第2話
この国の服はやけに動きづらい。
夫人の趣味で様々な種類の衣裳を着せられるが、今日は母国の装束を着せられていた。仕草や体によく馴染んでとても動きやすい。
白や蒼の絹を幾重にも重ね、動くたびに
艶やかすぎる射干玉の髪は、メイドたちの手では結い上げることができず、背中でしゃらしゃらと流れている。
エントランスには夫人が呼びつけた行商人が来ており、来月に差し迫っている夜会で身に着けるアクセサリーなどを選んでいた。
アクセサリー選びに夢中になっている夫人の側をこっそりと離れ、庭の花々を眺める。
光が当たるたびに黄金の瞳はキラキラと煌めき、軽やかな足取りは妖精がステップを踏んでいるようだ。
屋敷の庭園は、後宮の花園にも劣らない美しさをしている。
色鮮やかで見たことのない花々に興味をそそられ、奥へ奥へと足を進めると薔薇に囲まれた
遠くから、夫人の声が聴こえる。これ以上奥へ行くのはマズいだろうが、戻りたくもなかった。
ベンチの端に腰かけて、ぼんやりと美しい薔薇を眺める。
薔薇は第一妃の花だ。赤色が似合う、過激で苛烈で、強い女性。赤色が似合うのに、赤にまみれて床に倒れ伏す姿は彼女に相応しくないと思った。
菊花は第九皇女だ。良くできた姉たちのように期待もされず、お国のために貢献するわけでもない、微妙な立ち位置の皇女だった。
母と、兄と弟と、四人で幸せに暮らしていければそれでよかった。いずれはどこかの貴族に嫁がされていたのだろうが、それも兄のためを思えば自身の気持ちなど二の次にできた。
争い事は嫌い。腹違いとは言えど、血の繋がったきょうだいならばみんな仲良くすればいいのに。
一度目の死は、病で陛下が崩御したことにより起こった内乱が原因だった。もうあまり良く覚えていないけれど、兄をかばったことだけは覚えている。
二度目は、内乱の原因となる流行り病を失くせば死ぬこともないだろうと先回りをして行動していたら反逆を疑われて牢に入れられ、衰弱死をした。
そうして気が付けば三度目。伝染病の前触れもなく、穏やかに過ごせると思っていたところを帝国が攻め入ってきたのだ。
他の皇女たちに比べて穏やかで、感情の起伏が緩やかな菊花は下の妹や弟たちに好かれていた。どこかぽやぽやしていて、刺々しい妃たちも菊花にはなんとなく優しかった。
流されやすい気質で、向上心もない。執着心も薄く、放置したら死んでいそう、と兄は実の妹に向かって言った。
『お前は諦めが早すぎる。少しは足掻くことをしなさい』
眉を下げる兄の言葉になんとなく頷いた。
もともとの菊花は皇女らしい性格の少女だった。綺麗なものが好きな、ちょっとわがままな女の子。二度、三度、と繰り返していくうちに、だんだんと大人しい性格の、ある意味お淑やかな皇女へとなった。
兄が誕生日にくれた耳環も、簪も、櫛も、手元に残らなかった。皇族が所有していた物は全て押収され、帝王への献上品とされてしまった。
同じ屋敷にいるにも関わらず、母と会うことも、声を聴くことすらできない。弟の安否も知れず、たった一人で生きていて意味があるのだろうか。否、生きなければいけないのだ。兄が「なんとしても生き残れ」と言ったから。
美しい赤い薔薇の花。はらはらと花弁が散るように、命を散らしてしまったほうが楽なのではないだろうか。
花が羨ましい。美しくて、綺麗で、思考を持たないから考え悩まなくていいのだ。いっそ、本当のお人形のようになってしまえたら、心を、感情を悩ませなくていいのに。
咲き誇る赤い薔薇に手を伸ばす。一輪くらい貰っても構わないだろう。茎から手折ろうと指先で触れる。
「――誰だ」鋭い声音がすぐそばで聞こえ、肩を掴まれ地面に引き倒される。柔らかな芝生と言えど、衝撃を吸収しきれず、背中を打ち付けた衝撃に息が詰まった。
「刺客か? それにしては随分と無防備だな」
「ぅ、ぁ……!」
美しい男だった。太陽を背ににした白銀の髪はきらきらと透けて輝き、氷のように冷たい瞳は熱を持って菊花を射止める。
細い首に当てられた刃は薄皮一枚を切り、少しでも動けば肉を絶ち切るだろう。
息苦しさに眉根を寄せる。薄く開いた瞳から黄金が滲み、男を映し出した。きゅるりと丸く艶やかな瞳に、瞠目した男の拘束が一瞬緩む。
「わ、たくし、は……公爵閣下に、下賜された家具、で、ございます」
嗚呼、なんて惨めだろう。自らを家具などと名乗り、辛うじて残っていた自尊心もボロボロだ。
「家具……?」
男は、菊花の返答に困惑をしている。柳眉を顰め、唇を引き結び、頭の天辺から足先までをじっくりと目を走らせる。
子女をじろじろと見るなんてなんて不躾な人だろうか。以前ならば口に出して抗議をしていたが、今の自分は文字通りの『家具』である。もしくは『おかあさまのお人形』だ。
家具は喋らないし、人形も喋らない。求められた言葉だけを吐き出さなければいけない。
「ジュファ! どこにいるの! あたくしの可愛いジュファ!」
声がだんだんと近づいてくる。この光景を見たら、夫人はなんと言うだろう。折檻されるだろうか。痛いのは嫌だな。
「ジュファ! ――まぁ! ヴィンス! 一体何をしているの!」
「…………母上」
「帰ってきているのなら顔を見せて頂戴といつも言っているでしょう! それに、ジュファに乱暴するのはおやめなさい!」
母上?
