秋月国奇譚

 秋月国岡豊にいつ建てられたかわからない(ご丁寧に日付等は削られている)1つの碑がある。そこにはこんなことが書かれていた。

『ココニテ、知ラレザル者、知ラレザル者ニヨリテ、殺サレタリ。○○○○、ソノ時代ノ謎。生マレハ不明ニシテ、秘密多キ死を遂ゲタル者ナリ。○○○○年○○月○○日』




 秋月国内で東西両軍が戦っていたときの話である。東軍の武将花山稙長の陣中を尋ねたものがいた。

 見張りの兵は当然、誰何する。

「なにやつじゃ!」

「船橋草人というものです、政永どのに講義をしにまいりました」

「なるほど、お通りください」

 見張りの兵に会釈しながら、草人は陣に入っていった。


「…というわけで、ディケンズはピクウィックを『過去のない人物』として描いたと考えられています」

「なるほど、なるほど」

 戦装束で講義を聴いて感心した風の稙長に、草人はふと訊ねる。

「ときに、戦の渦中で講義などしても良いのですか?とくに貴方は、いとこの良成どのとの家督争いで勝たねばなりませんのに」

「だからでござる。武では良成に劣り、政では両軍総大将に劣るからこそ、文の道を学びかれらに並びたいのです」

 と、目を輝かせながら語る稙長に草人は

「左様でございますか」

 と、哀しそうに頷いた。




 秋月島の皇帝代理官で、現地出身者としては初の皇帝代理官であるエリックの母は、松森局という細川時頼のお手付きの猫で、時頼お気に入りの愛妾であったが、病によって顔が醜くなってしまったと、時頼の前から姿を消した。時頼は捜したが、行方は知れない。

 ある日、狩猟に出かけていた時頼は、粗末な庵で松森局を発見した。病のことを知った時頼は

「なんと哀れなことか」

 と、その庵で1夜をすごし、後に庵を住みやすい邸宅にしてあげた。彼女は猫御前と呼ばれるようになった。

 1年後、猫御前は子供を産んで、名を兵五郎と名付けた。かれは成長すると、名前をエリックとあらためた。




 秋月国に森羅万象を知る男がいた。

 ある日、親類が肖像を見せてこれが誰かと尋ねた。

 首を傾げるかれに親類はしばらくニヤニヤしていたが、わからないと呟きながらウロウロするかれを見て徐々に怪訝な顔になり、やがて驚愕の声をあげた。

「なんということだ、あらゆることを知る貴方が、自分の母の顔がわからないとは!」



 今まで幾人もの人間の生き血を吸ってきた男の腕が彼方へ飛んでいった。

 ー何故だ?

 秋月国には彼ら吸血鬼を狩るものはいないはずだ。

 しかし、隻腕の剣士の刃は、彼の首筋に迫った。

 ー何故、私の首が飛んでいる?

(以下数ページ欠落)

「ブラックジャックだろうが大富豪だろうが、ここしかないという『降り時』があるんだ。やつは楽しみすぎてそれを見失ってたのさ。お前さんもわかるだろ?」

 隻腕の剣士は、男の無駄話を無視して、必要な銭を数えると、唯一残った手をあげて言った。

「お勘定」




 作者紹介

 アレクサ・カペタノヴィチはツルナゴーラの出身で、現地の新聞に投稿していくうちに、作家となった。

 しかし、ISAFの空爆により25年の短い生涯を閉じた。作家としての活動期間は2年にみたず、その作品も少ない上に、空爆によっていくつかの作品も失われたという。今回の作品は辛うじて残っていた断片を、遺稿集の補遺として収録したものを訳したものである。

 本作は、ツルナゴーラとは何十年に渡って戦争状態(実際は、宣戦布告したものの、戦わず、停戦しなかったためだという)だった秋月国を舞台にしたりあったことを描いた物語である。残った部分を読んでも、魅力的な細部(その一端は残された文章でもわかるだろう)があるため、改めて夭折がくやまれる。




