3. 回想
森の中はひっそりと静まり返り、わずかに風の音が聞こえるだけだった。
空のほとんどが枝葉に隠されていたが、隙間を抜けて差し込んだ光が薄っすらと辺りを照らしている。恐る恐る地面を踏みしめて進むたびに足元からは土と緑の匂いが立ちのぼり、靴の裏で葉を押し潰す不気味な音が鳴る。その音を魔物に聞かれるのではないかという心配で、胸が苦しかった。
「エル、見てごらん」
父は地面を指差した。ピンクの花弁をつけた小さな花が咲いていた。
「これはアイシュワリヤっていう花だよ。この森の中にしか咲いていないんだ」
エルは近付いてその花をよく観察してみた。中心が白く、花弁の外になるほどピンクが濃くなっている。とても可愛らしい花だ、とエルは思った。
やがて森を抜け、開けた場所に出た。
薄暗い森から出られたことが嬉しくて歓声を上げかけたが、唐突に現れた圧倒的な光景を前にして彼は言葉を失った。
一面がピンクの花で覆われていた。父が先ほど教えてくれたアイシュワリヤが、無数に咲き乱れているのだ。そして、その向こうには信じられないほど大きな木が何十本も立っている。あまりの大きさに、これが本当に樹木なのかどうか判断できないほどだった。
「驚いたかい?」
父が得意気に言ったが、エルは頷くこともできなかった。
「これはジャイアント・セコイアだ。何千年も生きる木なんだよ。大きいものだと、百メートルを越えるものもある」
「……百メートル」
「そうだ。世界で最も大きな木なんだ」
「こんなの、はじめて見た」
父は膝を曲げて、エルと視線の高さを合わせた。そうして、エルの目にジャイアント・セコイアや咲き誇るアイシュワリヤがどう映るのかを確かめるように、周囲をじっくりと眺めた。
「町の人々は、この森には入れないんだ。だから、この場所のことは誰も知らない」
「どうして? こんなにすごいのに、なんでみんなは森に入らないの?」
「色々な理由がある。そう、例えば……このジャイアント・セコイアの森を抜けた向こうには『スカー』がある。スカーは知っているね?」
「うん、知ってる。この世界の端っこのことだよ」
「そうだ。スカーはとても巨大な崖であり、僕たちの世界の果てだ。だけど、もしそれを越えることができたら、その先には『海』があるんだ」
「うみ? 死者の国のこと?」
父は笑みを浮かべた。だがそれは、どこか困ったような笑顔だった。
「海というのはとても大きな水溜りのことで、見渡す限り、どこまでも水に覆われている。僕ら人間はそこに近付いてはいけない、という決まりがあるんだ。もちろん、スカーがあるから海へ行くことはできない。だけどね、エル。物事に絶対ということはないんだ。なんらかの要因によってスカーを越えてしまうことも起こり得るかもしれない。だから父さん以外の人や、エル一人だけでここに来てはいけないよ。町の外は安全な場所ばかりではないからね」
「……分かった」
エルはもう一度ジャイアント・セコイアを見上げた。
その先端は空に届いているようだった。あそこに登れば、きっと雲だって掴むことができるだろう。
飽きもせずにじっと大木と空の境界を眺めていたエルの肩を、父がそっと抱き寄せた。
「この世界には色々な決まり事や、たくさんの人たちが信じていることがある。それらは本当のこともあれば、デタラメな時もあるんだ。誰かにとっては真実でも、別の誰かにとっては嘘になってしまうようなこともあるだろう。だからね、エル。君はそういった物事を、盲目的に決めつけないで欲しい」
そう言って父は、彼の胸にそっと触れた。
「自分の目や耳や、指先で感じるんだ。もしその結果がみんなの信じることと違っていたら、よく考えなさい。もしそれがずっと昔から信じられてきたことなら、もっとよく考えなさい。どれが正しいのか、なにが間違っているのか」
父の言っていることの半分も理解できなかったが、彼は父に向かって頷いた。そうすることが正しいと思えた。
「じゃあ、いつか海に行ってもいい?」
父は少し驚いた顔をしてエルを見た。だがすぐに笑顔を作り、大きく頷いた。
「あぁ――そうだね。いつか、エルがもう少し大きくなって、もっと世界のことを知ったら、一緒に海を見に行こう。でも母さんには内緒だぞ。二人だけの秘密だ。約束できるか?」
「うん、約束する」
母を仲間外れにするのは気が引けたが、「二人だけの秘密」という言葉には抗いがたい魅力的な響きがあった。
ふわりと、父の大きな掌がエルの頭に置かれる。父はそのまま優しい手つきで何度か頭を撫でた後、エルを抱き上げた。
「足が痛かったんだろう?」
エルはためらいがちに頷いた。森の中を歩いているときから、足の裏に疼くような痛みがあった。それを父に知られたくなくて、ずっとなんでもないようなフリをしていたのだ。
「お前は強い子だよ、エル。きっと、僕なんかよりずっとずっと強い人になるだろう」
ゆっくりと森の中を戻り始めた父の肩に額を預けた。途端に、瞼が重くなってくるのを感じた。
「僕はね、エル。それがとても楽しみなんだよ。僕はお前を——」
エルは帽子のつばを真っ直ぐに戻し、身体を起こした。両手で顔を擦ると、くだらない記憶を打ち捨てるようにして大きく舌を鳴らした。父のことなどを思い出していた自分が忌々しく、思い切り殴りつけてやりたい気分だった。
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