第2話
「次、何飲まれます?」
マスターに言われて、グラスが空きかけているのに気づく。慈はもう一杯ビールを注文した。ふと手元を見ると、ささくれた指先に艶のない爪が乗っかっている。何年も前に買った化繊のシャツには細かい毛玉がついて、サンダルをつっかけた裸足の踵にはごわごわと白い筋が浮いている。美容院なんていつ行っただろう――。(こうしてたまに好きなお酒を飲むくらい、許されていいよね)と誰にともなく言い訳する。
「今日は、一人ですか」
マスターがビールのおかわりを慈の前に置いた。
「うん――ちょっと、まっすぐ帰りたくなくって」
「ああ、わかります」
「わかってくれますー?」
慈は携帯を取り出した。トトト、とメッセージを打ち込んでみる。
『逢いたい』
それから、少し考えて、
『今なにしてる?ヒマなら飲もうよ』
と打ってから、ちょうど出されたビールの写真を撮って送った。彼なら、これで慈がどこにいるか分かるはずだ。
「……来るかなぁ……」
慈の呟きに、マスターは微笑みで答える。
「どうでしょうねぇ」
キッ、と背後でドアの音がして、マスターの視線が慈から離れた。
「いらっしゃいませ」
そこから、どんどん客が入ってきた。マスターは忙しそうに立ち働き、慈はカウンターに取り残される。
客は殆どが二人か三人連れだ。恋人同士、飲み友達、職場の仲間。どう見ても不倫じゃないかと疑いたくなるような男女もいる。皆、仕事帰りらしいきちんとした服と靴を身に着け、自信に満ちた笑顔で会話を交わしている。仕事の悩みや恋の悩みがあろうとも、それは人生を彩る些細な濃淡に過ぎない。本当の暗所に落ち込みかけている不安とは、根本的に違う。
――もう、自分は場違いになってしまったのだろうか――。
サンダルをつっかけただけの裸足の足を、そっとすり合わせる。働いてもいない、生活費だってかつかつで、そんな自分にはこんな洒落たバーでささやかな夜を楽しむ権利はなくなってしまったのだろうか。
(あたしだって、ちょっと前までは、あんなふうに笑っていたのに)
同僚と交わす他愛もない冗談、鼓膜を震わせる恋人の囁き声、上司の愚痴、恋の駆け引き。かつて自分もいたはずの場所は、暗い店内でも眩しく映る。語り合う相手のいない慈は、所在なく携帯の画面を見たりバックバーを眺めたりしていた。
ぼんやりしている間に夜は更けてゆく。カウンターの隅とはいえ、ずっと居座っているのも肩身が狭くなってきた。夕食代わりに注文したつまみを、食べきらないようにちびちびとつつく。
「早く帰らないとなぁ」
口ではそう言いながら、慈はまた酒を注文する。四杯目か五杯目か、もう覚えていない。誘った男からは、まだ返事がない。
「来ないんですか?彼」
客の波が途絶えて、マスターがまた慈の前に戻ってきた。慈より少し歳上らしいマスターは、絶妙な距離感で話し相手になってくれる。
「仕事中かなぁ」
彼、とは、先程からメッセージを待っている男のことだ。アテンという。このバーで知り合って、なんとなく連絡を取るようになった。バーからほど近い彼の部屋にも何度か行ったことがある。合い鍵も持っている。部屋、といっても、シェアハウスだ。アテンはどこか南の島からやってきたという。浅黒い肌と贅肉のない胴体は触り心地が良く、いつまでも飽きずにくっついていられた。日本の男のそれとは違う、かちんと硬質なペニスも愛しかった。それが慈に接するたび、行ったこともないジャングルを野生動物のように駆ける彼のビジョンが浮かんだ。
――逢いたい。
アテンの肌が恋しくなった。お腹の下のほうがじんわりと熱くなって、たまらずもう一度携帯に目をやる。通知が来ていないから当然、返事も来ていない。その代わりに、実家の母親からの着信が残っていた。それにはリアクションせずに、慈は携帯を伏せた。
「……家、帰らないとなぁ。鍵を閉め忘れた気がするし」
「鍵なんて、一日くらい大丈夫でしょう」
マスターはにっこり笑って言った。この人はいつだって誰にだって優しい笑顔を崩さない。
「僕なんてずっと開けっ放しですよ。盗られて困るものもないし」
「ほんとにぃー?」
慈は完全に酔っ払った口調でそう言って、あはは、と笑った。グラスに残った液体を口に流し込む。溶けた氷の味しかしなかった。――だって逃げちゃうかもしれないじゃない。慈はぼんやりと膜がかかった頭の中で呟いた。
「降ってきたみたいですね」
マスターが大きなガラス扉に目をやって言った。
慈は入り口を振り返る。すぐに帰らない理由ができたことに少しだけ安堵しながら。
慈が小五の頃のことだ。塾の帰り、家まであといくらもない場所で、突然雨が降ってきた。慈は傘を持っていなかったが、家はもう目の前だったし、雨宿りもせずにそのまま歩いた。雨はすぐに土砂降りになった。あっという間にずぶ濡れになる。
だだだだだ、と大粒の雨が地面を叩きつける轟音の中、どうしてその声が聞こえたのかわからない。雨音ではない何かの、声とも思えない、小さな違和感を鼓膜に感じて振り返った。はじめ、空耳かと思った。だがよくよく見ると、歩道と車道の間に立つ植木の根本に、ずぶ濡れの段ボール箱があった。声はその中から聞こえていた。覗き込むと幾つかのあたたかい塊――小さな小さな子猫がいた。鳴いていたのは一匹だけで、手を差し伸べると頭をすり寄せてきた。
慈の頭には、家にいる母親の顔があった。きっと反対するに違いない。もう一度捨ててこいとは言わないまでも、いい顔はしないだろう。でもこの雨の中ひと晩外に置いていたら、この子猫はきっと死んでしまう。慈は必死で鳴き続けている一匹を抱き上げて家に走った。他にも数匹居たようだったが、塾の鞄で片手は塞がっていた。動かない猫の生死を確認する勇気もなかった。その小さな体に触れて、もし死んでいたら、と思うと怖くて、家に着いて荷物を置いてから戻ることもしなかった。結局母親に頼み込んで、拾った一匹だけを飼えることになった。
「ごめん、慈さん。閉店するけど、帰れます?ビニガサ貸しますよ」
マスターに言われて、慈ははっと顔を上げた。眠っているつもりはなかったが、気付くと店内の客は皆帰ってしまっていた。時計を見ると、もう二時だった。仕方なくマスターに傘を借りて外に出る。
アテンは何時に帰ってくるのだろう。どこかのタイ料理だかベトナム料理だかの店で働いているはずだ。シフトは昼間だったり夜中だったりして定まらない。話す相手も愛し合う相手もいない自分の家に帰りたくなくて、慈はアテンの住むシェアハウスへ向かった。もしいなくても、待っていればいつか帰ってくるだろう。
部屋に、アテンはいなかった。冷たいベッドの端に猫のように丸まって、慈は眼を閉じた。雨が窓を伝う気配がする。
――あの子猫はどうなったのだろう。
眼を瞑ると、暗闇に取り残された子猫たちのビジョンが浮かぶ。慈に拾われなかった子猫たち。降り続く雨の中、声を上げることもなく、冷たく震えている小さな塊たち――。
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