのでテーブルに戻した。


「たっだいまー。ねえねえたっくん、今どっかから変な声聞こえなかった?」


 ギクッ。


「え? そお? 何も聞こえなかったよ」

「ふうん、まいっか。よっこらしょっ」


 と、みいちゃんが隣に腰を降ろす。マズい。

 そして「ウフフッ」と僕に体を預けてきた。マズいマズいマズい。

 普段なら、「甘えんぼさん、チュッ」とキスの一つもしてあげるところなんだけど、今の僕にそんな余裕はない。全然ない。


「あれ、どしたの? なんか変」


 と、全身硬直中の僕を不審に思ったのか、みいちゃんが顔を上げた。


「え? 別に何もないよ。アハ、アハハ」


 その間も、「G」は全身散歩を楽しんでいる。対する僕はまた何時咬み付かれるか、襟口から顔を覗かせたりしないかと、冷や汗と鳥肌が止まらない。

 それにこいつ、さっきからやけに元気だなと思ったら、ひょっとして僕の体温で体が温まったせいなのかも。そう思うと悔しくて涙が出そうになった。

 とにかく、この場を離れよう。


「あそうだ、僕もちょっとトイレ」


 そうだトイレだ! 言ってから気が付いた、あの個室ならこいつと決着を付けられる。よし急げ!

 と、

 焦りすぎたせいか、勢いよく立ち上がろうとしてよろけてしまった。


「おっとっと」

「もー、しっかりしてよ。パパさん」


 みいちゃんの手がパンッと背中を一発! その時、ちょうど真下にあいつが!


「ひぐっ!」


 万事窮す! みいちゃんの掌と僕の背中の間で「G」がグチャッと!


 あ、あれ? ならない?

 あれっ? どうしたんだろう、あのチクチクズルズルな感触がいきなり消えたぞ。

 どこかに挟まったのかな。それともとうとう力尽きたのか。

 まあいいや、とにかくトイレに急がなくちゃ。


「たっくん、ホントに大丈夫? 変な声出したりして。具合悪いの?」

「だっ、大丈夫大丈夫。ちょっと待っててね」


 と、僕は一刻も早くこの場を立ち去ろうと無理矢理作った笑顔をみいちゃんに向けようとした、その瞬間に凍り付いた。

 振り向いた僕の目に飛び込んできたのは、みいちゃんの頭の上で不気味に蠢く黒いブローチ。

 ではなく、まぎれもない「G」の姿だった!


「あっっ!」


 そして次の瞬間、奴は大きく羽根を広げ、驚愕で開ききった僕の口の中へと一直線に……。



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