思わず目が点になった。しかし、よく見れば夫人と彼はよく似た顔立ちをしている。切れ長の涼やかな目元に、薄い唇とか。
しぶしぶ菊花の上から退いた男――ヴィンセント・マリアンヌ・サピロス。公爵閣下と夫人の一人息子で次期公爵跡取りだった。
「あぁ……! 可哀そうに、怪我はない? もう、勝手にいなくなっちゃダメじゃない。アクセサリー選びは退屈だったかしら?」
「……申し訳ありません」
「うふふ、これからは勝手に外へ出ちゃダメよ。さぁ、母と一緒に戻りましょうね」
差し出された手に、指先を伸ばしたその瞬間。ぐい、と腹に腕が回って視界が回る。
「!? なに、!」
「以前、母上が手紙に書いていた妹とはこの子のことか。怪我をさせてしまったので治療をしてくる」
「まぁ!! ヴィンス!! また勝手に……!」
夫人の怒り声がどんどん遠のいていく。きっと、あのままであればまた数時間はお人形ごっごをすることになっていただろうから、少しだけ詰まっていた息がこぼれた。
しばらく歩いて屋敷の前まで来ると、丁寧に地面に降ろされる。
「貴方が、おかあさまの仰る、『おにいさま』でしょうか?」
「俺はお前の兄ではないよ」
「おかあさまが、そう呼ぶようにと」
「あぁ、そういうことか。母上のおままごとに付き合わされているのか。俺のことは好きに呼ぶといい。お前、名前は何と言う?」
初めて、真っすぐに目を見てくれた。高鳴る鼓動を抑え込むように、腕を揃えて拝をする。
「菊花と申します。母は
「――……」
小さすぎる呟きは風の音にかき消された。
聞き返すが、何でもないと首を横に振られてしまう。それ以上言及することもできず、言葉を紡ぐこともできずに押し黙る。
「俺は、ヴィンセント・マリアンヌ・サピロスだ」
「う、い、び、びんせ、ぶいんしぇ」
「……、は、ははっ、そ、そんなに呼びにくいか?」
「ヴィ」を発音できずに四苦八苦する菊花に、つい吹き出してしまう。
「なんでもいい。ヴィンスでも、ヴィニーでも」
「ぶいんす、ぶい、び、びにー、様」
「ふっ……それじゃあ、ビーは?」
「び、びぃ……びー」
「うん。上手だ。俺のことはビーと呼べばいい」
「ビー様、ですか」
こてん、と首を傾げた表紙に首筋がピリッと痛みを訴えた。
「すまない。俺としたことが、早とちりして傷をつけてしまった。綺麗な白い首が……」
思ったよりも、表情が豊かなのだろうか。溶けない氷のように冷ややかだった眼差しは熱を持ち、心配に揺らいで菊花を映している。白い手袋に包まれた指先が首に伸びて、横一直線に伸びた赤い線をなぞった。
細身のスラックスに、シルクのシャツ。タイには琥珀の飾り留め、シワひとつないジャケットを羽織っている。身に着けているすべてが一級品で、目の肥えた菊花ですら感心してしまうほどよく似合っていた。
「アランのところへ行こう。一番手当てが上手い」
「あらん、様?」
「庭師をしている男だ。歳は俺の四つ上で、いい兄貴分だ。……そういえば、君は何歳なんだ?」
「十五になりました」
立ち止まったヴィンセントは驚いて菊花を見る。
「失礼かもしれないが、もっと下かと思っていた。いや、歳の割に落ち着いているとは思っていたが」
アイスブルーの瞳をぱちぱちと瞬かせる姿がなんだかおもしろくて、鈴を転がした笑い声が零れてしまう。
実年齢よりも下に見られるのはよくあることだった。童顔なのはおそらく家系だろう。母も、三十路を過ぎているのに年の離れた姉妹に見られることがある。小柄で華奢なのもそれを助長しているが、そういえば昔、「うちの一族は不老不死だなんて言われているのよ」と笑いながら言っていたのを思い出した。
本当に不老不死だったら、「わたくし」は死ななかっただろう。心に影がかかり、少しだけ上を向いていた気持ちが再び沈んでしまう。
「ああ、すまない。泣かないでくれ。年頃のレディに向かって言うことではなかった」
「え、ぁ……いえ、違うんです。悲しいことを思い出しただけで、ビー様が悪いわけではございません」
柔らかなハンカチを頬に押しあてられる。そこでようやく、自分が泣いていることに気が付いた。
ぽろぽろと、はらはらと花びらのように涙が零れる。
声も上げずに涙をこぼす姿は泣き方を知らない子供みたいで酷く庇護欲をそそられた。御伽噺に出てくる妖精姫とはうまく表現したものだ。
母がせっせと世話を焼いているおかげか、少女の肌艶はとても良い。ずっと触っていたいくらい滑らかで柔らかだ。髪だって、掬った先からしゃらりと水のように逃げていく。
母にくれてやるにはもったいない、そう思ってしまった。
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