【みずたまり】

きむ

【みずたまり】


「ねぇ、一緒に暮らさない? 」


酔った勢いだったんだろう。それか、酔わないと言えなかったのか。薄々感じていたとはいえ、言葉にされるとやっぱりビビる。

「一緒に暮らしてるようなもんじゃん」

さらっと濁して、ぬるっとかわして。不服な顔の恋人にキスをして誤魔化す。

「それでも奈子は、帰っちゃうじゃん」

不貞腐れた顔のまま呟かれて胸が痛んだ。

「ほら、着替えとか置く場所あると便利だし」

なんて、くだらない。我ながら情けなくなるような言い訳。それに、と付け加えようとして口ごもった。

「ママ、まだ寝ないの? 」

目を擦りながらリビングへやって来た女の子。

「ごめんね、カナ坊。もう奈子ちゃん帰るからママも寝に行くよー」

彼女より先にそう言って、カナ坊の頭を撫でてから立ち上がる。

「……おやすみ」

当のママは不機嫌顔のまま。彼女の髪もさらりと撫でてバイバイとふたりに手を振った。


帰り道を少し早足で歩いていく。

正直まだドキドキしっぱなしだ。

いつか言い出されるとは思っていたけど、まさかこんなに早いとは思わなかった。

「だってカナ坊、まだ5つじゃん」

その呟きは煌々と寂しく光る自販機しか聞いていない。

なるべく誠実に付き合っているつもりだ。

休日はカナ坊を交えての買い物や散歩のデートが殆どだし、カナ坊がいる時間と家では絶対に、所謂仲良し・・・はしない。

こんなふうに言葉選びも慎重だ。

そりゃあ私だって、いつか一緒に暮らせたらとは思っている。

でもそれは未来の話だ。

つまりカナ坊が『奈子ちゃんとママの関係』を理解できる歳になったら、だと思っていたのに。

どうしよう、明日は金曜。

仕事が終われば彼女の家に帰る。そしていつものように泊まる予定。

「ぶっちしちゃおうかな」

アパートの鍵を開けながらなんとなく口にしたら、そのタイミングで携帯が鳴った。心臓が飛び出るかと思った。今日は寿命を縮めっぱなしだ。

「明日、しょうが焼きか」

どんな顔してこのメッセージを打ったんだろう。

美佐さん、泣いてないかな。後悔で唸ってないかな。恥かかせちゃったな。

カナ坊は寝たかな、怖い夢見てないかな。

いつの間にか、彼女のことを思うときはカナ坊のことも考えるようになった。

大事にしている。でも、人より大事に出来ているかと言われれば自信がない。


次の日は雨だった。

いつもより少し寒い日だった。

仕事を休んでしまいたくて、布団の中で自分と10分戦った。

結局、皆勤手当を飛ばすのが惜しくて渋々スーツを着た。

傘を指しながらだと、お泊まり用のキャリーケースを引っ張るのもつらい。

通勤ラッシュより30分早く出て、先にキャリーケースを彼女の家へ運ぶ。金曜の恒例。

チャイムを鳴らすとカナ坊が起きてしまうから彼女の携帯に電話する。

「おはよ、あと5分で着くよ」

なんでもないみたいな声で言えば、ほっとしているのが電話越しでも分かった。

「おはよう、鍵開けとくね」

いつもより柔らかく聞こえた彼女の声。雨なのを知っているのだろう、それだけ言って彼女は早々に電話を切った。私も肩と頬で挟んでいた携帯をポケットにしまう。

朝7時前。音を立てないようドアを開けると、彼女がお弁当を持って玄関で待っていた。これも恒例。

「今晩、」

しょうが焼きねと言うだろう彼女の口唇をキスで塞いだ。

「仕事、早く終わらせるね」

お弁当を受け取って、楽しみにしてるからと笑って彼女の家を出た。調子が良すぎたかなと通勤途中、後悔した。

「大事な話をキスではぐらかすヤツってどう思います? 」

同僚や先輩とのランチ中、さりげなく話題を振ってみた。

「サイテー」

「女馴れしてそう」

「くそくらえ」

「即、別れる」

「付き合うだけなら楽しそう」

みんな中々手厳しい。

「ですよねぇ」

苦笑いで誤魔化した。全部、私への言葉だ。

