ドキュメント倉成入り
その昔、帝の血をひいた大崎と伊達という一族がいた。時を経て大崎家が台頭し、大崎経盛の時代に絶頂期となった。
先帝の寵臣の家系大崎家の専横を憎んだ庶皇子は秋月国中に大崎打倒の令旨をばら撒いた。それはバレて、結局庶皇子は助けてくれた伊達頼政ともども敗死した。が、大崎打倒の動きは波紋のように広がっていく。
さて、その令旨は清水という地域にいた伊達晴朝という者にも届いた。最初は無視したかれは、1月ほどして、都からきた報せに驚愕する。
『庶皇子の令旨を受けた伊達の方々の追討が命じられました。お逃げください』
しかし、晴朝は舅である朝倉泰時とともに挙兵することにしたのである。
さっそく、かつて伊達に助力を要請する使者を立てるも
「追いつめられると、とんでもないことを思いつきますね。晴朝さまの今の力でそんなことするのは、まったく山と背を比べたり、ネコのおでこのゴミをネズミが取ろうとするものです。無力なモノに協力なんかできません。おそろしいおそろしい、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」
と、けんもほろろに拒否される。一方、警戒した大崎の側も石橋景親を清水に派遣した。
このような状況ではあるが、それでも集まってくるものもあり、晴朝の館に集結し始める。晴朝は屋敷をウロウロして、主だったメンバーを捕まえては、人気のないことろに連れ込んで
「いままで口には出さなかったけど」
と、前置きして、いきなり手を握って
「オレは!!!お前!!!だけ!が!頼りだ!!!」
と、メンバー全員に言った。
全員にそれをやってることを知らない言われた方は
「マジっすか!!!わかった、オレに任せてください!!!」
と、感激し、率先して戦うことを誓う。
以上の出来事は6月から8月序盤の話である。
8月4日
晴朝が住んでいた館の近隣にこの地を治める代官が住んでいた。大崎のかなり庶流の信隆である。晴朝はこの信隆に狙いを定める。この日、数日前から探りを入れていた斥候が帰還した。
「どうも~!!!、晴朝の家のものです~!!!」
と、楽し気に行くと、信隆は晴朝の家臣であることがわかりきっているので
「おお~、よく来たよく来た!!!」
と、歓待した。
斥候は、連日信隆と飲み会をしながら、信隆邸近辺の地図を作った。
晴朝は泰時といっしょに地図ははさんで、作戦を練った。
8月9日
石橋景親が晴朝の家臣を招いた。家臣が行くと、景親は大崎の侍大将にある書状を読み聞かされた話をした。それには
『朝倉泰時と高掃部上たちが伊達晴朝を大将として反乱を計画しています』
と、書かれていたという。読み終えた侍大将は
「とんでもないことだ。庶皇子の事件があったあと、諸地域にいる伊達一門の』動きを調べるように命じている最中に、この手紙が見つかった。日のないところに煙は立たない。すぐに経盛さまにお見せしなければなるまい」
と、言った。景親はこう答える。
「朝倉は、もう晴朝の縁者ですから、なに考えてるかわかりゃしません。高は、とっくに死んでます」
書状の話をしたあと、景親は家臣に語りかけた。
「侍大将のハナシを聞いてから、オレはずっと心の中で慌てまくったんだ。お前とはずっ友だったんだからさ、だから、こうして、このハナシをするんだよ。お前や、お前のガキたちは晴朝に仕えてるんだろ?よく考えた方がいいぜ」
家臣はビックリ取り乱して、ロクに話もせず家に帰った。
8月10日
家臣は景親から聞いた話を知らせるため、長男を晴朝邸に派遣。
8月11日
長男、晴朝邸に到着。晴朝は
「よう知らせてくれた!!!」
と、感謝の言葉を述べる。
8月13日
長男、家に帰ると言い出す。
晴朝は止めたが
「甲冑など持って、参上します」
と、言われたので
「16日までには戻れよ」
と、許可して家臣宛ての書状に託して帰宅させる。
8月16日
昨日からの雨が1日中止まない。
長男は戻らず、晴朝はオロオロしている。
8月17日
挙兵予定日だが、早朝は止めることに。
午後2時くらい、家臣の息子4名がやってきた。上の2名は疲れたウマに乗り、下の2名は徒歩。晴朝は感激して泣きながら
「てめえらが遅れたから、今朝攻撃できなかったぞ」
と、愚痴った。長男は
「雨による洪水で遅れてしまいやした」
と、謝った。
夜。いよいよ挙兵。90名集まり、5名を屋敷の防衛に回し、85名で攻めることに。
出陣の直前、朝倉泰時が
「今日はお祭りです。見物に行ってた連中が帰ってくるんで、道には、キッとたくさん見物客がいます。だから、大通りにある狐大路を行けば、見つかってしまいます。ここは裏通りである小嶋通を行くべきです」
