【Web版】婚約破棄され家を追われた少女の手を取り、天才魔術師は優雅に跪く

瑪々子

婚約破棄

「……イリス、話がある」


目の前に立つ、背の高くてがっしりとした婚約者ケンドールの、冷淡な視線と低い声に、イリスの肩はびくりと跳ねた。彼の腕には、妹のヘレナが、その細く白い腕を絡ませ、熱のこもった視線で彼の顔を見上げている。


(ああ、とうとうこの日が来たのね)


イリスにだって、薄々予想はついていた。昔はイリスに優しい微笑みを向けてくれたケンドールだったけれど、彼が騎士としての頭角を現し、その地位が上がるにつれ、彼の微笑みは、次第にイリスではなく、美しい妹のヘレナに向けられるようになっていった。ヘレナが嬉しそうにその美貌を輝かせる度、ケンドールの心がヘレナに惹かれていくのを、イリスには止めることができなかったのだ。ケンドールが頬を染めて、自分に婚約を申し込んでくれた時のことを、イリスは遥か昔のことのように感じていた。ここ最近は、彼からイリスに笑顔が向けられたことなどなかったのだから。


「はい。どのようなお話でしょうか?」


この状況で考えられる話など1つしか思い浮かばなかったけれど、イリスはどうにかぎこちない笑みをその顔に浮かべた。

ケンドールは、表情を変えずに淡々とイリスに言い放った。


「イリス、君との婚約は破棄させてもらう。

魔術師の家系に生まれながら、何の魔法の属性さえも認められない君は、今の僕には相応しくない。……わかるね?

僕は、ヘレナと婚約することにした」


イリスは、改めてケンドールの顔を見上げた。逞しく成長して、力も地位も得た威圧感のあるケンドールに、出会った頃の面影はあまり感じられなかった。ほんの数年前までは、まだひょろひょろとした細身で頼りなく、気弱な笑みを浮かべていたケンドール。けれど、そんな彼のはにかんだ様子の素朴な笑顔が、イリスは大好きだったのに。


しかし、イリスが好きだったそんな彼は、もうどこにも見当たらなくなってしまっていた。


「……承知いたしました」


イリスがその言葉だけをようやく絞り出すと、ケンドールはイリスにくるりと背中を向けて、横でぴったりと身体を添わせていたヘレナに甘い声で囁いた。


「さあ、行こうか。僕の愛しいヘレナ」

「ああ、嬉しいわ、ケンドール様。ようやく、あなたと婚約できるのね」


去り際に、ヘレナはイリスを振り返って、妖艶にその口角を上げた。彼女の両目に映る嘲笑は、見逃しようのない、あからさまなものだった。


イリスはヘレナから目を逸らすと、急ぎ足で自室へと向かい、ベッドに突っ伏して、声を殺して静かに涙を流した。


***

部屋のドアが強くノックされ、イリスは真っ赤になった目元を拭うと、ベッドから立ち上がり、様子を窺うようにそっとドアを開けた。

そこには、勝ち誇ったような表情のヘレナと、義母のベラが立っていた。


ベラは泣き濡れたイリスの顔を、笑みを含めた顔で見下ろした。


「まあ、みっともない。

……ヘレナから聞いたわ、ケンドール様はあなたとの婚約は破棄して、ヘレナと婚約を結び直すのですってね。まあ、当然よね。あなたとケンドール様では、まったく釣り合わないもの。彼ほどの騎士には、ヘレナくらいの才能がないと、見合わないわ。稀少な光の属性を生まれ持ち、美しく育ったヘレナなら、彼の横に立つのに相応しいけれど。……ねえ、ヘレナ?」

「仰る通りですわ、お母様。

今まで、お姉様がケンドール様と婚約していたことが、間違っていたのよ」


(……私がケンドール様に婚約を申し入れられた時には、体よく私を彼に押し付けようとしていたのに……)


父が他界してからというもの、後妻に入った義母のベラと、その娘として生まれた異母妹のヘレナが、家を牛耳るようになっていた。当時は、冴えない騎士家の三男だったケンドールからの婚約の申し入れに、これ幸いとイリスを押し付けようとしていたのが目に見えていた。さっさとイリスにこの家から出て行って欲しい、と、あの頃から、2人の顔にはそう書いてあった。


まさかケンドールが、イリスとの婚約後、あれほどの速さで騎士団の出世の階段を駆け上がるとは、当時の2人は予想もしていなかったに違いない。ヘレナは、次第に嫉妬を込めた視線をイリスに向けるようになり、ケンドールに少しずつ、擦り寄るように近付いていった。控えめな容姿のイリスとは異なり、人目を惹く美貌の妹にケンドールが骨抜きにされるまで、そう長い時間はかからなかった。


ヘレナが、うっとりと左手を見つめてから、見せつけるように、薬指にはめた大きなダイヤのついた指輪をヘレナの前に差し出した。


「ほら、美しいでしょう?今日、私への婚約を申し入れるために、ケンドール様が用意してくださったのよ。先程、帰り際にも、できるだけ早く私と結婚式を挙げたいと仰っていたわ」