ブロッコリーのゴマ和えを口に運びながら思う。

私だって、それはいけないことだと分かっている。

ちゃんと聞くべきだと分かっている。

「美味しい」

でもやっぱり、自信がない。


退勤時、雨は小雨になっていた。

持ち帰る仕事のせいで鞄が少し重い。

顔を合わせた彼女がどう出るのか分からなくて気も少し重い。

それでも足は殆ど自動的に動く。

インターホンを押せば、ガチャリとドアが開いた。

「奈子ちゃんおかえり! 」

カナ坊の屈託のない表情とは裏腹に重たい言葉。

「やぁ、お邪魔します」

カナ坊の頭を撫でて部屋へと入る。

「お弁当、どうだった? 」

じゅわじゅわと鍋を鳴らして肉を炒めている彼女が背中越しにそう言った。

いつもはカナ坊と同じように玄関で私を待って例の言葉を掛けるのに。

「ブロッコリーのゴマ和えが美味しかった。鮭の西京漬けも。ありがとう」

会社で洗ったお弁当箱を片付けながら言えば、ちらりと彼女がこちらを伺ったのが分かった。

「冷蔵庫からポテトサラダ出してね」

カナ坊は彼女の足にまとわりついてじゃれている。

横顔が彼女と似てきたように思う。けれどふとした瞬間、全然知らない顔をする。それはきっと、私の知らないカナ坊の父親の血だろう。

そこまで考えて背中が冷たくなるのを感じた。

「やった、完璧の組み合わせ」

笑って見せたけどぎこちなさが拭えなかった。どうか、彼女に気付かれていませんように。

美味しいご飯を食べながら、カナ坊から幼稚園の支離滅裂な話を聞いて、彼女から職場の愚痴を聞いて、ふたりがお風呂に入ってる間に洗い物を済ませる。

いつもの金曜日、をふたり必死で装っている。そろそろ限界だ。

「今日は奈子ちゃんと一緒に寝る」

お風呂から上がったら大体20分のアニメを2本は観るのに、今日は随分幼稚園で遊んだようだ。

半分夢の中のカナ坊を布団へ連れていき、トントンしながら歌を歌えば二番の前に寝落ちした。


「ちゃんと話しよっか」

寝室から戻ってくると、真面目な顔で彼女は言った。

「そうだね」

平然を装いながら、ビビっている。今日は彼女の手元にアルコールもない。

誠実に付き合っているつもりだ。

でも誠実は、時に正論で人を傷付けることも知っている。だって私はもう大人だから。

「私は一緒に暮らしたい。奈子はどう? 」

ストレートだ。それに真っ直ぐ私を見る。

「正直言えば、気後れしてる」

年上の恋人は美しく、きっと私以外にも彼女を想う人はたくさんいる。

「私、収入もそんなに有るわけじゃないし、出世も期待できないし、」

彼女の目を見れない。たじろいでしまうのは元からの性格だ。

「違うの、聞きたいのはあんたの気持ち。奈子はどうしたいの? 」

荒げたわけでもないのに何処までも通る声。カナ坊が起きないか寝室をちらりと見た。幸い、起きた気配はない。

ひとつ、深呼吸をする。もう逃げられない。はぐらかせない。

「一緒に暮らせたらとは思ってる。でも、自信がない。大事にしてると思うけど、大事に思ってるけど、」

正直な気持ち。

キスで誤魔化さない本当の気持ち。

綺麗事で片付けられない、リアルな本音。

「親になる自信ないよ」

声が震えた。やっぱり、情けない。

「大丈夫だよ、そんな深刻に考えなくても」

彼女は自分が考えていたことと違ったのだろう、表情を崩して笑った。

けれど私は続けないといけない。

「深刻なことだよ。あの子にとっての父親の役目を背負うってことだよ」

父親、というキーワードに彼女の顔がまた強張った。息苦しさを感じながらも畳み掛ける。

「普通の家庭じゃなくなるし、それをカナ坊の許可なく決めちゃいけないと思う」

拳を強く握った。これ以上先を言葉にしていいものか、迷う。けれど、言わねばならない。この先も彼女と付き合っていくのなら。

「それに、永遠にあの子を愛せるかどうか分からない」