 ある戦で、千鶴丸という少年が何度も敵陣に突入して矢を放つかつやくを見せた。伊達晴朝は

「感心な子どもだ、父の名をなんというかね?」

 と、訊いた。千鶴丸は

「はい、父はかつて大殿に反逆し討たれた河上秀隆と申します」

 と、返答した。晴朝は

「父の敵であるわたしによう仕えてくれた」

 と、感激してちかくにいた葛西長清というものを烏帽子親にして、元服させた。

 千鶴丸は長清の偏諱へんきをあたえられ、河上秀清と名乗った。





 秋月国の領海でトルカの軍艦エルトールル号が座礁、沈没した。乗員609名中540名の死者を出した。山田文八郎という青年が

「ここで助けにゃ、男が廃る!!!」

 と、義援金を募り、単身トルカに行きそれを献上した。その後、何度か両国を行き来し、友好に尽くした。ある日、トルカのスルタンから

「回教徒にならぬか?」

 と、勧誘を受けた文八郎は

「わかりました。回教徒になります」

 と、アブドゥル・ハリームという名を与えられたという。




 そのころ、天下に数寄者の和尚と言われた武将がいた。かれはある戦でも数寄の友なので、装いを変えて友人の陣を訪ね、その友人は執務をしていたが、やがて竹束の影に這い入り鎧を脱いで、よもやま話をしていると、和尚が

「これは茶杓になりそうな竹だ」

 と、チラチラ竹束を見ている。すると禿げ頭が盾のカゲから出てしまう。敵の城からもキラキラ輝くのを確認できたので、鉄砲を撃った。弾は和尚の頭に当たる。和尚はキモを潰し頭を抱え、前にあった茶巾ふくさモノで血をぬぐった。これを見た者たちは

「数寄者にあった拭いモノであるなあ」

 と、囁きあった。




 ある武将の兵法の伝授はどこからかと僚友が尋ねると、その武将は

「伊達正貞からです」

 と、答えた。僚友は

「あなたの座興を聞く気はない」

 と、返すが、武将曰く

「そうではありません、正貞の兵法を考えると、嵐の中に出航して、その海戦の始終は言語では言えないくらい、これをもって万事について心を通じ兵法としています」

 とのことであった。僚友は

「もっともである。しかし、あなたの兵法はなかなか正貞におよばない」

 と、言う。武将は

「正貞は海戦のとき23か4だったといいます。わたしは40になってからの兵法です。正貞は年を重ねたらもっとすごくなったでしょう、それゆえわたしは正貞におよばないのです」

 と、答えた。




 あるとき、秋月国は大種島に異国の大船が来た。帝国か共和国であろう。

 領主の久時は忠座という僧を連れて、船内に入って、居合わせた帝国人に筆談させた。船中の商人はテッポウという飛び道具を持っていた。久時は

「これを買おう」

 と、2000ほど払って購入。家臣の小四郎にその製法を学ばせた。

 また、久時は鍛冶屋たちに命じ、新たに作ろうとしたが、どうしても必要ならせん状の溝を造ることが出来ない。翌年、また船が来て、その中に鍛冶屋が1名いた。かれは

「これはこう造るのですにゃ」

 と、製造法を教えてくれたので、久時は喜んだ。このとき紀伊国屋又兵衛というものが

「これはいい商売になりそうだ」

 と、製造法を学び、秋月国にもテッポウは広まっていった。




 ある兵士の回想

『突然、谷の向こうの木で葉が揺れだした。もういちどよく見てみると、なんと木の枝の股の部分に影が見えるではないか。どうやら腕と上体を動かしてるようだった。その姿が非常にハッキリ見えたことにすっかり驚いてしまい、もし反射神経が正常に機能してなければ、その場に座り込んで、どういうことかと考え込んでしまったに違いない。しかし幸いなことに、反射神経はキチンと働いてくれた。急いで地面にうつ伏せになると同時に、狙撃手が銃を撃つ音が聞こえて、銃弾が頭の上を飛んで行った。そこで、さっき上体を動かしていたのは銃を持ち上げる動作だったのだと気づいた』




 秋月国の凪島の北部に共有主義者のコミュニティがある。かれらは、やがて軍先思想という独自の考えを形成した。すなわち

『コミュニティを無敵必勝の軍隊に創り上げて、その軍隊を革新、模範として主体をゆるぎなく構築し、軍隊を核として全般的共有主義社会を力強く推し進めていく政治方式』

 を、コミュニティ全体の指針としたのである。かれらの指導者はグレミーといって、カリーニンの孫を名乗っていた。肩書は防衛委員長。

 しかし、このコミュニティを秋月国と凪島に施設を造ろうとした学園都市は危険視して、付近を封鎖してしまう。以降、このコミュニティは凪島封鎖地域と呼ばれるようになる。

 そうしてさまざまな思惑が交錯する中、グレミーは後代に宿題を残したまま死去した。




 下手渡は秋月国と帝国の境にある小さな地域で、高垣種善が派遣されて行政府が成立した。なぜ種善が派遣されたかというと、秋月国で官僚を勤めていた父の失策のための懲罰人事で、当然ながら治世は混乱を極めた。この混乱のなか、種善に代わって領土の受け取りという大任をはたし、小さいながらも政務を務める政庁の建築を担当するなど、体制作りに尽力したのが、高垣兵衛であった。