「……」


イリスは口を噤んだまま、俯いた。ヘレナとケンドールの距離が日増しに近付いていく様子には気付いていたけれど、彼女が今指輪を手にしているということは、自分の婚約を解消する前から、彼はヘレナに贈る婚約指輪を用意していたということになる。イリスがケンドールとの婚約を結んだ際には、いつかお金を貯めて君に指輪を贈るから、という言葉だけしか彼からはもらえなかったけれど、当時のイリスには、自分を愛し、必要としてくれた彼の気持ちだけでも十分だった。ケンドールの気持ちが離れていくことを半ば諦めながらも、婚約という形だけが最後の頼みの綱だったイリスにとって、既に彼に裏切られていたという事実は、自分をとてもみじめに感じさせた。イリスは、膝の上に置いた両手を、思わずぎゅっと握り締めると唇を噛んだ。


ベラが、畳み掛けるようにイリスに告げた。


「ケンドール様はこの家を継ぐために、婿入りしてくださることになるわ。

ねえ、あなた、元婚約者が住むことになるこの家に、まさか居座る気はないわよね?」

「……はい。この家からは出て行きますわ、お義母様」

「あなたも常識は持ち合わせていたようで、よかったわ。

あなたが荷物をまとめたら、出立の馬車をすぐに用意させるから。いいわね?」


ベラは、ようやく絞り出されたイリスの返事に満足そうに頷くと、娘のヘレナの肩を嬉しそうに抱いて、イリスの部屋を出て行った。バタン、とドアの閉まる大きな音が、小さなイリスの部屋に響く。


「困ったわ……」


イリスには義母の前で拒否権などない。咄嗟に家を出て行くと義母には答えてしまったものの、特に行先が決まっている訳でもないイリスは、途方に暮れて深い溜め息を吐いた。


***

イリスの住むティナリア王国では、王族以外の住人は貴族階級と平民に分かれ、さらに貴族階級は主に魔術師と騎士に区分されている。


ティナリア王国において、魔術師と騎士は貴重な軍事力である。外交面を考慮して軍事力を備えておく必要性は勿論のこと、魔物の出没も少なくないこの王国においては、国の平和と安全は魔術師と騎士の力に依存している。また、その魔法や剣の腕といった能力も遺伝によるところが大きいことから、魔術士と騎士の家には国の守護に貢献する見返りとして、その貢献に見合った貴族位が授与され、代々受け継がれる能力が大切にされていた。


ティナリア王国の魔術師団と騎士団は、それぞれ5つの隊に分かれており、それぞれの隊を指揮する団長がいる。イリスの父は、ティナリア王国第2魔術師団の団長を務めた人物で、炎魔法の優れた使い手だった。その長女として生まれたイリスも、当然のように魔法の能力を期待されていた。魔術師の血を引く子孫であれば、魔法の5つの属性-光・火・風・水・土のいずれかを受け継ぐのが通常だ。魔術師と騎士が結婚することも少なからずあったし、また、時々、両親と異なる属性の魔法を使える子が生まれることもあるものの、母も父と同様に火を操る魔法使いであったことから、イリスは、恐らく火の属性を有するのだろうと予想されていた。ところが、イリスがこの世に生まれ落ちた時、彼女の魔法の属性を測るために待機していた魔術師は、残念そうに首を横に振った。……イリスには、火の属性はおろか、ほかの4つの属性のいずれも認められなかったのだ。


それでも、両親はイリスのことを大切に慈しんで育てた。イリスは、優しい母の声を今でも覚えている。けれど、病弱だった母が早世し、後妻として父の元にベラが嫁いでくると、イリスの生活は一変した。元々、魔術師団の仕事で家を空けることの多い父による、イリスが寂しくないようにとの思いからなされた再婚だったけれど、ベラは、魔法の属性を持たないイリスに冷たく当たった。それは、ベラの娘であり、イリスの妹であるヘレナが間もなく生まれると、さらにエスカレートした。ベラは、夫が帰って来た時だけはイリスに義理の娘として接するも、夫の留守中はイリスに侍女と変わらぬような働き方を強いた。そんなベラに苦言を呈したベテランの侍女長はクビにされ、他の侍女や執事たちも、ベラに対して強く出ることができなくなっていた。


……幸か不幸か、そのために、イリスは料理から掃除、洗濯、アイロンかけやベッドメイキングに至るまでの一通りの家事を、その辺りの侍女と遜色なく、いやむしろそれ以上に、手際よくこなすことができる。「お嬢様にそんなことをさせるなんて」とはじめは戸惑っていた侍女たちも、魔法も使えないし、将来のために少しでも何かできるようになっておきたい、というイリスの言葉に応えて少しずつ仕事を教えると、吸収が早くて働き者のイリスは、あっという間に貴重な戦力になった。時折、近隣で魔物が出没した時は、家に運び込まれた怪我人の治療に当たることもあったし、近隣の森で、旬の山菜や、珍しい薬草を見付ける方法も侍女仲間や執事たちに教わった。


イリスが、初めてケンドールと出会ったのは、そんな侍女の仕事にも随分と慣れて来た時だった。家の裏山に山菜採りに出掛けていた時、イリスは細い道の途中で、血を流して倒れているケンドールの姿を見付けたのだった。

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