鍵は閉めてきましたか

サカキヤヨイ

第1話

 ――鍵、閉めてきたかしら――。

 ホームで電車を待ちながら、めぐみは思った。そっと鞄の中に手を差し入れる。鍵はちゃんと鞄の内ポケットに収まっていた。支払期限を過ぎたカードの請求書が指先に触れ、慈はそっと手を引き抜いた。

 鍵が鞄に入っていても、ドアの鍵穴に挿して回した記憶がない。昨夜蒸し暑くて開けた部屋の窓も、閉めたかどうか定かでない。冷蔵庫のドアもちゃんと閉まっているだろうか。フリマアプリで買った中古の冷蔵庫は、ドアを閉める勢いが強すぎたり弱すぎたりすると、たまに少しだけ隙間が開いたままのことがある。そういえばガスは止めただろうか。心配し出すと止まらない。でも気になって戻ると、大抵はちゃんと閉まっているのだ。

 なんとなく不安なのは鍵のことだけではない。

(ああ、行きたくない)

 行かなければならないところがあると思うと、それだけで気が重い。重い気分を抱えて線路を見つめていると、それがぐわっと目の前に迫ってくるような気がする。錯覚、というほど明確な感覚ではないが、そういうビジョンが視界の裏側をかすめるのだ。それを断ち切るように深呼吸する。しかし、たっぷりと吸い込んだ空気は胸の浅い位置で留まって、それ以上肺に入っていかない。

(行きたくない……行きたくない……)

 行きたくないのはハローワークだ。半年前に辞めてしまった仕事の、失業手当の手続きに行くつもりで家を出たのだった。失業手当を受け取るには、毎月ハローワークに行かなければならない。そこで「就職しようと日々努力しています(が、まだ就職できていないんです)」という報告をしなければならないのだ。「努力」というのは、具体的にはハローワークに出ている求人を見てエントリーシートを出すとか、面接を受けるとかなのだが、ハローワークにある求人で慈の要望通りの条件はほとんどなく、あっても今度は慈のほうが応募資格を満たしていなかった。もうハローワークで次の仕事が見つかる気はしない。それでも、職を探しているふりをして、窓口で「わたし、今月もダメでした」と申告して、「あまり高望みせずにまずできることから始めてみましょう」みたいなことを言われないとお金がもらえないのだから、行くより仕方がない。本格的に就職活動できる状態ではなかったし、当面の生活費は失業手当が頼りだった。

 行きたくない、行きたくない、と繰り返していると、いつしかそれが「生きたくない」に変化していく気がして、慈は小さくぞっとした。

『黄色い線の内側までお下がりください』

 アナウンスとともにホームに電車が滑り込んできた。

 ハローワークは人でごった返していた。ずっと感じていた息苦しさがいや増して、慈は再び深く息を吸い込んだ。大勢の人が放つ、雑多な成分が入り混じった空気が肺を満たし、更に気分が悪くなる。いつ風呂に入ったのかという、ホームレス一歩手前みたいな人もちらほらといる。歯の抜けた口から腐臭を撒き散らす爺さん、何枚も重ね着をした上に大荷物を背負い、どこまでが服でどこからが荷物なのか判別できない婆さん。リストラされたのだろうか、覇気のない中年男性もいれば、どんな仕事を探しているのか、眩しい金髪にピアスだらけの顔の女の子もいる。(あたしはこの人たちとは違う)という軽蔑と、(あたしもこの人たちと同類なのか)という落胆とがないまぜになり、嫌悪の形を取って慈の表情に顕れる。そんなふうに見た目で人に優劣をつけている自分自身の浅ましさには気付かないふりをする。


 やっとのことで手続きを終え、ハローワークを出ると、陽が傾きかけていた。西日が影を長く引っ張って、駅へ向かう仕事帰りの人々の顔に小さな達成感と疲労とを映し出している。

 憂鬱な用事を済ませたというのに、慈の中の不安はなくなるどころか、黒い塊になっていまだに胃の入り口あたりを塞いでいる。何が原因かわからない、もやもやと落ち着かず、後ろめたく、居心地が悪い。それが鍵のせいなのか、ハローワークの澱んだ空気を長時間吸ってしまったせいなのか、明らかに受給額よりも多いクレジットカードの請求金額のせいか、火曜日に捨てそびれた生ゴミがシンクで腐臭を放ち出しているせいか、遅れている生理のせいか、特定できないことに更にもやもやする。

 ――こんな日は。

 鬱々とした気分を手っ取り早く吹き飛ばしてくれる場所へと慈は足を向けた。分厚いガラスのドアを開けると、薄暗い空間が優しく迎えてくれる。

「いらっしゃい」

 顔馴染みのマスターの、皺ひとつない真っ白なシャツと黒いベスト。弓なりに反った背中のラインが美しい。

 慈はカウンターの端に座り、ビールを注文した。

 胃を塞いだもやもやが、きらきらと冷たいビールに流されて、すっきりと消え去っていく。

「あー……おいしーい……」

 ようやく人間に戻れたような気がする。バックバーの間接照明に浮かび上がる、様々な形と色のお酒のボトルに、慈はうっとりと見入った。

「今日は早いですね」

 マスターが低くてしっとりとした声で話しかけてくる。

(ほら、マスターもあたしを人間扱いしてくれる)

 慈はほっとして、この上ない笑顔を浮かべた。一日中家に居て誰とも話さないと人間の言葉を忘れてしまうような気がする。独り言が多くなるといよいよ危険だ。だが、外に出て行くところもない。お金もない。話し相手もいない。女友達にはもうずっと前からうんざりしている。

 仕事を辞めてすぐの頃、たまたま誘われて食事に行ったら、「どうして辞めちゃったの?」「何かトラブった?」などと、さして興味もないくせに根掘り葉掘り質問された。挙句、優越感と同情を友情という仮面で覆った顔つきで、「でも憧れるな。人生の休憩期間、って感じ?」「いずれ転職するんでしょ?慈なら前より条件いいとこ、すぐ見つかりそう。がんばって!」などと、無責任で通り一遍の感想を並べられる。そして全く励まされた気分になれない慈を置き去りに、場は誰かが次の休暇に行く海外旅行の話題に移っていった。慈は友達につられて頼んだ、ただ甘いだけの酒を喉に流し込んだ。誰も慈のことを本気で心配する友達などいなかった。流行りの服と、美しい爪と、手入れされた白い肌に身を包み、自分の仕事と恋と旅行と美味しいものに忙しい彼女たちは、慈の目にきらきらと輝いて見えた。

 それ以来、なんとなく女友達とは会っていない。

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