 3代目の種恭は外交官、財政官僚として活躍したが、やがて秋月国を2分する争いが発生したとき、都へ行き、帝の恭順した。一方下手渡で代官を務めていた屋山外記という者が、政府と対立する同盟への加入条約に調印。この相反する行為が同盟の不信をかい、攻められてしまう。外記は領主不在のなか、同盟の攻撃に耐え、奮戦したという。


 下手渡城の城主だった氏家氏の姫である邑楽はある日、母に連れられた少年を見て

「なんてカワイイ子なの?!」

 と、一目惚れしてしまう。名を為信という少年と邑楽は同い年ということもあり、愛し合うようになった。為信が婿養子になることを条件に彼女たちは結婚する。

 すると、偶然にも父が急死してしまい、為信が氏家家を継ぐことになった。

「こ、これからどうなるんだろ?」

 と、心配する為信に邑楽は

「大丈夫、イケルイケル!!!」

 と、励ます。

 こうして、秋月国北部に梟雄が誕生したのである。

 氏家家は大崎の家臣のそのまた家臣というような地位であったが、ならず者を嗾けて敵の町を襲わせ、敵兵が自分の家族に気を取られている間に、奇襲をしかけたり、謀略の限りをつくして、勢力を拡大した。

 しかし、出る杭は打たれる。反氏家の大軍勢が下手渡に襲来した。戦場から

「武具が足らない」

 と、報告がもたらされる。留守居の邑楽は

「まかせて!」

 と、城内にある鉄製のものを集めて、手製の武具を作らせ、戦場に送った。すると氏家勢は体勢を立て直し、反氏家勢を撃退することができた。

 そののち、氏家為信は帝に謁見することができ、北部での勢力圏の安堵状を得て、改めて領主の地位を確立したのである。

 そののち、猫ヶ原の戦いでは、東軍、つまり天京院の側について従軍した記憶があるが、詳細は不明である。そもそも秋月国帝の名代として派遣された倉成勢は西軍として従軍しており、また氏家家にルッグの遺児を匿った記憶もあり、謎は多い。

 ともあれ、氏家家はこの功績で、土佐港の権益を維持しつつ、帝都住みの近衛隊長の一員となる。ルッグの子どもは土佐港の代官を務めていたようで、当地の寺院にはかれらが帝国から持ってきた神像が納められているという。




 高森島は土佐港の沖合にある人口100ほどの小さな島である。最高峰は高森山。

 温泉や専門学校があるため、島民の大半はそれに関係しているという。割合は専門学校の教師と生徒が50、温泉旅館の従業員が20、その他の島民が30。

 本来は漁業や牧畜、農業で細々となんとか存続していた島の近代化を果たしたのは、猫魔右衛門という一代で財を成した大富豪であった。かれが温泉を発見し、自分の持ってる企業や組織のために創った専門学校によって、観光客や若者がやってくるようになったのである。

 また、山林を活かした開発だったので、遠足向けの登山や、サイクリングコースとしても著名である。

 さて、高森山の麓に小さな碑がある。それにはこう書かれている。

 この島の管理を任された小一右衛門家の4代目が主家である氏家から養子をもらうことになった。

「御当主の弟がやんごとない方に密通して生まれた子じゃ。内密にな」

「はあ」

 実は、このころ4代目は実子を亡くしており渡に舟とかれは、実子に代わって子どもを育てることにした。

 その子どもが5代目になると、かれは亡くなった子どものために碑を立てたという。




 大戦期に大陸に渡った者たちはいずれも深く傷ついて秋月国に帰還したという。ある者の妻はこう回想する。

『(夫は)晩酌のときなどに、大陸での昔バナシを聞かせてくださることもありました。息詰まるような縦横無尽のおハナシの後で

「だから、今のオイラなんぞ、まるで抜け殻みたいなもんさ」

 と、おっしゃっていたのがとても印象的だったので、今でも耳に残っています』

 かれら一抹の夢を持っていたものたちを呑み込んで、破滅へと向かった軍官民を統合していた組織の名を『秋月国大陸鉄道』という。




 さて、秋月国では大陸に人道援助の名目で武官を派遣することがあったのだが、ある日、佐和田少佐という武官がマリディという街に派遣されたとき、東部派ゲリラによって射殺されてしまった。同僚は