心臓を締め付けられるような痛みが走る。

彼女の顔を見ることはできない。

「あんたと一緒に寝るって今日もあの子、言ってたじゃない」

絞り出すような声。傷付いているのが分かった。

「それでも、あの子に私の知らない人の面影が濃くなったとき、同じように接することができるか分からない」

さっきのひやりとした嫌な感情も、それの前触れだったとしたら。きっとこれからどんどん、その回数は増えていく。生活を共にすれば、目をそらせなくなってくる。

「あなたと一緒に暮らすってことは、そういうこととセットだもん」

あぁ、ぶちまけた。恐る恐る彼女の顔を伺えば、相変わらず真っ直ぐ私を見つめて涙していた。

「私、カナの父親になって欲しいわけじゃないよ」

分かってる。分かってるけど。

「ごめん、上手くまとめられない」

鞄を持って、逃げるように家を出た。

彼女は追いかけてこなかった。カナ坊が寝ているから当たり前と言えばそれまでだけど。

雨が止んでいたのを幸いに、アパートへ帰って残した仕事を済ました。それでも二時間半しか経っていない。

迷って迷って、彼女の家の前まで来た。恐々とドアノブを回す。

鍵が掛かってたら帰るだけだ。

そう思ったのに、出ていったときと同じようにドアが開いた。

もう部屋は暗く、そっと寝室を覗けばふたり並んで寝入っていた。こんなにも受け入れてくれるのに、どうして私は「ただいま」が言えないんだろう。

鬱々としながらソファに寝そべった。



仲良しをした夜も、ふたり離れて寝た夜も、平等に朝はやって来る。気付けば彼女は台所に立ってお米を研いでいた。

「おはよう、よく落ちなかったね」

彼女はそう言って私に笑いかける。

「おはよう」

昨日はごめんねと、続けるはずだった。

「ねぇ、みんなでおさんぽ行こう」

遮るようにカナ坊が手を引っ張る。

「今、ママ手が放せないから奈子ちゃんと行っといで」

やっぱり、笑顔が硬い。

時刻は10時前。寝過ぎたようだ。カナ坊は退屈で死にそうだと眉間にシワを寄せる。

「よし、行こうか」

一応財布と携帯だけ持って、ふたりで外を出た。

少しだけホッとした。雨は上がっていた。

「奈子ちゃんのおうちってどこ? 」

てくてく歩いているとカナ坊はそんなことを言う。

「ここからすぐのとこだよ。ほら、あの小さなアパート」

丁度見えていたアパートを指差すとふぅんと一言。

「大きいじゃん」

アパートの構造を一軒家に住む子供に説明するのは難しい。

「うん、あのおうちの一つの部屋だけ。カナ坊がねんねしてる部屋くらいの大きさだよ。そこでご飯も作るし、食べるし、化粧もするし、テレビも見るんだ」

まぁ一人で食べるご飯は専ら買うものばかりで録に料理などしていないけれど。

「じゃあもうずっとカナの家にいなよ」

あぁ、あまりにも軽々しく重苦しい。

昨夜のことがあったから余計に。

「ずっと? 」

『と』の音が掠れた。

「うん、奈子ちゃんがいると楽しい」

屈託のなさがつらい。楽しいだけではダメなんだと説くのに、この子はまだ幼すぎる。

「あ、みずたまり」

とてとてと走っていけば水飛沫を上げて飛び込んだ。

あーあ。と思わず声が漏れた。

「子供はみずたまりが好きだね。なんで飛び込んじゃうんだか」

あとで美佐さんに怒られるなぁとぼんやり思う。私のことも怒ってくれたらいいのにとも。

「なんで大人は飛び込まないの? 」

私の言葉に、カナ坊は不思議そうな顔で振り向いた。

「決まってるじゃん、濡れるし汚れるもん」

ばしゃばしゃと水を蹴る姿をかかんで眺める。

日の光に反射して水しぶきが煌めいていた。

「そんなの分かんないじゃん」

変なのと、珍しく強気なカナ坊がそう言った。最近、幼稚園のおかげか色んなことを話してくれるようになったと美佐さんが言っていたのを思い出す。どんなことを言い出すのか興味があった。