と、進言した。晴朝は
「お前の言うとおりだ。だが、未来を築くその始まりに、裏道を行くことはできない。それに小嶋通は狭いから、ウマでは進めない。堂々とメインストリートを行くべきだ」
と、答えた。
晴朝に見送られた85名は2手に分かれて、信隆と後見の義遠邸を襲う。
午前0時ころ、家臣の長男が義遠邸に放った矢を後世の史家は
「これが伊達が大崎を征する戦いの最初の矢であった」
と、記す。
だが、義遠を倒した軍勢も加わっての信隆邸での戦闘は長引き、痺れを切らした晴朝は残っていた5名にも出陣を命じる。このとき、晴朝は5名の中の廉景というものに
「これで、信隆の首を、持ってこい」
と、長刀を与えた。
やがて、火が放たれた信隆邸は炎上。
8月18日
暁、攻撃軍帰参。晴朝は信隆たちの切り落とされた首を見た。
さて、晴朝には毎日お経を上げる習慣があったのだが、出陣してしまうとできなくなってしまうので、夫人の泰子に
「きっと、これから毎日できなくなっちゃうなあ」
と、愚痴をこぼした。すると泰子は自分の先生だった方音という『一生不犯』を誓った尼さんの話をして
「代わりに、やってもらえば、良いじゃんよ」
と、提案。晴朝が方音に使者を使わして、頼んだところ
「OKですよ」
と、快く引き受けてくれた。
8月19日
泰子、お供といっしょに、七日市神社に住んでいた僧を頼って、避難。
8月20日
晴朝主従、七日市を離れ、東の柳川へ秋月国南の海岸線を沿う形で向かう。その数47名。
8月22日
柳川最大の豪族高杉氏は惣領輝明の嫡子輝澄を先頭に、本拠を出て海岸線に沿い西へ。晴朝と合流する計画であった。
8月23日
午前4時ごろ、兵数300ほどに膨らんだ晴朝軍は、柳川小松山に陣した。
だが、ここで石橋景親率いる大崎方柳川地域連合軍が、晴朝と高杉の間に割って入った。その数3000。さらに背後からも300。
こうして、浴びるような大雨の闇夜、小松山合戦が始まる。
300VS3300の戦いに、晴朝軍はたちまち壊乱状態になって、敗北。晴朝方は散り散りになって逃げるハメになった。
ここで高杉一族の中で、先に晴朝軍に合流していた輝忠は戦死。
8月24日
暗闇の中、逃げ回っていたものたちは、夜が明け、日付が変わっても逃げ回っていた。
晴朝の側近くにあったのは朝倉泰時と息子たち2名をふくめ14名。そこに石橋方の大軍が強襲した。
晴朝方の面々は、主人を逃すために人間の盾となるいわゆる『捨て奸』風の戦術で石橋方の軍勢と戦った。
騎馬で逃げつつ、晴朝自身も、何度も振り返り矢を放つ。史書によれば百発百中であったと伝わるが、実際は不明。
さらに石橋勢が迫ると、朝倉父子を含めた11名が交戦して、晴朝を逃がす。
幸い死者は出なかった。その中で5名が晴朝との合流を希望。しかし、朝倉父子3名は疲労激しく、晴朝の後を追うのを断念。
残るメンバーが300ほどの険しい小山をよじ登ったところ、晴朝は倒れた木に立ち、従者が側に立っていた。こうして合流はしたものの、従者の策でまた分かれることになり、晴朝は従者だけが付き従うことになった。
朝倉父子は二手に分かれて逃げた。下の子の氏教は護衛として父に付いていくことに。しかし、嫡子氏輝は石橋方に包囲され、討ち死してしまう。
晴朝も一時は死を覚悟するが、近くの神社に匿われた。
一方、小松山を目前としながら、ここのところの雨によって増水した河に進軍を阻まれた高杉氏は、晴朝軍の敗退を知ってUターンし、本拠に戻ろうとした。
その途中、倉成百合ヶ浜で、晴朝挙兵を聞いて南下してきた大崎方の若き実力者沖田宗忠率いる軍勢と遭遇戦となった。この百合ヶ浜合戦で、高杉氏は50ほど殺し、宗忠を退却させて、本拠を目指した。
8月25日
神社もセーブハウスではなく、晴朝は従者の家を目指す。
8月26日
高杉氏は本拠である鉄人城に一族ことごとく籠城。
その鉄人城を沖田宗忠とかれに招集された大軍勢が囲み、合戦となった。これを鉄人城合戦という。
戦闘は高杉氏の劣勢となった。
高杉の惣領輝明は89歳の老将であったが、嫡子輝澄以下一族に向かって言った。
「ワシは伊達累代の家臣じゃ。今、伊達の復活を目にすることが出来た。こんなうれしいことはない。もうワシは80過ぎじゃ。ほっといても、どうせ、じき死ぬ。だから、今、この老いぼれた命を晴朝さまのために擲って、おまえたち子孫の功績にしようと思う。おまえたちは早く逃げて、晴朝さまをお探ししろ。ワシは己だけで、城に残って大軍に見せかけ、ヤツラを騙くらかしてやるのじゃ」