「かれは『少女を見た』と言って路地に飛び出して、そこを撃たれたのです」

 と、証言している。




 今野康秀は帝国とその従属地域を代表する6名の詩人の1名で、秋月国から唯一選ばれた者である。しかしある評者からは

『言葉は巧いが、それが身についておらず様になってない。成金が良い服を着たようなものだ』

 と、評されている。

 有名な作品に

『風が吹くとそのために秋の草木が萎れちゃう。山の風を嵐って言うのもそういうことなんだなあ』

『忘れられた古ぼけた熊手のように、雪の中でわたしは冬ごもりする。畑を走る子どもたちを想像するのが、唯一の楽しみだよ』

 がある。




 鍋島広元は鍋島家の庶流であり、本家の知恵袋として政治的駆け引きや、地方領主の掌握に暗躍したとされる。

 性格は狷介で、生涯独身で、家には偏食の飼い犬と、老いた使用人しかいなかったという。

 また、帝国に対抗する意味で学園都市の折衝を担当した。そのために秋月国はその小さな国土に5つもの学園都市が存在しているのである。




 ……家の中にはだれもいなくて、わたしはたまたまテーブルにあったパンをちぎって食べましたが、ドロボウと思われないように家の住人がくるのを待ちました。そこのおばあちゃんがやって来ました。1人暮らしでした。おばあちゃんは

「うちの子になりなさい」

 と、わたしを離そうとしませんでした。

 ―秋月国空襲に巻き込まれてしまった少女の証言




 ―いま、激しい爆撃が続いています。生と死の境にあります。どうか、わたしたちのために祈ってください

 ―この街の主要な病院が爆撃されました。世界よ、わたしたちはどこに行けばいいの?

 ―帝国軍から文書がきました。大規模な戦争を開始するまで24時間しかないと書いてあります。




 ……しきりに

「はやく操縦を覚えろ」

 と、言われました。しかし、そんなに簡単なことじゃない。基地には少年航空隊もありましたが、機体はない。

(まだぼくらの方がマシだな)

 と、思いました。そんなだから、帝国との戦争になんて勝てっこない。わたしは大学部出の僧侶ということで、上官から目の敵にされていました。何か言うたび

「このクソボウズ!」

 とか、罵られて殴られてました。とても惨めな日々を送ってました。

 ……戦争は美化できるようなものではありません。わたしは従軍した最後の世代です。生涯をかけて、若くして命をおとした兵士たちのホントのことを伝えていく使命があります。

 ―徴兵された僧侶の証言




 芹沢宣は、鍋島家から枝分かれした芹沢家の当主であり、皇帝直属の治安維持部隊の隊長だったものである。息子の平蔵も同じ地位を奉職しており、今日ではかれの方が知られているかも知れない。