「分かるよ、奈子ちゃん大人だもん」

ニヤついて言えばカナ坊は対称的にきょとんとした顔で言った。

「汚れるくらいなんでもないよ」

ぴちょんと水が跳ねた。

「飛び込んだら違う世界に行けるかもしれないのに」

目から鱗が出た。

ぽたりとそのみずたまりに落ちた。

「奈子ちゃんなんで泣くの? 」

なんだ、鱗じゃなかったのか。

ぽたぽたと頬を流れた涙を見て、カナ坊はみずたまりから飛び出て私の手を引いてくれた。

「大丈夫だよ。帰ったら、痛いのはママが治してくれるよ」

優しい子だ。母親によく似てる。

「ありがとう、カナ坊」

いつかきみがカナ坊と呼ばれるのを嫌うとき、自分で髪を結えるようになるとき、用意した服にケチをつけるようになるとき、母親に料理を習いたいと言い出すとき、毎日の生活に理由もなくイライラしだすとき、私がきみからのおかえりに「ただいま」と頑なに言わなかった理由がわかるとき、好きな人ができたと教えてくれるとき。

そのとき、傍にいたいと思った。

「お昼ご飯ね、カナお魚だと思うよ」

小さな温かい手を強めに握り返した。

「奈子ちゃんは今日、唐揚げだと思うな」

「カナ、唐揚げ好き」

知ってるよと思ったけど、口にはしなかった。

「カナ坊、奈子ちゃん行きたいとこあるんだけど、一緒に付いてきてくれる? 」



「ただいま~! 」

カナ坊の声に彼女がスリッパをパタパタ鳴らして玄関までやってきた。

「おかえり、遅かったね」

私たちに笑い掛けるこのひとを、心底愛しく思った。

「ただいま」

まっすぐ言えば彼女は固まった。

「カナ、手洗ってくる! 」

そういえば幼稚園に通い出してから手洗いが習慣化している。良いことだ。

「どうしたの」

そんなことには目もくれず、彼女は目を見開いて私に問う。

このたった一言が言えなかったことを今更悔やんだ。


「美佐さん、一緒に暮らそうか」


そう言えば、ぽかんと口を開けて私を見つめた。

「は。え、なんで、急に」

そう言いながら涙目になっていく彼女が可愛くて両腕を広げた。

「みずたまりに飛び込んでみようと思って」

そんな返答に首を傾げながらも彼女の涙は止まらない。

「自信ないけど、上手くできないかもしれないけど、普通じゃないとカナ坊を泣かせるかもしれない。それでも、」

このひとを手放したくない。誰にも渡したくない。どんなに金持ちが現れても、素晴らしい父親候補が現れても、もう渡してやれない。

「3人で暮らしたい」

飛び込んでくる彼女を強く抱いてやる。

「あなたを世界で一番愛してるから、あなたの愛する娘も同じくらい愛せるよ」

言い切ってみせた。本心だ。

「だから、ケジメをつけさせて欲しい」

抱き締めていた腕を解いて、見つめ合ってさぁというとき。

「奈子ちゃんも手ぇ洗いなよ」

いつの間にか足元にまとわりついていたカナ坊が私の服を引っ張った。

「そうだカナ坊、さっきの奈子ちゃんに貸して? 」

言うや否やカナ坊は、提げていたポシェットを開け、さっき買ってきたものを彼女に渡してしまった。

「奈子ちゃんがママにあげるんだって! 」

そう言うなら奈子ちゃんに一度渡して欲しかったなと呟いたけど、彼女にもカナ坊にもそんなの聞こえていなかった。ケジメすら格好つかない。


「ふたりとしあわせになりたいので、結婚してください」


簡単じゃないかもしれない。

それでも、始めてみなきゃ分からない。

最初の一歩が肝心だ。

「お昼食べたら、奈子の分も買ってこようね」

ずべずべと泣きながら彼女は言った。よしよしと慰めるカナ坊。ふたりまとめて、愛おしく思う。



結局指輪をはめたのは、カナ坊が寝静まった夜更けだった。

「せっかくだし、仲良しする? 」

「魅惑的なお誘いだけど、カナ坊起きてきちゃうよ」

「ちぇ」

今後の生活の改善点はまだまだたくさんあるみたい。

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【みずたまり】 きむ @kimu_amcg

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