かくて輝澄以下高杉一門は輝明と長年従ってきた少数の老兵たちを残し、泣く泣く鉄人城を脱出し、海路、津山へ逃れることになった。
8月27日
午前8時ころ、鉄人城落城。高杉輝明は討ち取られた。
一方、朝倉泰時・氏教父子も海路で津山を目指す。そして、海上でやはり津山へ向かう高杉一族と偶然出会って、合流している。
8月28日
晴朝は従者の家の近くにある岬から、従者の用意した小舟に乗り、従者とともに、海路、津山を目指す。
出航前に、泰子への使者を派遣。
8月29日
晴朝は津山に到着。高杉・朝倉たち小松山の残党に迎えられた。
このとき、高杉輝明の甥、福島輝盛が晴朝に向かい
「晴朝さま!晴朝さまが天下を取った暁には、オレを日本の戦人たちを仕切る身分にしてくださいよ!」
と、ねだった。晴朝は
「ああ、わかったよ」
と、答えた。
「ホントっすか?約束ですよ!」
「わかった、わかった。約束だ」
その様子を見た周囲は、噴き出したり、クスクス笑ったりしている。
ともあれ、晴朝は最大の危機を脱した。しかし、ピンチは続く。
9月2日
泰子は七日市神社を出て、とある郷(詳細不明)に移動。
午後4時ころ、泰子のもとに晴朝の使者が到着。使者はこれまでの晴朝の動静を詳しく話したが、小舟に乗った後の晴朝のことは知らない。泰子は晴朝のとりあえずの無事を喜んだが、心配は続く。
9月4日
津山の晴朝はその近辺の勢力を招集しようとする。
具体的には、関宿の加藤清常へ福島輝盛を、中村の東雲重胤へ松下長盛を派遣。
加藤、東雲の2氏はいわゆる伊達累代の家臣の一族で、周辺でもトップクラスの豪族である。とくに加藤は20000騎といわれる兵力をもつ大豪族であった。
9月6日
福島輝盛帰参。加藤清常は
「東雲重胤と相談してから、参上します」
と、返事をしただけと報告。
9月8日
朝倉泰時・氏教父子、他の反大崎勢力との同盟締結交渉のため出発。
9月9日
松下長盛帰参。東雲重胤は晴朝の無事を泣いて喜んで、招集に応じると確約したことを報告。
報告によると、長盛が晴朝の意向を伝えると、重胤はしばらくまるで居眠りでもしているように眼をつぶったままで黙っていた。
傍らにいた息子たちが痺れを切らして
「早く『晴朝さまのお召に従います』て、返事しましょうよ」
と、言ったところ、重胤は初めて口を開き
「晴朝さまが伊達の再興に立ち上がってくれたことが嬉しゅうて、わしゃ、涙で眼が開けられず、言葉も出ないのじゃよ!!!」
と、返した。
そして、柳川地方にある倉成を本拠地にするべきと進言。理由は2つあって、要害であること、晴朝というか伊達の先祖代々の由緒を持つ地であったことである。
重胤は晴朝への返事を次の文面で締めくくった。
『わしは兵隊全部連れてお迎えに参ります』
9月13日
晴朝は津山を出て関宿へ向かう。軍勢はまた300ほどになっている。
加藤清常は「軍勢を集めているので、まだ遅れる」と、いまだ参上せず。
一方、東雲重胤は賽は投げられたとばかりに、中村の代官を攻め殺し、晴朝に付く姿勢を鮮明にした。
9月17日
晴朝は清常を待たず、東雲勢と合流。このとき晴朝は重胤に
「これからオレぁ、あんたを親父と思うよ」
と、言ったという。こうして東雲軍団を加えた晴朝勢はさらに進軍し、中村と柳川の境界で加藤勢を待つ。
9月19日
ついに加藤清常は来た。大軍を引き連れ、地を轟かせて参上。その数20000。
ところが、晴朝は激怒。
「遅い!いつまで待たせたんだ!もう、顔も見たくない!!!」
と、まったく許す様子はなかった。清常は大爆笑しながら
「この土壇場で、このオレさまに意地を見せるか、小僧!!!」
と、言う。結局、詫びを入れて、配下となった。
9月29日
晴朝のもとに参上するものは増えて、とうとう27000ほどになったという。
10月1日
小松山に生き残りが再結集。
また、晴朝に異母弟で、帝都にある寺院で僧となっていた蓮杖が参上。晴朝は初対面の弟を見て、泣いて喜んだ。
10月2日
晴朝勢、柳川に進軍。兵はさらに増え、30000ほど。
この日、乳母の早川尼と、その息子参上。早川尼に息子の名付け親になってほしいと請われた晴朝はかれに朝宗と名付けた。
10月4日
沖田宗忠と仲間たちが参上。晴朝は高杉とかれらを手打ちさせた。
10月6日
晴朝はさながらパレードのように進軍し、倉成に到着。
ちょうど合流した泰子に
「見よ、これが新たなるわれらのはじまりの地よ」
と、言って迎え入れた。泰子は
「ここからはじまるのですねえ」
と、穏やかに微笑んだ。
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