 また、芹沢家は数多い分家があり、その中にはたとえば、芹沢宗薫というバドに仕えて共和国の官吏になったもののいる。




 サージェント氏は共和国出身の画家で、帝都で絵を学び、23歳くらいのときには、サロンに出展するほどになった。

 あるとき、出典ちた作品がスキャンダルになってしまい、秋月国に移住。その後の人生を秋月国で過ごす。

 作風も肖像画から、風景画に変化する。秋月国における絵画の発展に尽くした彼は、70歳の生涯を終えた。




 秋月国岡豊にある海水浴場にある女性が子どもといっしょに海水浴をしにきていた。

「あ!」

 と、子どもがビーチボールを遠くにやってしまい、そのボールはチャラい2人組の男のところまで転がった。かれらはボールを子どもに返す。

「ほら、もう遠くに飛ばすなよ」

「はあい」

 母親もお礼を言う。

「ああ、ありがとうございます」

「いいってことです」

「お兄さんたち、遊ばない?」

「……良いのかい?」

「よろしければ、いいでしょうか?」

「ほら、お母さんも言ってる」

「じゃあ……」

 と、子どものチャラ男の1人が遊び、別のチャラ男は母親といっしょにそれを眺めている。




 凪島南部にあり主要都市であった久川市は、大戦期中秋月国が東方領域政府と共闘したのと違い、資源財団の元、戦っていた。当時久川市長であった蒲生時頼は

 ひ「われわれは本国と違い、資源財団とともに戦う」

 と、演説している。

 実際、『第2久川遠征軍』は各地で活躍し、とくに第12大隊は、その勇猛果敢な戦いぶりから、敵軍に畏怖されたという。

 その後、秋月国の資源財団への宣戦布告により、久川市も凪島及び周辺の防衛を迫られる。まず、凪島の北にあるレヴ島の守備隊を派遣。それに支援部隊を加えた『第3久川師団』が編成され、資源財団から派遣されたハロルド氏が師団長に就任した。

 かれらは、南洋諸島の各地を転戦したのち、翠島という呉口近くにある小さな地域の奪還作戦に参加、上陸兵力5000のうち4分の3が第3久川師団であった。対する敵守備隊は120しかいなかったが、果敢に抵抗、戦死者10、負傷者21という損害を受けた。

 このころには、南洋諸島が学園都市を中心とした連合軍が有利になったので、第3久川師団は凪島に帰還、解体。一部の精鋭は帝国にて戦っている第2久川師団の補充要員として派遣された。

 また、かれらは小規模ながら航空隊や船団を持っており、限定的ながら戦闘に参加していた。

 航空隊は数機の航空機とATで南洋諸島中を駆け巡った。

 船団は帝国の反抗作戦に参加し、軽巡洋艦利根などが被弾するも、終戦まで任務を遂行した。




 あるものが、生贄用の羊を助けようとした。のれを見た賢者はこう言う。

「キミはその羊を惜しむが、わたしはその儀式をしないことを惜しむ」




 あるとき、帝の近臣岩田知則が帰宅途中、暗殺者たちに襲われた。

 かれはたまたま近くにあった堀に落ちてしまったのだが、それが幸いしてか長時間水に浸かったときの低体温症以外は無事だった。その時のことを回想して、岩田はこう語る。

「堀に落ちたのは幸いであった。これで死ぬのだと観念し、そのまま逃げようという気も起こらず、身を任せるがままに水に身を任せていた。すると上空を魚の群れが舞うのが目に入ったのだ。いつのまにか夜となって、堀の水は真っ黒であった。水面より射す月の光を反射する魚の群れが、黒い水中を泳ぎ渡って行くのである」




 滝田詠一は秋月国出身で世界に名を馳せた画家としては1番若死にしていて、15歳のときに貧困のなか衰弱死したという。セルリアンブルーを多用したことで知られる。本人曰く

「金も地位も名誉もなかった。

なけなしの財産をはたいて画材を買いあさった。

生活費もないから絵の具や筆を盗むこともした」

と、語っていた。




 ある家の門番は融通がきかず、自分がダメと決めつけた者を決して通さなかった。

「納得できない」

と、難詰されると

「だから通さないんだ」

と、返した。

 騒ぎを聞いた主人は仕方なくかれに別の仕事を当てがった。なぜかと問われた主人曰く

「かれの律義はわかるけど、かれはわたしの領域を侵してしまったのら、仕方ないのだ」




 小野宮という方は学識豊かな賢者として知られていた

 そんな彼もある女性に懸想したことがある。

 しかし、彼女は帝の近臣とも関係を持っていたので、小野宮は

「わたしとヒゲ(近臣は三国志の関羽もかくやという立派なヒゲの持ち主であった)のどちらを愛してるのか?」

と、迫り、女性は困り果てた。

 この出来事は瞬く間に広がって

「賢者も嫉妬に負けるのか」

と、笑い者になったという。




 秋月国にかつて白猫という記名をした盗賊団がいた。

 なぜ白猫かというと

『捜索無用。白猫参上』

と、いう記名を犯行現場に残していたからによる。

 とにかく捕まえにくい盗賊団だったという。

 というのは、かれらの『活躍』を見て、のちに模倣犯が次々あらわれたために、当人と模倣犯の区別がつかなくなったためである。




 ある日、帝都に雪が、膝くらいまで降った。

 大臣をはじめ官吏たちは、皆帝の寝所の雪かきをすることにした。やがて雪は止み、帝はこう仰せられた。

「汝等、今日のことを歌ってみるよ」

 すると大河内というものが

「すっかり消えるときなどないから、都の郊外の山の1つに白山というのがあるんだなあ」

と、歌ったという。

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