第2話 とあるウェイトレスの人生最低の日
似たもの夫婦って、いますよね。
―――――――――――――――――――――*
それは、一見して品の良さそうな老夫婦だった。
カランカランというベルの音にウェイトレスが振り向いた時、老紳士は小振りのステッキを片手に、ドアを抑えて夫人が店に入るのを助けているところだった。
だが彼の方も一杯いっぱいらしく、足元がフラついておぼつかない様子だ。
それを見たウェイトレスが、入り口の所へ駆け寄って行く。
「いらっしゃいませ。どうぞ、私が抑えていますからお入りください」
「ありがとう、お嬢さん」
老紳士は帽子を取ってウェイトレスに礼を言うと、ステッキを突きながら中に入ってきた。
二人は穏やかな表情で、空いている席に向かい合って腰を下ろす。ウェイトレスは、そのテーブルの上に水とおしぼりを置いた。
「ありがとう、さっきは済まなかったね」
「いいえ。ご注文がお決まりになりましたらお呼び下さい」
ウェイトレスはそう言って、にっこりと微笑んだ。
「じゃあ、僕はアメリカンコーヒーを。おまえは?」
「私はお紅茶を頂くわ」
「かしこまりました。では少々お待ちを」
ウェイトレスは深々とお辞儀をすると、オーダーを伝えるためにカウンターへ戻った。
なんだか、お似合いの夫婦だな。ウェイトレスは伝票を置きながら、微笑ましい気持ちになった。
「感じのいいお店ね」
「ああ。それにしても、今日は疲れたね」
「いっぱい歩きましたものね」
老夫婦はそう言いながらコップに手を伸ばした。
だがその手付きはぎこちなく、一直線に口元に持っていくのは難しいようだった。
二人とも何とかコップに口を付けようと頑張っているが、その唇はプルプルと慄いている。
ウェイトレスがその様子をハラハラしながら見守っていると、二人は意を決したように同時に両手でコップを鷲掴みし、中の水を一気に飲み干した。
「ふう」
だがコップの水は半分以上毀れて、二人の服を濡らしていた。
ウェイトレスは、慌てておしぼりを手に飛び出した。
「大丈夫ですか?」
彼女が老紳士の服を拭いながら尋ねる。
「ああ、これは済まないね。本当に優しいお嬢さんだ」
「いいえ、これくらい何でもありませんよ」
彼女は続いて婦人の服におしぼりを当てながら、老紳士に笑いかけた。
「ああ、あの子が生きていたらお嬢さんと同じくらいの歳だったなあ」
「えっ?」
突然の言葉に、ウェイトレスが戸惑う。
「あなた!」
婦人が顔色を変えた。
「そういえば、顔つきもあの子にそっくりだ」
「あなた、およしなさい」
だが老紳士は婦人の言葉に耳を貸さず、懐から一枚の写真を取り出した。
「ほら、ごらんなさい。これが元気だった頃のあの子だよ」
ウェイトレスは、夫人の顔を窺いながらおずおずとその写真を覗き、そしてそれを目にした瞬間に言葉を失った。
「え……」
老紳士が取り出したのは、犬の写真だったのだ。
「なーんちゃって」
老紳士が、表情も変えずにウェイトレスに言い放った。
なーんちゃって?
その一言にウェイトレスは心底わけが分からなくなり、瞬間的に思考を停止してしまった。
「あなたっ!」
婦人が声を荒げる。
「ごめんなさいお嬢さん、この人はいつもこうなの。相手も場所も弁えずに、こんな悪戯ばかりしているのよ」
「えっと……、はあ?」
まだ事態がよく呑み込めない。
「またそんなことをして。あなた、覚悟はよろしいのですね」
「え? ……いや、その」
婦人の怒りに満ちた言葉に、老紳士がバツ悪そうに頭を掻く。
「私、言いましたわよね。今度こんなことをしたら、離婚しますって」
「えっっ!」
ウェイトレスが声を上げた。まさか、そんな!
「お、奥様。それはいくらなんでも」
オロオロと、声を震わせながらなんとか場を取り繕うとするウェイトレス。
「すまなかった、このお嬢さんがあまりにも可愛らしかったのでつい。許してくれ」
老紳士も、テーブルに手を付いて頭を下げる。
「そう言ってまた何度でも同じことを繰り返すのでしょう。そのつまらないイタズラで、お嬢さんがどれほど心を痛めたかあなたには分からないのですか?
もう我慢なりません、離婚です」
「そんな……」
ウェイトレスは狼狽え、婦人に涙声で訴えた。
「おお、奥様! お願いします、ご容赦下さい。どうか私に免じて!」
「お嬢さん」
婦人はウェイトレスの顔を真っ直ぐに見据え、静かな声で、だがはっきりと言い放った。
「なーんちゃって」
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